第12話

「ほら」

 ハチグモが渡してきたのは、いつの間にか用意したのか、丈と袖があまり長くないローブだった。

「君の頭は目立つからな。それで隠すといい」

 まばらな金髪頭を指さされる。

「これ着た方が目立たないかな? 帽子とかの方がいいんじゃないの」

 明かりのある方へ向けて、なんとかデザインを確認する。ローブは多少の装飾だったり模様があるといえど、ほぼ黒一色に近い。そんなものを着て、さらにフードをかぶっていたら逆に目立つ気がする。

「昔から魔法使いや魔術使いはフードを好んで着ていたんだ。なんでも儀式の失敗に起こる力の暴走から守ってくれたり、魔に関わる攻撃も弾いてくれる退魔の力があるとされていた。今でも防衛魔術を込めて着る者がいるが、研究する時に着る格好として広まっている。ゆったりとしているし普段着の上から着られるから、楽だし汚れを気にしなくて良いからな。多忙な者や無頓着な者はそのまま出かけたりするし、魔法使いに憧れる者も着ることがあるから、そこまで注目される格好ではないはずだ」

 言われてみれば移動するさいにそんな格好をしている者がちらほらいたような。苛々していたのでよく見ていなかった。

「……ルベルはそんな格好してなかったよな」

 思い出すのも気が引けるが、また馬鹿笑いをしていた頃のルベルが浮かんだ。彼女はローブではなく、ショールを纏い全体的にだぼっとした格好をしていた。

「彼女はもうほとんど研究をしていないからな。ローブを気に入ってなければ着る必要もないだろう」

 今は彼女の店から離れ、街の端、囲っている壁の近くまで移動してきていた。元々暗くなりかけていたのもあり、広い街なのでとっくに日は落ちて、深夜といってもいい時間になっていた。昨日と違い雲が多く、空は暗い。

 踏み固められた地面から、石畳の通路まで。今日一日は歩いてる時間の方が多かった。流石に疲労が溜まっていたので、街を出る前に休憩を取っていた。

 追われている身のため仕方が無く、明かりが灯り、屋台で談笑しながら食事を楽しむ人々から遠ざかり、再び裏通りで身を隠していた。夜に少しばかりの異臭と寂しさが漂う暗がりにいると、最後に八雲と一緒にいた場所を思い出す。ミケの街に比べれば光は弱いので、こちらのほうがかなり暗いのだが。

 ありがとう、と感謝をしてからローブを羽織った。ハチグモの言うとおり、動きに干渉する感覚はない。

 フードを深く被ると視界が狭くなった気がした。自分が見えづらければ、相手もこちらの顔が見づらいことになる。確かに隠れる、隠す効果はありそうだ。

 そこでふと、いつまで隠さなければいけないのか、と考えた。

 ハチグモはポイノムに狙われている。その過程でミケもまた狙われることになった。それは何故か。ミケが火属性の魔法使いだからだ。けれど、それはどこまで適用されるのだろうか。ミケの街では魔法使いなんていない。そんな概念など存在しない。ならばあの故郷に帰れれば助かるのではないか。髪なんて、顔なんて、自分すらも隠さなくてもいいのではないか。

 その街は今、どこにある?

「ハチグモさん」

 ミケは通路に積まれた木箱に腰掛け、酒を飲んで騒いでいる人々を眺めた。最近、珍しくそこそこの量の酒が手に入った時、簡単な宴会になった記憶が蘇る。ミケは酒が飲める年齢ではないど判断されたため飲まなかったが、匂いと楽しげな雰囲気に流され場酔いをしたのか、共に踊ったり奇声を上げたりして楽しんだ。その後通報されて警察が来たが、酔っているくせに合図でもしたのか、皆蜘蛛の子を散らすように逃げたのは流石というかなんというか。いつもならば思い出し笑いをしているところだが、顔面に蝋を塗られたかと思うくらい表情が作れなかった。

「結局、ルベルが言ってたことって何だったんだ」

 いつの間にか寄り添ってきたクロを撫でる。どちらかというとふわふわした毛の動物が好きだが、艶のある黒猫の毛はざわめく心を落ち着かせた。 

「俺の街が無い。あったとしてもここにある」

 ルベルが指さした場所、胸の辺りに触れた。

「どういう意味なんだろう」

 生まれてから一度も、自分は頭の良い人間と評価されたことはないし、したこともない。

だから彼には言葉の意味が分からなかった。頭が悪いから分かる必要などなかった。捜し物が得意だという彼女が指し示した場所が、恐怖と焦燥の苦しみに嘔吐いていることなど、鈍感な脳は見て見ぬふりをし続けていれば良かったんだ。

 この質問は答え合わせのためだ。何でも識っている八雲、聞けば答えてくれる八雲、ミケにとって万能の賢者(ワイズマン)たるハチグモに否定してもらうためだ。妄想も、予感も、全てはくだらない。君の街は必ずあると。

「君は――」

 言葉を探すしているのか、一瞬間が空いた。

「君は牢屋というものに、どんなイメージを持っている?」

「えーと……。入ったことは無いけど、冷たい感じかな。真っ白い部屋に真っ白な檻。そこに押し込められて、外から眺められる。その目は恐ろしく冷たい。凍えてしまいそうで、せめて毛布をくれと頼みたいけど、口を塞がれて喋ることもできない。体も、声も、精神までも不自由な空間」

 自分で言ってて可笑しかった。

 今のは昔観た映画のワンシーンじゃないか。精神に異常を来した主人公が、精神病棟にぶち込まれる映画。彼はそこで専用の拘束具に縛り付けられ、さらには檻にまで入れられる主観のシーンがあるのだが、今の説明はまさにそれだった。さも自分がその主人公になって体験したような説明だった。

「そうか。白いかどうかは置いておいて、檻によって部屋に閉じ込められるというのは勿論間違っていない。だがこの世界の牢屋は物質的なものだけではないんだ。封印の魔法使いという者達がいる」

「封印?」

「名前の通り閉じ込めたり、封じ込めたりすることが得意な魔法使いの総称になる。生まれながらの魔法使いが罪を犯したりすると、牢屋に入れて置くのが難しい場合がある。本人の力が強すぎたり、牢屋そのものの強度に不安があったり。そうなると彼らの出番だ。彼らの魔法によって罪人を封じる」

 頭の中か、胸の奥か。どちらかでカチリと音がした気がした。

「封印の魔法使いの中で特に強力な力を持つ者は、空間魔術などを駆使して特殊な空間を作り出し、そこに対象を封じ込める者も居るという。ただ罪を犯した者を処刑するわけではなく、長期的に封印して置く場合、魂の劣化を防ぐために、もしくは別の理由で、空間内部に擬似的な世界を作って住まわせることもある。作り物の世界で彼らを欺ければ抵抗もしない。少ない労力で押さえ込んでいられる」

 まわりくどい、と思った。なんのためにそんなことをするのか。今し方説明されたことに、そんな方法を思いつく者とはわかり合えないと本能というか、芯にある者が囁いた。情状酌量の余地があろうと、利用価値があろうと、世界の法に背いたものは捨てるしかない。一度皺のついた紙はもとに戻らない。例え戻す方法があっても、果たして元のまっさらな状態にする必要はあるのか。必要などあるか。用途にそぐわないのなら捨ててしまえ。燃やしてしまえ。紙が必要なら棚からたった一枚新しいものを取り出せばいいだけの話だ。どんなにお気に入りの服だろうが一度汚れてしまえば特別ではなくなる。一回汚れてしまえば、無意識にまた汚れてもいいやという気持ちがすり込まれる。どんなに汚れを落としても、汚れの意識、踏みとどまることへの防衛ラインは確実に下がっている。そうなればいつかまた罪を犯すだろう。トライアンドエラー。失敗と成功を繰り返すのは何も良いことだけではない。

「ルベルの腕は確かだ。彼女が言うのならそうなのだろう。ミケ君、認めたくないことだろうが、君が探している街は存在していないのだろう」

 ハチグモの声は既に聞こえていない。ミケは混乱していた。

 今頭の中でべらべら喋っていたのはなんだろう。自分は今、ハチグモに教えられたことにショックを感じているはずなのに。

 彼の言うとおりなら、ルベルが言っていたこともなんとなく分かる。仮説として話を進めるのなら、自分は何か罪を犯したとしてどこか閉じ込められていた。ルベルの証言や水晶に写っていた椅子に座る人がミケならば、精神世界か何を作られ、そこに閉じ込めていたということになる。本当にそうなのか。精神世界なんて依り代に依存するものに閉じ込めるなんて浅はか過ぎる。わざわざ疑似的な世界を作ってまで封じ込める相手だ。確かに欺ければ、世界そのものに疑問を持たなければいつまでも閉じ込められる。だがもし違和感を持ったら。些細な違和感に気づいてしまったら、攻略できてしまうのではないか。堅牢でありながら、弱点な明確なものを使う真意とは。そもそも根本的に考え方が間違っているのか。

 違う。違う違う!

 考えたいのはこんなことじゃない。俺の街が存在しているかどうかだ。

 作り物の世界。そんなわけはない。確かに彼らは生きていた。温もりもあった。彼らの人間性を感じた。

 確かめるように一つ一つ、記憶をつまみ上げてよく確認する。まるで記憶の整理整頓をしている気分になった。取り出してはほっぽり出していた記憶達を年表を張った箱に詰めていく。

 八雲、犬養、武田、松本。名前を知っていて話したことのある相手を慎重に思い出していく。作られた存在じゃない、ナメクジなんかと同じじゃない。彼らはちゃんと生まれて生きていた。

 声も匂い、仕草や癖も思い出せる。

 何にもおかしいことなんてひとつもない。

 無いはずなのに、何故、なんでこんなに違和感があるんだ。

 隅々まで思い出せる記憶が、なんでこんなに怖いんだ。

 記憶の整理をしていて気がついたが、ついさっきことよりも過去に起こったこと、街での記憶が妙に鮮明だ。まるで録画映像を見ているみたいだ。早送り、巻き戻し、一時停止、コマ送り、なんならズームだってできる。ルベルの店の内装がすでにおぼろげになってきているのに、これはおかしいことなんじゃないか。

 記憶自体にもおかしい部分がある。宴会で酒が飲める年齢ではないと判断された? ありえない。ミケは数日前、八雲と会話をしている時に缶ビールを勧められて飲んだ。確かにミケの詳しい年齢は分からないが、年長者かつ赤ん坊の頃から知っている八雲が勧める環境で、他の者が年齢をとやかくいうだろうか。否定はできない。なぜなら宴会で飲んだ記憶と、飲んでいない記憶。どちらも存在しているのだから。日付の違いを疑ったも、どちらも武田の暴飲暴食を皆が止めるシチュエーションがある。しかもどちらも止める人間が同じで、近寄る順番までもまったく同じなのだ。

 記憶の粗を探せば探すほど、ある結論にたどり着いていく。

 これは粗なんかじゃない。ただ自分が記憶の完璧さに気がついただけなんだ。

 いくつもの記憶が用意されている。体験したことがない、可能性の記憶すらちっぽけな頭の中に詰め込まれていた。いや、もしかしたら忘れているだけで体験しているのかもしれない。人生が一度だけだと誰が決めた。

 意識して遡れば生まれた時すら思い出せる。過程が違うだけで八雲に拾われるのは同じだが、その過程がいくつもあった。誰から生まれたのが分からないのは、記憶が用意されていないだけなのだろう。少なくとも、あの世界にミケの産み親はいない。

 生まれが思い出せるのなら終わりもまた自分の中に存在した。今よりも若いミケ、今よりも年老いたミケ。破滅の行き着く先は決まって暗闇だった。必ずどこまでも続いていく記憶の連結が途絶え、黒い布が垂れ下がっている。記憶の秘密、いや世界の秘密に気がつかなければ、見つけることの叶わなかったブラックボックスが自分の中に存在していた。

 世界の真実を暴く勇気はミケには無い。何故ならもう知っているからだ。この先に何が待っているのか、何を体験したのか。一度、二度、三度、何度も何度も体験していることだ。その度に布を被せて隠しているだけだ。見えなくなれば、思い出せなければ無いのと一緒。夢と疑っていたこの世界をいつの間にか現実だと受け入れてたように、世界の終焉もまたいつの間にか通り過ぎている存在だった。

 だが、もう無視することはできない。

 舞台と座席を隔てている幕は既に火が放たれていた。作りだけは無駄に豪勢な座席に深々と座ったミケは、ただそれを見届けることしかできない。幕は瞬く間に燃え尽き、封印されていたのか、はたまた自分で隠していたのか、真実の舞台が暴かれた。

 ミケが暮らした街は火から生まれ、火に死んだ。それの繰り返すだけの世界。目的なんて分からない。ただあるのは破壊と再生。ミケがどんな人生を歩もうと、その道は一つに収束され用意された結末にたどり着く。

 ミケが人を殺す。それが世界の終わりの合図だった。どんな理由があって、どんな想いがあろうと関係ない。スイッチを押してしまえば仕掛けが動き出し、世界に火が放たれた。近しい人、顔も知らない人も皆が火が灯り蝋燭になり、月は破裂する。

 そうだ。俺はこれを経験してから、謎の声に導かれて、この魔法が存在する世界にたどり着いたんだ。世界に居られなくなったから、俺は今ここに居る。作り物の世界はすでに無くなっていて、ルベルの言葉は正しかった。水晶に写っていたのがミケだったのも、世界の中心人物がミケだったからだ。理屈は分からないが、ミケがすることに影響を受けていたのだから、つまりはそういうことだろう。

「意味ある言葉なんて、実はほとんどないんじゃないか。俺らが拡大解釈して大層な意味があると思い込んでいるだけだったりして」

 犬養の言葉を思い出した。

 ミケが故郷として、八雲達に育てられた街は大切な場所だった。でも実際は繰り返し利用されている張りぼてでしかなかった。セットが燃えれなリサイクルされ、新たな全く同じ物が用意されるだけ。ミケが大層な意味があると思い込んでいるだけの、ただの大量生産の小道具でしかない。

 作られた存在、意味を見いだせなかったナメクジと同じ、いやそれ以下だ。彼らに生きる意味を問うて、それらしい答えが返ってきてもうなにも響かない。極端なことを言えば、そこに在るだけでいい存在の、用意されたテンプレートでしかない。

 劇場でオブジェのごとく制止していた八雲達は完全に崩れ落ちて、蝋の洪水になる。世界の終わりを表す洪水がミケに迫ると、視界が開けた。

 一瞬の明転により、先ほどまでの空想世界から現実へと戻った。ハチグモ達がいる裏通り、そこをもうミケは現実と認識していた。そう、あの空想をへて、故郷と思い込んでいた世界は終わりを告げたのだ。

「君が探している街は存在していないのだろう。そして君がここにいるということはもう、その街は……」

 長い間意識が現実から剥離していたと思っていたが、ハチグモの会話の流れからしてあまり時間は経過していないようだ。

 真実を識ったミケに大きな絶望はない。なんとなく分かっていてたことだから、無意識に心の準備はできていたのだろう。それだけが救いだった。

 ただ酷く、寂しかった。

 寂しさに凍えた体を温めたかったのか、寄り添ってくれていたクロを抱きかかえた。彼女は抵抗せずに受け入れてくれた。胸に抱えた温みが体に染み渡ると、不思議と視界がぼやける。

「大丈夫か」

 反応でミケの心象で何が起こったのか察したのか、ハチグモが肩に手を置いてきた。その些細な衝撃で目から涙が零れる。視界がぼやける原因は、自分が泣いていたのせいだと分かった。

「ああ。……大丈夫、大丈夫だ」

「そうか。強いな」

「強い? どうして」

 何故かミケは笑っていた。強がりではなく。意味も分からず笑えてきた。しかし無理している部分もあるせいか、声は上ずっていたし、口角を無理矢理上げているせいで涙は遠慮無しに零れ続けた。

「もっと、ショックを受けるかと」

「なんで?」 

「実は昔、君と似た状況になった者を知っているんだ。彼女はもっと、こう」

「泣き叫んだ? 暴れ狂った? それとも人形みたいに動かなくなっちゃった?」

 酷い絶望を感じた者がしそうな行動を適当に言った。

「全部だ」

 その彼女は大層にヒステリック、いや感情豊かな性格をしているのだろう。とても人間らしいじゃないか。

「その必要がある?」

 素朴な疑問だった。名前も知らない彼女にたいしてもだし、自分自身についていも。

「意味なんて無かった。俺の街にも、人生にも、人間にも。それだけじゃあないか。それが分かっただけじゃないか。変えようのない事実が分かっただけ。騒いだところでどうしようもない」

 もしもその女性のように感情の発露に身を任せたら、幾分かは楽になったかもしれない。だがそれすらも意味がないように思えた。終わったことにエネルギーを使う意味はない、そんな潔い言い訳が、ミケを支配していた。流れる涙は感情を彼から絞り出し、体外へ逃がしているようだった。

「そんな」

 ハチグモがミケの肩を大きく揺すった。

「そんな寂しいことを言うな」

 大きな声ではなかったが、語気を鋭く放った。

「言わないでくれ」

 かと思えば急に弱々しくなる。

 一体どうしたというのだろう。呆けているミケに反して、ハチグモは心底悲しそうな顔をしていた。

「確かに君が探していた街は作り物だったかもしれない。けれど、だからといって意味が無かったなんて言うもんじゃない。君があれほど探していた、あれほど帰りたいと願った場所なんだろ」

 もうローブに感情の結晶は全て染みこんだと思っていたが、ハチグモの言葉に激情が腹の底から湧き出た。

「あの街を知っているのは俺だけだ。俺だけしか知らない街。それももう無い。あんたは何も見ていないだろ! 人が蝋燭みたいになって燃える。何もかも火達磨だ! なのにあらかた燃え尽きたら、なんともないって感じでまた元に戻って繰り返す。何度も何度も、俺は見てきたんだ! そんな俺が意味が無いって言って何が悪い! 俺が評価して何が悪い! もう俺にとって、それだけが真実だ!」

「確かに私は君の街を知らない。話を聞いていただけだし、今の説明を聞いてもさっぱりだ」

「だったら余計なことは言わないでくれ。今は何を言われても、八つ当たりしちゃいそうだから」

「いや、言わせてもらう」

 この頑固なお年寄りはどうしたというのだ。なぜこんなにもつっかかってくる。落ち込む人を見たらとりあえず慰める。そんな浅はかなことをするべきではないと分かる思慮くらいあるはずだ。

「君はどうして街に帰りたいと願ったんだ。会いたい人がいたんだろ。どうしても離れたくない人達がいたんだろ。人の価値を決めるのは結局、人だ。君が意味が無いなんて言ったら、本当にそうなってしまうんだぞ。本当に、認めてしまっていいのか!? 例え君しか知らなくても、終わってしまったのなら君しか彼らの存在を伝える者はいないんだ。それなのに、そんな簡単に区切りをつけてしまっていいのか」

 なにをそんなに必死になっているんだ。

 ここまで感情に飲まれるハチグモは初めてだ。村人の敵であるポイノムを前にしても冷静さを残していたのに。

 そこではっとする。彼は村と村人を失った自分と、故郷や大切な人々を失ったミケを重ねているのではないか。だとすれば、沢山の死者を背に抱える者として、失った者達にたいして意味が無いだなんて考えを改めさせたいのは分かる。お互い理不尽なことで全てを失ったのだから、同調してしまうのだろう。だが、二人の状況は似ているようで違う。

 ハチグモには歴史がある。良くも悪くも一方通行で、酷く傷くことばかりの人生。泥にまみれて生きているうちに、その泥と一緒に巻き込んできたものが沢山ある。そんな傷だらけで不格好な彼に惹かれ、人々が集まって村ができた。

 反対にミケには歴史が無い。人生を突き進んでいくうちにできた傷も、身につけた知恵も経験も破滅にたどり着いた瞬間に記憶の棚の奥に詰め込まれる。人だってリセットされて新たに用意されるだけだ。本当にあの世があるのならば、死者がたどり着く場所があるのならば祈りだって意味がある。けれどミケの仲間達はたどり着く場所なんて無い。魂だってない蝋人形だ。歴史も無い、人生の深みも無い、死ぬ概念すら与えられなかった虚ろでしかない。

「じゃあ俺に意味はあるのか」

 肩に置かれていたハチグモの手を掴む。できるだけ強く、自分の存在を確かめてもらうように。

「嘘っぱちの街で生きてきた俺に、意味があるのか。きっと悪いことをして、閉じ込められていたような奴に生きる意味は、生きてて良い意味なんてあるのか……。教えてよ、悪人の世界に意味はあるの?」

自分の罪なんて知らない。繰り返しの中で記憶が劣化してしまった忘れたのかもしれない。罪すら忘れてしまう罪人が生にたいする意味を求めていいのか。

 ミケは怖かった。そうだよ、と簡単に言われてしまうことが。けれど聞かずにはいられなかった。自分では認められない、だけど誰かには認めて欲しいという矛盾が苦しめてくる。誰にも同意を求められない、自分で決めるしかない。自分だけが知る、自分だけの世界を否定したくはなかった。

 己が生きてて良いと言ってくれた仲間は虚構だった。もう誰もミケの存在と価値を認めてくれない。だから自分で否定した。他の誰かが否定する気持ちが起きないほどに。街と仲間が全てだったミケにとって、その二つの否定はミケそのものに否定と同じに思えた。

 感情は抜け出したのではない、大きな虚無に埋もれてしまっただけだった。

 自分で解決しなくてはいけない問題なのに、誰かに掘り起こして欲しいなんて酷い我が儘だ、卑怯な考えだ。けれど、ハチグモが構ってくるから、つい甘えてしまう。助けてくれとサインを出してしまう。自分が意味がないと断じた八雲と未だ重ねて、手を伸ばしてしまう。

「誰かを大切に想うことのできる人間の人生に、意味がないわけないじゃないか」

 汚泥に塗れた我が儘で卑怯者の手を、ハチグモはしっかり握り混んだ。

 その手の感触は、記憶にある八雲とは違った。

「それを教えてくれた人や、知る環境を与えてくれた人達にだって意味はある。幻影だろうとなんだろうと、確かに居たんだろう。確実に君の心に影響を与えてくれたんだから」

 ミケが意味が無い存在だったと吐き捨てた人々の顔が浮かんだ。

 空っぽの蝋人形達。表面に人間の皮を張り付けただけの存在。

 だけど、ミケは溶けてしまっても、狂いかける頭で彼らを探した。果たしてその気持ちは空っぽだったろうか。

 意味が無いとあれほど言っていたのに、彼らを思い出と自然と湧いてくる思い出は、本当に無意味なのか。

「人の心は分からない。だから考え続けなくてはいけない。考えて考えて、考えた先に君の大切な人達がいるのならそれでいいじゃないか。それこそが生きる意味だ」

 ミケはクロを置いて、ポケットをまさぐった。手には八雲のために稼いだ金が確かにあった。この想いの結晶を手に入れるためにミケは頭を使い、体力を消費した。この金を握ると思い出す。八雲に何をプレゼントしようか考えるだけでワクワクしたあの夜のこと、疲れた体をも動かした高揚感を。

 どこまでも勝手な自分が嫌になる。

「八雲さん……! 皆……!」

 静かに流れるだけだった涙をせき止める必要はもう無い。金を両手で握りこんで、胸に抱いた。声を殺すつもりはなかったが、呼吸が荒いせいでむせび泣くことしかできない。なんだか小さな子供のようだが、ミケは気にしなかったし、誰も笑うことはなかった。

 記憶の蝋人形達が静かに崩れ落ちた。

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