狂人レベル4

えむ

狂人レベル4

 ちょいと頭はおかしいが、悪い奴じゃない。


 そんな友人や知人が、君にもひとりくらいいると思う。


 わたしにも、そんな奴がいる。

 「奴」なんていったら気の毒か。まだまだ純粋で幼いところすらある。実年齢からしたらそぐわないけれども、わたしの印象を優先させてもらって「あの子」と呼ぶことにしよう。

 


 ……ああ、申し遅れたね。

 わたしは小金井ハナエというんだ。よろしく。


 あの子とは、ものごころついてからというもの、とても仲良くしていた。

 あの子の存在には気づいていた。

 たぶん、お互いを気にし始めたのはわたしのほうが先だろう。

 だけど、声をかけてきたのはあの子のほうからだった。

「友達になろうよ」とシンプルに笑顔で声をかけてきた。


 それより前から……いわば横目でチラチラと眺めるだけで何も行動は起こさなかったけれど……少なくともわたしは、常にあの子のことを思っていた。……それは言い過ぎか。

 でもね、いつも気にかけていたよ。あの子のことを。


 仲良くなってからは、かなり多くの時間を一緒に過ごしたものだ。

 

 あの子はあぶなっかしいところもあったけど、そこが魅力的だった。

 街を歩いていたら急に走り出して公園に入っていったかと思うと無我夢中でジャングルジムに登ったりね。

 わたしは突然の出来事にポカンとしてしまったけど、あの子はあっという間にジャングルジムのてっぺんにのぼりつめ、目を細めて沈みゆく夕日を眺めていた。夕日なのにやけに眩しかったね。

 ジャングルジムを見て急に登りたくなってその通り行動した。そんないっときの感情や欲求は満たされたけれども、まだまだ満ち足りてはいない……そんな感情が伝わってきたよ。


 一目惚れも多い子だった。

 好きな人ができると猪突猛進。すぐに告白してた。

 玉砕することも多かったけどうまくいくことも多かった。

 最初はラブラブだけれども、すぐに別れることも少なくなかったね。

 一度だけ、別れるのはもったいないんじゃないかと思った相手と別れたときに、なぜかと聞いたことがあるんだ。

 そしたらあの子は「だって思い通りにならないんだもん」と口を尖らせた。

 わたしは「らしいな」と思った。

 あの子らしいなと。

 嫌悪感などまったくなかった。

 むしろあの子が取り繕って「自分がわるいんだ」とか「自分にはもったいない人だから身を引いた」なんて言おうものなら、それこそ腹が立っただろう。

 あの子は、とても正直なんだ。わたしに対しては特に。


 ……そういう意味ではもともと衝動性の高い子だったとも言えるか。

 そして、気に入った相手を意のままに操りたがる子だった。


 わたしも、あの子に振り回されていたね。今から思うと。

 別に苦じゃなかったから、自覚していなかっただけで。


 だから、あの子から離れていく人間もいたよ。

「頭おかしいんじゃないの」

「もう振り回さないで」

 そんなふうに捨て台詞を残して。


 彼らの気持ちはわからなくない。

 むしろわかる。痛いほどわかる。


 でも、わたしは、そんなあの子に憧れてもいた。


 うん、わたしはどちらかというとあの子と正反対の性格だからね。

 だからかもしれない。あの子にすごく惹かれていたよ。

 自分で言うのもなんだけど、わたしはできるだけいつも冷静でいようとしているから。

 それに、ほとんど欲求や欲望を持たない。持っていたとしてもあらわさない。人前では。

 そういう人間だと思われたいから。

 クールでストイックで寡黙な人間だと。


 あの子は、そんなわたしとはまったく逆だった。

 熱くて、欲しいものがたくさんあって、それらを手に入れるためには手段を選ばないこともあり、いつもにぎやかだった。


 それでもね。


 あの子は。


 あんなことをやらかすような子じゃないんだよ。


 たしかに、個性的で妄信的で依存心は強かったけれど、理性も自尊心も人一倍強い子だった。

 だけれども、そんな性質を上回るほどの、臆病で人見知りで環境の変化が苦手な面を持ってた。


 だからわたしは、あの子が、刑務所に入るような罪を犯すなんてつゆほども思わなかったんだ。


 容疑者として拘禁され収監されるよりは、どれだけ否定的な感情が高まろうと継続されようと、最後の一線だけは越えない、そんな子だと思っていた。


 まさかあの子が、彼を殺してしまうなんて。


 わたしは今、生涯最大の驚きを禁じ得ない……と言っても過言ではない。

 



 わたしがあの子の「狂人レベル」が上がっていることに気づいたのは、ひと月前くらいだ。

 だからもしかしたらもっと前から、あの子は変調をきたしていたのかもしれない。



 あの子の、いわば「あったまおかしいんじゃねーの」と評することができるであろう言動のレベルが変化していた。


 普通の人の「まとも」な状態が「1」だとすれば、あの子のいつもの状態は「3」くらいだ。

 ああ、もちろんマックス・オブ・クレイジーを「10」とした場合だよ。

 なんとも名づけがたいけれど「狂人レベル」とでもしておこうか。


 いつも「3」だったあの子の「狂人レベル」が「4」になってた。


 「そんな、1目盛りの変化なんて大したことないじゃん」と思うかもしれない。


 でも、まともがゼロ、完全なキチガイを10として、その間を10個に分割したら、その1つぶんは相当でかいと思わないか?


 特大のホールケーキを10分割したとしよう。

 かなりの甘党じゃなければ一切れの半分を食べきるのも至難の技、というくらいに甘くて大きいケーキだ。ひと切れぶんは軽く千キロカロリーを超える。

 そんなケーキをなんとかがんばって3切れ平らげたとして「もうひと切れくらいペロリといけるでしょ」と考える人はいない。


 そのくらい、重たくて、厳しい、1目盛りなんだ。

 「まとも⇄狂人」レベルの1目盛りは。


 ふつうの人は1なのに、あの子はすでに3を指してた。

 そこからさらに、1つぶん。




 レベル4になったあの子。


 あの子の電話の口調が変わった。

 妙にうわずって、早口になってた。

 以前から、声質もどちらかというと高めで思いついたことをどんどん喋る子だった。

 ただ、最近は「頭の中で浮かぶことを言葉にするのが追いつかない」と言って残念がり苛立ってもいた。

 聞き返すのが必要になるくらいにやたらめったら早口になっていたね。


 それから人を疑いやすくなっていたと思うよ。

 あの子はもともと信じやすく疑いやすい子だ。

 先ほども「妄信的」と形容したようにね。

 

 人から言われるすべての言葉を、実は別の意味があるんじゃないかと勘ぐるようになってた。

 ああ、人の言葉の裏を読むのも昔からのあの子の癖ではあるんだけどね。


 この「勘ぐり度」もやはり、レベルが上がってしまった。


 言葉の裏を読むというより、その言葉を発するに至った背景を勘ぐるようになったんだ。


 例えば「好きです」と言われれば、実は「嫌い」な気持ちが浮かんでいて、その気持ちを打ち消すために、もしくはそんな気持ちが浮かんでしまったことに対する罪悪感から、わざわざ言葉にしたんじゃないか、とかね。

 

 一番あの子から勘ぐりをくらっていたのはあの人なんじゃないかな。

 ……そう、今はこの世にいない、あの子に命を奪われた、あの人。


 なんだか紛らわしいね、あの子やらあの人やら、指示語が続くと。

 あの人のことは、J氏……としておこうか。

 別に他意はないよ。急に「J」というアルファベットが浮かんだだけで。


 J氏の言動には特に過敏になっていたね。ここひと月ばかりのあの子は。

 背景への勘ぐりが、それはもう激しかった。


 勘ぐりなんて実に無駄な行為だとわたしなどは思うのだけどね。

 勘ぐりというくらいだから、思いついた「勘」を自分でごちゃごちゃと揉みしだいているだけだものね。

 自分の排泄物を汚い臭いといいながら指でかき混ぜるようなものだ。


 ただし、たいていの人の勘ぐりは、最近のあの子よりかはマシだろうから、フィフティフィフティくらいで当たっているんじゃないだろうか。

 いや、そんなに確率は高くないものだろうか。

 お互いの性格や、疑われるような言動がこれまでにあったかどうかなどにもよるだろうしね。


 わたしは、勘ぐったことがあまりないから……無意識にはしているかもしれないけれどね……よくわからないけれど。


 最近のあの子の、J氏に対する勘ぐりは、99パーセントは外していただろう。

 つまりほとんど当たっていない。

 あの子の心の中で、ただひたすらJ氏に疑念をぶつけていただけなんだ。


 J氏が例えば名うての詐欺師だったら言葉巧みに騙していたということもありうるだろう。

 つまり、あの子の勘ぐりが当たっていたということだね。


 けれど、J氏と話してみればわかる。

 J氏も、まぁ変わり者ではあったが、人は皆、変わり者だしね……。何と表現したらいいかな。

 まさかJ氏の性格をこんなふうに話す機会があるなんて思わなかったからね。すぐには言葉にならないな……。

 

 そうだね……、J氏は、どちらかというとわたしサイドの人間だなと思ったね。

 言葉にしないだけで、きちんと考えは持っている。

 ただしその考えを言葉にするのがめっぽう下手だ。特に人情や愛情に関することはね。

 それから、物事を客観的に眺めるのが得意だ。 

 できるだけ主観を排除し欲求や要求を抑えることで、社会生活や人間関係を円滑に保っている感じがしたね。

 非常にストイックだったよ。J氏はね。

 というよりは、誰にも気を許さなかったと言った方がいいかな。

 ただ、あの子といるときは別だった。時折感情的になることもあった。殴り合いの喧嘩をすることもあったみたいだよ。あの冷徹なJ氏が殴り合いなんて信じられないけれどね。

 つまりそのくらい。あの子には気を許していたんじゃないのかな。

 誰にも見せられない面をあの子にだけは見せていた。

 けれども、「誰にも見せられない面」ってたいていはネガティブなものだろう?

 だから、あの子は勘違いしたんだ。

 ああ、また「勘」が出てきたね。

 そう、あの子は勘違いして勘ぐって、「J氏は自分にだけ感情的になる。自分はJ氏に嫌われてしまった」と確信したんだ。あの子の中でのみ成り立つ論理なんだけれどね。


 え? J氏も少し病んでいるのではないかって?

 J氏が病んでいる……か。

 つまりそれは、わたしのことも病んでいると言いたいのかな?

 J氏の話を始めてからすぐ、「わたしサイドの人間だと思った」と言ったからさ。

 三段論法だね。J氏とわたしは似ている。J氏は病んでいる。つまりわたしも病んでいる。

 

 物事をどの視点から眺めるかによって、狂人は狂人に、正常な者は正常に、あるいは正常な者が狂人に、そのまた逆にも、見えるものじゃないのかなとわたしは思うんだ。

 だから、……なんて言ったっけ、ごめん、名前を忘れてしまったよ、先生。

 スメラギ? スメラギって、苗字なのかい?

「皇」と書く?

 うわぁ、まるで王子様じゃないか。

 いい名前だね……スメラギ先生。

 ねぇスメラギ先生。

 さっきのわたしの理論ーー物事をどの視点から眺めるかによって正常とも狂人とも捉えられるという理論ーーで考えるとするならだけれど。

 つまるところあなたも、狂人である可能性があるんじゃないかな?


 ああ失礼、怒らせてしまったかな。

 どうしたんだろうね。今日のわたしは。

 先生の前だとわたしは妙に饒舌になる気がするよ。

 


 本題に戻ろうか。

 あの子はJ氏を殺してしまった。


 なんども言うけれど、わたしは本当に、いまだに信じられないね。


 あの子が、あんなにも大好きだったJ氏を殺してしまうなんて。


 でも殺し方にはあの子らしさを感じるかな。

 睡眠薬で朦朧とさせて、首を絞めて仮死状態にし、身体中ナイフで刺した。さらに、傷口に指や手を突っ込んで肉や内臓を取り出して食べた。


 なぜその殺し方があの子らしいかって?

 そりゃあもちろん、愛情を感じるからさ。

 愛情に満ち満ちているじゃないか。

 愛情というより、一体感かな。


 あの子は、J氏と一体になりたかったんだよ。


 J氏は、もっと健康的な一体感を目指していた。

 家族的な、家庭的な一体感だね。精神的な。

 

 けど、あの子は「J氏に嫌われた」と思ってしまったから。

 生涯で初めての、もうこれ以上のパートナーはいない、そんな相手から嫌われたと思ってしまったから。


 ……境界性人格障害と言うのだったか、あの子はとにかく見捨てられ不安が強い子だった。

 見捨てられる前に見捨ててやる。

 そんな気概があったね。

 それを気概と呼ぶのかは人によってまったく異なるだろうけれど。

 そう、見捨てられて傷つくのを恐れていた、だからこちらから先に見捨てた、と解釈することもできるね。勘ぐりでしかないかもしれないけれどね。

 

 だけど、決して見捨てられたくない人と出会ってしまった。

 こちらからも決して、見捨てたくない人と。


 それが、あの子にとってのJ氏だったんだ。


 勘違いと勘ぐりによって、あの子はJ氏に見捨てられる不安にとらわれた。

 毎日、妄想していた。

 いろんな妄想をしていたよ。聞いていると驚くほどに多岐に渡っていた。


 J氏がいなくなったあと一人で生きていこうとするが寂しさで一日ともたずに自殺する妄想。

 J氏の仕事先に乗り込んでJ氏を含む職員全員を散弾銃で撃ち殺す妄想。

 J氏を拉致監禁して孤島で過ごす妄想。


 流暢な早口で、絶え間なく話してくれたよ。

 妄想の数々を。

 まるで本当に経験したことのように、一度もつっかえることなくぺらぺらとしゃべっていた。

 泣きながらね。


 でも、あの子がある妄想を語っている時、ふと言葉を途絶えさせた瞬間があった。


 そのとき語っていたのが、J氏殺害の手段……さっきの、J氏を殺して食べる、妄想だったんだよ。 


 急に黙りこくったあの子を心配して、どうしたのかと聞いたら、「不安が消えた」と言っていた。

 晴れやかな顔で……とまではいかないが、たしかにさっきまでの不安にまみれた泣き顔が、夢から覚めたようにぽかんとしていた。


 まさか実行するとは思わなかったけれど。


 でもあの子にとって、不安の底なし沼の中にいるよりかは、理性も自尊心も吹っ飛ばして最も不安を少なくするほうが、優(まさ)ったんだね。


 今は、臆病で人見知りで環境の変化が苦手なあの子が、独房でどう過ごしているか……後悔していないか、いやそれよりも、さらに心を病んでしまっていないか、心配だね。


 え? あの子の名前?

 そんなの、とっくに知っているんじゃなかったのかい、スメラギ先生?

 確認のため?


 ……どうしてかな、思い出せないよ。

 あの子の名前……。

 忘れてしまいたいのかな。

 そんなはずはない。

 いつも、一緒にいたんだから……








<精神鑑定書 1>

 東京拘置所にて*月*日から+月+日にかけて(詳細は後述)合計10回、小金井ハナエの精神鑑定のために面談した。

 小金井ハナエは同棲相手のJさんを殺害した容疑で逮捕されている。

 容疑に関する供述に数々の矛盾がうかがえたことから、精神鑑定がおこなわれることになった。

 小金井ハナエは幼少時から別の人格を有していたと思われる。本人はもうひとつの人格のことを「あの子」と呼んでいる。これは面談を通じて明らかになった。

 解離性障害の中でも解離性同一性障害(多重人格性障害)を発症していたものと思われる。

 犯行についての顕在的な記憶はなく、犯罪はすべて「あの子」のしたこととして語られ、「あの子」を自身と完全に別の存在と見ている。これらは心理査定の拒否(「なぜあの子が犯した犯罪なのにわたしが検査をうけなければならないんだい?」との回答)からも察せられる。

 これらのことから、小金井ハナエは犯行時は心神耗弱状態であったと考えられる。

 刑の執行ではなく社会復帰プログラムへの参加が適切である。

 

     文責 20**年 *月 *日 **大学社会学部犯罪心理学科教授 〇田〇彦

 

  



<精神鑑定書 2>

 東京拘置所にて*月*日から+月+日にかけて(詳細は後述)合計7回、小金井ハナエの精神鑑定のために面談した。

(以下、容疑に関する件と供述の矛盾の件はほぼ同一の内容なので省略する)


 小金井ハナエの幼少期と思われるエピソードが本人の口から語られた。児童期に別人格まではいかないが自分の中にもうひとり別の自分がいるように行動することは健常児にもままあることである。すなわち児童期には小金井ハナエは解離性同一性障害(二重人格)は発症していなかったと思われる。

 むしろ筆者が感じたのは、「あの子」についての語りはまるで別の人間をあらわすようだという点である。しかし、小金井ハナエの別人だとすると矛盾する要素が多々ある。

 犯行発覚時に被害者J氏のそばにいたのは「あの子」ではなく小金井ハナエ自身であったこと、J氏の部屋に「あの子」の痕跡はなく(いくつか小金井ハナエ以外のDNAが発見されたものの物的証拠には至らなかった)、また、犯行現場はJ氏の名義で借りていた部屋であり「あの子」が出入りするところを見た者はいないが小金井ハナエの出入りに関する目撃者は複数あったことなどである。

 警察内部には小金井ハナエと「あの子」を別の人間としてみなし、「あの子」を捜索している班もあるようだが、J氏と同棲していたのは小金井ハナエ自身であると断言して間違いないだろう。

 筆者が鑑定をしていて感じたのは、J氏の病理の深さである。

 J氏は小金井ハナエに依存しており、小金井ハナエも同様で、ふたりは共依存状態にあったと思われる。

 小金井ハナエはJ氏を「自分と似ている」と表現しつつも、依存心の少ない人間であった。

 自分の依存心を認めたくないがゆえに、J氏との関係が深まり共依存状態が進行するにつれ、小金井ハナエは解離性同一性障害を発症、もしくは解離性同一性障害様の症状が発現したものと考える。

 J氏からはドメスティックバイオレンスがあり、小金井ハナエの腕や腹部にはその痕跡と推測される傷が残っていた。


 小金井ハナエは犯行当時、いやそれ以前から相当な心神耗弱状態であり、かつJ氏からのDVを鑑みて情状酌量の余地は大きいと考える。


   文責 20**年 *月 *日 ##大学人間学部ジェンダー学講師 心理士 〇沢〇子




<精神鑑定書 3>

 東京拘置所にて*月*日から+月+日にかけて(詳細は後述)合計15回、小金井ハナエの精神鑑定のために面談した。

(以下、容疑に関する件と供述の矛盾の件はほぼ同一の内容なので省略する)


 最初に申し上げておくが筆者は「小金井ハナエ」と「あの子」はまったく別の人間であると考えている。

 筆者が鑑定のために面談したのは小金井ハナエであるが、小金井ハナエは本件において無実であり、「あの子」は現在逃走中だと思われる。


 その証拠として、幼少期のエピソードがある。

 小金井ハナエはジャングルジムにのぼって夕日を眺める「あの子」を「見て」おり、あの子の感情を推察した。

 また、小金井ハナエとあの子が同一人物であるなら、小金井ハナエ自身が「個性的で妄信的で依存心」が強いエピソードが周りから漏れ聞こえてくるはずだ。しかし、警察の聞き込みから、小金井ハナエの知人友人関係からそのようなエピソードはほとんど出てこなかった。

 すなわち、小金井ハナエは本件の犯人ではない。

 解離性障害および解離性同一性障害などではなく、小金井ハナエは「あの子」に洗脳され、もしくは催眠をかけられていると思われる。

 小金井ハナエが「あの子」の名前を思い出せないことは、犯行以降、小金井ハナエの「あの子」の記憶が不鮮明になるように後催眠をかけられたと考えられる。

 小金井ハナエは無実であり、「あの子」の捜査を早急に最重要事項として進めるべきである。


     文責 20**年 *月 *日 ##心療探偵事務所所長 精神科医 〇森〇志




<精神鑑定書 4>

 東京拘置所にて*月*日から+月+日にかけて(詳細は後述)合計20回、小金井ハナエの精神鑑定のために面談した。

(以下、容疑に関する件と供述の矛盾の件はほぼ同一の内容なので省略する)


 私は小金井ハナエと20回面談した。

 この面談数は精神鑑定においてはかなり多い。

 それだけ、小金井ハナエの人格は複雑だと考えたからであり、彼女を真に理解するには20回などという面談回数ではまったく足りないと思っている。


 小金井ハナエは解離性障害もしくは解離性同一性障害(多重人格)ではない可能性が高い。

 彼女は、複数の人格……というと語弊があるかもしれない、複数の「自分」を持っている。

 しかしそれら複数の「自分」は統合されており、別々に動き出すことはない。


 「あの子」に名前をつけていないことからも察せられる。

 人が多重人格の症状を引き起こすのは心を守るためである。


 例えば虐待を受けている子が「親からこんなにひどいことをされる自分」を「自分」と認めたくないがゆえに、「自分とは違う人格」を作り上げ、「自分とは違う人格」である証拠付けのためにも名前をつけるのだ。


 小金井ハナエは「あの子」を終始「あの子」と呼んでいる。名前はない。

 複雑な「自分」を統合するために擬似的に別人格化しているだけであり、むしろ「あの子」を積極的に、別人格として利用していたフシがある。

 警察の捜査によると、「小金井ハナエ」として知られる人間の評判は、小金井ハナエ本人が語っていたものとほぼ同じ……すなわち冷静で客観的でストイック、といったものである。

 だから「あの子」はまったく別の人間として存在するのだろうと見る向きもあるだろうが、私は決してそんなことはないと思う。

 小金井ハナエは意図的に、意識的に、別の名前を「あの子」にあてて、「あの子」としての生活、「小金井ハナエ」とは別の人生を楽しんでいたのだと思われる。

 「あの子」として生きる時は、メイクも髪型も服装も変えてまったくの別人に見えるようにしていたと考えられる。警察にはその方向でも捜査するよう助言してある。


 私は、小金井ハナエの心理査定をすることに成功した。

 自負するようで申し訳ないが、他の精神鑑定者はひとりも心理査定を実施しえていないと聞いている。

 もちろん私も精神鑑定に必要なすべてのテストを行うことができたわけではない。

 小金井ハナエに実施できたのはIQを測る知能検査である。

 彼女に提案したときは当然いぶかられたが、「無料でできる」と伝え「非常にIQが高いと思われるので」と言ってみたところ、しぶしぶながら(しかしおそらく内心は非常に乗り気で)知能検査を承諾した。

 小金井ハナエは非常にプライドの高い人間で知能に自信を持っていると思われたので、そこをついたわけである。


 実際、知能検査の結果は驚くべきものだった。

 予想どおり、小金井ハナエのIQは上位0.5パーセントに入る高水準であった。

 特に高得点をマークしたのが言語力と先見性、創造性、そして記憶力だ。

 いずれも、小金井ハナエとしての人格をキープし、「もうひとりの自分」としての「あの子」を、最も効果的に利用するために必須の要素である。

 またこれらは同様に、猜疑心が発生しやすい要素でもある。

 「あの子」の狂人レベルが上がった、と小金井ハナエは供述しているとおり、同棲相手J氏に対する愛情と「思い通りにいかなさ」が複雑に絡み合った結果、猜疑心が高まり殺意に発展したと考えるべきだろう。

 

 結論として、小金井ハナエは神経症と人格障害を発症もしくは意図的に制御しているが、神経症と人格障害の病的側面によって殺害行為に及んだものではない。ただし、サイコパス的要素が突如発現してしまった可能性は否定できない。

 当然、心神耗弱状態でもない。

 J氏に対する明確な殺意のもとに行われた犯罪行為であると考える。


 

     文責 20**年 *月 *日

        ++大学医学部精神医学研究科講師 

        財団法人 心理/文化研究所 所長 皇 九郎

        

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

狂人レベル4 えむ @m-labo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ