文学(小説)の理系的観測

望月弥

第1話 文学(小説)の理系的観測

皆さん初めまして。望月弥(もちづきあまね)と言います。


突然ですが、皆さんはこれまでの人生で何冊の本(小説)を読んできましたか?


これまで食べたパンの数を誰もが覚えていないように、おそらくこの記事を読んでくださるほとんどの方が正確な数字を答えられないのではないでしょうか。


ただ、私は答えられます。わかるんです。正確な数字が。


「そんなところでドヤって何なんだ」と、思った方もいるかもしれません。「どうせ、今まで読んだ本のリストをノートにまとめてきたとか、そんなところだろ」と。


実際のところ、ドヤれるような話ではないです。なぜなら、私がその数字を答えられるのは、今まで読んだ本(小説)の数がなのです。


待って!待って!待って!


ブラウザバックしようと思った方、少し待ってください!

確かにわかります。そんな小説をろくに読んでないやつが小説について語るなと、言いたくなっても仕方ありません。


ですが、少し考えてほしいのです。なぜ、そんなに本に興味のない奴が小説投稿サイトに創作論なんかを掲載しようと思ったのかと。そんな、国語力の底辺にいそうな奴が、それなりの文章(上手くはない)を書けているのかと。


興味を持っていただけた方だけで構いません。せめて、この記事の最後まででも読んでもらえると嬉しいです。


話を戻しますが、実際私の小説に対する理解は、欠けている部分がかなり多いです。読んできた本も、ずっこけ三人組とぼくらの7日間戦争の系列シリーズくらいで、誰の目にもわかる小学生向けのものです。


中高生の間では、中学受験のプレテストの国語の問題に出てきた「阪急電車」が気になって、中1の時に読んだくらいです。その内容も一つも覚えていないくらいなので、カウントしていいかも怪しいでしょう。


そんな私ですが、大学に入って本を数冊読んだり、アニメを見たりするうちに衝撃を受ける作品にいくつか出会いました。具体的には、まどかマギカの10話、fate/stay night、Steins gateなどです(アニメばっかじゃねえか)。


そして、昔から地元の夏祭りの屋台の景品を選んだり、文化祭の実行委員をやったりとエンタメを作ることが好きだったこともあり、自分もこういった『衝撃』を作る側になりたいと強く思いました。


ですが、私は絵を描けません。画伯と揶揄されるような味のある絵ですらなく、棒人間のようなシケた絵が関の山です。


創作するにあたって、アウトプットする手段が、文章つまり小説しかない状況でした。しかし残念なことに、私は小説の書き方もわかりませんでした。当然ですね。本を読んでこなかったのですから。


試しにワードを開いてみようみまねで書いてみると、大学入試センター試験の国語の小説みたいになりました。もちろん、そんなものが書きたいわけではありません。


弱点が多すぎてできることの幅が全くない。そんな中で私は、考え方を変えることにしました。自分の強みを生かせるアプローチをしようと思ったのです。


もちろん、本当に形にしようと思うなら、いつか弱点は克服しなければなりません。ですが、まずはできるところから取り組もうとそう思いました。


少し真面目な感じになりましたが、ようやく本題です。


自分の強みを生かせるアプローチ。私にとってのそれは、明白でした。私の人生を長々と語るのは退屈極まりないので割愛しますが、人間20年も生きれば自分の得意なことはわかるものです。


『分析』と『言語化』。それが私の考える自分の強みでした。


分析と言っても、その意味は一つではないでしょう。私にとっての分析とは、理系的数学的なもので、初めて見た数学の問題の解法を考えるのに近いです。言葉で言っても伝わりにくいと思うので、この辺は後の記事で具体例を出すときに言及します。


そして言語化。私の考える言語化とは、名前のないもの(概念)に名前を付ける、定義することを言います。


私はサッカーが好きなのですが、サッカーにはドリブルという言葉があります。バスケットボールでも同じ意味でこの言葉を使うと思います。ドリブルとは、ボールを一人の選手が保持して進むことだと理解されます。


しかし、この言葉は日本人サッカー選手の成長の限界にもなってしまっています。日本ではこの言葉と包括関係にあるさらに小さい意味の言葉が存在しないのです。(フルーツに対するリンゴのような言葉。リンゴに対する青りんごのような言葉。)


対して、サッカー先進国の欧州では、「ボールを前に運ぶドリブル」「対面した相手を抜き去るドリブル」「ボールをキープして見方が有利な状況を作る時間を稼ぐドリブル」などさらに細かい意味を持つ言葉が存在します。


「ドリブル上手いね」。こう日本語で声をかけたとして、その真意が伝わる可能性は低いわけです。本当は、ある特定のドリブル方法を褒めただけなのに、受け取った側がすべてのドリブルが上手いと解釈してしまうと、その子のドリブルの成長はそこで終わってしまうかもしれません。


私たちの理解は無意識のうちに言葉の存在に縛られてしまっています。例えば、創作において重要なキーワード「面白い」。この言葉は、非常に意味の広い言葉です。


しかし、現実には「あの作品面白かった?」「面白かったよ」などという会話が日常茶飯事、そこらじゅうで行われているわけです。これでは、薦められて見た作品が面白くないと感じる事態が当然起こってしまいます。理解の齟齬が発生しているのですから。


また、作る側にとっての問題もあります。「ドリブルを練習しろ」と言われても練習メソッドは無限にあります。そのなかで、自分の伸ばしたいものに合った練習を無意識に選ぶのはドリブル以上に至難の業です。


ですが、「お前は体が強いから、ボールをキープするドリブルを練習しろ」と言われれば、目標もわかりやすく正しい選択をできる可能性も上がります。


私はこの連載を通して、このように「面白い」などの意味の広い言葉の細分化・言語化を目指し、持ち前の分析力でその練習・利用方法の公式を証明していきたいと考えています。


巷には公式と呼ばれるような、方法論がいくつもあります。小説や創作の分野でもそれは例外ではありません。中には意味の被ったものもあり、どれを選択すればいいのかわからない場合もあるでしょう。


ですが、その悩みは多くの場合公式を完全に理解できていないから起こっています。文系の方には耳が痛いかもしれませんが、大切なのは公式ではなくその証明過程です。公式の取捨選択や適用範囲というものは、その証明あってこそ理解できるようになるものです。


例えば、二次関数の頂点や軸を求めるために平方完成というものを習いますが、これは微分の考え方を正しく知っていると、平方完成を知らなくても頂点や軸を求めることができます。この解法は教科書や問題集には載っていないと思いますが、正しく微分を理解している人には「ああ当然だな」と理解し、使いこなすこともできます。ぜひ、簡単に考え方を書くだけでもいいのでコメントしてみてください。


ここ数行を読んで、「数学なんて嫌だ。自分には合わねえ」と、思った方もいるかもしれません。もちろん、アプローチの仕方は一つではないでしょう。しかし、自分の考え方と違うということは、吸収出来れば新しい世界が開ける可能性もあるわけです。


私自身もできるだけ詳しく、具体例を出して論理を展開していこうと思います。

ですので、一緒に新しい一歩を踏み出してみませんか?


最後になりますが、ここまで読んでいただいてありがとうございます。文章の最初の方のテンションと最後の方とで随分落差があるのが気になりますね。まだまだ精進が必要なようです。

つらつらと書いてきましたが、本当に伝えたいことはここから始まります(笑)。ここでお別れではなくて、末永くお付き合いいただけると嬉しいです。

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