第2話 記憶

「にぃに、朝だよ!」


 無邪気で明るい声が、薄暗い簡素な部屋に彩りを添える。

 しかし、ベットから反応はなく、聞こえるのは静かな寝息。

 頭の左右に大きなリボンを付けた小さな人影が、にんまり笑う。

 

「学校に~」

 

 そして、窓際のベット目掛けて、

 

「とうっ!

 遅刻するよ!」

 

 ダイブした。

 ベットの上で、布団にくるまる物体から鈍い音が鳴ったが、少女は気にせずカーテンを開ける。

 

 肌寒さが残った四月の朝。

 肩先が開いたゆったりとした服に、短いスカート姿の少女を、朝日が照らす。


「……我が半身よ、分かっておろう、我が肉体の力、解き放つにはまだ五分足りぬことを。

(訳:うーん、あと5分ー)」


 不機嫌さと気怠さが入り混じる声が、布団から聞こえてきた。


 その声の主である、少年の名前は鹿堂ろくどう竜也りゅうや

 もぞもぞと布団の中で動き始めたが、一向に起きようとはしない。

 

 竜也のその態度に、も~、と少女は顔を膨らませ、 

 

「これでも起きないなら……こうだっ!」

 

 布団を鷲掴み、ベットから跳び下りた。

 

「ふ、ふ、ふ。こんなもので私は止められないよ」

 

 小さな口から八重歯を覗かせる、その少女の名前は鹿堂ろくどう妃夏ひなつ

 竜也の妹であり、現在この家に住む唯一の家族である。

 

 目の下にクマができた竜也の寝ぼけ面に、突如として襲い来るまばゆい光。

 竜也はすかさず右手をかざし、

 

「貴様あああ、なんてことを! 太陽が、光が我が精神をむしばんでいく……ぐっ。

(訳:あぁぁ、起きたくなーい)」


 と、悶え苦しんだ後、ピクリとも動かなくなった。

 その様を眺める妃夏の顔には、うっとりとした表情が浮かんでいた。

 僅かに大人びた雰囲気を帯びる彼女の姿は、先ほどまでの子供っぽさとは別人のよう。

 しかし、直ぐに元の表情へと戻り、元気な声を奏でる。

 

「どう? 起きる気になった? にぃに」

「――毎度毎度おにぃちゃんを乱暴に起こしてくれちゃって……。

 もぅ、ありがとよ」

 

 寝癖で乱れた髪を手でポリポリと掻きながら、竜也は大きくあくびをする。

 その前髪に、白髪というには綺麗な銀の線が、一本だけ走っていた。

 彼は続けて、あのさぁ、と、


「またあの妙な――」

 

 竜也の視界に妃夏の顔が映りこんだ。

 それで思わず口が止まってしまう。

 ……この話題は……いかんな。

 脳裏に過去の記憶がよみがえる。

 

  ♢

 

 ……なんか、気持ちいいな……。

 自分の頭が、何か柔らかいものに置かれている。

 意識が覚醒し、竜也がまず最初に思ったことだ。

 地面にでも横たわっているのだろう、体の感覚から判る。

 だが、状況は分からない。

 

 確認しようと、竜也は瞼を開ける。

 すると、目の前には、ひどくやつれ蒼白した少女が、自分を静かに見つめていた。

 自分が目を覚ましたからか、僅かだが精気の戻ったその壊れそうな小さき顔に、重い腕を伸ばし頬にそっと触れる。

 少女は、ゆっくりと、触れられた手を両手で弱弱しく包み込んだ。

 

「うっ、うっ……にぃに……うっ、にぃにが……」


 小さな体が震えていた。

 

「――にぃに……それは俺のことか・・・・・・・・?」 

 

 少女がビクッと大きく体を揺らす。

 

「え…………?」

 

 自分の記憶の中に、彼女の顔はなかった。

 いや何もなかった・・・・・・

 

「え……わたし、だよ?」

 

 竜也は、目の間で絶望に染まっていく少女に、応えることは出来なかった。

 

 自分が何者か分からない。

 何も憶えていない。

 

 だけど、少女にどこか、懐かしさだけは感じていた。

 

「にぃにの、妹だよ……」

 

 ……だからかな。

 少女が絞り出したその言葉は、すんなりと心の中へと浸透した。


  ♢

 

 あのとき竜也が倒れていた場所は、今でも彼らが住む家の玄関付近だった。

 

 その2ヶ月後、竜也は落ち着きを取り戻した妃夏から、様々な知識について丁寧に教えられた。 

 自分たちの両親は既に他界していること。

 自分が15歳であるということ。

 この星や国、家周辺の地域。

 その他諸々。


 だがそこに、竜也自身の過去は含まれていなかった。

 そして、妃夏もまた、あまり自分のことを語らない。


  ♢

 

 それから一年ほど経ち、竜也がこの生活に慣れてきた頃から、ある夢を見るようになる。

 今では毎日のように見るその夢も、この時は2、3か月に一度といった程度だった。

 

 しかし、普段と違い、妙に感情の残るその夢について、竜也は、

  

「ねぇ妃夏、ここ最近、不思議な夢を見るよ」

「え? なになに? どんなの?」

「ん~、内容はあんま覚えてないんだけどね……。

 あれが、昔の記憶だったりして」


  ♢

 

 その直後に聞こえた「もう今はいいの!」という叫び声と、何かに怯え興奮した妃夏の変わり様は、今も竜也の記憶に深く刻まれていた。

 ……もう、あの時の顔を、我が愛する半身にはさせられまいよ。

 沈黙する竜也に妃夏がたまらず問う。

 

「妙な? なになに?」

 

 その問いに竜也は、ククク、と不気味に笑い、

 

「妙なる我が力に震えるがよい!

(特に意味なし)」

「もう、早く降りてきてよね、おいしい朝ごはんがにぃにを待ってるんだから」


 はにかんだ笑顔を竜也に向ける。


「あ、ああ、ふっ、では冥界にて待つがよい」

 

 竜也は、扉が閉まったのを確認し、ベットから降りる。

 ……ああ、そういえばあれやらんとな。一日が始まらんよ。

 

 それは、自分が何者なのか、そんなことはどうでもいいと否定してくれる行為。

 それは、自分の心を軽くし、同時に勇気すら与えてくれる病から派生した行為。

 

 体をくねらせ、仰々しく左手を振りかざし、右手で顔を覆う。

 そして、昔から変わらない自分の設定を、高らかに言う。

 

「我が名はレイヴィス・ディ・ノアフィレン、四肢に最強の力を封印せし呪われた半吸血鬼ダンピールである!」

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