第六章

硝煙

 イリカさんは確かに引鉄を引いてた。でも、弾は出なかった。

 涙と鼻水で顔がグシャグシャになってるイリカさんは、一瞬だけ目を見開いたけど、そのあとは無表情。顳顬に向けてた銃を降ろして、というかそのまま銃を地面に落として、横で光ってる沢山のモニターを見てる。モニターの中では、血だらけの犯人がフラフラしながら立ち上がって、左手で右腕を押さえながらバルコニーの淵に向かって走ってる。いや、犯人の身振りは必死だけど、歩くスピードくらいしか出てない。バルコニーの出入口から沢山の人間が一斉に入ってきて、犯人をあっという間に捕まえた。

 その瞬間、たぶん、いや、絶対、イリカさんは笑った。

 今まで見たことない、誰かをバカにするような無邪気な笑顔。

 大好きな誰かを見守るような笑顔。

 イリカさんが、イリカさん自身のためだけに作った笑顔。

 「鈍くなったね」

 イリカさんの口が動いて、空気みたいな声が聞こえた。

 笑ったあとのイリカさんは、涙と鼻水を袖で拭うと、すぐに無表情になって、ずっと無言だった。普通の足取りで部屋のドアの前まで行ったイリカさんは、ドアの鍵を開けて、部屋のドアを開いた。きっと、ドア前の通路奥には警察の人間が沢山いたと思う。両手を上げろとか、床にうつ伏せに寝ろとか、男の怒鳴り声が聞こえて、イリカさんが素直に従うと、沢山の人間が一斉に走ってくる音。あっという間にイリカさんはいなくなってしまった。代わりに、沢山の警察官が部屋に入ってきた。

 それからのことは、あんまり覚えてない。記憶に残ってるのは、部屋に嫌なニオイが立ち込めてたこと。それまで僕の感覚がマヒしてたのを自覚すると同時に、なんだか、イリカさんの負の感情の残り香のように思えた。イリカさんを縛り付けてた負の感情は、全部外に出たと思う。じゃなきゃ、あんな笑顔、作れなかったと思うから。


 イリカさんたちがテロ事件を起こしたあと、僕は少し長い休暇をもらった。

 別に、僕が精神的な病気になったわけじゃなくて、あの日、センターで監禁された十八人全員が特別休暇をもらった。まあ、メグが死んだと思ってたときの僕は、たぶん病気だったと思うけど……。

 休暇中に、そのメグと会った。メグの実家近く、つまり僕の実家近くでもあるんだけど、そこにある大きな病院にメグは入院してた。そのことを柳外さんにこっそり教えてもらった。まだ絶対安静のメグだったけど、意識ははっきりしてるし、ちゃんと喋れる。僕は泣いてしまったけど、メグは笑ってた。どうやら、メグのお母さんも来てくれたみたいで、そのことが嬉しかったみたい。その嬉しい気持ちを抑えて、僕と会話してる感じがした。ほんと、素直じゃないな、メグは。


 テロ事件関係のニュースは、できれば見たくなかったけど、日本の王政制度を根本から変えなくちゃいけない時期なんだから、無視できない。

 テレビでも、ネットニュースでも、日々新しい情報が洪水みたいに溢れてくる。きっと、イリカさんたちの目論見通りになったんだろう。

 キヨナさんに撃たれた国王は、急所を外されてて、重傷だけど生きてた。たぶん、このまま王政制度は廃止になるだろうけど、国王の生活はどうなるんだろう。誰が考えても、悪い未来しか想像できない気がする。

 もしかしてキヨナさんは、そうなるように、国王を苦しめるために、わざと急所を外したんだろうか。

 イリカさんとキヨナさんは、ずっと警察で取り調べを受けてるみたいだけど、二人の供述内容は全く報道されてない。警察が供述内容をマスコミに知らせてないのか、それとも、マスコミが意図的に報道を控えてるのか。王都放送の同期に聞けば教えてくれるんだろうけど、たぶん今は物凄く忙しくて、休暇をもらってる僕が興味本位で訊くことじゃないから、何も訊いてない。


 イリカさんたちがテロを起こしたことで、少子対策法と難民救済法の運用は停止された。近いうちに法律そのものが廃止されるでしょうって、コメンテーターの誰かが言ってたっけ。

 テロの時に用意された告発サイトは、もう閉鎖されちゃってるけど、告発サイトの内容をコピーしたサイトが無数に存在してる。もちろん動画も。警察は何も発表してないけど、イリカさんが少子対策法で被害に遭ってたのは、たぶん事実。でも、イリカさんは僕に何も話してくれなかった。


 ダレモタスケテクレナイ


 涙が出る。


 僕も、イリカさんを助けられない『誰か』の一人だった。


 あの日。

 サアラちゃんとわん太郎に会ったあの日に、イリカさんは僕に何を伝えようとしたんだろう。

 知れば後悔するかな。

 知らない方が後悔するかも。


 イリカさんは後悔してますか?

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