分解(2)

 大きな窓ガラスが割られ、人が入れるくらいの穴が空いている。

 割られた窓ガラスの大きさがが目立たないくらい広い部屋には、何が描かれているのか分からない絵や、異様にキラキラ光る壺など、たくさんの高価そうな物がこれ見よがしに置かれている。悪趣味だが、きっとパーティーを開く部屋だろう。

 被害者の寝室は、この部屋から一番遠い部屋だ。偶然ではないだろう。犯人は、寝ている被害者を起こさないように、この部屋の窓ガラスを割って侵入したのだ。

 「一番の問題は、なんで防犯システムが働かなかったか、ですよね」

 隣にいる後輩が、割られた窓を見ながら言った。

 「そうだな」

 窓からは庭園が見える。庭園の中央には噴水があり、噴水を囲むように、手入れの行き届いた木や花や草が植えられている。初夏の植物の緑色が、とても眩しい。その華やか庭園は、夜になれば、無数の赤外線を蜘蛛の巣のように張り巡らせ、侵入者を絡め取るはずだった。

 庭園の赤外線に触れると、警備会社への通報と共に、暗視カメラが作動する。窓ガラスには振動センサーが設置されていて、作動すると、赤外線と同じことになる。先ほど確認したが、防犯システムに異常はなかった。しかし、事件が起きた昨夜、防犯システムは一切作動しなかった。

 「この家に頻繁に出入りする人物、この家を建てた会社、この家の警備会社を調べないとな」

 私が言うと、後輩が「そうですね」と頷く。

 割られた窓ガラスの周辺では、鑑識課の人間が証拠品や指紋を採取している。まだ時間が掛かりそうだ。

 「ちょっと寝室行ってくる」

 後輩に声をかけ、被害者の寝室へ向かう。

 被害者は五十三歳の家主。結婚しているが、妻子とは別居しており、この豪邸に一人で暮らしていたようだ。

 事件当日、昼間は使用人がいたが、夜は被害者一人だった。翌朝、いつものように使用人が出勤してインターホンを押すと、応答が無かった。不審に思った使用人は、すぐに警備会社に連絡し、鍵を開けて家に入ると、寝室で被害者が死んでいた。

 先ほどまであった遺体は既に移送され、ベッドのシーツに赤黒い染みが残っている。

寝室でも、鑑識課の人間が証拠品を採取している。

 遺体の様子を思い出す。

 ベッドの上で仰向けになって死んでいた被害者。外傷は、左胸への刺傷が一ヶ所のみ。衣服の乱れはほとんど無かった。

 寝室を見渡す。

 寝室のドアの鍵が破壊されている。銃を使ったようだ。

 寝室に荒らされた様子は無いが、机付近にインターネット回線のモデムがあるにも関わらず、PCは見当たらない。

 寝室の壁には隠し扉があり、その中に大きな金庫がある。金庫には何も入っていない。

 ここまでの状況から、犯行の様子を想像する。

 犯人は、何らかの方法で防犯システムを作動させずに邸内へ侵入。寝室の鍵を銃器で破壊し、寝ていた被害者を脅して金庫を開けさせる。金品を強奪したのち、一刺しで被害者を殺害し、逃走。そんなところか。

 分からないことは沢山あるが、特に気になることが一つある。

 気にしなければならない、と脳が震えている。

 被害者の足の裏が汚れていた。

 邸内はとても綺麗で、足裏が汚れるような場所はない。金庫の部屋も、それほど汚れていない。

 どこを歩いた?

 被害者が歩いた。つまり、犯人が歩かせた。

 どこを?

 先走る自分の手綱を引く。

 明日には、鑑識課の作業も終わる。被害者がどこを歩いたのか分かるかもしれない。それまで聞き込みに専念しよう。まずは周辺の住人たちだ。

 脳にしがみついてくる足裏の映像を振り払うため、咳払いをして寝室を出た。


 「牢屋?」

 電話で話している鑑識課の人間が、全く想像していなかった言葉を使ったので、つい聞き返してしまった。

 「そうです」

 「人を閉じ込めておく、あの牢屋ですか?」

 「はい」

 事件から二日後、気になっていた被害者の足裏の汚れについて、鑑識課に問い合わせた。

 被害者はどこを歩いたのか、と尋ねたら、牢屋だ、と言われた。聞き間違えたのかと思ったが、どうやら牢屋で合っているらしい。

 「あの家に牢屋なんてあったんですか?」

 「地下にあるらしいんです、隠し部屋が」

 「らしい、ですか?」

 「はい、私達も写真でしか見てないんですけど」

 「鑑識課が見つけたんじゃないんですか?」

 「えーとですね……私達は被害者の足跡を辿って、隠し部屋の入口までは突き止めたんですけど、その入口、かなり複雑な電子錠でロックされてまして、開けられなかったんです。じゃあ、入口を壊して中に入ろう、ってなったんですけど、核シェルター並みの頑丈さだったんで、そこからは軍の特殊部隊に任せたんです」

 軍が出てきたのか……ちょっと異常だな。

 「そちらに行って、その写真見せてもらってもいいですか?」

 「はい、大丈夫ですよ」

 電話を切ってから、あの感覚に気付いた。気にしなければならない、と脳が震えながら警告してくる、あの感覚。

 この仕事に就いてから時々感じるようになった。具体的に何を警告しているのか全く分からない。危ない目に遭ったこともない。

 仲間に話したこともあるが、虫の知らせってやつだろ、と言われるだけだった。しかし、そういったものではないのだ。数学のテストを解いているときの感覚に近い。確固たる答えがあって、その答えに近づくために脳が震えている気がする。

 鑑識課の部屋に入り、先ほどの電話の相手を見つけ、話しかけた。

 「すいません、お忙しいところ」

 「あ、いえ」

 デスクでパソコン作業をしていた相手は、こちらを一度見て、再びディスプレイを見る。マウスを操作して画面全体に画像を表示させた。

 「これです」

 そう言うと相手は立ち上がり、私に椅子を勧めた。

 「ありがとうございます」

 椅子に座り、ディスプレイに表示された画像を見た。見ているだけで体が冷えてきそうなコンクリートの床と壁、気味が悪くなるほど黒光りする鉄格子が映っている。どう見ても牢屋だ。

 マウスを操作して、他の写真をざっと見ていく。何百枚もあるので、じっくりとは見ていられない。

 「この写真、軍が撮ったんですか?」

 「そうです」

 牢屋の中にはトイレのようなものがあるだけで、他には何もない。使用感も全く無い。

 「この牢屋、使用されてたんですか?」

 「いえ、使われてなかったみたいです」

 「この部屋から被害者の足跡が?」

 「はい。あと、犯人の靴跡も」

 「あ、そうだ、犯人の靴のサイズっていくつだったんですか?」

 「えっと、かなり小さくて、二十三センチくらいです」

 二十三か……犯人が小細工している可能性もあるが、なんとも言えないな。

 ディスプレイを見つめながら考えていると、再び脳が震えるように警告し始める。つい言葉が漏れる。

 「犯人、なんでこの部屋に来たんでしょうね」

 答えを求めたわけではなかったが、相手は腕を組み、短く唸る。

 「犯行前に、この部屋の情報があったんですかね。それで、きっと金目の物があるだろうと思って、被害者に案内させた、とか」

 それも考えた。しかし、核シェルター並みの部屋の中に牢屋がある不自然さが、頭から離れない。相手も同じことを考えているのか、ずっと眉を顰めている。

 「分かりました。お忙しい中、ありがとうございました」

 礼を言いながら立ち上がり、軽く頭を下げた。

 「いえ。報告書は、明後日くらいには出せると思います」

 「よろしくお願いします」

 鑑識課の部屋を出るときも、脳はずっと震えていた。同じような事件が続かないことを祈った。

 もしかしたら、脳も何を言えばいいのか分からないから、震えながら祈っているだけなのかもしれない。


 三週間後に二件めの事件が発生した。

 現場からは一件めと同じ靴跡が見つかった。その他にも、防犯システムが働かなかったこと、外傷の特徴など、重なる点が多いため、連続強盗殺人事件として捜査をすることになった。

 「あー、男の子がおったわ」

 二件めの犯行現場から五百メートルほど離れた一軒家。今にも崩れそうな木造平屋建ての玄関前で、老婆がふごふごと口を動かす。

 「男の子、ですか?」

 早朝から現場周辺で聞き込みをしていたが、気付くと太陽は沈みかけていた。強烈なオレンジ色の光に照らされ、老婆の顔の皺が地層のような陰影を刻む。地震が発生したら、後ろの平屋建てもろとも地球へ還る、そんな決意の表れかもしれない。

 「そう。髪が短くて茶っこくてな。今どきの男の子」

 男の子……。

 犯人の靴跡のサイズが目の前をちらつく。

 「周り真っ暗じゃなかったですか?」

 「わしゃ年だでな、散歩のときは絶対懐中電灯を持ってくんじゃ。それで誰かいたもんでな、ビカーッと照らした。ほいだら髪が短くて茶っこくてな。今どきの男の子じゃ」

 「どんな服装でした?」

 「んー……どうじゃったかの……黒っぽかった気がするが、覚えとらん」

 「そうですか……どうですかね、身長は、僕の、この胸の高さくらいはありました?」

 「そうそう、そのくらいじゃ」

 百五十センチくらいか。

 「そのあと、男の子どうしました?」

 「森ん中入ってったわ」

 「急いでた感じとか?」

 「いや、こっちをちょっと見て普通に歩いてったわ」

 そのあともいくつか質問したが、有用な情報は無かった。危うく、老婆の今日の夕食を一緒に考えることになりそうだったので、強引に会話を切り、話し足りなそうな顔をしている老婆と別れた。こういう時、こちらも寂しくなってしまう。仕事なのでどうしようも無い。

 夏が始まり、夕方になっても生温い空気が体に纏わり付いてくる。汗で束ねられた髪が額に張り付くのが気になっていたが、老婆の情報がその感覚を吹き飛ばした。涼しい風が無くても、暑さは吹き飛ぶものだ。

 課長へ連絡するため、携帯電話を取り出す。もしかしたら、老婆の情報で事件を解決できるかもしれない。携帯電話を握る手は、久しぶりに喜んでいた。


 老婆の目撃証言以降、ほとんど進展が無いまま、三件めの事件が起きてしまった。

 捜査に関わる百人以上の人間が警視庁の会議室に集められ、これからの捜査方針を確認することになった。

 捜査会議が始まる直前、初めて見る顔の男が本部長に挨拶し、そのまま本部長の隣に着席した。本部長よりもかなり若そうだが、二人の立ち振る舞いを見ると、階級は同じくらいかもしれない。

 会議が始まり、まずは事件の経緯を振り返った。一人の捜査員が前に出て、パソコンとプロジェクターを使いながら事件の説明をする。被害者について、犯行現場について、証拠品について、老婆の証言について。分かりやすくまとまっていたが、その分、捜査が進展していないこともはっきり分かった。

 三十分ほどの説明に続いて、最新の捜査状況を各担当者が報告した。老婆の証言に基づいて、犯人が歩いたと思われる森の中を捜索したが、有用な痕跡は発見できなかった――報告は三十分もかからなかったが、その報告を作るために、膨大な労力がつぎ込まれている。

 「それでは続いて、これからの捜査方針についてですが……」

 進行役の課長が言った。課長は少し間を置いて、そのまま言葉を続ける。

 「……今日は国王直轄特別部隊のヨコウラさんがお越し下さっています。詳しい説明はヨコウラさんにして頂きますが、今後の捜査は国王直轄特別部隊の指揮下で行われます」

 会議室がざわめく。

 課長は、本部長の隣に座っている若い男に向かって軽く礼をして、お願いします、と口を動かした。

 私の隣に座っていた後輩が、少しだけ体を寄せてささやく。

 「コクチョク、初めて見ます」

 私もそうだった。恐らく、この会議室にいるほとんどの人間がそうだろう。コクチョク――国王直轄特別部隊という部署の存在は誰でも知っている。しかし、その業務や人員構成は誰も知らない。名称から、国王がトップで、国王の護衛をしているのかもしれないな、と想像できるだけだ。

 「只今ご紹介頂きましたヨコウラです。よろしくお願いします」

 ヨコウラの声が卓上マイクに拾われ、会議室に響いた。

 抑揚のない、しかし、明瞭な発音。まるで、

 「先ほどの言葉通り、これからは国王直轄特別部隊が捜査を指揮します」

 ロボットみたいだ。

 「一連の事件が社会に与えている影響は甚大です。可能な限り早急に解決しなければならないと国王は判断され、国直が捜査を指揮することが決まりました。長くても、国王の生誕祭までには解決する予定です。なお、国直が捜査に関わることは機密事項です。今ここにいる人以外には口外しないでください」

 国直が捜査を指揮する事例は今まで聞いたことがなかったが、なるほど、機密事項なのか。

 「捜査に参加するに当たって、国直では、二週間ほど独自に調査しました。皆さんの捜査資料も全て拝見しています。調査の結果、有益な情報を一つ得ることができました」

 会議室のざわめきは既に消え、全員がヨコウラの言葉に集中している。

 ヨコウラは口以外の部分を動かさずに話し続ける。

 「今回の事件は、三件全て、防犯システムが作動していません。そこで、警備会社のシステムを調査しました。その結果、防犯システムに脆弱性があることが判明しました。防犯システムは、外部からのハッキングにより、一時的に解除されてしまう危険性があります」

 会議室にいる人間が一斉にメモを取り始める。

 百人以上の筆音とヨコウラの声が会議室に響く。

 「恐らく犯人は、その脆弱な部分を利用していると考えられます。強盗する人間とハッキングする人間、二人以上が犯行に関わっている可能性が高いです」

 ヨコウラの眼球が僅かに動く。

 一瞬で会議室にいる人間全員の動きをスキャンしたようだ。

 「次の事件が起きるとすれば、過去三件と同じ警備会社を利用している富裕層の家が狙われるはずです。プロファイリングによって、次に狙われる確率の高い家を三軒に絞りました。これ以上被害を増やさないために、今後は、その三軒を二十四時間監視する態勢とします」

 ヨコウラは『被害を増やさないため』と言ったが、つまり、その三軒を囮にするということだろう。恐らく、防犯システムの脆弱性はそのまま残すはずだ。犯人を呼び込むために。成功すれば確かに被害は増えないが、失敗すれば取り返しはつかない。

 「では、三軒の監視を担当する人員をプロジェクターで映しますので、確認をお願いします」

 ヨコウラが言うと、スクリーン付近の明かりが消された。スクリーンには、監視を担当する人間の名前が並んでいる。どうやら三チームに分かれ、一チーム三十人ほどで一軒を監視するようだ。三交代制のようだが、それにしても規模が大きい。監視する敷地が広大なのか。

 「リュウガイさん、どのチームですか? 名前あります?」

 後輩が訊いてきた。

 訊かれる前から自分の名前を探しているが、どこにも見当たらない。

 「無いな。休んでいいってことだろ」

 「ちょっと、うらやまし過ぎます」

 後輩が笑う。

 「殺人犯捜査第三係のリュウガイ警部補、いますか?」

 突然名前を呼ばれ、一瞬固まる。

 ロボットのような声を思い出し、ヨコウラに呼ばれたと気付く。ヨコウラの姿勢は全く変わっていない。座っているロボットのパントマイムをしているのなら、完璧だ。

 「はい、ここです」

 立ち上がりながら答えた。

 「リュウガイ警部補には狙撃チームに参加してもらいます。監視チームとは別の説明をしなければなりませんので、会議終了後、私のところへ来て下さい」

 「分かりました」

 座りながら、無意識にライフルの感触を思い出す。

 ライフルを構えるまでの異物感。

 ライフルを構えたときの一体感。

 スコープを覗いたときの既視感。

 トリガーを引いたときの虚脱感。

 ターゲットを貫くときの安堵感。

 ターゲットが死んでいく嫌悪感。

 「やっぱ金メダリストは違いますね」

 後輩が笑顔で話しかけてきた。ヨコウラは既に監視作業の説明に入っている。

 「金メダル手当とか付くかな」

 「報奨金もらってるじゃないですか」

 ヨコウラの説明をメモしながら、後輩が言った。

 当然、手当なんて付かない。たとえ手当が付いたとしても、人間を射殺したあとの不快感は抑えられない。

 競技としての狙撃も、犯人を射殺する狙撃も、同じ仕事だ。

 より良い社会のため、誠実に行動するだけ。

 ただ、できれば殺したくない、という想いの分、少しだけトリガーが重くなる。


 生活感の無い部屋の中、ひたすら待つだけの仕事。

 明かりを点けてはいけないから、部屋は暗闇。

 ワンセグでテレビを見ても問題無いが、深夜番組は性に合わない。携帯電話でラジオを聞きながら、ペンライトを使って本を読んでいる。

 ラジオを聞きながら本を読んでいると、受験生だった頃を思い出す。友人に『ラジオを聞きながらよく勉強できるな』と言われたことがあるが、むしろ、ラジオを聞いている方が効率が上がる。無音だと、勉強以外のことが頭を過り易くなる。人間の集中力は数十分程度しか保たないと聞いたことがある。集中力の切れた頭を騙し騙し勉強させる方法がラジオなのだと勝手に信じている。

 この一週間、夜九時から朝五時まで、マンションの十二階にあるこの部屋で過ごしている。犯人を狙撃するためだ。

 狙撃チームは、二十四時間を三人の狙撃手で回しているので、一人八時間交代。交代するときに他の二人と少しだけ話をしたが、二人とも国直ではなく、軍に在籍しているらしい。

 事件が起きる確率が高い深夜を私が任されているということは、国直に評価されているということだろうか。プロファイリングでは、今監視している家に犯人が来る可能性が一番高いらしい。

 犯人は防犯システムをハッキングしてから現れる。ハッキング行為が確認された段階で、監視チームと狙撃チームに連絡がくる段取りになっているので、八時間神経を張り詰める必要はない。意外と気楽に待機できる。

 犯人が通ると思われる場所は、無数の赤外線ライトで照らされている。肉眼では暗闇しか見えないが、赤外線スコープを使えば、人の姿をはっきりと捉えられる。

 カーテンが閉められた窓の前には台があり、その上にライフルがセットされている。通常のライフルとは異なり、様々なスイッチやセンサー、計器が取り付けられている。それらの機器のアシストにより、狙撃の成功率が格段に高まる。スコープに映るものは自動的に録画されるため、狙撃時の様子は全て記録として残る。銃身が窓の外を向いているので、私の代わりに外を見張ってくれているようだ。

 持っていた本を閉じる。この部屋に来てから八冊の本を読み終えた。一日一冊以上のペースだ。さすがに飽きてきたが、他にすることも思いつかない。

 フローリングの床に置いてある飲みかけの缶コーヒーを一気に飲み干し、携帯電話の画面で時間を確認する。二時十三分。さっき時計を見てから、まだ三十分しか経っていない。休みの日も、このくらい時間の経過が遅くなればいいのに、と思う。

 突然、持っている携帯電話に着信。メールだ。

 着信音に驚いた自分を笑いたくなったが、メールの送信元が画面に表示されていたので、そんな余裕は消し飛んでいた。

 ラジオを消し、即座にメールを確認。件名も本文も“A”の一文字のみ。

 防犯システムがハッキングされている。

 窓際にあるライフルに駆け寄り、ライフルの横に置かれていたヘッドセットを装着。電源を入れる。

 「こちらT4、応答願います」

 マイクに喋りかけながら、ライフルを用意する。

 「こちらT4、応答願います」

 「こちらT2、異常無し」

 ヘッドフォンから声。

 「T1、同じく異常無し」

 「T3、人影を発見。南西の塀の前、誰か歩いてます」

 カーテンを開け、窓を開ける。ひんやりとした風が顔に当たる。外には街灯や窓の明かりが疎らに灯っているが、月明かりは無い。肉眼では、監視している家を見ることはできない。

 ライフルには既に弾が装填されている。赤外線スコープを覗きながら、ライフルを構える。

 ヘッドフォンから声が聞こえてくる。

 「背は大きくない……細身で、短髪。服は、長袖のTシャツに、ジーンズ、かな。腰に何かぶら下げてる。銃とか刃物かも」

 南西の塀……の前……。

 いた。

 「T4、人影を確認」

 赤外線スコープ越しなので、見ている物は白と黒の二色のみで表される。スコープの中で動く白い人影は少年のように見える。少年は塀に向かって歩いていく。塀まであと十メートルほど。

 突然、少年が走り出す。二メートルほどある塀に飛び付くと、そのまま滑らかに飛び越えた。

 「あ! 塀、飛び越えました! 侵入しました!」

 ヘッドフォンの声が慌てている。

 塀を乗り越えた少年は、落ち着いた様子で敷地内を歩いていく。これで、不法侵入した少年を現行犯逮捕できる。一連の事件との関連性は、その後に調べればいい。

 「T2、確保する」

 「T1も向かいます」

 「こちらT4。T3も向かえ。犯人は俺が見てる」

 「T3、了解です」

 監視チームは全員、南門の鍵を持っている。あと二、三分で、どこかのチームが犯人の所へ到着するだろう。ヘッドフォンからは風切り音が聞こえている。

 やはり、というべきか、狙撃チームなんて必要なかったのではないかと思う。あとは犯人を逮捕して終わり。ライフルの出番は無い。

 スコープの中の犯人が南門の方角を向いた。

 門が開く音に気付いたのか。耳がいいな。

 「こちらT4、犯人が南門の方を見ています。注意してください」

 犯人は立ち止まり、南門の方角をじっと見ている。今の犯人の場所からは母屋が邪魔で南門は見えない。無視してくれることを祈ったが、犯人は南門の方へ向かって歩き始めてしまった。

 「犯人が南門に向かって歩き始めました。あと五十メートル……一分ほどで見えます」

 ライフルの安全装置を解除。

 撃つ気は無いが、手が勝手に動いていた。

 仲間はどう動くだろう? 一旦隠れるだろうか。それとも、一気に確保しようとするだろうか。確保するなら、どのタイミングで飛び出すだろうか。

 様々な状況を思い浮かべ、狙撃する場面を頭の中でシミュレーションした。しかし、やはりライフルの出番は無いように思える。

 突然、身構える犯人。

 ほんの少し遅れて、スコープの画面端に捜査員が入ってきた。三人の捜査員が犯人に駆け寄っていく。一人の捜査員が犯人を正面で牽制しているうちに、他の二人は犯人の横と後ろに回り込む。犯人の後ろに回り込んだ捜査員が飛びかかる。犯人は後ろを振り返らずに、素早い動きで捜査員を避けながら、左膝で捜査員の顔を蹴った。捜査員が地面に倒れる。動かない。その様子を見ていた別の二人は、少し後退して、懐から拳銃を取り出し、犯人へ向けた。動くな、と警告もしている。

 数秒の静止。

 身構えていた犯人が、ゆっくりと両手を上げていく。

 次の瞬間、犯人は姿勢を低くしながら、物凄いスピードで、正面にいる捜査員の足元まで一気に詰め寄る。微かな光、同時にヘッドフォンから発砲音、ほんの少し遅れて銃声。捜査員が一発撃ったようだが、全く間に合っていない。足元に詰め寄られた捜査員が、ぐったりと犯人に覆い被さる。犯人は動きを止めずに、残る一人の捜査員に向けて素早く両腕を上げる。光、発砲音、銃声。捜査員が自分の手を押さえた。犯人が発砲したようだ。残る捜査員の前へ飛び込む犯人。そのまま流れるような上段蹴り。顔を蹴られた捜査員が膝から崩れ落ちた。

 既に指はライフルのトリガーに掛かっていた。

 捜査員を全員倒した犯人は、直立して辺りを見回している。

 犯人の脚にズームし、トリガーを引く。

 火薬の炸裂音。

 何故か、犯人と目が合った気がした。

 大きな瞳、真っ黒な瞳孔に、周囲の光が全て吸い込まれる。

 犯人の右足が上がる。その足元で、地面が弾け飛ぶ。

 直後、スコープから犯人の姿が消えた。

 スコープをズームアウトしている間に、ガラスの割れる音が微かに聞こえた。母屋の窓ガラスを見ると、一枚割れている。

 即刻ライフルから離れ、携帯電話を取りながら部屋を飛び出し、エレベーターの前まで走り、壁のボタンを押す。エレベーターは一階から昇ってくる。足が階段を使いたがる。落ち着け、エレベーターの方が早いに決まってるだろ、と自分の太ももを叩き、捜査本部へ電話をかける。携帯電話を耳に当てようとして、ヘッドセットをしたままであることに気付いた。

 コール音無しで相手が電話に出る。

 「状況は?」

 「悪いです。犯人は邸内に侵入。監視チームが確保に向かいましたが、全員やられました。狙撃も失敗しました。今、現場へ向かってます」

 可能な限りの早口で、一気に報告した。

 「こっちも応援を向かわせたが、たぶん、十分以上はかかる。犯人は一人なのか?」

 「はい、少年のようです」

 「……そうか、分かった。無茶はするな」

 「はい。あ、あと救急車を――」

 「分かってる」

 「すいません、お願いします」

 電話を切ると同時にエレベーターの扉が開く。乗り込み、一階のボタンと閉じるボタンを同時に押した。閉じていく扉を見ながら、先程の光景を思い返す。

 屈強な男が数分でやられてしまった。三人も。油断などしていなかったはず。相手がそれだけ強いということだ。怪我は大丈夫だろうか。酷い状態でなければいいが……。

 そのあとの狙撃。完璧な弾道だった。外れたのは偶然、犯人が足を上げただけ。避けられるはずがない。犯人と目が合うなんてこともない。落ち着こう。

 犯人が侵入した家の見取り図を思い出す。まずは家主の寝室へ行かなければ。

 エレベーターを出ると、全身の筋肉を総動員させて走った。

 息を切らせながら、南門を通る。敷地内の庭は、近くの街灯で微かに照らされている。

 地面に倒れている三人に駆け寄った。三人とも目立った外傷は無く、気絶しているだけのようだ。近くに捜査員の拳銃が落ちている。犯人が撃ち飛ばしたのか。

 ホルダーから拳銃を引き抜き、割れた窓ガラスから邸内に入る。ペンライトをつけ、足音に気を付けながら、最短距離で家主の寝室へ向かった。

 寝室から光が漏れている。部屋の明かりがつき、扉が開いているようだ。

 ペンライトを仕舞い、拳銃を両手で握る。背中を壁に付けながら、寝室の入り口ぎりぎりまで近付く。

 拳銃を構えながら一気に寝室へ踏み込む。

 視線を正面、左――

 ベッドの上に家主が倒れているが、すぐに視線を移動。

 右――

 少年が突っ立っている。

 反射的に発砲。同時に、少年は右肩を仰け反らせながら、左腕を動かす。

 少年の後ろの壁が弾ける。拳銃が叩き飛ばされる。

 少年の左手には火搔き棒。返す刀が顔へ向かってくる。

 背中を仰け反らせて回避。そのまま後ろへ跳ねる。少年は火搔き棒を両手で握り直す。

 素早く振り下ろされた火搔き棒を左へ避け、そのまま壁際まで走った。

 壁に飾られていた剣を取り、振り向きながら、追撃してきた火搔き棒を薙ぎ払う。

 相手の姿勢が崩れる。反撃。

 剣を一気に振り下ろす。犯人はバックステップで回避。さらに剣で突く。

 犯人は最小の動きで突きを避けながら、左手の火搔き棒を顔めがけて振ってきた。

 左利きか。

 状況に似合わない言葉が思い浮かぶ。どうやら脳の一部は、避けられないと判断したようだ。しかし、体は反射的に火搔き棒を避けていた。そのまま床に倒れる。

 体を起こそうとしたが、思うように動けない。足を投げ出したまま上半身を起こし、腕で体を支えながら犯人を見上げる。

 「はあっ、はあっ、はあっ」

 自分の呼吸音に気付く。犯人の息は全く乱れていない。全く相手になっていない。

 脳が白旗を降る。すると、妙な余裕が生まれた。様々なことに意識が向く。

 犯人の茶色い髪は、ヘアスプレーのようなもので固められているようだ。服は上下とも黒。手袋をしている。手術用の手袋のように見える。犯人の後ろにはベッド。家主は倒れたまま動かない。

 犯人と目が合う。子供のような目、鼻、口、顔。かわいいな、と思ってしまった。この子が三人も殺しているのか?

 「突きは、やめたほうがいいよ」

 少年の口が動いた。声変わり前の高い声。挨拶をするような、世間話をするような、自然な発音。憎しみ、興奮、怒り、嘲りのような感情は微塵も感じない。ただ、私にアドバイスをしただけだ。こんな奴に勝てるはずが無い。本能がそう言った。

 「狙撃したのお兄さん? 凄かった。胴体狙われてたら避けれなかった」

 避けたのか。信じられないが、きっと嘘ではないのだろう。

 もしかして、この言葉を言うため、賛辞を贈るため、追い打ちをかけないのか?

 本当にこの子は殺人犯なのか?

 脳が震える。

 「脳が震えるの?」

 少年が言った。

 視線はぶつかったまま。心臓の鼓動が大きくなったが、恐怖は無く、むしろ、声を聞く度に落ち着いていく。

 「なぜ、こんな、こと」

 息を切らせながら出てきた言葉はとても陳腐だった。

 「……優しい人だね」

 少年の声に、ほんの僅か、感情が現れたような気がした。寂しそうな、悲しそうな、狼の遠吠えのような声。

 「僕、少子対策法の養子なんだ。十年前、クリスマスに……」

 そこで言葉を切ると、少年は目を伏せ、火搔き棒を離した。床に落ちた火搔き棒が音を立てて弾む。

 「ごめん、忘れて」

 少年は目を伏せたまま、それ以上は何も言わずに部屋を走り去る。腰のホルダーに収まったナイフと銃がリズミカルに揺れる。その後姿が、太陽をじっと見てしまった時のように網膜に焼き付き、離れなくなった。

 追いかけたいという気持ちとは裏腹に、体の自由はどんどん失われていく。汗も酷い。額の汗を拭うために手を伸ばした。触れた液体の感触に違和感を感じ、手を見る。

 赤黒い。

 そうか、最後のやつ、食らってたのか……。そうだな、うん、もう、突きは、やめよう。

 体から力が抜けていく。上半身を支えていた腕が限界を迎え、再び床に倒れる。

 視界には天井。豪華さだけが取り柄の、品の無いシャンデリアが吊り下がっていた。

 悪趣味だな……

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