馬車馬のおんな ①(荒野篇)

堀川士朗

馬車馬のおんな ①(荒野篇)


 「馬車馬のおんな」

     ①(荒野篇)


 堀川士朗



 ~第一話~


 母が自殺した。



 軽くヒキコだったあたしは否応なしに、現実に引き戻された。人生粉微塵という現実感覚に。


 これで両親ともにいなくなったのだ。あたしに父はいない。父、哲夫と母春子はあたしが小四の時に既に別れていた。哲夫の奴は消息不明。爾来(じらい)母ひとり子ひとり、ふたり態勢の母子家庭でここまで来ていた。それは、とても上手くいっていた。


 旋風(かぜ)狂う十二月。クリスマスイブ。てかあたしはいつも休日だけど今日も喫茶モゾビーに来ている。他に予定はなかった。イブだけど彼氏に会うつもりもなかった。

 モゾビーって鬼暖房効いてるから冬場はアウター脱がないと汗ミドロ・ゴゲミドロ・ドロヘドロになるなあとか隣の席の小鳥の様にささやく三人のOLかわいいなあとか逆に意外にかまびすしい保険の商談行われてるなあとか店に流れているBGMいつも中島みゆきだなあとかいう事は、嗚呼働く日常って遠いよねーとか、いとをかしき事であるなあとばかりを考えていた。


 そこに警察から電話が掛かってきた。


 母の自殺を知らされた。電車に飛び込んでの、自殺。


 心臓がバクバクした。気持ちが悪くてでも頭は冷めていた。違和感。まるで点検で停止中のエスカレーターを昇って何か階段昇ってる時と違うし的な違和感。一分と経ってないのにまたスマホで時計を見たりした。

 落ち着けー落ち着けー声出して笑うんだーいや笑わなくていいんだーこの場合ー桑原桑原ー六根清浄ーロックオン少女ー。

 一本だけ煙草を吸って珈琲飲み干す。「モゾバイ産・気まぐれマスターの更に気まぐれ珈琲」三百五十円の代金を払い、あたしはスマホに連絡のあった警察署にダッシュした。吐く息白し、目指す、新宿。


 何だか通り過ぎる人達がみんなニタニタ嗤(わら)っている様に思えた。

 キューポラのある街、川口から赤羽乗り換えで埼京線に乗り新宿を目指す。キューポラって何か怪獣みたいだよね、あとぎょう虫検査的な響きもまたあるよね。

 やっぱりだよ、電車内の乗客全て嗤ってるよ。迷惑迷惑大迷惑お前の母親電車を停めたと大合唱。


 「新宿警察署の丸岡です。乃木地下子(のぎちかこ)さんですね?」

 「はい、そうだと思います」

 「お母様の乃木春子さんが、残念ながら亡くなられました。自殺でした。新宿駅の山手線ホームから飛び込みました。即死でした。ご遺体は新宿御苑病院に安置されております」

 「そうでつか、すごいでつね」

 あれ、日本語ヤバい。

 今にして思えば、昼間母が出掛ける時に、

 「ひぃんできまああす」

 と言って言葉を濁していたのはあれは、

 「行ってきまああす」

 と言っていたのではなく、

 「死んできまああす」

 と言っていたのじゃなかろうか。

 「それと…実に大変申し訳ないのですが、その、お母様が飛び込んだ影響で山手線中央線のダイヤが大幅に乱れました。その損害賠償請求が近々、JROO東日本から地下子さんに直接行く形になると思います」

 「うじゅぶ。ひふ。み」

 「まことにご愁傷様です。私も病院には同行致しますので」

 「ひふみ。ふぁんぺるし」

 あたしは日本語の構造を完全に忘れていた。ぐんぎょ。げんぎょ。あちょっぷまうまう。


 新宿御苑病院に覆面パトカーで着く。既に受付では話が通っていたらしく即座に地下二階の霊安室に案内された。照明が暗いのは、何となくその理由も分かった。

 シーツに包まれて母という肉塊はあった。

 シーツを取る。母の面影はまるでまるでまるでなかった。数十の塊の肉をつぎはぎにした、何かのオブジェだった。

 「春子さんにお間違えありませんか?」

 と医者が言うので、全然分かんねーよこんな肉と思ったけど、

 「はい。母です。間違いありません」

 と言ってみた。違う言うたら何か怒られそうだったし、こう答えるのが何か筋だと思った。

 病院の狭い喫煙スペースで一服した。丸岡も煙草を吸う。母に何か以前と変わった所はなかったか聞かれた。うーんないけど、唯一変わった事は最近また男が出来たぐらいじゃないですかねとあたしは告げた。その男の名前も顔もあたしは知らない。


 自宅に戻る。自宅といっても賃貸のボロ一戸建て住宅で平屋で狭い。丸岡刑事が母の部屋の様子を調べたいそうだ。他に警官が数人いた。実況検分きたきたー。

 一時間後、特に異常もなく、遺書も残されてなかったので彼らは帰った。警官の一人が黒い手袋、policeと書かれたものを忘れていって間抜けだなと思った。

 あたしは非道く疲れていた。吐きそうだったけど、母が飲んでる芋焼酎「レインボー霧島」をロックでガバガバと何杯も飲った。ヌルッとスルッとレインボー霧島ー。


 一時間後。


 どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。


 この家どうなんだ?今月分しか家賃払ってないから後一週間で出て行かなきゃならないよ。お母さんて貯金いくらあったんだろう?てか葬式は?どうやんだ?葬式って。坊主節約の為にスマホでお経流すシステムにしたろか。ああめんどっつぇー。てかお母さんのガラケーもバラバラになったから葬式に誰と誰呼んでいいか分からないよ。ワカラナイヨ、外人ニナッテミターヨ、HAHAHAHAHAHAーああそうだ何かJROO東日本が損害賠償請求してくるとか言ってやがったな。FUCKかよ、鬼FUCKかよ。いくらすんだよそれ。てかそんなん払えねーだろマジこんな状況じゃあよ。

 この家追い出されたらあたしどうなんだろ。このままじゃあれだ、ホーム、ホーマー、ホームレスになるっっううっ。

 仕方ないが住宅の面は彼氏の恒河沙(ごうがしゃ)ヒロシを全面的に頼るしか、ない。かんなり不本意ではあるが。金がない。つくづくかねがね金がないよ。あたしの全財産、椎名林檎とか東京事変のDVD売ったりしても二万五千円ぐらいしかないよ。二万五千円て何だよ……二十五万ウォンじゃねーかよ何だよふざけてんのかよHAHAHAHAHAHA!ライザッチョー、カミネッショー。


 腹が減った。戦はしないけど腹を満たす為にチキンラーメンを煮込む。ニ袋。ごま油を垂らしかけ、卵をふたつ乗せて鍋ごとかっこむ。う、うます。鶏ガラ効いてる。こんなにも、うますなチキラーを食したのはマロ初めて。満チ足リテヲリマス。多分カラダとココロが憔悴(しょうすい)しきった今だからこそ、沁(し)みるのだ。


 …。

 …!……?

 涙が。出てきた。


 そして起床。闘わねば。それには食わねば。

 朝飯のハムトーストを喰らい、母の遺品を整理する。母はスナックに勤めていたので洋服や化粧品の類が多かった。箱詰めしてメルカリに全部売ろう。あと何だか切なかったが黒い色の張り形バイブレーターが出て来て非常に切なかった。

 そんで本日最大の収穫は乃木春子名義の預金通帳がふたつ見つかった事だ。みずぽん銀行とUSJ銀行、合わせて残高六十三万八千円。やり!アイガリ!金だ金だ。これで葬式をあげられるよー。

 午後イチで葬儀屋に電話して一番安いプランを組んでもらう。見積もりは込み込みぴったりで四十万だった。足が出ない。母は生命保険にも入っていたけど自殺だと下りないそうだ。変なの。自殺保険とか作ればいいのに。


 さっきからやたらと窓の外でカラスがうるさい。追い払おうと窓を開けたら、電柱のガイシの所に一羽だけ真っ赤なカラスが止まっていた。あれ、最近こんなのもいるんだ。


 結局、葬式には母のお姉さん夫婦と、母が勤めていた赤坂のスナック「ぴあ」のママのみどりママさんだけ呼ぶ事にした。生前母はみどりママさんの事すごく良い人だって言ってたし。

 紙媒体の手帳にこの人達の連絡先は記されていて、ああ紙大事よねーそうよねー。


 遺品整理疲れた。マジてかもう飯喰おう。預金から葬儀代引いてこれからの生活費とか考えても今日は寿司にしよう。そういう気分だ。

 デリバリー寿司「華丸大吉」で(-天雅-TENGA-)4800円の馬鹿たけー奴を頼んで届いてレインボー霧島。酔って酔われて前後不覚。てやんでーバーロー畜生。何で?何でなんだよ!どうして自殺なんかしたんだよ!お母さん!若い頃離婚してたり、あたしが学校辞めてヒキコでも、優しく何かうまく行ってたはずじゃんよ!?何が何なんだよぎゃあああああっ!


 ひとくさり泣き叫ぶとあたしは煙草(アメスピ)を切らしてた事に気付いてコンビニに行った。タッチパネルのザル法で未成年のあたしでも買える。入り口の棚にフリーペーパーの求人広告誌が置いてあったのでパラ見する。色んな職種の求人が載っている。これからは寄る辺なき身のあたしだから働かなきゃな。じっくり読む為に広告誌を持ち帰る。



 通夜。

 小さな棺。

 蠟燭の匂い。

 告別式。

 少ない参列者。

 読経。

 焼香すぐ終わる。

 釈尼春琴の戒名。

 驟雨。

 出棺。

 マイクロバス。

 火葬場。

 骨壷。

 何故か、泣けない。



 数日の間に、あたしは家の中の不要品を片っ端から売り飛ばしたり近所の問題ゴミ屋敷のジジイの庭に夜中棄てに行ったりしてあらかたを処分し、この長く住んだ借家に別れを告げた。母が父と離婚した後すぐだからあたしが小四の頃から生活した家。風呂はユニットバスで、床が軋むボロ一戸建てだったけど何だか愛しくて切ない。不意に用意してなかった寂しいという感情が打ち寄せて、最後に一枚だけスマホに写真を納めた。家の影が長い。


 必要最小限の荷物だけ持って、彼氏こと恒河沙(ごうがしゃ)ヒロシの家に厄介になる。もちろんふたつ返事ではなかったが、そこを何とか説き伏せた。セックスで。

 ボロい六畳と四畳半二間の西川口のあばらアパートだけど、雨風しのげる寝床だけは確保出来た。ホームレスにならずに済んだ。母の葬儀にも参列せず、引っ越しも一切手伝わなかった男を頼るしかなかった。

 恒河沙ヒロシは一応作家で、大衆親父が町中華屋で読む系エロゴシップ誌のいくつかに雑文を書いてる今年三十七歳で、勇者ワカハゲで、薄くなりかけた髪を伸ばしポニーテールにしていて往生際が悪い。おまけに文学のなんたら賞が獲れるまで髪とヒゲを伸ばすと決めているので風合いがハリポタのハグリッドのそれだ。

 彼とは二年間に、西川口のカラオケ屋で知り合った。学校がどうにもあれで十七で高校を中退したあたしが独りカラオケの沼にハマっていた頃、彼はそこでバイトしてて、何度目かの来店でlineを交換して何となく、ただ何となく懇(ねんご)ろの関係になったのだ。今も抱かれている。引っ越しが済んだらすぐに求めてきた。応じてやる。あたしは寛容な植物だ。

 二人とも全裸。布団の上。ヒロシの吸っている煙草を横からぶんどって吸う。ヒロシが言った。

 「ノギチカぁ。ノギチカはさぁこれからどうすんの?」

 「え。何が」

 「駄目じゃん考えなきゃ親死んだのに」

 「……あんたはどうすんの?この先。三十七なのに」

 「俺はちゃんと考えてるよ将来像。まず山本周五郎賞獲るよね。次に三島、谷崎獲っていよいよ芥川か直木賞獲るでしょ。安泰。そんで映画化もされて印税生活で余裕だけどね、でも俺はなったらなったで次の」

 「や、なんないから」

 「百パー可能な計画なん」

 「最近小説とか書いてんの?」

 「……バイトを頑張ってるよ」

 「あっそう」

 「あ、あっそうってドイツ語でもアッソウって言うんだよ。意味も同じで」

 「バイト何やってんの今」

 「六本木ヒルズ」

 「ヒルズ?すげーじゃん」

 「卵投げつけられるお仕事」

 「はあっ!?」

 「……ヒルズの空き店舗の一室借り切って床全面にビニールシート貼って、セレブリティ相手に、あ、こっちは何人かいるんだけど。で、全裸でスタンバイして、笛が鳴ったらセレブが一方的に投げられ隊、あ、俺ら投げられ隊。に向かって卵投げてくんの。何個も何十個もバンバン凄い勢いで無慈悲に。で、もちろん超べっとべとになんの。目や口に殻が入んの。すげー痛いの。卵すげー苦いの。やめてって言っても全然やめてくんないの。それをひたすら何時間も耐えて日当一万五千二百円」

 「……じゃあ。じゃあ頑張って」

 「……うん」

 「酒でも飲みますか」

 「キーマカレーがあるよ」

 「やった!」


 二人してキーマカレーを肴に焼酎ソーダ割りをしこたま飲む。ヒロシはあたしに覆い被さってきた。本日二回目ですな。

 「ノギチカぁっ!好きだっ!」


 この瞬間的風景が嬉しい。


 年末の夜が過ぎようとしている。


 スマホが鳴った。入れてない番号だった。コールが止まない。悪い予感がした。

 「夜分遅く大変失礼致します。乃木地下子様の携帯でお間違えないでしょうかー?」

 「はい」

 「私、JROO東日本統轄本部運輸補償担当課長の杉崎と申しますー。いつもお世話になっておりますー」

 「ああ、はい」

 「先日はお母様におかれましては大変ご愁傷様でございましたー。心よりお悔やみ申し上げますー。で、」

 「はい?」

 「本日のお話というのがですねー、先日の件で当方JROO山手線及び中央線が蒙りました損害賠償の件なんですよー。時間帯や年末繁忙期という事も重なりましてー。で、」

 「はい?」

 「ざっと概算値ですが賠償請求額がー」

 「はい?」

 あたしはツバを飲み込んだ。

 「二千三百万円になりますー」

 あたしはサスペリアのダンサーみたく流麗に床にべしゃっとくずおれた。 

 「あのーどうされますかー?一括でお支払い頂けますかー?それともあれかしらー、分割にしちゃった方が楽かも知れないですねー」

 「えええとあのそのうあの、ぶ、ぶんかつで」

 「承りましたー。では後日正式に書面の形にしてそちらに請求書をお送り致しますので宜しくお願い致しますー。本日はJROO東日本統轄本部運輸補償担当課長の杉崎が承りましたー。失礼致しますー」

 「ぐんぎょ。げんぎょ。あちょっぷまうまう」

 「おい、どした?ノギチカ」

 「え……HAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHA!」

 「ノギチカが狂った」

 「はー、あのさああたし大変な事になっちょったっちぇだよ。お母さんが自殺してくれたせいであたしすんご、すんごい借金背負っちょったっちぇだ」

 「え。いくら?」


 ……総額、二千三百万円だ。消費税込みだろうか。何を消費したというのだろうか。


 ……終わりのない借金。終わりのない物語。ネ~バエンディンストォ~リ~はああ~あああ~あああ。二千三百万円て何だよふざけてんのかよ、二億三千万ウォンじゃねーかよ!HAHAHAHAHAHA!パーリナーイ。キーポンムービーン。


 ……消えてしまいたい。

 この運命と因果から、本格的に逐電したい。


 借金残高二千三百万円ナリ。




 ~第二話~


 あたしはこれまで世の中の働く者ども全てを象の目で遠く見つめ、ただ睥睨(へいげい)してきた。卑近な例を申せば、

 「労働?モスバ?ドトール?へっ。怒濤る?」

 って思って全くの他人事だと思っていた。働かなくても母の小遣いで生きていけていた。この生活は一生ずっと続くものだと、ただ頑なに根拠もないのにそう、盤石であるとさえ感じていた。

 それがどうだろう?突き付けられた現実。現在の所持金は十三万ちょっと。十九万も持ってない西川口。


 「ヒロシぃィィ」

 「何?エロい声出して」

 「ピロジぃぃィィ」

 「もっとやって。腋の下見せて」

 「あのさアァンん、うっフゥン。あっハァァん。ヒロシぃぃお金貸してェェえんン」

 「え。無理無理無理無理無理無理。だって俺今悶煩(モンハン)やってるから無理」

 「え何」

 「だからー、悶煩。悶スター煩ターやってんの、ソシャゲの。基本無料だけどレアアイテム取るにはお金必要なの」

 「ふ」

 「課金システムなの。『覇王の卵っぽいの』が五千円、『ラグナロクメサイア文化包丁』が一万円かかるの。課金に怯えてるの、今。だから無理無理無理」

 「ふざけ、ふざけんなよ勇者ワカハゲ!」

 「ふざけてなんかないよ…勇者ワカハゲって何だよ!あのさあだってさあ俺にだって限界はあるよ。俺一人の生活だったら原稿書きと卵投げられ隊のバイトで何とかなるけど急にノギチカが乗り込んで来てあれしてんじゃん!あれしてんじゃん!俺最初反対したよね!したかな?したよね、そんで金までせびり倒すなんてそんなんいくら彼女でも正直全然面倒見きれないわ!」

 「そうだけど…」

 「やっぱねあれですよ自分の事はさあ自分で何とかしなきゃいけないんだよねー。ノギチカもさーあ。まあ人生の通過て、あ、そうだ良いとこ紹介したげる。俺も金ない時利用してるとこなんだけど、あるかな名刺、財布ーのー中に~、ここぞの財布ーのー中に~名刺~名刺~どこだ~名刺名刺~桃太郎~名刺名刺名刺桃太郎~どこだ~あったこれ。流氷ファイナンス。お金貸してくれるよ、甘い審査で」

 「え見せて。これ金貸しじゃん。危なくない?こんなの」

 「大丈夫だと思うよ」

 「代表、阿久津流氷(あくつりゅうひょう)?あのさあたしの統計上、阿久津って名字の奴悪い奴しかいないイメージなんだけど」

 「優しい人だよ。う。……胸かゆい。もうこうなったらこの上は、胸のかゆさにかけては日本三位の、このワタクシが、かきむしりますっ!ランランララランランラン、ランランラララ~ン」

 ヒロシはいつもこうやってナウシカレクイエムを歌い上げてからアトピー性皮膚炎の胸をバリバリかく。あたしが注意しても聞かない。お前なんか、旅先で出会った手漉(てす)き和紙の世界に魅力されてしまえ。


 あたしは翌日、流氷ファイナンスを訪ねる事にした。

 西川口から京浜東北線で七つ目、大宮。足取りは重かった。気が進まない。

 借金の為に更に借金をするのだ。まさに本末転倒ではないか。

 しかし背に腹はかえられない。速達で送られてきたJROO東日本からの請求書。そこには月額九十五万八千三百三十三円の請求額が記されてあったのだ。

 悪魔の数字に思えた。

 二千三百万円を二年間で完済する計画だ。あたしはその二年間に果たして耐えきれるだろうか?

 しかもそれを過ぎれば高額な遅延金が発生するとも書かれていた。

 これから二年間、借金まみれの生活。竹を割った様な性格、竹を割る様な生活。


 流氷ファイナンスは雑居ビルの中の五階にあった。東芝エレベーターがかんなり昭和な造りをしていてボロい音を立てて揺れ動いた。

 フロア突き当たりのドアをノックして開ける。受付。化粧方法を間違えた五十代の事務員。お茶を出される。薄い。ぬるい。待つこと十分。応接室に通されようやく阿久津流氷代表と面会する。何か良い匂いがするなと思ったらインド的なお香が焚かれていた。リノリウムの床は鏡の様につるつるしている。

 阿久津さんは七十代くらいの小柄な老人で、趣味の良いスーツとネクタイを着用し、ヤクザ感はゼロで、白髪の上品な好々爺然としていた。

 「お話は電話で伺いました。大変だったねえお嬢さん」

 その声は聞く者に優しく、祖父を想い出した。あたしが七才の時に死んじゃったおじいちゃん。

 「お嬢さんから電話を受けて私考えたんだけどね、分割にしないで一括で支払った方がお得でなおかつ楽だと思うんです」

 「そうですね。よく考えたら二年間も借金背負いたくないですし」

 「JROO、ああ見えて結構怖いよ」

 「あの、ええ、はい。それは分かります。あのあたし、怖いのやです」


 阿久津さんの目が一瞬、薩摩切子のガラス細工みたく光った。


 「お嬢さんは、い~い目をしているね」

 「え」

 「その目を買って、私全額お貸ししますよ」

 「え!?そんなに一気に貸してもらえるんですか!?」

 「お嬢さんは若いし、将来性もある。それに何より目がイキイキとしている」

 「あたしよく人から象の目みたく遠いって言われるんですけどね」

 「そんな事ないよ。私こう見えても人を選ぶ才能はあるんでね。これだと思った人しかお金貸しません。投資と同じ感覚、人となりや可能性そのものに投資してる感じ。だからお嬢さんは合格って事なんだよね」

 「恐縮です。そう言って頂けると助かります」

 「で、どうする?全額二千三百万、今日持って行く?」

 「はい!宜しくお願いします!」

 あたしは深々と頭を下げた。阿久津さんは部屋の奥の重量感のある、鈍(にび)色に輝く金庫のダイヤルを回した。全然強盗するつもりはないけど、ドキドキした。金庫が開く。

 あたしの座っているソファーからも角度的に見えた。あり得ないほどの札束の山が見えた。

 利潤の塊だ。富が富を呼び、金が金を生むのだ。

 「はい二千三百万円」

 「あ、あり…がとお……ございます」


 厚さ二十三センチの何でも買える万能な紙の束と約款を受け取る。思ったよりも重い。紙は、重いのだ。

 「お嬢さん、これからあなたは多分必死になって働くと思うけれども、労働は大事だよ。人が人として生きて行く上での要だよ。立派に働きなさい」

 「……はい」


 間、髪を入れずJROOに指定された口座に全額振り込む。こんな大金、持っていたらどうにかなっちゃいそうでとっても怖かったのだ。

 あたしは自由だ!自由だ?自由?……そうかなあ。何かとんでもない誤解と錯覚なのかも知れないけど、その自由の気分を今日だけは味わっていたかった。

 過度の緊張で筋肉痛が襲う中、盤石祭りが鳴り止まない。山の神~。海の神~。ここは~盤石祭り~だよ~。イヨマンテ~。今宵~。盤石熊祭り~。盤石雪祭り~。ア、盤石鮭祭り~よ~。


 大みそか。今年最後の晩餐。金がないのでスーパーでサバ缶をふたつ買った。


 帰宅途中にまたあの真っ赤なカラスを目撃する。二羽のつがいだった。そいつらはあたしの視線を感じると羽音を立てて美しく飛んで失せた。


 「ただいまー」

 「おかえりー」

 この寒い中、ヒロシはシャツインのパンイチで部屋をうろうろしている。徘徊老人なりたてゾンビかよ。

 「今日サバ缶にした。大みそかだけど」

 「あ、今日夕飯いらない。大みそかだからカウントダウン卵ぶつけあるから。その後投げられ隊のみんなと新年会兼ねて飲み会だし」

 「あっそう」

 「あ、あっそうってドイツ語でもアッソウって言うらしいよ、意味は同じで」

 「何回同じ事言うんだよてめえ!ボケてんのかよっ!!」

 「ボケてねえよ……壊れてるだけ」

 「んだよそれっ」

 「ねえもしかして機嫌悪い?」

 「悪いよ。お金がないんだよあたしは」

 「働けばいいじゃん俺みたく」

 「働くよ。年明けたら」

 「ふ~ん。頑張ってね~」

 「言われなくても頑張るよ」

 「あっそう。あ、あっそうってドイツ語でもアッソウって…」

 サバ缶をヒロシ目がけて投げた。


 一月三日。

 公園のベンチで一服。

 アレな子たちが奇声をあげながら徒競走している。先生がタイムを計りながら檄(げき)を飛ばし、遅い子にはお尻を叩いてアレな子が泣いちゃったりして正月早々全然優しくない。

 鳩が平和な面を下げて闊歩している。ひょうたん型の池には数匹の鯉が泳いでいた。寒々と。フリスクを与えたら一度口に含んだけどすぐにブエッと吐き出した。それを見て笑いたくなったが笑わなかった。

 ここ何日か神経を張りつめていたので、ぐったりしていた。ひとり、無為の時間をもてあそんでいる今が心地良い。

 でも一息もつけない。無職で無色透明なモラトリアムの季節は終焉(しゅうえん)し、これから労働と借金返済の地獄の季節がやってくる。マイルストーン、地獄への一里塚。コキュートス、地獄に流れる河。


 二千三百万円。


 その六文字を頭の中で念じている内に段々文字がゲシュタルト崩壊をきたし、ハングルかヒエログリフの様に判別不可能に思えてきた。怖い。

 しかも流氷ファイナンスで借りた利子、年率十二パーセントの金利も発生するのだ。

 怖すぎる。動かなければ、死ぬ。働く場所はもう決めていた。


 金の為に、闘え、あたし。



 あたしは新大久保の鬼料理専門店「鬼道楽(おにどうらく)」で働き始める。時給が高い。まかないも出る。とれとれピチピチ鬼料理~。

 性格上、フロアーでの接客業は向いてないなと思って調理担当に回してもらった。

 ここの店ではチェーン店には珍しく輸入ものではない、国産の鬼を使用している。一頭買いされた鬼(主に赤鬼)をさばく。まず首を落とし、血抜きした後で濃い体毛を剃り、皮を剥いで解体。両手両足を切断して胴体部分を三枚におろす。

 心臓や肝臓などのモツは、これはこれで別に取っておく。頭は兜焼き用の食材になる。専用オーブンで一時間じっくりパリッと焼き、仕上げにバーナーであぶって照りと薫りを出して客に提供するのだ。

 鬼は棄てる所が全くない。あたしは入店するまで鬼肉を食わず嫌いで食べた事がなかったが、身はなかなかの美味。濃厚で歯ごたえが良く、鯨肉に近い。

 お客さんの入りはとても良い。平日でも常連客と食べログで来たお客で満員。社用族の商談などにも使われるし、土日は家族連れが行列をなす。お子様鬼カレーなどのランチメニューも充実。

 あたしも解体に慣れてきたら客の前で鬼の公開解体ショーをやらせてもらえるみたいだ。料理部主任の田沢さんがそう言ってた。

 休憩中、あたしは外階段踊り場の喫煙所で一服する。煙草の量は減った。日がな一日部屋で吸わなくなったからだ。

 柳刃包丁を振るう為、早くも右手首が筋肉痛だ。腱鞘炎かも。ずっと立ち詰めなので、足腰背中も痛い。割烹着が冬なのに汗ばんでいる。ふうとため息。先輩の土岐下(ときした)さんが話しかけてきた。

 「どう?この仕事慣れてきた?」

 「やあまだまだですね。皮を剥ぐのが難しくて」

 「最初はね、誰でもそうだよ。でも地下子ちゃんて、ギバちゃん(柳刃包丁の隠語)扱うの慣れてるよね、上手いよ。どっかでやってたの?」

 「や、あたし飲食自体初めてなんであれですけど、母ひとり子ひとりだったんで。しかもお母さん夜の商売やってたから、いつも夕食とかあたしが作ってました。だからかなギバちゃん」

 「そっかそっかー。どんな経験も無駄はないやね。今日のまかない何かなあ」

 午後十一時。本日の営業が全て終了、キッチンでは後片付けが行われている。鬼は脂が多いので丹念にまな板や包丁、キッチン周りを洗って拭く。

 余り物でのまかない飯。これが最大の楽しみである。今日はハツやマルチョウ、キンカンなどの鬼モツ煮をご飯の上にゴロッとかけた鬼モツ煮丼が供された。うます、うますなー。あと、鬼ガラスープで出汁を取ったお吸い物。うますよこれ。

 「これ鬼ヤバいから新メニューに昇格するんじゃない?」

 とは田沢さんの弁。あたしもそう思う。

 西川口に帰る。街灯は少なく暗くて目に優しい。夜の清澄な空気が、仕事を終え火照った身体に冴え冴えと心地良く突き刺さる。

 これが労働なんだ。

 なんだ、思ったよりキツくないじゃないか。もちろん体力的にはしんどい部分もあるけれど何もしてこなかった今までに比して、自分が自分を存分に生きている感じがする。活かされている、という感覚か。労働は尊しと阿久津さんも言っていたけどまさにその通りだ。

 明日も頑張るぞー。あたしは違った世界に一歩踏み出したのだ。午前九時から少しの食事休憩を挟んで午後十一時までの勤務時間。超ベリーハードだが、毎日が充実している。

 なので毎日機嫌も良い。ヒロシにも優しくしている。借金完済までの道のりはまだ遥か遠いが、これならあたしはやっていけるのではないだろうか?

 駆け足にしてみた。ヒロシ用に分けて貰った鬼モツ煮丼が、背中のリュックの中でゴロゴロと少し揺れ動いた。


 借金残高二千二百八十九万円ナリ。



 休日の過ごし方。居間でテレビの音がする。あたしはまだ寝ている。ヒロシがテレビのグラビアアイドルに向かって何かブツブツ言っててうるさい。

 「もっと……もっと脇の下見せて!君の脇の下美味しそう!君の存在価値は脇の下にあるよ、ああ素敵だ、ご飯三杯やっつけられる」

 お前本当に若年ボケか、何かの狂気だろ。ヒロシはあたしの視線を感じ取ってこちらを向いた。

 「何?キモ」

 「ノギチカの脇の下は、今のところ十八位以下だからな」

 「言うてろよ。早く小説書けよ。いいから」

 あたしも自分の世界に埋没する事にした。久しぶりに椎名林檎を聴く。東京事変が良いな。「群青日和」「遭難」「能動的三分間」「閃光少女」「喧嘩上等」「ブラックアウト」「透明人間」をランダムに聴きながら思った。

 やはりキーボードのH是都Mが抜けたのは痛かったな、伊澤一葉ではこの穴は埋められない。音楽に、幅と洒脱が減じた航跡…亀田誠治大先生でも止められなかったんだなと解散したルートをたどり再認識した。まだ今後変遷していく余地はあったのだが、多分林檎もバンド形式に飽きたんだろうなあ。

 あたしはヒキコを辞めた。よく街に繰り出すようになった。今日は電車で一駅の川口の喫茶モゾビーに行って、いつもの「モゾバイ産・気まぐれマスターの更に気まぐれ珈琲」を飲む。相変わらず気まぐれた渋みが薫る美味しい珈琲だ。

 休みの日なのでここぞとばかりに煙草を吸いだめする。ついでに人間観察。

 斜めはすかいの席に会話の内容から察して不倫中とおぼしき訳ありカップルがいて男はしきりに女に対し謝っている。女の顔はこちらからは見えない。しばらく何か激昂した感じで会話が続き、女が最後の一撃を放った。

 「左様なら。お幸せに」

 女が席を立った。顔が見えた。目と目が離れてて何かシュモクザメみたいな風合いだった。

 「リサコちょっと待って!もう一回だけ、もう一回だけ!」

 と、後を追う男のやるせなさ。何をリサコにもう一回だと言うのだろう?性交だろうか?

 リサコは「もういいよ」を連発している。お前の顔面もういいよ。二人はもつれながら店を出て行った。

 あたしはふと、ヒロシとの関係を鑑みた。あたし達にもきっと、こんな風に別れが訪れる。その別れの日まで、きっとのんべんだらりと恋愛を謳歌(おうか)し、貴重なる平凡の毎日を当たり前の様に浪費するのだろう。やんぬるかな。

 嗚呼、今日も銀行のATMに行って元利と利子を返さなければ。

 てか最近あの真っ赤なカラスを見ない。死んだのかな。


 借金残高二千二百七十二万円ナリ。



 五月。あたしはその頃にはもう客の前で鬼の公開解体ショーを任されていた。

 若い女性板前が腕前を披露するその様は人気の催しとなり、時給は倍になった。仕事は順調そのものだった。

 ところがある日、鬼バラ肉の西京焼きを食べた子供が吐き気を訴えた。家に帰ってからも激しい下痢を繰り返した。

 食中毒だった。

 鬼道楽は十日間の営業停止処分を受けた。その日調理場に立っていた料理人は全員解雇された。

 その中にはあたしも含まれていた。


 気付いたらあたしは、ハタチになっていた。



 (爆走篇に続く)

 

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馬車馬のおんな ①(荒野篇) 堀川士朗 @shiro4646

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