#4 老いと気づき
「よっしゃリーチだ。おじさんこのまま逃げ切っちゃうぞー」
「師匠はもうおじいさんですけどね。ポン」
「白羽ちゃんポン三回目? 振り込んでも知らないから。わたしもリーチ」
「こい、こい! ああ来なかった」
「よーやくウチの番? リーチ!」
「……ツモ、トイトイ」
手牌を倒して見せる。刻子四つと雀頭だけ。一応ドラ三だけど鳴いていてリーチはしていないから裏ドラなしで得点はそこまで高くない。まあ、三人のリーチをかいくぐって上がれただけ良しとしよう。
というかどうして、わたしは麻雀をしているのだっけ?
下校前に学校図書館で柳場竜蔵の名を調べたが、大した情報は得られなかった。それで帰宅前に市立図書館によって調べたら本が数冊と雑誌の記事がいくつか出てきた。それらを借りて持ち帰り検分することにしたのだが、帰宅してみたら何故か師匠がいなかった。いくら昼行燈といっても買い出しくらいはするので外出しているのは不思議ではない。ただ、柳場の本の検分より先に二者面談の対策を話し合うのを先にしようと思っていたので肩透かしを食らった気分だった。
自室に入って柳場の本を調べたところ、彼の言っていたことは概ね正しかった。児童虐待や校内暴力、イジメなど児童関係の問題を主に扱っていたルポライターらしい。ただ、探偵絡みの本は見つからなかった。コラムに少し、それらしいことを書いているだけだ。まだ専門分野を転向して日が浅いのだろう。
そうこうしている間に玄関がガラガラと開かれる音が聞こえ、師匠が帰宅したのだと思い玄関へ向かうと、師匠は確かに帰ってきたのだったが女性が二人、一緒に引っ付いてきていた。
ひとりはわたしの主治医でもある犬塚紫先生。仕事帰りなのか白衣を着たままで、ニヤニヤと子どもっぽい笑みを浮かべていた。この人がこういう表情なのはいつものことだが、今日に限っては柳場を思い出してあまりいい気分ではない。
もうひとりは初めて見る人だが、外見がどぎつい。長く腰まで届く髪は不可解な色合いをしている。何色? 赤い部分もあれば青い部分もあるし黄色い部分もある。虹色に髪が染められているのだ。はっきりと色分けがされているわけではないのか、半分以上は色が混ざって黒っぽい。目は鋭く、杉谷とは少し毛色の違う強さを持っていた。背は高く、そのせいかパンツスーツが似合っている。
「えっと、師匠、紫先生、この人は……」
「おお白羽、帰ってたか。悪いが今日の夕飯は少し待ってくれ。今寿司の出前頼んだところだからな」
「え? はあ……」
「待つ間に麻雀でもしようや。さ、準備だ」
そしてあれよあれよと、座敷に上がって四人で卓を囲むこととなっている。ゲームの方は既に南二局である。順位は一位から順に師匠、謎の女性、わたし、紫先生となっている。紫先生以外は全員が二万五千点以上で、ロンは大抵が紫先生からである。
師匠が引っ張ってきた謎の女性が、とりあえず堅気ではなさそうなのはなんとなく分かった。現在こそ師匠が一位だが、彼女と師匠がしのぎを削っている状態が続いている。わたしはいろいろ試してみるけど、その戦いに加われそうもない。
牌を卓上でごちゃまぜにかき混ぜていると、インターフォンが鳴った。出前の寿司が届いたのだろう。紫先生が立ち上がって玄関まで取りに行った。そこで一旦、ゲームは中断になる。
「というか、気づけば南二局も終わりましたけど、この人誰ですか?」
「あら? 白羽ちゃんはわたしのこと知らないの?」
右斜め前、上家に座った謎の女性はにへらと笑う。そこには意外、という驚きも若干含まれていたように思えた。
「あなたがわたしの名前を知っていたことも驚きですけどね」
なんか今日わたしのプライバシー権軽くない?
「わたしは七色七。これでも探偵やっててテレビにも引っ張りだこなんだけどね。そっかー白羽ちゃんは知らないか」
「テレビ見ませんからね」
しかし、そうか。彼女が例の探偵派遣会社社長。柳場の話に出てきていた探偵のひとりか。
「師匠は知り合いだったんですか、この探偵と」
「探偵? ああ? ああ、そうだな。七色はお偉い探偵だからなあ」
わたしの対面に座る師匠はいつも通り隣に置いた花瓶に挿したカスミソウを撫でる。絶対知らなかったな、七色さんが探偵だったこと。
「黒鵜のおじさんとはついさっき、そこで知り合ったんだよ。わたしと紫が同窓でね」
紫先生経由だったのか。そしてますます、師匠と探偵業界の繋がりの無さが明白になっていく。もしかして師匠、単に業界に明るくなかったから探偵の話題出さなかっただけ?
「噂はかねがね聞いてたんだよね。変わった人だって。ちょうど同い年の子どもを持つ親同士でもあるわけだし」
「ほう。お前さんも子持ちだったのか? 女の子か?」
「反抗期真っ盛りの男の子だよ。ま、今のところ探偵にはなってくれるみたいだから、跡取りとしては十分だけどね」
七色さん子持ち? あまりそういう雰囲気はなかったから意外だ。まあ、大阪のおばちゃんでもしないような髪色しているから母親というイメージは彼女の外見からなかなか抱けないのも当然だが。
「やっぱあれかな。シングルマザーで仕事一辺倒だと息子と接する時間が少ないからねえ。それが原因なのかな?」
「あまり気に病むことでもあるまい。反抗期くらいあって当然だ」
紫先生が寿司桶を持って戻ってくる。麻雀卓の上にどさりと置いた。まだ牌を片付けていないので不安定だが、おかまいなしに大人たちは寿司にがっつき始めた。自由か。醤油皿を用意するのも面倒なのだろう。適当に数貫寿司をどかした場所に醤油やワサビを垂らして、それを利用してしまう。
「なになに? 子どもの話? いいわあ、七が羨ましいわ」
そして子どもの話は続く。紫先生は独身だったと記憶しているが、結婚願望もあれば子供も欲しがっていたのか。でもわたしと同い年の息子持ちの七色さんと同期ってことは、先生の年齢いくつだろう。普通、わたしくらいの子どもの親っていくつ?
「昔の友達もみんな結婚してもうて、パートナーおらんのウチだけになってもうた。しかも年下の従兄弟がつい最近結婚するって言いよってん!」
「ああ、伊助くん? 警察のエリートって子。聞いた聞いた。相手、探偵なんでしょ。うちの業界じゃ同業者の結婚の話はすぐ流れてくるからね」
「十歳下なんやで! その従兄弟に先越されてるなんて驚きやろ?」
わたし除く女性陣の二人はさきほどから結婚の話で盛り上がっている。師匠はさっきから寿司にがっついている。
「白羽ちゃんはどう? 結婚したいって思う?」
七色さんがこっちに話を振ってきた。
「わたしは……」
どうだろう。まだ中学生のわたしに結婚願望なんて具体的にあるわけがない。ウェディングドレスを着たいとか、かっこいい人にプロポーズされたいとか、そういう抽象的なイメージも湧かない。第一、わたしにこれといった家族観はない。少なくとも、黒鵜白羽である今のわたしには。
木野哀歌だった頃のわたしが持ち得た家族観は、それこそ結婚願望を発現させるようなものではないし。
「ま、結婚だけが女の幸せじゃないからねー。人間なんて自由なものよ。それが分かんないじじいどもは結婚しろ子ども産めってうるさいけど。大丈夫黒鵜のおじさん? 白羽ちゃんにそんなこと言ってない?」
「俺は何も言ってないさ。白羽の将来については何もな」
その結果二者面談で苦労しているので、多少なりとも何かは言ってほしい気がする。
「そもそもわたし、子ども産めるんですか?」
「んー?」
紫先生はエビの尻尾を吐き出した。
「さあ? そういえば考えたことないな。一応生殖機能は正常のはずや。でもジブン、たぶん出産したら体力無さ過ぎて赤子もろとも死ぬで。ていうかその前段階で腹上死やろ」
「ふく…………?」
「要するに出産って身体にもう一つ命宿すってことやろ? ジブン一人の命でギリなのにもう一人は無理やな。言うてそれも、今の状態での話やけど。たぶんジブンが結婚して子ども産みたくなる頃には大丈夫になっとる。医学も日進月歩やし、あんまり気にすることやないで」
「そうですか」
七色さんが指で師匠を突っつく。
「よかったねー黒鵜のおじさん。孫の顔が見れるよ」
「白羽が結婚できるとは思えんがな。曲がりなりにも俺の弟子だぞ?」
「ああ、うん」
納得されてしまった。というか七色さんは師匠とは初対面では? 師匠の弟子だと結婚できないという発言を担保してしまう程度には、師匠もまた結婚に不向きな性格をしていると?
「ていうか黒鵜のおじさんと白羽ちゃんって変わってるよね。親子なのに師匠と弟子って呼び合ってるの?」
んん? 師匠と目を合わせる。師匠もキョトンとしていた。
「あー、それウチも気になってた。親子の形はそれぞれ言うても確かに変わってるやんな」
あれ? 紫先生は知らないはずがないのに。師匠がトロ握りを咀嚼し飲み込むと、言葉を発する。
「……俺と白羽は、血は繋がっていないぞ?」
「戸籍上は親子なんでしたっけ、師匠」
「おお。養子縁組というやつか? 俺も市役所の人間に言われるがまま申請したからよく分からんが」
次にキョトンとするのは紫先生だった。醤油のついた指を舐めて、しばらく目をパチクリさせた。
「マジで?」
「マジだ」
「嘘やろ師匠はん。雰囲気そっくりやん。ウチ、白羽ちゃんは師匠はんの隠し子思っとったで?」
「俺は一言も実子とは言ってないぞ? その辺の事情は白羽が喋ると思ったが」
師匠、説明してなかった!
「わたしも師匠がもう言っているものだと……」
「ほらそういうとこやって! 聞かれないと何も答えないし聞かれても答えないもんジブンら! ジブンそういうとこばっか師匠はんに似とるもん」
「わたしをこの守秘義務マンと一緒にしないでくださいよ」
カッパ巻きを口に入れた師匠が紫先生を睨む。
「俺もこのネガティブ病人と一緒にしないでほしいな」
「それもう心身ともに虚弱なだけじゃないですか」
「事実お前のことだろう」
「…………ポジティブ昼行燈」
「サバサバ根暗」
「引きこもりゲーマー」
「世間知らず」
「うどの大木」
「……ちび」
「白髪増えましたね」
「………………反抗期?」
「将棋盤が友達。趣味は日向ぼっこ。とりあえず野菜をコンソメで煮る。洋服を選ぶセンスが皆無。テレビゲームをファミコンと総称する。突然大声で歌い出す。車の運転が荒い。朴念仁。運動音痴。若作り。流行に乗りたがる」
「すまん分かった悪かったからやめてくれ師匠が生きる気力なくしちゃう」
師匠の言い分を聞いたわけではないが、ちょうど言いたいことも尽きたので打ち止めにしてマグロを頬張った。紫先生は未だにわたしと師匠を見比べていた。
「しっかしそっくりやんな。師匠はんが独身なの知っとったから、隠し子引き取ったんかと思っとったわ」
「俺をなんだと思っているんだ? 隠し子がいるってことは、不義密通した相手がいるということだぞ?」
「せやかて師匠はん、全国に現地妻いそうやもん」
「それだけアクティブなら、今ごろこんなところで寂しく子育てしてないさ」
「それもそうやんな」
現地妻……? よく分からないけど、愛人がそこら中にいるということだろう。師匠は大人の女性からそう見られる性格だったのか。
「ところで七色さんは探偵なんですよね」
話は変わって。わたしは気になっていたことを七色さんにぶつける。
「しかも有名な探偵。とすると、Dスクールとも関わりが?」
「うーん。関わりがあるといえばあるのかな? そこまで直接的ではないけど」
返ってきた答えは意外なものだった。
「ほら、わたし自分の会社あるから忙しいんだよね。わたしは出資しかしてない」
「じゃあ、猫目石って人は? 探偵連合でしたっけ? 何やら壮大なグループのリーダー格らしいと聞きましたが」
「彼はまだ高校生よ? 十八歳。本人も後進を育てようって殊勝なキャラじゃないし、探偵連合のトップっていうのも半分祭り上げられてるようなものね。あそこの連合、トップを張るタイプの人間いないから」
「高校生で探偵? 探偵は国家資格ですよね?」
「国家試験は十六歳から受験できるのよ。ほら、義務教育は中学生までだから、中学卒業後に探偵として独立したり、探偵の元で二、三年修行して受けるパターンもあるだろうし。そんな傑物は一世代に三人くらいで、大抵は二十歳過ぎまで勉強漬けだと思うけど」
「では、七色さんの息子さんは?」
「同世代の中では頭一つ飛びぬけているのは間違いないわ」
自分の息子のことなのに、七色さんはさらりと言うだけだ。特段誇らしい様子もない。息子の成長に満足できていないというよりは、単に客観的事実を述べているだけという印象を受ける。
「宇津木くんのところの甥っ子はギリギリ及第点レベルって聞くし。ああ、その子も白羽ちゃんやうちの息子と同じ十四歳なのよ。同い年で精々うちの息子とタイマン張れるのは、猫目石くんのとこの輪ちゃんくらいなのかなあ」
「でも、こうして並ぶと十四歳組が相当多くないですか?」
七色さんは言及していないが、そこに杉谷をはじめ探偵生徒会の五人も入るのだから、相当多い。
「ええ。偶然、現在主要な活躍をしてる探偵の縁戚はみんな十四歳か、そこら辺に近い年齢ね。だからDスクールも高等学科の設立を急いでるって話」
そうか。檜山に聞いたとき、いくらなんでも急だろうとは思っていた。普通、認可が来年に下りるなら一期生はわたしたち中学二年生になる。わたしたちよりひとつ上の世代を一期生にするには、認可は下りるものとして準備しなければならない。それがどれだけ見切り発車、皮算用的動作なのかは学校制度に詳しくないわたしでも想像がつく。なんとかして、主要な世代の受け皿になろうとしているのか。
「それにしてもどうしてそんなこと聞くの?」
「ああ、いえ、別に」
ぐいっと、七色さんがわたしの顔を覗き込んできた。
「もしかしてDスクール受けたいの?」
「そういうわけじゃないです。ひや――知り合いに、受けたがっている人がいて、Dスクールの噂をその人から何度か聞いていたので」
「ああ、もしかしてそれ探偵生徒会やろ?」
紫先生が話に割って入る。
「なんや噂で聞いたことあるな。白羽ちゃんの通う中学にどえらい五人組がおるって」
「……そういえば聞いたことあるわ」
七色さんも思い出したようだった。
「どこの学校かまでは忘れてたけど、ふうん、白羽ちゃんのとこだったの。あの榎本のオヤジが一枚噛んでるって噂の」
わたしはなにげなく師匠の方を見た。師匠は一瞬だけ目線を宙に浮かせたかと思うと、カスミソウを手で撫でた。その動作がどうにも意味ありげに見えて仕方がなかった。
思えば、その榎本という人物とともに探偵生徒会へ指導を行っているのは、師匠の門下のひとりという話だった。柳場の情報が確かならば、だけど。師匠が探偵業界にあまり詳しくなさそうなのは置いても、榎本泰然という人物個人とは何か関わりがあるのだろうか。
「どうなの? その探偵生徒会っていうのは探偵として」
「それは……分からないですね。むしろ七色さんにプロとしての評価を聞きたいくらいで」
なにせわたしが通うのは探偵生徒会のホームグラウンドである。悪い噂など立ちようがないし、いくらそんな土地で情報収集してもバイアスがかかってしまう。だからこそ第三者かつプロである七色さんの総評は気になるところだったのだけど……。
「わたしとしては……ちょっと分かんないわね。評価できるほど詳しくはないから」
「裏を返せば、七色さんの耳にはそう届かない程度の活躍しかしていないと? 例の、猫目石さんのところの輪ちゃん…………? たちと違って」
「ああ、ううん。あの子たちについてわたしが詳しいのは、単に知り合いの縁戚で息子と同年代だからってだけ。アンテナ張ってるってわけ。探偵生徒会の活躍がわたしの耳に届かない程度だからって、それは彼らの評価にはならないわ。最も、この業界は事件への巻き込まれやすさも才能の内だから、そういう面からの評価もできなくはないかな」
なんとも曖昧な返答で、こっちも反応に困る。
「白羽、お前探偵になりたいのか?」
「はい?」
突然、師匠はそんなことを言った。顔を窺うと、別に普段と変わらない飄々とした表情をしている。深刻な話をしようという体でもないし、逆に冗談で言っているかどうかも判然としない風だ。
「いえ別に。ただ、明日二者面談なんですよね。将来の進路をどうするのか担任に悩まされていて」
「お前まだ中学二年生だろ? 早くないか?」
「最近はこんなものらしいですよ。まあわたしとしては、正直進学できるだけの学力もないですから……」
「好きにしろ。お前が大学まで出たいなら金も出してやるし、中学出てゴロゴロしたいなら養ってやる。なんにせよ勉学面も身体面もお前はハンデが大きいからな」
「そうですか」
師匠のその言葉は、単純にありがたかった。二週間前、中学へ通う前までは学校に入りさえすれば脱線していたレールに戻れると思っていた。みんなと同じ、普通の生活をして普通の進学ができるものと。そうではないと理解するのに数日はいらなかった。
一度脱線したものは、二度と元に戻らない。一度曲げた針金に癖がついて、二度と真っ直ぐにならないのと同じこと。自分で曲がろうが誰かに無理矢理曲げられようが、曲がったら元に戻らないのだ。
昔なら、それでいろいろ絶望していたのかもしれない。でも今は、師匠がいる。師匠の生き方を見ている。真っ直ぐにならないのなら、曲がったままぼうっと過ごせばいい。無理に真っ直ぐになろうとして痛い思いをするよりはそれがいい。なにより師匠はそれを許容してくれる。
こういうとき、まともな大人なら師匠の言葉を否定するのだろう。しかし紫先生も七色さんも特別何かを言おうとはしなかった。
紫先生は大あくびをしていた。……単にお腹いっぱいで眠くなって、わたしたちの会話を聞いてなかったのかもしれない。
寿司桶はほとんど空になっていた。紫先生も七色さんもずいぶんがっついたので、もうお腹いっぱいなのか手は動かない、食べているのはわたしと師匠くらいのものだが、残すところウニが一貫だけである。わたしと師匠は同時に手を伸ばしかけて、手を止めた。
「今日は随分食うな」
「お喋りが長かっただけですよ。食べている量は普段と変わりません。師匠は年の割にいつも食べますね」
「食事が長生きの秘訣だからな。それで? これはどっちも手を引っ込めるつもりがないという状況か?」
「そのようで」
「麻雀は南三局に入るところだったな」
「サシで勝負しましょう。先に上がった方がいただくということで」
「はっ! 俺が勝ったも同然だな」
「後で泣かないでくださいよ」
寿司桶をどかし、洗牌する。大人の女性陣二人も面白そうに笑いながら手を伸ばした。
「おっ。ジブンら面白そうなこと始めるやん」
「師弟対決とは驚くね」
勝負は既に始まっている。混ぜている間に自分が欲しい牌を手元に寄せて、逆にいらない牌を押し付けるわけだ。ちらりと七色さんの動作を見ると、彼女はただ混ぜているだけらしい。七色さんならわたしと師匠の積み込みに茶々を入れることもできなくはないはずだが、今回は傍観してくれるらしい。
配牌を終え、十三の牌を手元に並べる。
今の親は師匠だ。そして師匠は食べ物が絡むとえぐいくらい本気を出す。下手したらツバメ返し
しかし当然、それは防ぐ。というか、師匠の親番で天和を防げないのに勝負を挑んだりはしない。でもたぶん、今師匠は聴牌だろう。十四枚の牌のうち、一枚を捨てれば北単騎待ちになる格好で。
積み込む際に極力字牌を除くのは師匠の癖だ。妨害されたときの事故防止なのだろうが、そのせいでわたしは字牌をコントロールしやすい。だから紫先生に一枚余る格好で北が行くよう積んでおいて、それを吐き出させてロンがわたしの作戦だった。だが師匠は、見抜いていたらしい。だからとっさに北一枚だけを自分の手元へ来るよう積み込んだ。他は三枚一組ができているから、それが師匠の雀頭になったのだ。普段字牌を避ける師匠が手に入れていたから、そこまでの動きを幸運にも見ることができた。
とはいえ、これはわたしの負けか。いくら師匠の手が分かっていても、もうどうしようもない。師匠は不要牌を一枚切るだけだ。次の紫先生が十中八九北を捨てて、それを師匠がロン。わたしもロンができて、ダブロンなしならわたしが頭ハネ、ダブロンでも引き分けとは言えなくもないが、それを強弁する気はさらさらない。わたしの策を読まれたうえで利用されているのだから、これはわたしの負けだろう。
不要牌を切るしかないこの場面。しかし師匠はしばし戸惑って、右手が手牌をカチャカチャと動かし続けていた。そして……。
「じゃあ、これだな」
師匠が捨てたのは、北だった。
「………………ロン、
わたしは手牌を倒す。わたしが師匠に、勝った?
師匠の手は、実は揃っていなかった? それとも、わざと? 違う。そうじゃない。師匠が勝負で手を抜くとは思えない。師匠がわたしの策を見破っていなかったとは思えない。何せわたしの策は師匠が積み込みの際に字牌を避けるという性質に立脚しているのだから。師匠の性格ゆえの、字牌操作という穴。師匠がそれを把握していないはずがない。むしろ自分が避けた字牌を、他人がどう積んでいるかは注視しているはず。わたしの策は見えていないとおかしい。いや見えていなかったとしても、初手で字牌を切るのは躊躇うはず。
「おお……おおっ!」
わたしの疑義に拍車をかけたのは、負けた師匠の反応だった。
わたしは師匠が負けたところを見たことがなくて、だから師匠が負けたときはどんな反応をするのかあまり想像できなかった。でも、たぶん悔しがるだろうと思っていた。それこそ子どもみたいに。それなのに……。
「マジか! 初めてだな負けたの。いや、お前強くなったよ。まさか俺が負けるとはなあ」
どうしてそんなに嬉しそうなんだろう、この人は。なんだかんだ言って勝負の世界に生きているはずの師匠が、どうして負けて嬉しいのだろう。だが少なくとも、わざと負けてくれたという様子でもない。
わたしは勝ったのか。師匠に、単純な勝負で。
それなのに、どうしてだろう。やってしまったという気持ちになる。本気で勝とうとしていたのに、勝ってしまったという、しくじった感覚。開くなと厳命されていた扉を、勢いよく蹴り開けたような背徳感は。
頭がグラグラする。ああ、ああっ! そうだ。わたしには見えていなかった。
白髪が増えただけじゃない。師匠が最近、新聞を読むとき顔を近づけること。駒を持つ手が僅かに震えていたこと。冷蔵庫に自分で貼ったメモ書きを忘れること。話しかけてもたまに無視されること。夜中に起きる回数が増えたこと。
師匠が老いているということを、わたしは見ていなかったのだ。わたしが強くなる以上に、師匠が衰えてわたしのいるステージまで下りてきているということに、気付いていなかった。
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