ねこのてつきのくりこさん

史乃かや

物理的な現象についての防衛策

株式会社コガワ(革製品製造業)

第1話 交渉に臨もう


 帰宅するなり地団太踏むほど会社勤めが嫌いだが、生活のためには金銭が必要だ。

 そして、私には働かなくてもやっていけるほどの資産はない。


 仕事は嫌いではないのだ。ただ、会社勤めが嫌いなのだ。


 会社勤めをせずに収入を得る手段について、もっと真剣に考えるべきだったが……後悔してもちょっと遅い。


 会社というところに渦巻くの深さ濃さは、私の想像を遥かに超えていたのだ。

 

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 派遣先の会社にて、勤務継続を困難にする事案が発生したので、仕事帰りに派遣元の会社に寄った。

 

「お仕事先のご相談は担当の者が承りますが…外出しておりますので、戻り次第ご連絡差し上げますよう申し伝えます。」


 「栗戸」のネームプレートを付けた内勤の事務員さんは、にっこりと物柔らかな笑顔だ。

 が、声音からは、それは自分の仕事ではないからしないという意志がしっかりと感じ取れた。しかし、担当の営業さんではこの事態は解決できないと思う。


「そうですか…。では失礼します」


 一礼して扉を出るとき、そっと「お借りします。」と呟いた。

 

 とにかくこれでどうにかなるかな―――。

 どうやら私は目を付けられてしまったので、駄目なら長期の契約を切り上げて早々に逃げるしかない。

 契約途中で切ると今後の紹介が不利になりそうだが、私は私の健康と幸福が大事だ。

 雑居ビルの4階にある派遣会社「アマルスタッフ」の扉を開くと、すぐエレベータの前に出る。

 繁華街にある、隣との隙間が5㎝から10㎝程度にびっしりと並ぶビルの一つ。狭苦しいビルだ。

 通りへ出ると、駅に向かって歩き出す。

 冬の小雨は傘を差していても体中に霧がまとわりつく。雨が降らずとも、もう日も落ちているこの時間は深々と冷えてくる。

 ……さむい。とにかく寒い。途中でコーヒーでも飲んで暖まって帰ろう。

 

 派遣登録の為初めてあの事務所を訪れたとき、栗戸さんの両肩に大きな猫の手が乗っているのを見た。

 そっと添えるように乗っけられた、5~60センチはありそうな猫の手。

 薄く金色に光って、もふっもふの毛のかたまり。濃茶と薄茶の縞模様のようだがそこまではっきりとは見えない。


 が今、私の頭の上にある。



 

 駅隣接のショッピングモール内にあるセルフサービスのカフェテリアで、コーヒーと、レジ横のカゴのナッツびっしりのクッキーを買った。

 ふぁぁ……温い。カフェインが沁みてくる。お腹から太ももがぽうわっと温まってきたところで、目の前に人影が立った。

 「――饗庭あえばさん。」

 「ああ、奇遇ですね。お座りになりますか?くりと…さん?お名前はくりと?くりどさん?とお読みするのですか。」

 「くりこ、と読みます。」

 持っていたコーヒーのトレイを置くと、栗戸さんは私の正面向かいに座った。

 栗戸さんとは派遣会社で二、三度顔を合わせただけで、碌に話した事もない。

 すらっとした細身で、身長は175…180㎝近いかもしれない。とにかく長身だ。

 雛人形のような和風に整った顔。女性だと思うのだが、男性かもしれない。

 中性的で、声は高からず低からず、ショートカットの髪。いっそスーツなら簡単に判断が付くのだが、オフィスカジュアルの服装は落ち着いた色味で、スカートを穿いている所は見たことがない(と言っても前述通り二、三度しか会ってないのだが。)

 今は、先ほどの受付での物柔らかな笑顔は無く、すっきりした目元に微かな緊張が読み取れる。

 「単刀直入に申し上げます。持っていかれたをご返却いただきたいのです。」

 「……私がなにか?受付に置いてあったボールペンでも持ってきてしまいました?」

 栗戸さんは、はぁ…と息を吐くと「違います。分かってらっしゃいますよね。」

 「なにがです?いきなり取ったとか…何のお話ですか?」

 「あのですね――。」

 ぐるっと回りを見回すと

 「この店はターミナル駅のすぐ隣で、会社や学校帰りの人たちでこの時間はいつも満席です。私の前に店に入ろうとしたOLさん二人が、店を覗き込んで満席だねと言いながら行ってしまったのですが……

 まあ、私に声を掛けてきた時点で分かっていたことだ。私は手にしていたコーヒーを置いた。

 「――どうやら栗戸さんは分かるし、ご自分のも自覚してらっしゃったんですね。ではご紹介しましょう。」

 私のお腹の温みがくうっと伸び上がり、テーブルにちょん、と両手を掛けた。


 漆黒で艶々の毛並み、緑色に輝く大きな目。綺麗で可愛い私の猫。

 

 「みーちゃんです。よろしく。」

 

 みーちゃんはみゃーーーーあ、と尾を引くように鳴いた。


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