不戦の誓い2

早起ハヤネ

第1話 峠の茶屋


 アムゼン村へ向かう山道だった。

 オルヴィスとフリーダは、峠の茶屋で、一息ついた。ひとり十ナノ支払えば、茶に菓子が付いてくるという。

 ベンチに置き物のように一人の老婆が座っていた。

「ばあさん、隣いいかい?」

 オルヴィスは返事を待つことなく荷物を降ろし、隣に腰かけた。

「おばあさんも峠越えするんですか?」フリーダが親しげにたずねた。

「ああ、そうじゃ」

「行き先はどちらへ? ムスティリ村ですか? それともアムゼン村?」

「アムゼン村じゃ」

「お一人…ですか?」腰の曲がった老婆一人で峠越えをするのは聞いたことがなかった。フリーダは辺りを見回した。「ですよね」

「ひとりじゃが、見ての通りご老体でのぉ」

「もしよろしければ、わたしたちとご一緒しませんか? わたしたちもアムゼン村へ向かうんです」

「やさしい娘じゃのお…あッ! クマ!」

 老婆が指をさした樹林を、オルヴィスとフリーダが同時に首を巡らせた。二人はじっと目を凝らして見つめる。それらしい姿形はなかった。

「おいおいばあさん…どこ見てんだよ。クマなんかいねぇじゃん」

「あッ!」フリーダがベンチの上に手をやったり姿勢を変えたりしている。「オルヴィス! 大変! ずだ袋がないわ!」

 見れば、老婆はムスティリ村へ向かう方の街道をスタコラサッサと逃げている。

「泥棒よッ! オルヴィス! 早く追いかけないと!」

 フリーダが後を追いかけたが、老婆とは思えないほどの快速を飛ばしていた。結局、追いつけないで戻ってきた。フリーダは息を整える間もなく、オルヴィスに憤懣やるかたない怒りをぶつけた。

「ちょっとオルヴィス! なんで追いかけなかったのよー」

「イヤ。盗むってことは、金に困ってるってことだろ?」

「困ってなくても、盗む人はいると思うよ」

「別にいいよ」

「よくないよ。あのずだ袋には、有り金、全部入ってるんだから」

「金なんかなくても、オレはこのオノと身一つさえあれば、どこでも食っていける」

「そういう話になる?」

「それにしても、オレも見てたけど、あのばあさん、只者じゃねぇぞ」

「たぶん、健康のため、毎日、朝晩、走ってるんだよ」

「そういう話になるか?」

「泥棒やってるうちに、足が早くなっていったんだと思うよ」

「それはねーと思うぞ。泥棒稼業は、むしろ逃げる、という状況を作らずに手早く、素知らぬ顔で盗んじまうんじゃねぇか?」

「そういう言い方もできるね」

「ムダ口叩いてないで、そろそろ行くぞ」

「えー取り返しに行かないの?」

「もう遅ぇーよ。あの足じゃ、もうだいぶ離されてるぜ」

「疲れて立ち止まってるかも」

「じゃあ、オマエひとりで行け。オレは先へ行ってる。アムゼン村で待ってるぜ」

「えー! イヤだー。それなら、わたしもオルヴィスと一緒に行くぅ」

 あとは、峠を下るだけだった。フリーダはやはり無一文というのは問題があると考えていたが、オルヴィスと一緒にいると、不思議な安心感があった。実際は、無一文になってしまったのだから、どこにも安心できる要素などないのだが、彼の能天気な様子を見ているとどうにかなってしまうような気がしてくる。

 遠く山の端に夕陽がかかっていた。

「暗くなる前に着きそうでよかったな」

 村を囲む木柵が見えてきた。ぼうっと赤く炎が見えるのは、村の出入り口の目印だろう。

 オルヴィスは、門番にこの村を訪れた経緯を話した。許可を得て、入ろうとしたら、村の中から走ってくる者があってオルヴィスにぶつかった。

「いてッ」

「気をつけろ! バカ野郎!」

 オルヴィスと同じくらいの歳の少年だった。こちらの方が被害者なのに、なぜバカ呼ばわりされなければならないのか。オルヴィスとしては抗議をぐっとこらえた方だった。村の中からにこにこした好々爺然とした老人が出てきた。

「すまないのう、少年。アレには、わしもほとほと手を焼いているのじゃが、根は決して悪いヤツじゃないのじゃ。許してやっておくれ」

「ああ、別になんとも思ってねぇよ」

「ところで、オマエさん方。まだ若いのに、旅の身とは、いったいどのような事情があって?」

 門番の男に話したとおりのことを、老人にも話した。

「…なるほど。エラい苦労したんじゃのう」

「別に苦労ってほどのことじゃねーよ」

「もうすぐ日が暮れる。早く中へ入りなさい」

 老人の邸宅に案内された。遠くから見てもずいぶん立派な邸宅だと思ったら、案の定だった。村長のモンマス、と名乗った。

 しかし、今までのことがあったため、また馬小屋じゃないかと思っていたら、邸宅の中へ通された。しかも、オルヴィスとフリーダが見たことのないほど豪華で整った客室だった。

「…フリーダ。ダマされるんじゃないぞ」オルヴィスは声を潜めた。「オレたち、今までこんな立派ところに泊めてもらったことがあるか? なにか魂胆があるのかもしれねぇ。起きたら、身ぐるみ全部剥ぎ取られているか、馬小屋の中にいたりしてな」

「オルヴィス、聞こえちゃうよ。わたしもまさかと思ったけど、村長さんいい人そうだし、今は甘えようよ。もう歩きすぎで疲れちゃったし」

「そのいい人そうな人に、ムスティリ村でころっとダマされたのは、どこのどいつだよ」

「…わたしだよ。そうだね。警戒は常にしておかないとね」

 フリーダは両のこぶしをぎゅっと握りしめた。彼女なりに何度もオルヴィスを危険な目に遭わせて申し訳ないと感じている。お人好しもいいところだった。

「一人ずつ部屋を使いなさい。落ち着いたら、下に降りてきて、夕食を出そう。…イヤ、その前に行水だな。オマエさんたち汚いなあ。まずはゆっくり旅の汚れを落としなさい」

「ありがとうございます」

 二人は、腰を直角にして礼をした。

 オルヴィスは部屋に入った。見たことのない調度品や椅子があった。暖炉もある。いくつか気になるものがあって、触れると柔らかかった。表面を覆っているのは、革だろうか。

 座ってみると心地よかった。やはり一風変わった椅子なのかもしれない。なんなら、ここで横になって眠れそうだし、何人も同時に座れそうだった。

 もう一つ。

 高級そうな絹製品に包まれた長い置物。触れてみると、やはり心地よい。フリーダの方も同じなのだろうか。

 オルヴィスは部屋から飛び出した。

 それとほぼ同時に彼女もドアを開けて飛び出してくる。

「フリーダ!」

「オルヴィス!」

「オマエ、見たか?」

「見たよ。部屋めっちゃスゴいねー」

 平民であるオルヴィスも見たことがない。卑賎民であるフリーダには、言わずもがな。

 さっそく、階下へ行った。使用人みたいな男に行水場まで案内してもらった。

「もう湯は沸いておりますので」

「フリーダ。オマエ先行けよ。汚ねーぜ」

「ふん! わたしだけじゃない。オルヴィスだって汚いじゃん」

「いいから行けって」

 使用人の男が、フリーダにしわひとつない衣を手渡した。

「え? こんなことまでしていただいていいんですか?」

「モンマス様よりその通りにせよ、と仰せつかっております」

 フリーダが行水しているあいだ、使用人の男と立ち話をした。

「ところでさ、部屋の中にあったふかふかの椅子や上等な絹を敷いた台みたいなの…あれってなんなの?」

 使用人の男は、あごに左手の人差し指を添えて、しばらく考えた。たぶんあまりにもこういう生活が当たり前で、質問されたことがなかったのだろう。

「あッ、なるほど」左手の手のひらに、右手のこぶしをポンと打った。「ソファーとベッドのことですね」

「そふぁーと、べっど、ってなんですか?」

「座るための道具と、寝るための道具ですよ」

「オレ、初めて見ました。さすが村長さんの邸宅ですね」

「いえ。村長は村長でもモンマス村長はまた違うんですよ。モンマス村長は、いわゆる西洋趣味が強いお方で。あれらの製品は、すべて大陸から取り寄せてご購入されたものなんです」

「へー、大陸から。大陸って、スゴいっスねぇ。でも、神聖サハルト帝国と、飛鳥ノ国とその子分の国は、対立しているんじゃないんですか?」

「貿易と政治は、また別なのです」

「ふうん…。よくわかんねーけど」

「私も細かいことは存じ上げておりませんよ」

 話し込んでいると、村長モンマス氏がやってきた。

「オルヴィス。君はライナ村で木こりをやっていたのだったね?」

「はい」

「では、あした、ひとりオマエさんにつけるから、その木こりとしてのスキルを見せてやってはくれんかね?」

「わかりました」

「フリーダには、屠殺場へ行ってもらう」

「了解です」

 というより、流れ者となってしまったオルヴィスたちには、こうしてお世話になっているのだから、選択の余地はなかった。腕が認められ、村人として受け入れてもらうことが二人の目的である。

 フリーダが戻ってくると、オルヴィスの行水の番だった。

「フリーダ。オマエ、遅せーよ」

「ゴメン。久しぶりに熱いお湯に入ったから、ついつい長湯しちゃった」

「まあ、いいよ」

 腹が減ってるから、オレはそんなに長湯できねーな、と思いつつ、オルヴィスは行水場へ向かった。卑賎民の兄妹らしき子供二人が筒を吹いて、火を熾していた。

「ありがとうな」

 礼を言い、手桶に湯を汲むと身体にかけた。固形石鹸を手に含ませ、手で頭から顔、体全体とゴシゴシ洗っていく。すぐに両手と泡が真っ黒になった。背中だけ何度チャレンジしても、手が届かない。

「おにいちゃん、アタシがやってあげるよ」

 女の子が石鹸を手に取り、背中のほぼ真ん中をゴシゴシ洗ってくれた。

 手桶を取り、頭からお湯をかぶる。

「ありがとう。キミたち、名前は?」

「おいらは、ヴィタ」

「アタシは、ロトカだよ」

 やはり兄妹らしい。聞けば、祖父の代からこの家に仕えていた卑賎民で、先ほどいろいろ教えてくれた男性が、彼らの父だという。母は、他の卑賎民たちと同様、この家で料理を始め、家事全般を任されているようだ。

 このアムゼン村には、卑賎民が多いが、それほどひどい扱いは受けていないらしい、とオルヴィスは思った。これなら、フリーダも馴染みやすいだろう。

 湯船に浸かって、モンマス村長の顔を思い浮かべた。にこにこしている好々爺。もし、彼が、自分たちを貶めるとしたら、どんなことをするだろう。オルヴィスは、自分たちの身を守るため、疑り深くなっていた。

 しかし、だからといって、礼を欠いてはいけないだろう。

 湯船から上がると、タオルの他に、小綺麗な衣が用意してあった。身体を拭くと、それに着替えて、元いた場所へ戻った。

 ヴィタとロトカの父である男の人だけがいた。

「ただいま戻りました」

「おかえりなさい。モンマス村長とフリーダさんは、すでに夕餉の席についております」

 グレイザーさん、という方の案内で一階の奥にある厨房の隣の部屋へ案内された。

 彼がドアを開けると、いい匂いが鼻腔をくすぐった。

 モンマス村長がにこにこした笑顔で、パクパク食べているフリーダを見ていた。

「めっちゃ、おい、しい、ッネ、これ。わたし、生まれて初めて、こんな、おいしいものを、食べ、ました」

「しゃべりながら、食うなよ」オルヴィスがフリーダの頭を小突いた。

「あ、オルヴィス、やっと来たんだ。先に食べててゴメンね」

「オマエさんもほら、座って食べなさい」

「これ!」フリーダがお椀に入った白米を指差した。「これ、めっちゃおいしいから食べてみてよッ!」

 他には、ジンギスカンやお味噌汁、アサリとしじみの生野菜サラダなど、そのほとんどが二人の見たことのない料理だった。ライナ村は、海からは決して近いとは言えない森で囲まれた盆地にあるので、貝は簡単に手に入れることのできない食材だった。白米も市へ行かなければ、なかなか手に入れられない。

 しかも、今、白米の量が半端じゃなかった。お椀いっぱいにあふれそうなくらいだった。

 オルヴィスもむしゃぶりついた。

「なんだ、これ。今まで食った米の中で一番、甘いッぜ」

「オルヴィスも、しゃべりながら食べてるじゃないの」

「イヤ。ついつい感想を言いたくなるほどのうまさでな」

「その白米は、黄金のタネをまいて大きくなった米を使っておるからなあ」モンマス村長が変わらぬ笑顔で言った。「おいしいのも当然だ。飛鳥ノ国あすかのくにのアスカ米じゃ」

「黄金のタネ。なんだか、どこかで聞いたことがあります」とオルヴィス。

「すでに絶滅寸前とも言われている最高級の品種じゃ。気候の変動や虫害にも強く、炊いて食べれば、ぴんと整列しているみたいに粒立って、甘みも強い」

「そんな大事な米が、どうしてこの村に?」

「飛鳥ノ国から買い取ったのじゃ」

「でも、仙ノ国と、飛鳥ノ国は、対立してるんじゃないですか?」

「貿易だけは別なのだよ」

「意味がわかりません。貿易だけ別って」

「オマエさんにはまだ難しすぎる話だったか」

「ケンカはするけど、顔面殴るのはナシにしようぜ、みたいなカンジですか?」

「ん、なんだその例えは。少々わかりにくいが、大きく間違ってはおらんと思うぞ」

 フリーダがおかわりをしたいのに、遠慮しておどおどした様子に気づいたのか、

「遠慮するな」とモンマス村長が気遣い、フリーダは目に見えてわかるほど笑みを取り戻して自分でお椀によそった。

 夕食のお皿をすべて空っぽにすると二人はお礼を告げて退席した。

 積もり積もった旅の疲れで、翌日、二人は、クレイザーに起こされるまで、ふかふかのベッドでぐっすり眠っていた。




 砂浜でのシャトルランをやり、これが準備運動であり、それから、二人一組になり、互いを背負っての、坂道ダッシュ。

「も、もう、走れないよう」

 ガードリアスは前に倒れ込み、ペアになったモンペレに泣き事をぶつけた。

「こ、殺す気かよー俺たち」

 モンペレも砂地に仰向けに横たわった。徴兵されたとき、夜盗出現の報せを受け、警備団がバタバタしていたこともあり、ガードリアスは正式な訓練をまだ受けていなかった。遅ればせながら、こうして兵士になるための訓練を行っている。

 少しの休憩を挟み、次は海で、遠方に突き出た岩まで泳いで、戻ってくる水泳の特訓。この日は、白波が立つほどの悪条件だった。

 ガードリアスは溺れた。ライナ村は内陸部にあり、海なし村だったので、こうして真剣に海で泳ぐ機会がほとんどなかった。川で泳いだ経験があるくらいである。

「だ、だいじょ、うぶ、かい? ガードリアス」

 近くを泳いでいたモンペレに助けてもらった。

 岩のあるところまで運んでくれた。

 岩にしがみついて、なんとか口に入った海水を吐き出したものの、次から次へと白波が押し寄せてくる。

「岩に登ったらいいよ」というモンペレの言に従い、岩をよじ登った。

 寒さでブルブル震えているうちに、次から次へと訓練生たちが岩にタッチして、浜へと戻っていった。

 モンペレは、ガードリアスにとって、徴兵されてから初めてできた同年齢の友達だった。

 出身地は、鍛冶で有名なエスペランサ村。いつだったか、マクマードの市場でオルヴィスが有名な刀鍛冶イヴァルディだかのオノを見つけてテンションが上がったことがあったが、そのイヴァルディを輩出した村でもあるという。モンペレ自身は、剣を手にしたことはないらしく、剣の実技訓練では、いつも他の者に遅れを取っていたが、訓練についていけない者がいると、そっと声をかけて励ますような心優しい少年だった。

 このときも、モンペレは、ガードリアスを励ました。

「ガードリアス。キミは、確かに泳ぎが苦手みたいだね。でも、この岩から剥がれないと、いつまでも浜にはつけないね。ぼくにはさすがにあの距離を君を連れて泳ぐのはムリだ」

 モンペレは、もっとも体力が奪われず、泳ぎの得意でない人でも比較的泳ぎやすい平泳ぎを、身振り手振りを交えてガードリアスに教えた。ガードリアスには、なんとなく伝わった。実際にチャレンジしてみなければわからないが。

「イヤ。やっぱりダメだ。モンペレ。水自体が怖い」

 ガードリアスは震えた。恐怖からではない。容赦なく吹き付ける風を受けて、身体が冷えてきたのだ。

「ううッ…マジ、寒いや」

「ガードリアス。こういうときは、海に入ってしまった方が寒くないものだよ」

 見本でモンペレが先に平泳ぎをしてみせた。

「カエルだ。君はカエルを知っているかい?」

「カエルくらい知ってるさ」

「そのイメージだ。カエルが泳いでいる姿をイメージして、君自身がカエルになるんだ。早くしないと…ほら、後ろからヘビが泳いで追ってくるぞ。ヘビも泳ぎは上手なのは、知ってるだろ?」

 ガードリアスは意を決して海に飛び込んだ。

 ところが、頭で知って泳ぐのと、実際に泳ぐのとは、大きく異なるものだった。ガードリアスはカエルのように足を水中で蹴ることに集中しすぎて、両手がおろそかになった。その結果、どんどん海へ沈んでいく形になった。モンペレの叫び声が聞こえたが、途中で目の前が泡だらけになって聞こえなくなった。

 最後に、オルヴィスの顔が浮かんだ。

『オマエ、戦場なんかで死ぬんじゃねーぞ』

 ゴメン、オルヴィス。僕は溺れて死ぬみたいだ……。



 意識が戻った。

 目を開けると、シュヴァーベン訓練長とモンペレの顔があった。

「よかった。ガードリアス。目が覚めて…」

「あれ? 僕はどうなったの?」

「こうなったんだ」と強めに言いながら、訓練長が毛布を剥ぎ取った。

 すっぽんぽんだった。

 近くに火が焚かれており、木の枝に、訓練着があった。

「ガードリアス。訓練長が君が岩から戻ってこられるか心配してね、救助の舟を出してくれていたんだ」

「ありがとうございます、シュヴァーベン訓練長。モンペレもありがとう」

 シュヴァーベン訓練長は、この辺り一帯の村の警護を担当する警護団の団長であるオルヴィスの父シュメルの上官に当たる。

 しばらくの間、海に慣れるための水泳の特訓と、船の操縦を習った。




 オルヴィスは、カンバ、という木こりの親方に連れられて村の森へ行った。松や杉など、木材に適した樹木の多くある森林だった。

 カンバは寡黙な男なのか、案内の最中、一言もしゃべらなかった。オルヴィスも、おしゃべりな方ではないため、話しかけなかった。体付きは、木こりとして理想的な肩幅の広い筋肉質な体型で、ふさふさの髪の頭頂部が剥げているのが、いかつい印象を少し緩めている。

 ハゲ、と言ったら怒るだろうか。

 オルヴィスは一度思いつくと、無性にやってみたくなったが、こらえた。言うなら、もう少しコミュニケーションを取ってからにしよう。さすがに、初対面で、ハゲはたとえここにフリーダがいたとしても、笑いにもならないだろう。

 それに、このカンバ、という男の横顔には、どことなく彼の大胸筋そのもののように笑いを弾き返すような雰囲気があった。

「お手並み拝見と行こう。十五と言えば、もう大人。オルヴィス。この松を切れ」

 カンバに指示されたマツを観察した。大樹である。周りの松と比べても、三倍以上は幹周りがありそうだ。

 オルヴィスは、オノを肩に背負うと、あっけらかんと告げた。

「この樹は、ダメっスね」

「なんでだ? オマエの腕では、この巨大な松は切れんか?」

「イヤ。そういうことじゃねー。アンタもわかっててオレを試してるんだと思うけど、こういう周りに比べて大きい樹は、カミサマの宿る樹だ。むやみに切っちゃいけねぇ」

「やるな」とカンバがむんずと腕を組んだ。「じゃあ、俺のやりかけた杉を切ってみろ」

 オルヴィスは、切り口のついた杉の前でホーミーを歌った。樹を倒す際、周りに人や獣がいないか注意を知らせるための、羊飼いが羊を呼ぶときなどに古くから伝承されている高い音程の裏声の唱法である。木こりもこれを使う。使わなければいけないとされている。万が一近くに人がいた場合、倒れた木につぶされてしまう危険があるからだ。

 オルヴィスは、だいじょうぶだと判断すると、オノを入れた。

 スコーン、スコーン、スコーン…。

 森にオノの音が響き渡る。

 小鳥たちが驚いて逃げていった。

 しばらくのち、メキメキッ、と音を立てて、周囲の木々の枝葉を巻き込みながら倒れた。

「合格だ」とカンバが小さく拍手した。「樹を倒すだけなら、木こりなら、ある程度の熟練を積めば、誰にでもできる。だが、オノを入れる前に、ホーミーを使ったのが良かった。慣れれば慣れるほど、基本を忘れてしまうものだ」

 なんだか褒められたらしいと思い、オルビスは軽口を叩くのも忘れてニヤけた。

『なんだ、別に怖い人じゃねーじゃん』

「疲れただろ? そこの切り株に座れ。昼飯にしよう」

 カンバから塩むすびを一個もらった。水筒の水を飲んでから、かじりつく。

「うめェ」

「おにぎりに入れる具材はたくさんあるが、塩むすびを食べたら、その米の本当の良さがわかる」

「これ、アスカ米、ってヤツかい?」

「よく知ってるな」

「きのう、村長さんのところでごちそうになったので」

「ところで、オマエ。まだガキのくせに、なんで流れ者になってるんだ?」

 オルヴィスは、ライナ村の供物の儀式と、ムスティリ村での盗賊の襲来から、峠の茶屋で見知らぬババアに有り金全部置き引きされたことなど、語った。

「バカだなあ、オマエ」

「バカって言うな。オレはいつも正常だ」

「正常とかそういう問題じゃない。オマエは、頭より先に身体が動く考えナシの猪突猛進野郎だな、ってことだ。別にオマエを否定はしてねーバカだなあ、って感想を持っただけだ」

「ふざけんなよ。バカだなあ、って言われて、否定されてない、って思う日和見野郎がどこにいんだよ」

「俺にとってバカは、褒め言葉だ」

 オルヴィスはチャンスを見つけた。今だ、と思った。

「この、てっぺんお皿ハゲ野郎。わかりにくいんだよ。そんなナリして、細かいこと言ってんじゃねーよ」

「てっぺんお皿ハゲ野郎?」

 カンバは無言になった。鉄拳が飛んでくると思って身構えたが、不発だった。逆に褒められた。

「ワッハッハッハッ、そのままじゃねーか、オルヴィス。上等だ。悪口いいじゃねーか。てっぺんお皿ハゲ野郎か。今まで言われたことないぞ」

「…そりゃあ、おっさんがコワモテだからじゃないのか?」

「俺が怖いか?」

「イヤ。そうでもねぇ」

 塩むすびを食べ終わると、水を一口飲み、神の宿るとされる巨大樹に目を移した。小さなうろがある。そこにキツツキが出入りしている。オルヴィスは立ち上がり、巨大樹へ向かった。

「ダメだ、オルヴィス。よせ。そこには近づくな」

「おっさん、やさしいねー」

 自分なら、キツツキの巣に手を突っ込んで、卵があれば卵を、ヒナがいればヒナを丸ごと、親鳥も捕まえられたらラッキーとばかりに、すぐに獲物にするところだ。

「やさしいとかじゃねーよ」カンバは居心地悪そうに残った髪をかいた。「ところで、オルヴィス。さっきから気になってたんだが、オマエ、親方に向かって、アンタとか、おっさんとか、よく言えるよなあ。タメ口でも普通、アンタ、おっさん、なんか言わんぞ」

「いーんだよ。オレは。本当にヤバそうなヤツにしか敬語は使わねー主義なんだ」

「じゃあ、俺はヤバそうじゃないか?」

「そういうことになる」

「オマエ、えっらそうだなーこの野郎」

 突き飛ばされて、オルヴィスは切り株から転げ落ちた。

 休憩が終わると、倒した杉をのこぎりで八等分に切った。それを、ナタで細かく薪にして、きょうの仕事は終わった。




 シルルは、屠殺場に案内された。

 ウシやブタの声があちこちから聞こえてくる。忘れようもない血脂の匂いも鼻をつく。皮革も同じ場所で作っているのだろう。革特有の臭い匂いも混じり合っている。

「さあ、ここだよ」

 おばさんに案内された小屋へ入ろうとしたら、中から女の子の悲鳴がした。

「あァァァァァッ! いやァァァァッ!!」

「何事だね?」

 おばさんが戸を開けると、両足の縛られた頭のつぶれたブタと、それを押さえ込んでいる男たちふたり、床には大槌。そばで震えている女の子がいた。手には、牛刀がある。

 事情を察したシルルは、素早く小屋へ入った。

「貸して」

 シルルは牛刀を奪うと、ブタの喉笛をかき切った。大量の血しぶきが噴き出す。

「アジュラ! オマエ、どうしてためらった?」

 男のひとりが、アジュラと呼ばれた少女に詰め寄った。

「アンタ、誰だい?」もうひとりの男がシルルに詰め寄った。「ためらいもなく、一息に」

「この子は、新しく入ってきたシルルって子だよ。生まれ故郷でも屠殺をやってたらしくてね。…なかなかの腕前だねぇ」

 すっかり感心されているシルルを横目に、アジュラは涙ぐんでいる。まだ屠殺の経験がないのだろう。今、まさに試そうとしたときに、ためらってしまった。その現場にシルルはたまたま居合わせたのだ。アジュラは、シルルを下目遣いにじっと見つめている。見ようによっては、にらんでいるようにも見える。

 おばさんは、シルルに向き直った。

「この子にも屠殺やってもらおうかと思ったけど、もうやらんでもいいねぇ。相当な手練れだよ、この子は」

 それに比べてアジュラは…もう大人だというのに、おばさんはぶつぶつ呟いている。

「シルル、外に出な。その血まみれになった服を取り替えよう。お風呂にも入らないとね」

 シルルは、アジュラという自分と同じ年頃の女の子のことが、忘れられなかった。



 お風呂から上がって、長屋に案内してもらった。自分のことを評価してもらったとしても、シルルのカーストは、やはり賎民であり、あちこちからウシやブタの声の聞こえる長屋だった。朝になれば、これが断末魔に変わるのだろう。

 すし詰め状態のその長屋に入ると、自分にあてがわれたスペースに、先ほどの女の子がいた。もう涙の跡はない。

「…失礼します」

 なんとなく気まずい思いで、隣の藁の上に座る。

「わたし、シルル=ヴォルレーゼンって言います。きのう、この村に来ました。これからお世話になります。よろしくお願いします」

「…スゴいね、アンタ」彼女はぽつりと呟いた。「まゆひとつ動かさずに、ブタをやっちまうなんて」

「イヤ。あの場合、ブタが苦しむ間もなく屠殺しないといけないんだよ」

「知ってる」冷え冷えする声で言う。「あたしだって、ここの住人なんだ。そんなことくらい知ってる」

「じゃあ…」

 シルルはその続きの言葉に窮した。

「じゃあ、なんだい? モタモタしてないでさっさと殺れ、っていうのかい?」

 シルルは自分が怒られている気がしてうつむいた。いたたまれず藁を一本一本むしってゆく。

「…そうゆうことじゃないけど」

「わかる。アンタや大人たちの言うことはわかる。生きるためには、家畜を殺さないといけない、ってことくらい。そうしないとあたしたちが生きいけないからね。…耳にタコができるくらい聞いたよ。でも、あたしは、そんな一般論を聞きたいんじゃないんだよ。そんなこと百も承知なんだ。それでも、できないことってあるんだよ。あたしには、ね。向いてない」

 向いてない、といっても、賎民の仕事は、屠殺か皮革作りか、ほぼ奴隷みたいに有力者の家で飯炊きや風呂焚きをするくらいしか、仕事の選択肢はない。

「…わかる。わたしにもわかる。わたしも決して好きで家畜を殺しているわけじゃないから。ホントは、わたしだってイヤだよ」

「あーなんで、生き物殺して生きていかないといけないんだー」

 この世界がおかしい、間違ってる、狂ってる、と言い始めた頃には、ふたりで共感して笑い合った。

 あらためて、彼女は、アジュラ、と名乗った。




 コルテスは部下を引き連れ、遼ノ国へと至る峠の茶屋で、非常に美しい女と出会った。部下たちが冷やかし始めたが、この女には、どこか、近寄りがたい雰囲気があり、部下たちもそのことを察したのか、冷やかしも尻すぼみに消えていった。

 彼女は、小声でコルテスに話しかけた。

「…カヤクグリ部隊、アシュラ隊長からの直々の伝令だ。現在、僧侶から奪われた黄金のタネのひとつは、遼ノ国の鉄鋼の街ウェルテスにあるらしい。盗んだのは、ヨタカ部隊の、モズ、という女だ。かなりの手練れらしい。今は次の伝送班が来るまで街に待機しているとのことでこの隙を逃さず奪取せよ、との命令だ」

「…了解した。ちなみに、アンタの名は?」

「私は、トビムシ」

「そうか、わかった」

 カヤクグリ部隊というのは、おもに仙ノ国の諜報や破壊工作、要人暗殺などを行っている隠密部隊で、だいたいどこの国にもあり、その存在を正式な兵団などにも伏されていることも多い。

 コルテスは正式にはこの部隊の一員ではないが、間者として報酬をもらって、暗殺以外のいくつか仕事を請け負っている。こうした間者は、各地に散りばめられている。

 トビムシ、というのはもちろん偽名だろう。

 女は、串団子をほおばりながら、峠を登っていった。

 コルテスは後を追った。

 一瞬の出来事だった。

 トビムシの両脇から刀を手にした覆面の人物が飛び出したのと、コルテスが二本のナイフを投げたのと。

 覆面の人物は、ふたりともその場に倒れ伏した。手からはナイフがこぼれ落ちる。トビムシの手からは串団子がこぼれ落ちた。

 コルテスは駆けつけ、覆面を剥ぎ取った。

 男だった。もちろん知らない顔だ。トビムシを始末しようとしたのだろう。

 カヤクグリ部隊というのは、非常に冷酷かつ非道な部隊で、一度仕事をした隊員を、情報漏洩防止のため始末する決まりがある。だいたい、隊員には賎民や罪人などが選ばれることが多い。

 トビムシは今起こったことにひどく怯えてガタガタ震えていた。

「もう少しで殺されるところだったな」

「ど、どうして、ですか?」

「カヤクグリ部隊の掟が気に食わないからだ」

「あ、ありがとう、ございます」

「アンタ、本当の名前は?」

「イシノミです」

「なにやってカヤクグリに入れられた?」

「夫を殺しました。商人です」

 コルテスはきびすを返した。峠の茶屋に戻った。

「おい野郎どもッ! そろそろ出発だッ!」

 馬に乗った盗賊団は、怒涛の勢いで峠を下っていった。




 この日は、カンバに所用があり、オルビスはひとりで森の木こり場へ来ていた。

 ひとりで木こり場へ来ると、さらに森の奥へ伸びている林道が気になり、仕事の前に足を伸ばした。

 それほど行かないうちに、お社があった。その前に人影があった。後ろ姿から見て、少年に違いなかった。肩が震えている。

泣いているのだろうか。

 こっそり近くつもりはさらさらなかったが、不運にも、足元の小枝をパキッ、と踏んで音が鳴った。振り返った。目元が赤くなっている。

 名前が思い出せなかった。しかし顔は見たことがある。あれは確か…この村に初めて来たときだ。それなら、名前は知らなくて当然だ。ていうより、話したことがない。

「あ、オマエ。見たのか?」少年がにらむ。

「なにが?」

「とぼけんじゃねーよ。俺が泣いてるところ見たのか?」

「見たよ。なんかワリィか?」

「誰にも言うんじゃねーぞ。とくに、村長にはな」

「安心しろ。オレは、誰が泣いたとか泣かないとか、別に興味ねー」

「オマエ、なんつったっけ?」

「オレは、オルビス=フリードマン、という」

 オマエは? と聞く趣味もなかったが、向こうから名乗った。

「俺は、ゲルノットだ」

「そうかい。よろしくな。一応、社交辞令で聞いとくが、オマエ、村長の息子か?」

「なぜ気になる?」

「だから、ただの社交辞令だって」

 だいたい、これまで村長の息子、という人種には、ひどい目に遭わされてきたので、自分は村長の息子なる人種とは相性が悪いのかもしれない、とオルビスは思った。

「いや。俺は、村長の孫だ」

「孫かぁ、チクショウ」

「なんで残念そうなんだ? オマエ」

「イヤ。…系統としては、似ているよな」ひとり呟く。

「俺も社交辞令で聞いてやる。オマエは、木こりなんぞやっていていて、つまらないと思ったことないのか?」

「イヤ。あるよ。もちろん」

「あんのかい」

「当たり前だろ? 仕事なんだからな。つまらないと思うことは誰にでもあると思うぜ。ただ、つまらないなりに、森の中で木を切ることは、なんかこう…あれだよ」

 オルビスは耳を澄ませるようなジェスチャーをした。

「あれってなんだよ?」

「だから、あれ、だって」

「森の中で、野生の声に耳を傾けていると自分が生かされているなぁって感じることはステキだ、ってことか?」

「ああ、そんなカンジだよ。オマエ、頭いいなあ」

「俺は別にそうは思わないがな」

「でも、オマエも木こりだろ? 今から一緒に仕事しようぜ」

 山道を戻ったところで、オルビスは急に振り返った。

「ところで、あのお社、誰の墓? 今度は社交辞令じゃねー」

「あれは……父と母の墓だ」

 だから泣いてたのか、とオルビスは納得する。別に笑うつもりはない。泣きたいなら泣けばいい。自分の身近にもよく泣くヤツがいる。

 二人は、木こり場に戻った。

「まず俺がやる」

 オノを肩に乗せてゲルノットが進み出たが、あの杉の大樹に向かったので、オルビスは釘をさした。

「おい。その木はダメだぞ。森の中にある大樹は、カミサマの宿る樹だから、切っちゃいけない、って教わらなかったか?」

「そ、そんなこと、知ってる…」

 うろたえぶりから知らなかったか、忘れていたのだろうと思ったが、オルビスは別に彼を馬鹿にするつもりはなかった。

 次に向かった先の樹では、ホーミーをやらないで樹を切ろうとしたので、オルビスは制した。

「おい、ちょっと待て。幹に樹を入れる前にホーミーやらんとダメだろ。もし、倒れたところに、人や獣がいたらどうすんだ?」

「…うっせーなオマエ。んなことわかってるよ。慣れてきたら、んなもん省略したっていいんだよ」

 よくわからないが、ゲルノットの逆鱗に触れたらしい。新入りのくせに、あまりチクチク言いすぎたからだろうか。

 だが、オルビスにも木こりとしての信条があるし、空気を読まないことには自信がある。

「いいや。慣れてきてもダメだ。どけ。オレが代わりにやる」

 偉そうに言える身分ではないが、ゲルノットの木こりとしての腕は、申し分なかった。

 ただ、どこかに、迷い、というか、集中力に欠けた印象があったことは否めなかった。

「オマエ、さっき俺に、木こりなんぞやってつまらなくないか、って聞いてたよな? じゃあ、今度は俺が聞く。オマエは、木こりやってつまらないのか?」

「ああ、つまらねぇよ。今すぐにだってやめてぇ気分だ。毎日、毎日、汗かいて、血まめ作りながら、木をぶっ倒す。仕事終わったら、もうバタンキューだ。こんな泥くせぇ肉体労働なんかやってらんねー。少なくとも俺がやるような仕事じゃねぇわ。こんなモン、賎民にやらせときゃいいんだよ」

 オルビスは、無言でゲルノットのほおを殴った。

 勢い、ゲルノットは吹っ飛ばされて、近くにあった木の幹にしたたか背中を打った。オルビスは、彼を冷ややかな目で見下ろす。

「テメェ、ふざけんな。なにが賎民にやらせておけばいい、だ。テメェ、彼らがどういう仕事をしているのか知ってんのか。賎民をバカにすんな。それに、木こりの仕事を見下すのは許さねー。木こりやってる全員に謝れ」

「う、ッ、せーな。新参者のくせに。殴りやがった。筋肉バカどもには、こういう荒くれ者が多いからタチが悪りぃってんだよ」

 オルビスは、ゲルノットの襟首をつかむと無言でもう一撃を加えた。

「じゃ、テメェは木こりじゃなきゃ、どんな仕事をする人間、なんだよ」

 よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、ゲルノットは殴られた痛みも忘れたように、すらすら話し始めた。

「俺は、村を出て首都のウッドワイドで高級官僚になる。それが俺のすべき仕事だ」

「ふうん…。悪くないんじゃねぇ? でも高級官僚になるには、超難しい試験がある、って聞くぜ」

「俺はそれの勉強を進めている。近々その試験があるんだが、軽く突破して、こんな木を切って、家畜を屠殺するくらいしか芸のない、短気暴力野郎のいる田舎村とは、とっととおさらばしてやる」

「ふうん、なるほどねー。いいんじゃないのか」

 陽が暮れてきたので、ふたりは別々に村へ戻った。




 このために海上や砂浜での訓練があったのかと、ノヴァクの納得できる事件があった。

 シュヴァーベン兵団長からの任務は、近頃海に出没する外国船を拿捕すること。

 見張りから外国船出没の報を受け、ノヴァクの所属する警備団は急いで海岸へ馬を走らせた。

 海の上に一艘の船が波にもまれて揺れていた。

 団長シュメルの指示で、ノヴァクとモンペレ、他の数名の団員らとともに泊めてあった船に乗り込み、急行する。

 反転して逃げようとする船に向かって、シュメルが忠告するべく叫んだ。

「おいそこの船ッ! 止まれ! 止まらないと射撃するぞッ!」

 なんの応答もない。

「ノヴァク、モンペレ。撃て。ただし、警告射撃に止めろ。まだ当てるな」

 ノヴァクとモンペレは、弓を持ち、矢をつがえると、弦を引き絞った。矢を放つ。矢は、船の手前の海面に突き刺さり、海の藻くずとなった。

 それでも逃げようとする船に向かって、シュメルは、漕ぎ手にもっとかんばるよう檄を飛ばした。

「急げ! 逃げられるぞ! モンペレ、ぼーっとしてんな! 漕げッ!」

 四人一組で櫂を漕ぐ。その甲斐あってか、徐々に不審船との距離を縮めていった。近づくにつれて、乗組員が外国人であることがはっきりわかった。

「ノヴァク、モンペレ。漕ぎ手以外の者たちも皆、臨戦態勢に入れ。目標も武装してるかもしれん。気をつけろ。だが、あくまで兵団長からの命令は、できるだけ殺さず捕縛せよ、だ。その意味kはわかるな? できるだけ殺さず、だ。任務中は命令通りにいかないことは多々ある。身の危険を感じたら、すかさず斬れ。自分が殺されないようにな」

「了解」

「では、作戦を告げる。まず俺とノヴァクが船に乗り込み、ヤツらに反撃する余地を与えず制圧する。もし俺たちが返り討ちに遭ったら、俺とノヴァクは海に飛び込むから、他の者たちは全員で目標に射撃しろ。制圧が成功したら、目標を海に突き落とすから、オマエらも海に飛び込み、捕縛しろ」

 ここにいる兵士たちの中ではもっとも優秀と認められたからこその隊長とのペアだったが、ノヴァクは少し自信がない。まだまだ完璧に克服したとは言いがたい、船の上での作戦である。モンペレの方が向いている気がしたが、彼には武力に欠けるところがあるとの判断だった。

「ノヴァク。準備はいいか? 行くぞッ!」

 目標は、全部で五人だった。

 漕ぎ手たちが外国船にギリギリまで寄せると、二人は飛び移った。船が大きく揺れる。その揺れで、目標のひとりが体勢を崩し海に落ちた。

 シュメルは、片手ナイフを握りしめて、相手を威圧する。

「動くな。動けば、斬る。両手を挙げろ」

 ノヴァクも片手ナイフを構えて、シュメルとふたりで目標を囲むようにする。

「動くな。動いたら斬るぞ。動くなよー、マジで」

 ノヴァクとシュメルなら、ノヴァクの方が抵抗できそうだ、と考えたのだろう、乗組員のひとりが横からノヴァクにタックルをかました。ノヴァクは吹っ飛び、船から落ちた。

 それを合図にしたように、兵士全員が船に乗り移ってきた。ナイフを喉元に突きつけながら、片手で両手を縛ってゆく。

 モンペレだけが、まだ乗組員のひとりと向き合っていた。彼の額から冷や汗が浮き出ている。相手の手にも同じようにナイフ。

 シュメルが、目標にタックルをした。男はナイフを手放し、海に落ちた。

「モンペレ! ぼさっとするなッ! 任務中だぞ!」

 彼は、ハッと我に返ると、ノヴァクを探した。ノヴァクは海に落ちたままだ。だが、訓練の甲斐あってか、溺れてはおらず、頭だけを海面に出していた。

「ノヴァク! 目標がひとり、海から落ちたッ 追えッ!」

 シュメルが吹き飛ばした男がひとり、泳いで浜とは別の岸壁の方へ泳いでいる。

 ノヴァクは、必死になって泳いだ。しかし、クロールの訓練もしたはずなのに、追いつけなかった。自分は海上の任務には向いていないのだろうか。

 だからといって諦めるわけにはいかない。

 ノヴァクはがむしゃらに泳いだーーこれでは、追いついても男を確保できるまでの体力がない、と頭の片隅で思いつつ。

 突然、大きな波がきた。

 ノヴァクは、波をかぶり、自分の泳ぎも見失った。




 遼ノ国にあるウェルテスの街は、鉄鋼業の盛んな街ということもあり、あちこちで鉄を鍛える音が響いている。

 まず逃げ込むには、うってつけの街だった。

 コルテスは、カヤクグリ部隊のトビムシという女から聞いた情報を元に、モズ、という女を探した。

 そこは遊郭で女が身を隠すにはかっこうの場所だった。そこで、最近、見たことのない女がこの界隈で目撃したものがいないか聞いて回ったところ、『うつろ』という界隈で一番繁盛している店の近くで見慣れない女がいた、という遊女の証言があった。

 非常に美しかったので、店が新しく雇った女かと思ったが、その店にいる知り合いに聞いてみたところ、そんな女は店にはいない、という。

 しかも、誰かが来るのを待っているような、そわそわした様子だったため、よく覚えていたらしい。

 コルテスはフードを目深にかぶり、その界隈へ行ってみた。

 いた。

 コルテスと同じようにフードで正体を隠している印象だった。

 ゆっくりと近づいた。遊びたい、という設定で話しかける。

「よお、ねえちゃん。客待ちかい? なんなら俺と遊んでくれないか?」

「すまないねぇ。私は、遊女じゃないんだよ」

「じゃ、なんでこんなところにいるんだ」

 コルテスは、壁にドンッと左手を突いた。右手でローブの中に隠したナイフに手を抜く。それを素早く女の喉笛にかける。

「おい、オマエ。持ち物全部出せや」

 脅した瞬間、ナイフが弾かれ、天地がひっくり返った。

 投げられたと気付いたときには、女の背中が遠くなっていた。部下が追いかけようとしたが、制止した。

「やめろ。オマエらの手に負える相手じゃねえ。トビムシが忠告していた以上のとんでもねぇ手練れだ」

 仕切り直そうと立ち上がったとき、けたたましい足音が近づいてきた。

 仙ノ国の兵団の団長ブルックと、その兵士たちだった。あいかわらず同じ人間とは思えないほどの巨躯。腕力だけかと思ったら、頭も切れる実力者。

 この男の下には、だいぶ年上の警護団団長のシュメルもいるから、その実力のほどはわかるというものだ。

 なぜコイツがここにいるのか。

「おい、オマエ。そこにいた女がどこへ行ったかわかるか?」

 コルテスは無言で界隈の奥を指差す。

「おい! 追うぞッ!」

 ブルックが巨躯に似合わないダッシュを見せたと同時に、コルテスは言った。

「…もう人混みに紛れちまった」

「この街のすべての出入り口はすでに封鎖してある。袋の中のネズミよ。決して逃げられん」

 ネズミではなく、ネコだぜ、とコルテスは内心呟いた。




 早朝、尿意があり、シルルは長屋から出て、厠へ行った。いくら屠殺場の朝が早いとはいえ、まだ寝静まった者がほとんどである。

 帰り道、長屋の前で、誰かがうつ伏せに倒れていた。誰だろうと思った。髪の色は、黒ではなく、栗毛。この賎民地区の人ではない。

「あの、だいじょうぶですか?」

 屈んで声をかける。ゆっくりと顔を上げた。男の人だった。

瞳の色も黒じゃない。緑色だった。

 男性は必死でなにかを訴えていたが、聞いたことのない言葉だった。身振りでなにかを主張しようとしている。

「ん? なんですか? お腹でも空いてるんですか?」

 シルルも必死で口元やお腹に手をやった。

 相手の男性は、首を何度も縦に振った。やはりお腹が空いてるんだ。

 シルルは、走って屠殺場へ行き、薫製肉を持ってきた。むさぼるように食べ始めたが、途中、歯を指差した。どういう意味かわからなかったが、男は最後まで食べきった。

 首をあちこち振って、周りを気にしている風である。

「どうしたの? なにかに追われているの?」

 とはいっても、ここには長屋やここに暮らす住人がいるくらいである。

「待って。今、頭領に聞いてくるから」

 立ち上がろうとしたとき、裾を引っ張られた。首を横に振っている。

「やっぱり、誰にも知られなくないんだ」

 だが、この男の人をここに置いておくわけにいかない。

 シルルは、裏山に案内した。

 ここには、洞窟があるのだ。シルルの経験上、この裏山には、人々の誰ひとりとして見かけたことがない。隠れ場所としては、最適な場所である。

「ごめんなさい。こんなところしかないけど、我慢してね。食べ物は、その都度、持ってくるから」

 シルルは急いで自分の寝床に戻った。




 この日は、月に一度、マクマード町に市の立つ日だった。アムゼン村へ来てから初めての市ということもあり、オルビスとシルルはふたりで連れ立って出かけた。

 荷車は山盛りになっている。大量の薪に丸太、森で採れた果実や木の実、まだ生きているニワトリに、畑で採れたじゃがいも。それから、丸々子ウシ二頭に、保存の効く薫製肉、小分けにしたウシやブタの各種部位、ずっしりくる重みなので、オルビスとシルルはふたりで荷車を引いた。

「ここに来るのは、いつ以来だろうなあ」

「まだそんなに経ってないよ。ライニー村にいた頃だから」

「そうか?」

「そうだよ」

「それにしても、ここは、いつ来ても活気があるね」

「オレ、この雰囲気好きだぜ」

 各町から集まった人々が、客を集めるため、大声を張り上げて口上をうたい、客の奪い合いをしている。だいたい、こういう交易は、商人がやることが多いのだが、二人の生まれ故郷であるライニー村やアムゼン村は、規模が小さいので、商人という身分の者自体いなかった。だからこうして生産者みずから売りに来ている。

 いい場所はすべて埋まっていたが、聞いたことのない村から来た商人が、すべて売値で買い取ってくれた。従者の少年は、ふたりと同じくらいの年齢だった。

 ふたりは、その後、各店を回り、米三俵と一ヶ月分はあるチーズの塊を十個と桃やリンゴなどの果物、オルビスはノコギリ、かんな、シルルは、ゴムエプロン、ゴム手袋、長靴をそれぞれ仕事のための道具を買った。

 荷車を引いて市のメイン広場まで来たとき、シルルの足が止まった。

「どうした?」

「ちょっと待っててオルビス」

 シルルは荷車から手を離すと、走っていった。

「おいどうしたッ」

 ちょっと待てと言われても、道のど真ん中である。オルビスはゆっくり荷車を引いて、シルルの後を追いかけた。

 シルルは、鍜治屋の前にいた。

「おばあさん。わたしのこと覚えてる?」

 ひとりの老婆が鍛冶屋の前で樹皮を削るような小刀を手にしていた。老婆は無言で、丸太に刃を当てて、小刀の切れ味を試している。

「ほうほうほう」老婆は歯の抜けたような声でシルルを見た。「おぬしは、いつかの親切者じゃ。わしにお金を恵んでくれてありがとう」

 珍しくシルルは声を張り上げた。

「親切者ですってッ! 置き引きしただけじゃない! お金返して!」

 老婆は、眉間に縦皺を刻み、小刀をじっと見ている。

「すまぬ。孫のためじゃ。病気がちでのう」

 シルルの口角が上がり、ころっと態度を変えた。

「なあんだ。それじゃ仕方ないね。お孫さんのためなら」

「仕方ないのかい」追いついたオルビスがツッコんだ。「どんだけお人好しなんだ、オマエは」

 おばあさんが小刀を置いて、そのまま立ち去ろうとしたところを、今度はオルビスが止めた。

「待てよ。ばあさん。本当に孫が病気がちなのか、オレたちをアンタの家まで連れていってもらおうじゃねーか」

「ちょ、ちょっとやめなさいオルビス」

「なんだい。さっきまでは金返せ、と言ってたくせに、今度は一転してばあさんの味方かい」

 オルビスは譲らなかった。仕方なさそうに老婆は、とぼとぼ歩いていった。

「遅せぇな。とっとと歩け」

「オルビス、おばあさんなんだから、そんなに早く歩けっていったって…」

「なんだ、オマエ。このばあさん、オレたちの荷物かすめとっていったとき、めっちゃダッシュで逃げていったこと忘れたのか?」

「あ」とシルルが間抜けた声を上げる。

 かといって老婆の足が特別速くなることもなく、アムゼン村へ向かう途中にある小道を通って森の中へ入った。

「こっちじゃ」

 今にもつぶれそうな小屋があった。外に魚を干してある。

「入れ」と老婆が言った。

「おじゃまします」申し訳なさそうにペコペコしながらシルルが先に入った。続けて、オルビスが憮然とした表情で「おじゃッス」と口にして入ってゆく。

「なにそれ」とシルルがくすくす笑っている。

「笑うんじゃねーよ」

「コニー、今、おばばが帰ったぞよ!」

 別室へ行ったら、六歳ほどの子供が寝台に横たわっていた。

「おかえりなさい、おばば」

 コニーと呼ばれた子供は、上体を起こした。

「あれ? …そちらの方々はどなたですか?」

「市で会うてな。オマエの見舞いに来たいそうで、一緒に来てもらうた」

 シルルは、オルビスを肘で突いた。小声で呟く。

「オルビス。やっぱお孫さんいるじゃない。疑っちゃダメよ」

「お、おう、そうだな。おばば、疑って悪かったな」

 オルビスは、恥ずかしそうに頭をかいた。

「…ねえ、オルビス。見舞いに来たんだから、なにか栄養になるモノあげないとダメよね?」

「ああ、このパターンはそういうパターンだな。やるか」

 オルビスは外に戻って荷車から桃をふたつ持ってきた。戻ると、老婆に桃をふたつ差し出した。

「これ、孫にやれよ」

「いいの? おにいちゃん」コニーが笑顔になった。

「いいぜ。やる。病気は良くなったのか?」

「なったよ。いっぱい栄養のあるモノ食べたし、お薬も飲んだ」

「そいつはよかったな」

 シルルがまた肘で小突いてくる。

「…有り金全部盗まれた甲斐あったね」

「イヤ。オマエ、小声でぼそぼそうるせぇな。ちょっと黙っとけ」

 シルルはしゅんとして縮こまる。

「ありがとうありがとう」

 両手をこすり合わせて老婆は低姿勢で礼を言った。

 そろそろ帰ろうと外へ出たら、老婆がついてきた。

「オマエさんたちの持っていた熊旦がよく聞いたのじゃと思う」

 熊旦とは、クマから切り出した胆嚢を乾燥させて作った薬で、滋養強壮など、様々な薬効があることで知られている。これは、薬として非常に価値が高く、とくにカースト最上位にいる人々が購入するくらい高価なもので、その一丸で、米俵十俵と丸々牛一頭とブタ一頭分合わせたほどの高値で取引される。

 その熊旦は、ライニー村を出奔したときに、友達のノヴァクが餞別にとシルルにくれたものだった。

「本当にありがとうありがとう」老婆は両手をすりすりした。

「いえ…。お孫さんのお役に立ててよかったです。お大事にして下さい」

 どこまでもお人好しのシルルである。

 帰り道、彼女はあの外国人についてオルビスに相談しようと考えていたが、オルビスの横顔がいやに真剣で、話しかけづらかった。

 結局、この日は言えずじまいだった。



 ノヴァクは、シュメル隊長、モンペレとともに、警護団を越えた特別任務を与えられていた。

 黄金のタネを手にしたと思われる女を捕らえること。本来なら、シュメル隊長だけ召集されるところ、ふたりも名乗り出たのだ。

 見たことのない貫禄たっぷりの男が先頭に立って指揮している。聞けば、兵団長のブルック団長だという。見渡せば、兵団というだけあって、どの人も強そうに見える。

 先ほどまでいた盗賊団の首領コルテスはいつの間にかいなくなっていた。

「シュメル! オマエは、ノヴァク、モンペレとともに、そちらの路地へ行け」

 ブルック団長が命令を下す。それより、ノヴァクは、自分の名前を呼ばれたことが嬉しかった。

「なにニヤニヤしてんの?」モンペレがノヴァクの歓喜の時間を破った。

「イヤ。どうしてブルック団長は、僕の名前を知っていたのかな、って」

「もちろん、制服に名前が刺繍してあるからでしょ」

 舞い上がりすぎてそのことには思い至らなかった。

「ふたりとも! 早く来いッ、こっちだ!」

 シュメル隊長の命令で我に返った。

 ブルック団長の率いた兵士たちも団長の命令で散り散りになって路地に入っていった。

「…こういうときってたいてい、見つけたくない、って思うチームが敵を見つけちゃうんだよね」

 モンペレが怪談話でもするみたいな声で言ったのを、隊長がとがめた。

「軟弱なこと言ってるんじゃないぞ、モンペレ。俺たちが見つけるんだッ。その心づもりでいろ」

 突然シュメル隊長の足が止まった。勢いノヴァクは彼の背中にぶつかった。が、これ以上来るな、というジェスチャーをした。

もしかして、本当に目標が見つかったのだろうか。

 そこは路地から出た先の広い道路だった。

 コルテスがいた。

 彼は戦っていた。

 フードを被った女と。

 ふたりとも得物は同じだった。

 ーー短剣。

 しかも、二刀。

 訓練ではない。本物の殺し合いである。お互いに突き出し、薙ぐ短剣に力がこもっている。相手の短剣を受け止め、かわす動作には命がけの気迫がみなぎっている。

 反撃をする気迫には、一振りごとに殺意がこもった。

 ノヴァルは、はらはらして落ち着かなかった。

 両者譲らず、いつどちらかが殺されてもおかしくない。

 両者動きが止まった。

 肩を激しく上下させている。息を整えているようだ。

「おい、アンタ。めちゃめちゃブスだなあオイ」

 コルテスが、一目で美女とわかる女に言った。

「ブスだなんて言われたのは、生まれて初めてだよ」

「顔じゃねーんだよ。こんなに強い、いつまでも殺せねぇヤツは、ブッサイクだっつってんだよ」

 息が整ったのか、最初に女が動き出した。しゃべっていた分、コンマ一秒か、コルテスの動作が遅れた。女が腰につけていつまでも使っていなかった脇差を抜いた。

 思いがけずコルテスは短剣を持った両手を突き出して防御したのだが、その際、手袋をつけた両手が斬り裂かれた。手袋をつけてなかったら、指ごと持って行かれたところだった。

 だが、その際、短剣を二本とも落としてしまい、女は持った太刀をコルテスの心臓めがけて突き出す。

 殺された! とノヴァクが思った瞬間、倒れたのは、女の方だった。いつの間にかモンペレがおらず、彼が女の後ろから短剣を刺していたのだ。

「アアアァァァァッァ…!」

 モンペレは叫んで、その場にうずくまった。

 女の身体が傾いで、前に倒れた。

「おいそこのクソガキ。人を殺ったのは初めてなのか?」

「…は、はい、初めてです。すみません、ふたりで戦っているときに途中で割り込んで…」

「いーんだよ、別に。俺たちは戦争やってんだ。一騎打ちの勝負をしてるんじゃねー。ひとりの兵士は、ひとりで殺さないといけねぇってルールはねー。後ろから刺されたコイツが油断してたってだけだ。まぁちょっとは水を差された感じはあるけどな。でもな、最終的に生き残った者の勝ちだ。逆に助けてくれて助かったぜ」

 俺はまだ死ぬわけにはいかねー、とコルテスは強い口調で呟いている。まだ息のある女に話しかける。

「おいオマエ。黄金のタネは持ってんだろうな?」

「…ざ、残念だったな。…もう…次の運び手に渡してる」

「そこのガキんちょ。殺るときは、苦しまないように一息にドンッ、とやってやれ」

「女。無念だったな。この世界に入らなかったら、その美貌だ。武士か商人に見初められたら、もっと楽して暮らせたのにな」

「む…ムリだ……私は、賎民…生まれたときから運命は決められている…」

「そんなことはねぇ。そこに突っ立ってるおっさんなんか、実力で平民になったからなあ」

 しかしあれは、ごく稀な例にすぎない。多くの人々は死ぬまで一生賎民で過ごさねばならず、涙を飲むことの方が多い。

「おい、なにか言い残したいことは、あるか?」

「…な、い。死んだらなにもかも終わりだ。生き残った者の……勝ち」

「わかる。死ぬほどわかるぜ。同感だ。そうゆうわけで、今ここでオマエが死んでも、俺は生き残ったことを喜ぶ」

 しゃべりすぎた。

 そのあとコルテスは、女の耳に顔を寄せると何事かささやき、女の心臓に脇差を突き立てた。

 モンペレは気が抜けてその場にへたり込んでいた。




 カコーン、カコーン。

 オルビスは薪を半分に割っている。カンバはのこぎりで丸太を四等分にしている。ふたりが同時に額の汗を拭ったとき、思いがけない訪問者があった。カンバにとっては知らない顔だったが、オルビスには知っている顔だった。例の老婆である。

「おぬしがカンバという者か?」

「いかにも、私がカンバだが、いったいどちらさまかな?」

 思いもかけないことが起こった。

 老婆はものすごい力でオルビスの後ろでにひねったかと思うと、喉元に短剣を突きつけてきたのである。

「お、おい、ババア。冗談はよせ」

 首を遠ざけても、またたく間に刃が距離を縮める。

「アナタ、なにをやっている。およしなさい。

 カンバが近づこうとすると、「動くなッ」と一喝する。

 オルビスは、老婆の発する言葉に耳を疑った。

「黄金のタネの隠し場所を教えろ」

「黄金のタネ…? なんだねそれは?」

「しらばっくれるんじゃない。この子の命はないよ。アンタが隠し持ってることはちゃんと裏が取れてるんだ。…アンタの友人のアケべからね。さあ、出せ! 早く! 黄金のタネだ!」

「その子は殺すなよ…」

 そうけん制しながら、カンバはあの大樹へ向かった。

 キツツキの巣のあったうろに手を突っ込む。手を抜いたときには、その手に小箱があった。

「中身を見せろ」

 老婆が首で指図すると、カンバは首に下げていたアクセサリーから鍵を取り出しフタを開けた。

 人質に取られているのでオルビスには中身が見えなかったが、きっとそこには黄金のタネとやらがあったのだろう。

「鍵と一緒にそこの切り株の上に置け。なにか妙なことをしたら、すぐにこのボウズの喉をかっ切るからね」

「わかった…わかった…」

 両手をバンザイにしてけん制しながら、カンバは老婆から一番近いところにある切り株に例の物を置いた。

 老婆は人質にしたオルビスを引き連れたまま、小箱を手にした。直後、老婆はオルビスは手放した。

「ボウズ。本来なら正体を見られたオマエを殺すところだが、孫を助けてくれた恩があるから見逃してやる」

 ダマされた、とオルビスは思ったが、そこだけはーー孫だけは、本当なのか。よくわからない。

 老婆は小走りに去っていった。




 ある日、木こり場で仕事をしていると、カンバがオルビスの強い口調で告げた。

「オルヴィス。シルルって子、オマエの連れだよな?」

「ああ、そうだけど。それがどうしたの?」

「大変なことになってるぞ。…俺も村の広場で聞いただけなんだが、なんでも、警備団が逃がした不審船の外国人らしい」

「それと、シルルにどんな関係がある?」

「…匿っていたらしいぞ」

「匿う?」

「ああ。ゲルノットが外国人の潜伏先を見つけてな。つい先ほど役人たちが逮捕しに向かったが、その子は逃げたそうだ」

「ゲルノットめ…アイツか。こんのヤロウ…余計なことしやがって」

 そもそもシルルから外国人を匿った、という話を聞いてなかった。たとえ聞いたとしても、自分なら止めなかっただろうから、結局は同じだったかもしれないが。

 自分たちは普通に生きていきたいだけなのに、どうしてこういつもトラブルに巻き込まれるのか。それなら、自分からはなにもするな、というのか。

「シルルを助ける」

 簡潔に告げるとかんなを投げ出してオルヴィスは森から出ていった。

 勢いよく飛び出したはいいものの、どこへ向かえばいいのか。オルヴィスは、賎民地区へ向かった。

 そこでシルルと同部屋だという女の子から聞いた。ここへ役人が逮捕しに来て、縄で縛られる直前シルルがその手を振り払って逃げたのだという。

 その女の子が指を差した方向へオルヴィスは走った。

 まだ役人たちに見つかってないといいがーー。

 オルヴィスは茂みの中へ飛び込んだ。思いの外深く、転びそうになる。体勢を立て直し、ふたたび走り始める。

 息が切れる。足が上がらなくなる。枝葉が顔にぶつかる。スズメバチの巣を踏んづけて追いかけられる。

「おーーいシルルー!」

 呼びかけたら、いきなり木陰から手がにゅっと出てきた。シルルに間違いない。オルヴィスは木陰からジャンプした。振り返ったら、そこにシルルがいた。

 どうやらクマの冬ごもりの巣穴に身を潜めていたらしい。

「…ゴメン、オルヴィス」

 手を差し出したら、大声が聞こえた。

 ーーおいこっちだ! こっちに人がいるぞ!

「見つかった! シルル手貸せ」

 手を引っ張ると、オルヴィスはすぐに手を離した。

「自分で走れよ。逃げるからな」

 森の中はお手の物だったが、シルルはそうではなかった。倒木に引っかかったり、藪に足を取られたりしてモタついたため、追っ手との距離がどんどん縮まっていった。

 しかも、四方八方から追っ手が迫ってくるので、袋の中のネズミになりつつあった。

 一点だけ手薄なところに活路を見出して、シルルを叱咤しながら森を駆け抜ける。

 最後はシルルの手を引いて、森を飛び出した。

 ところが、飛び出した先は、岬の突端だった。しかも、役人らしき男たちが数人待ち構えている。その中には、ゲルノットの姿もあった。そうこうしているうちに、背後から追っ手も追いつきつつある。

 オルヴィスはシルルの手を握ったままゆっくりと役人たちの近くまで進む。ゲルノットに向かって叫んだ。

「おいテメェ! クソ野郎! よくもシルルのことを役人に告げ口してくれたなあッ。見損なったぜ。最初からクソ腹立つ自意識過剰野郎だと思ってたがよ、役人になるために難しい試験を受けるって聞いて、スゲェなって関心したかと思ったら、これかよ。恥を知れッ!」

「よくもまあ、そのような口汚い言葉をべらべらべらと…。なにを血迷ったこと言ってる? 犯罪者を役人に通報することは、我々民草に課せられた義務だろう。恥というなら、犯罪者を逃げそうと連れ回した君の方が恥と知れ」

「ところで、シルルが匿った外国人ってのは、どんなヤツなんだ?」

「大陸からの密航者だそうだ」

「密航者? どういうことだ?」

「ようするに、諜報員だ」

「諜報員? なんのために?」

 その問いには、ゲルノットの隣にいる役人が代わりに答えた。

「そのうちこの国を征服しに来るための下調べ、あるいは、布石だろう」

 ゲルノットはわざとらしく咳払いをした。

「ようするに、だ。その諜報員を、そこの女は匿っていた、ということだ」

「シルル。オマエ、その外国人が諜報員だって知ってたのか?」

 首を横に振った。

「でも、怪しいヤツがいたら、ちゃんと通報した方がいいぞ」

「うん…」

 シルルはうなずいた。

「まあ、そういうことだ」けろっとしてオルヴィスは言った。「シルルは外国人のことをなにも知らないで匿っていた。大した罪じゃねー。許してやってくれ」

「なにを偉そうに言ってやがる?」ゲルノットが詰め寄った。「知らないで済んだら、お殿様はいらねぇんだよ」

「大陸には、律令、って決めごとがあるそうじゃねーか? オマエ、知ってっか?」

「当たり前だろ。俺は、役人になんだぞ」

「なら、わかるだろう? この仙ノ国には、律令はねえ。律令ってのは、明文化されてないものは罪にはならねんだ。ってことはつまりよー。シルルは、裁けねー、ってことだ。情状酌量の余地あり、とも言うらしいな」

「木こりのオマエがそんなことを知ってるのは意外だったが、ごちゃごちゃご託を並べてもムダだ。ここは、大陸じゃねえ。仙ノ国だ。仙ノ国には、仙ノ国のやり方がある。殿の…イヌハギ様のおふれによってすべてのことが決まる。ーー今は大陸からの脅威が強く警戒されるため、外国人を見つけたら直ちに通報せよ。これを怠った者には、禁固一年の刑を言い渡す」

「…まあ、オマエの言いたいこともよくわかるっちゃわかるぜ。だけど、さすがに禁固一年は長すぎるよなあ。我が国のお殿様の頭、イカれてるんじゃねーの?」

「おふれ。イヌハギ様のことを侮辱することは、不敬罪に当たり、懲役一年の刑を言い渡す、だ」

 ゲルノットは、棒読みですらすら語った。オルヴィスは、この場から逃げきる秘策があるわけではなかったが、時間稼ぎのため、彼に聞いた。

「ところでよー。オマエ、さっき、役人になった、と言った。役人になる、じゃなくな。ってことはオマエ、役人になるための再試験に合格したのか?」

 ゲルノットが、頭を抱えてうずくまった。

「くそォォォォォ! やっぱ、俺にはウソつけねー。ちっくしょう! 言わなきゃわからなかったのに、最後まで隠しておくのは、良心が耐えられねぇぜ!」

 彼は頭をかきむしった。

「スマン! オルヴィス! 俺は卑怯なことやった。外国人の居場所を教えたら、試験に合格したことにしてやる、ってな」

 ゲルノットがうずくまった態勢のまま土下座した。

「ゆ…許してくれオルヴィス…すまねえ」

 役人たちのあいだで動揺が広がったが、岬を背後にしている以上、逃げ出す隙はなかった。

「別にオマエが謝る必要はねー。ゲルノット。立てよ。いいか? この状況、どう考えても、仙ノお国様のご事情によると、外国人を匿ったシルルが責められてしかるべきことだろう。オマエが卑怯だとかなんだとか、そうゆうことは関係ねえ。罪の意識を感じてるんなら、勝手にしろ。オレにとってはどうでもいい。オマエが罪の意識を感じたって、オレやシルルのこの絶体絶命のピンチは変わらないんだからな。それとも、そこのお役人さんたちに、オルヴィスとシルルを助けてやってくれ、と懇願でもしてくれるかい? それなら、めっちゃ嬉しいぜ」

 実際その通りにゲルノットは懇願したが、役人たちはもちろん許すはずはなかった。

 オルヴィスはシルルの手をあらためて強く握った。役人たちに聞こえないような小声で、ある作戦を告げる。それから、ゲルノットに向き直った。

「おい、ゲルちゃんよう。テメェのプライドの捨てたマジの姿、見せてもらったぜ。別に褒めたり、感謝したりしねーけどなッ」

 シルル行くぞ、と作戦を実行に移す。

「オマエらぁ! オレたちはこんなつまらねーことで捕まるわけにはいかねーんだよッ。行くぞシルル! できるだけ遠くへ飛べ!」

 オルヴィスはシルルの手を離すとふたりは回れ右をして地を蹴り、岬の突端から海へ向かって飛んだ。

 ここまで来たときにおおよその目測をしている。着水時にはただでは済まないだろうが、気合と根性さえあれば、飛び込めない高さではない、との判断だった。




 海面落下から数分後ーー

 崖から離れた海岸に、オルヴィスとシルルの姿があった。

 ふたりとも濡れた服を灌木に引っかけて、乾くのを待っている。乾くまでのあいだ、ふたりはじっと打ち寄せる波を見つめていた。

「…ヤバい賭けだったな」とオルヴィスが呟く。

「まさか飛び降りるとは思わなかったよ」とシルル。「でもやればできるもんだね」

「もうやりたくねーけどな。自分で誘っといてなんだけど、マジ、死ぬかと思った。溺れるっつーより、岩礁にぶち当たってな」

「たまたまね。だって、海中で意識を取り戻したとき、すぐそばに岩礁があったからね。あいかわらずオルヴィスは悪運が強いよ。なんだかんだで今回も危機から逃れた」

「悪運ってゆーより、ただムチャクチャなだけだろ」

「ふうん…自分のこと、少しはよくわかってるんだ」

「多少はな」

「でも、オルヴィスがいたら、なんでも乗り越えられる気がする」

「バカ、夢見んな。そして、オレに期待すんな。ただの人間だぞ。死ぬときゃ死ぬ。次はねーぞ」

 シルルは、ふふっと小さく笑っている。

「でも、これで、アムゼン村には戻れなくなったね」

「アホ。笑ってんじゃねーぞ。オレ、木こり道具、全部、山小屋に置いてきてんだぞ」

「ああ、そっちの心配?」

「そうだよ。当たり前だろ。…あー、もうひとつある」

「なに?」

「また次に受け入れてくれそうな村を探すのがメンドくせー」

「それもそうだけどさ、せっかく名前のわかる知り合いもできて馴染んできた村だったのに、もったいないとかさみしいとか思わないの?」

「そいつはあまり思わねーな。人間、いつだって一期一会だぜ。きのう会ったヤツとは、もう二度と会えねーかもしれねえ。すれ違うだけのヤツらなんか山ほどいる。そんなんでいちいち心を動かされるなんざ軟弱者だろ」

 ただひとり、カンバに別れの言葉を告げられなかったことが、心残りではある。それでさえしかし、最終的には、オルヴィスにとって軟弱なことで完結する。

「じゃあ、もし…」シルルはオルヴィスの目をじっと見つめた。「二度と私と会えなくないことになっても、オルヴィスは心を動かされないの?」

「やめろ、バカ。そうゆうこと言うヤツ、オレは嫌いなんだ。ウンザリするぜ。てか、そろそろ服乾いてんじゃね? 服着て、さっさとここから離れるぞ」

「また一から出発だね」

「そろそろ二か三から出発したいもんだねえ」

「あまのじゃく。ひねくれモン」

 二人は立ち上がり、登れそうな岩にしがみついた。



                          (了)


 


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