プロローグ
2019年6月30日午後4時12分。横浜行きの電車が到着した。
「3分の遅れか」
腕時計をちらりと見つつ呟き、ホーム内へと足を踏み入れる。
目眩すらしそうな程の人混みの中にいながら、
ドアが開き、車両から人が押し寄せてくる。圧迫感は感じない。
当然のことだ。
冷泉の体はこの世の物体には干渉できない。
彼は人ならざるもの――死神なのだから。
車両に入ろうと列を成す人々に構うことなく、“彼ら”と同じように1番前の車両に壁をすり抜けて入る。
Tシャツにパーカーとジーンズ、それに少し大きめの楽器ケースを背負っただけのどこにでも居そうな青年に、“彼ら”は見向きもしない。
「木を隠すなら森の中」とはよく言ったもので、こうして何気ない風を装ってさえいれば、大抵の場合“彼ら”は颯を同族の1人だと思い込むのだった。もっとも、颯は決してただの木ではなく、その身の炎で森を焼き尽くす松明であったが。現に今も、車両でスマートフォンを眺めながら、頭では今日の「仕事」の最終確認をしているのだから。
楽器ケースを下ろし、メール画面を開く。
3年ぶりに送信されたアドレスのメールには、短い文でこう書かれていた。
「2019年6月30日午後4時25分。東北線横浜行きの電車が脱線事故を起こす。死亡者116人」
ふう、と溜息をひとつつく。
こんな文章1つで、多くの人間の命が喪われるのだ。
こんな、たったひとつの気まぐれだけで。
思考を断ち切るようにスマートフォンの電源を落とし、腕時計を見る。午後4時15分20秒。
始めるか。口の動きだけで呟いて、車両1杯に詰め込まれた人波の中をすいすいと泳ぐ。乗客の数だけ存在する“彼ら”は、これから起こることを予想すらしていないのだろう。車掌室側の壁にたどり着くまでにみた顔は、どれもが平和ボケした間の抜けたものだった。
――曲がりなりにも命を預けられているというのに。
舌を打ちそうになるのを抑え、車掌室へと入る。
目の前には、真剣な表情でハンドルを握る車掌。そして“彼ら”の1人――車掌の守護霊がいた。
気を張った職業の人間を護っているだけはある。此方も気配を消していたが、1秒としないうちに察知された。向けられる視線の鋭さに、まだ捨てたものでは無いかと眼を細める。
「お勤めご苦労様です。……とでも言えばいいか?」
言い終わる前に、相手がナイフを振りかざした。楽器ケースを盾にして身を守る。戦闘に特化したナイフは、ハードケースに深く突き刺さっていた。
並の死神であれば少なからず動揺するだろうと威嚇を兼ねた先制攻撃にも、冷泉は呼吸さえ乱さない。
「いい武器だ」
淡々と吐き出された一言に、さらに視線が鋭くなる。冷泉が只者ではないと確信を得たと語るそれに、頭に被っていたフードを脱いだ。
現れたのは、青みがかった黒髪。ギラギラと光る深緑の瞳は、守護霊ならば最も出会いたくない男のものと酷似していた。
「冷泉……颯……」
「ご名答。悪いな」
ナイフごと楽器ケースを手繰り寄せ、素早く中身を取り出す。バラバラに分解されていたそれは、冷泉が一振するだけで刃渡り2mはあるであろう大鎌へと姿を変えた。
「――こっちも仕事なんだ」
言うや否や、大鎌で守護霊に切りかかる。
素早い動きで躱され空を切った得物に構わず、振りかぶった勢いのままに回し蹴りをお見舞する。遠心力の乗ったそれに叩きつけられ、相手は堪らず体勢を崩した。
しかし丸腰ではなかったのだろう。再びナイフを構え立ち向かってくる。鼻先を掠めたそれを右腕ごと刈り取ると、辺りに噎せ返るような血液の香りが漂った。
意識が飛びそうなほどの痛みだろうに、相手は残った左腕で己の片腕を取り返そうとする。
冷泉のせんとすることを察したのだろう。血を吐くように「やめろ」と叫ぶ。
その姿を見て、「残念だ」と低く呟いた。
「自分が命を預けられた立場だと自覚し、尚且つ敵を瞬間的に察知する能力に長けている。腕を取られて叫ばない奴なんて本当に久しぶりだ。……貴方のような真の守護霊すら、彼奴らは貪欲に貪ろうとする」
相手の手が落ちた右腕に届こうとした。その手をハードケースから抜き取ったナイフで床へと縫い付ける。絶望に目を見開き今度こそ叫び声をあげる守護霊を後目に、ナイフを持ったままの彼の手を掴む。そのまま腕を振り上げる。
狙う場所はただ1つ。車掌の心臓だ。
狂ったように制止の言葉を叫ぶ守護霊を振り返り、冷泉は彼と目を合わせた。
「その目にしかと焼き付けるといい」
貴方の大切な人を殺した顔を。
心臓にナイフを突き刺す。同時に、車掌が突然胸を押さえて苦しみだし、暫く後に動かなくなった。
瞬間、彼の守護霊の姿が跡形もなく消える。血痕とナイフだけを残し、彼だけが世界から姿を消した。
車掌の身体から抜け落ちた魂を腕時計に封じ込め、時刻を確認する。
「先ずは、1人」
午後4時23分。操縦主を失った電車は、間もなく大きなカーブに差し掛かる。勢いのついた電車は速度を抑えきれず車体を崩し、多くの人命と共にその命を終えることだろう。
後は、その人命を守る守護霊を115人刈ればいいだけの事。
血に汚れたパーカーを脱ぎ捨て、車掌室から車両へと戻る。
目の前で人が亡くなったというのに、人間たちは気付きもしない。冷えきった思いが去来するが、今は目の前の仕事を片付けなくてはならない。
息を詰め、時を待つ。
午後4時25分。
車内が凄まじい音を立てながら大きく揺れた。
人間たちはもちろん、守護霊も突然のことに混乱した声を上げる。車内の照明が落ち、車体が大きく右へと傾いた。
脱線だ!と叫んだのは、人間だったのか、それとも守護霊だったのか。
悲鳴と怒号が飛び交う中、漸く冷泉の存在に気が付いた彼らへと大鎌を振るう。束になって抵抗しようが、冷泉にとっては彼らは丸太も同じだ。武器を振るえば敵が倒れる。世界から色が失われていく思いだった。
例えどんな無能な守護霊であっても、その加護さえ受けていれば一命は取り留めるだろう。115人きっかり刈り取ると、進むべき道を失い暴走する電車からすり抜けた。
程なくして電車は線路を完全に逸脱し、近くに立地していたビルに追突。煙を上げる車体を見つめていると、ポケットに仕舞っていたスマートフォンが着信音を鳴らした。
画面に映された名前を見て、驚きつつも急いで電話を取る。
「冷泉。……っ、それは、……了解した。直ぐにそちらへ向かう」
電話を切り、急ぎ指定された場所へ向かう。
目的地は、廃工場の跡地。
血に塗れ、武器を片手に走る死神は、まだここにはない彼方を見つめ走り出した。
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