真冬の彼女とバレンタイン

teardrop.

第1話

「さーむーいー」

6畳間のアパートの一室に彼女のダレた声が響く。今日の最低気温は零度を下回り、雲で太陽が隠れた朝の空気は石油ファンヒーター1台では暖めきる事はできない。


「ストーブの前を陣取っておいて、そりゃないですよ舞さん」

彼女はストーブに背を向けて座り、電気カーペットに出来る限り当たろうと前屈している。身体柔らかいなあ。同じ体勢をしてみようとしたが、腹が床に付くことは叶わなかった。辛うじて顔は付くのだが…。


「さむいの!」

身体を起こした舞はそう言って手招きしてくる。はいはいとおざなりに返事をして、膝立ちで彼女に近寄る。


「はい、ターンして」

彼女は指をくるりと回して指示を出す。なんだか今日は上機嫌だ。何が楽しいのかは分からないが、ニコニコと笑っている。朝から酔っ払ってるのかな。


「はい、これでいい?」

言われた通りにすると、舞は後ろから抱きついてきた。


「あったかーい」

「今日はすごい甘えるね」

首筋に当たる吐息がくすぐったい。艶のある唇が時折首をかすめ、そのたびにゾクゾクするほど興奮する。


「甘えてないし」

「はいはい」

耳を唇で食みながら言われても。これ、やられてるときはいいんだけど、洗わないと唾液はニオい始めるから面倒くさい。


「ところで今日なんの日か知ってる?」

唐突に彼女へ質問する。今日は何を隠そうバレンタインデー。チョコを貰ったことのない身としては、是が非でも初チョコレートを貰ってみたいところ。しかしながら彼女はとぼけた顔でのたまった。


「えー?何言ってるの。毎週金曜日はカレーの日だよ」

こいつ。完全に忘れている。自分が食べるイベントでは無いせいか、すっかり記憶の外にあるようだ。


「まあ仕方ない、か。朝ごはんの準備するから離して」

「えー?寒いよ。もうちょっと一緒に温まろ?」

甘い声で囁く彼女。誘惑に負けそうになるが、そろそろいい時間である。流石に遅刻はまずい。


「遅刻しちゃうから、ごはんね」

彼女の手を振り解いて、朝食の支度を始めた。とはいえ簡単なものだ。多めに作った昨夜の味噌汁を温め直し、その間に一口大に切った厚揚げをトースターに入れる。何時ものようにタイマー予約してあったご飯をよそう。味噌汁をお椀に注いでいると、トースターがチンと鳴る。


「おなかすいた」

顔だけこちらに向けて、だらしない体勢で舞はくつろいでいる。


「じゃあ運んで」

「寒いからいや」

このワガママ娘め。夕飯は彼女の仕事なので文句は言わないが、運ぶくらいはやってくれてもバチが当たらないと思う。


「ほら、食べるよ」

全部支度を整えてやると、彼女はのっそりと起き上がり机の前に座った。


「いただきます」

「はい、いただきます」



出かける支度を終え、ふたりして玄関を出ると隣の部屋からも人が出てきた。長野さんだ。

「あ、おはようございます」

「おはようございます」

にっこり笑って挨拶してくれる彼女に、心が和らぐ。良い隣人だ。舞は外行きの顔でツンとすましている。態度悪いぞ。挨拶だけはキチンとするから手に負えない。


「そうだ!ちょっと待っててください」

長野さんはそう言って閉めたばかりの部屋の鍵を開け、中に入っていった。


「なんだろうな?」

「さあ、どうでもいいけど寒いから早く来ないかしら」

「おまえ失礼だからね」

1分ほどで戻ってきて、彼女は小さな紙袋を差し出した。


「彼女さんの前であまり良くないのかもしれませんけど、日頃の感謝の印です。どうか受け取って下さい」

「そんな、悪いです」

そう言って一度は断ったが、再度渡されたために受け取った。


「じゃあ、いただきます。気を使わせてしまってすみません」

紙袋を受け取って、軽く礼をする。これは今度お返しをしなきゃいけないな。


長野さんとアパートの前で別れると、舞は不機嫌そうにこちらをジロリと見た。

「仲いいんだ」

「何言ってるんだよ。妬いてるの?」

彼女はプイと顔を背けてツカツカと足を早める。


「仲のいい人は、そりゃ生きてれば何人か出来るだろ。でも好きなのは舞だけだよ。」

小走りで追いついて、舞を後ろから抱きしめた。

「フン。それ色んなところで言ってるんじゃないでしょうね」

「酷いなぁ」

「まあ信じてあげるわ。それで、何を頂いたの?」

全く信じていないような口ぶりで紙袋を取り上げる。そして中身を取り出した。


「うわ、高そうなチョコ…」

中から出てきたのは、英語ではない言語がプリントされたチョコレートの包装であった。アルファベットを使っているから似た言語だとは思うけれど。


「これは本当に今度お礼しなきゃいけないな」

「そうね」

それっきり彼女は考え込んでしまった。

二人とも別の、それも反対方向の電車に乗るため、駅で彼女と別れた。クール系美人な彼女の悩ましげな表情に見惚れつつも、こんな状態で電車に乗せて大丈夫かと不安になってしまったほどだ。ナンパとか痴漢とか。この忙しい時間にナンパは無いか。


別れ際の彼女の横顔のせいか、あまり集中出来ず上の空な一日となってしまった。暇さえあれば彼女のことを考えてしまい、何をするにも手につかなかった。付き合いたてのカップルかよ。あいも変わらず舞のことを考えながら帰宅すると、明かりがついていた。


「ただいま」

「おかえりー」

返ってきたのはモゴモゴとなにか口に入った様子の声であった。


「先に夕飯食べてたの?」

言いながら部屋へ入ると、お菓子の袋がいくつか机の上に置いてあるのを見つけた。


「夕飯前に。太るよ」

「太らないわよ。はい、あーん」

クッキーを差し出してくるので、パクリと受けとった。ふふんと鼻で笑いご満悦そうにすると、今度は自分で球体のチョコを咥えた。あ、ちょっと高そうなチョコじゃないか。開けられたばかりのパッケージを見て驚いていると、黒い影が目の前に現れ、急に唇を奪われた。そしてチョコレートが押し込まれる。


「何すんの」

「ファーストチョコは、私?」

一瞬何のことかと思ったが、どうやら彼女はバレンタインを思い出していたようだった。その彼女の精一杯な好意に、冬の冷気で凍えた頬にも血が上る。


「うん、人生初チョコだ」

とろりと出てきたブランデーの香りにやられながら、彼女の唇を強く奪った。

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真冬の彼女とバレンタイン teardrop. @tearseyes13

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