しあわせにめぐまれる

@tomohikoito2001

第1話

 大阪淡路に他の世界から隔絶されたかのようでありながら、確かに幸せな生活を営む家庭がある。

 父親は五十二歳。ゲイバーの踊り子をしている。頭をスキンヘッドにして、生来の色黒から、見た目はトドを連想させる。ゲイバーの世界に入ったのは彼がまだ十代の頃だった。自分の性愛がノーマルでないと気づいたのは小学生の高学年の時。同じクラスのハンサムでスポーツの得意な男子に心をときめかせていた。十代の頃は素敵な男性と生活することを夢見て、悲しい思いをすることも多くあった。しかし根っからの明るい性格からゲイバーの世界でいきいきと生き始めた。時代も日本がまだ経済成長していたため、夜の街にはにぎわいがあった。毎晩踊り、話してお客さんを笑わせることが最高に楽しかった。それまで必ずしも幸せに生きてきたとは言い難かった彼が最も輝いていた時代だったろう。色々な店を経験しながら現在の十三の店ですでに二十年以上働いている。皆に愛されて幸せだと思いながらも、踊り子の仕事をすることには体力的なつらさも感じている。

 妻は四十四歳の大人しい女性だ。幸恵と言う。ゲイバーのような夜の街とは全く無縁な人生を歩んできた。しかし主人の仕事には誇りを持っている。いつまでも今の生活が続くことを心の底で願いながら家庭を守っている。

 二人の出会いは今から思えば運命的なものだったのだろう。もう二十五年以上も前のことになる。幸恵は小学生の頃から極端に大人しかった。友達と遊ぶこともほとんどなく、いつも本を読んだり、一人で絵を描いたりして過ごすような子どもだった。中学生の頃には軽いいじめの対象にされることもあった。高校生になった頃から内向的な性格はさらにひどくなり、誰とも話をせず、休みの日はずっと自分の部屋に閉じこもって一歩も外に出ないようになった。心配になった両親が神経科に連れていった。軽い神経症であろうということで、安定剤が処方された。それ以来、定期的に神経科に通い、安定剤を飲みながら何とか表面上を取り繕いながら幸恵は生活をするようになった。高校時代までを過ごした土地が自分に合わないのかもしれないと思い、大学は大阪の大学を選んだ。大阪には全く身寄りがなかったため、自分で住む部屋を探した。家がそれほど裕福ではなかったので、なるべく家賃の安い部屋を探した。あまり若い女性には似つかわしくない部屋だったが、四畳半が二間の部屋を見つけだした。その部屋の隣に今の主人が住んでいた。

 生活する時間帯が違うため、幸恵が住み始めて半年ほどはその隣人に会うことは全くなかった。都会での生活では隣にどんな人が住んでいるかを気にする必要は全くなかった。幸恵は大学に通い始めても周りの同級生に話しかける勇気が出ず、いつも一人でいた。授業にはあまり出ず、大抵の時間を図書館で過ごした。一日誰とも話をしない日も珍しくなかった。次第に大学に行くことが面倒になってきた。親に負担をかけたくないという気持ちを強く持っていたため、アルバイトを始めようと思い立った。なるべく時給の高いところがよかった。すでに生活のリズムが乱れ夜型の生活になっていたため、夜間に働こうと決めた。下宿からさほど離れていない場所にあるコンビニにちょうど求人募集の案内が出ていた。早速応募した。簡単な面接のみですぐに採用となった。夜の十時から朝の六時まで働くことになった。あまり密に働いても体がついていかないだろうと思い、まず週三日働くことにした。仕事はそれほど大変ではなかった。お客さんが時折店内に入ってきたが大抵は雑誌などをしばらく立ち読みして出ていった。自分に接客業ができるか不安だったが、接客業というほどの大変さはなかった。買い物をしていくお客さんはほとんど疲れきっているようで下を向いている人が多かった。

 生活はどんどんバイト中心になっていき、初めの頃は頑張って行っていた語学や体育の授業にも次第に行かなくなっていった。バイトへ行く日数も週五日にして、平日は毎日バイトに入った。夜の間ずっと働いて昼間寝る生活を続けた。バイトを始める前から夜テレビを見て昼寝ていたのでさほど変わらない生活ではあったけれど、完全に昼夜逆転した。

 ある朝いつものように仕事を終えて下宿に帰った。部屋に入ろうとして鍵を財布の中から出そうとしている時、隣の部屋の前に人が突然現れた。もともと人が苦手な幸恵だったので、お隣に住んでいる人だろうと思いながら、すっと言葉が出てこなかった。ただそれは単に幸恵の人見知りのせいだけでもなかった。隣の部屋の前に立っていた人は幸恵が今までの人生の中で出会ったことのない風貌をしていた。頭がスキンヘッドで肌の色が浅黒かった。背が高くがっしりとして明らかに男性であるのにべったりと化粧をしていた。決してきれいな化粧とは言いにくい絵の具を顔に塗ったようなどこかの少数民族を思い起こさせるような顔をしていた。そんな男性が明らかにアルコールと思われる鼻につく臭いをぷんぷんさせて立っていた。

 幸恵は何も言葉を発することができないまま、軽く会釈だけをして、慌てて自分の部屋に入った。少し気持ちが動揺していた。一体今の人は何だったのだろう。あまり世間に慣れていない幸恵にとっては、全く不思議な人としか思えなかった。そしてそんな人が今まで自分の部屋の隣にずっと住んでいたことに恐怖すら感じた。

 その後も幸恵は学校へは全く行かず、夜のコンビニのバイトに精を出した。隣人に会うことは全くなかった。隣の人のことを忘れかけていた一ヶ月ほど経ったある朝、もうすぐ勤務時間が終わると思いながら疲れを感じつつコンビニのバイトをしていた時、あの人がコンビニに現れた。隣の部屋に住んでいるスキンヘッドの男の人だ。一目見てあの人だと分かった。でもこの日は顔に何の化粧もしておらず、スキンヘッドの浅黒い肌をしたただの大男という出で立ちだった。ただ着ていた服が男性があまり着ない感じのピンク色のTシャツに、ズボンは黄色の原色で、妙に丈が短かった。

 その男は全く幸恵に気づかず、おそらく朝食にするであろうと思われるバナナと牛乳とカロリーメイトを買って帰って行った。

 幸恵はバイトの生活に明け暮れて、大学の前期の試験も全く行かなかった。当然のように単位は一つもとれなかった。バイト代はわりと稼げていて、生活していけるほどもらっていたが、このまま大学生を続けてバイトをしていく訳にはいかない。今の生活はただ大学から逃げているだけのことだという後ろめたさが幸恵にはずっとあった。決してこの生活に満足している訳ではなかった。夜間のバイトをしていて深く思い悩む時間もないくらいに毎日がただ過ぎていってくれていただけだ。しかし前期が終わり単位が全くとれなかった事実に直面し、このままではいけないという焦りが幸恵の心の中を支配してきた。どこかで思い切って生活を正さなければいけない。でも大学に行くのはどうしてもいやだった。入学して全く友達ができなかったのに、今から大学に行き始めても友達は絶対できないだろう。みんなが楽しそうにおしゃべりしている中で自分一人だけぽつんと誰ともしゃべらず教室にいることは、想像してもいやだった。そんな生活は耐えられないとしか考えられなかった。金銭的な面で生活は親に頼らずにできていたけれど、大学の入学金や授業料は親に出してもらっていた。親は自分が大学で勉強していると信じて送り出してくれているはずだった。そんな両親の思いを自分は完全に裏切っているのだ。幸恵はどんどん自分を責め立てていった。それでも大学に行くことはやはりできないとしか思えなかった。後期の授業が始まる十月から行き始めることが区切りとしてはいいはずだった。何とか頑張ってみようかという気持ちになる瞬間もあった。しかし机に一人でぽつんと座っている自分の姿を思い浮かべるとやはり無理だと思うしかなかった。

 そのようにして十月になり、やはり幸恵は大学に行くことはできなかった。バイトをしていても今のままでいいのだろうかとばかり考えていた。そんな毎日を送っていた頃、毎朝のように隣の部屋に住んでいる変わった男の人がコンビニに買い物に来るようになった。幸恵はその人が来る度にどきどきとした気分になったけれど、その人はまるで幸恵のことを気にもとめず、バナナと牛乳とカロリーメイトを買って帰って行った。大抵同じ時間に来て、帰って行った。そんなことが一ヶ月ほども続いた。

 ある朝、いつものように隣の部屋の男の人がコンビニで買い物をしてレジにいた幸恵にお金を払った時、幸恵の顔をのぞき込むようにして言った。

「お嬢ちゃん、いつも深刻そうな顔してはるけど、笑っとらんと幸せは逃げてくで。とりあえず笑っときな。ははは」

 そう言って、大声で笑いながら店を出て行った。幸恵は言われた内容よりもその人が自分を見ていてくれたことが意外だった。そんなことがあってからも隣の部屋の男の人は毎朝、幸恵の働くコンビニで朝食を買っていった。それ以降は特に幸恵に話しかけることはなかった。幸恵は相変わらずこの生活を変えなければいけないと思いながら、何もすることができず、漫然と毎日コンビニでバイトをしていた。同じような単調な毎日が続いた。

 そんな生活が二ヶ月ほど続き、季節が変わり少し肌寒さを感じるようになったある日、いつものように朝までコンビニでバイトをして幸恵が家に帰った時、ちょうど隣の部屋の男の人も部屋に帰ってきた。

「あら、コンビニのお姉ちゃんやないの。ここに住んではったの?」

 男の人が言った。

「はい」

 幸恵は辛うじて返事だけした。

「世の中狭いわね。今度お店行ったときはおまけしてね」

「いや、それはちょっと」

「あはは、冗談よ。これからもよろしくね」

 男の人はそう言って、自分の部屋に入って行った。幸恵はびっくりしたけれど、その男の人に不快な気持ちは感じなかった。それからも隣の部屋の男の人は毎朝コンビニで買い物をして行った。そしてレジでお金を払うとき、幸恵に一言何か言葉をかけていった。「今日もがんばってはるな」というような他愛のないものではあったが、幸恵にとっては励まされるようなうれしさを感じさせるものだった。

 幸恵は大阪に来て十ヶ月以上経つのに友達らしい友達は一人もいなかった。大学にも結局全く行けずにいたし、他の場所で友達を作るようなところもなかった。コンビニで一緒に働いていたバイトの仲間たちともまるで話をしたことがなかった。

 一日の中で唯一言葉を交わすのが隣の部屋の男の人だった。ただ幸恵にとってはその人が何をしている人なのか全く謎だった。毎朝疲れた感じでコンビニに来ていたので、夜に働いているのだろうとは思った。でも一体何をしているのかは分からなかった。時折その人は仕事仲間らしき人とコンビニに来ることもあった。その仲間らしき人もなんだか変わった人で、男の人なのに女性用の服を着て、派手な化粧をしていた。隣の部屋の男の人も時折化粧をしてコンビニに来ることもあった。世間知らずの幸恵には全くどういう人たちなのか想像もできなかった。一度自分から話しかけることができたらそれを聞いてみたいと思っていた。でもいつもコンビニのレジでは隣の部屋の男の人が一言話してさっと店を出て行ってしまい、こちらから話しかけることができなかった。

 そんな毎日が続き、大学の後期の試験が終わった。授業に全然出ていなかったので、試験を一つも受けなかった。当然のように単位は一つもとれなかった。このような生活をしていれば当然だけれど、さすがに一年間で単位が一つもとれなかったことはショックだった。来年猛烈に頑張って授業に出て、二年分の単位をとれば留年はしなくてすむ可能性がないわけではなかったけれど、ほぼ留年が決まったようなものだった。今まで気持ちの中でも考えないようにしてきたけれど、自分のこれからの人生というものを考え込むようになった。たかだか大学にすら行けないようではまともに働くことができないのではないだろうか。いつまでもコンビニでバイトをしている場合でもない。特に夢があったわけでもないけれど、どこかまともな会社に就職してせめて自分の生活費は自分で稼いで自立して生きていきたかった。ともかくこのままではいけない。そんな焦りが幸恵の中に常にあった。おそらく他の人が見てもいつも考え込んでいるように見えたのだろう。

 毎朝来てくれる隣の部屋の男の人も声をかけてくれた。

「お嬢ちゃん、最近ますます元気ないやないの。なんかあったんか?」

「今のままでいいのかなあって思って」

 幸恵は力のないか細い声で答えた。幸恵が隣の部屋の男の人に言葉を返すのは初めてのことだったかもしれない。

「なんや深刻そうやないの。誰かに相談したりしてはるの?」

 男の人は優しい声で言った。

「いいえ、そういうこと言える人が誰もいないので」

 幸恵は下を向いたまま、辛うじて聞き取れるかどうかという小さな声で答えた。

「よかったら、私たちの店に来てみない?じっくりお話聞かせてもらうわよ」

 隣の部屋の男の人はそう言って名刺を幸恵に差し出した。幸恵はゆっくりとそれを手に取った。

「ほなら、その気になったら言うてちょうだい。サービスしといたるさかい」

 隣の部屋の男の人は柔和な笑顔を浮かべてコンビニを出て行った。幸恵はもらった名刺を眺めてみた。名刺には「ゲイバー 男山」と大きな字で書かれており、「元気な男たちがあなたを待ってるわ」とおそらく隣の部屋の男の人の手書きの字で書き添えられていた。裏に地図が書かれていて、十三の町中にその店はあるようだった。幸恵は「ゲイバー」と小さな声で言ってみた。ゲイバーというところを幸恵はもちろん詳しくは知らなかった。しかしゲイの人がいるバーだということは分かった。隣の部屋の男の人はゲイなんだなあと疲れた頭で考えた。今まで謎に思っていたことがすべて釈然としてきた気がした。ただゲイと聞いても幸恵には否定的な感情のようなものは何も沸き起こってこなかった。ただ、そういう嗜好を持った人なんだというような冷静な感覚しかなかった。この大都会大阪の中で唯一自分に少しながらでも話しかけてくれる隣の部屋の人に対し、幸恵は好ましい感情を持っていた。それでもその店に行ってみようという気持ちにはなれなかった。どういう場所なのか全く想像もできなかったけれど、自分が行ってしっくりと落ち着ける店であるとは到底思えなかった。隣の部屋の人の善意はありがたいけれど、この名刺は大切に持っているだけにしようと幸恵は考えた。

 それからも毎日の生活は続いた。毎朝隣の部屋の人はコンビニに来て、買い物をし、幸恵に何か話しかけていった。お店にいらっしゃいというようなことを言うこともあったけれど、幸恵は適当にお茶を濁した。そんな日々が続いて、季節は過ぎ去り、年末になろうとしていた。幸恵は年末に実家に帰ろうという気持ちにはなれなかった。全く大学に行っていないことへの後ろめたさもあったし、ふるさとや家族への思い入れもなかった。むしろふるさとは辛い思い出しかない場所だった。幸恵はふるさとにも居場所はなかった。かと言って大阪に特に居場所がある訳でもなかった。ただ漫然とコンビニで毎日バイトをしているだけだった。そのことを深く考え始めると憂鬱な気分になるため、幸恵は自分の生活について考え込むことはあえてしないようにしていた。しかし、それでもそんな状況は自然と幸恵の表情を曇らせていた。コンビニでバイトをしている幸恵は誰が見ても決して幸せそうには見えなかった。そんな幸恵に対し、同じコンビニでバイトをしていた者たちも誰も話しかけようともしなかった。いつも幸恵は一人で黙々とバイトをし、時間になったら家に帰り、そしてただ眠った。この世の中で幸恵に話しかけたのは隣の部屋の人だけだった。相変わらずこの人は毎朝コンビニにやって来て、バナナと牛乳とカロリーメイトを買っていった。そしてレジでお金を払う時、幸恵に何か一言、「がんばってはるわね」とか、「今日も寒いわね」というような何気ない言葉をかけて帰って行った。幸恵はただそれだけのことが毎朝うれしかった。幸恵と世の中を言葉でつないでいるのは隣の部屋の人だけだった。幸恵は一日この隣の部屋の人の言葉を聞くために働いていたと言っても過言ではなかった。朝方、この人が来る時間になるとそわそわとする自分を感じた。ただいつも話しかけられても何か気の利いた返事ができたわけではなかった。大抵何も答えられず、笑顔になることもなく、それまでと同じように無表情でただせいぜいうなずくくらいだった。周りから見ればただぎこちない動きをしただけだった。それでも幸恵にとってはそれだけが一日で唯一の楽しい出来事だった。もっともそんな生活だったけれど、幸恵はそんな生活を送っている自分を不幸だと思っていたわけではなかった。大学に行っていないことには後ろめたさを感じていたけれど、高校生までの暮らしと比べれば今の生活ははるかにましだと感じていた。だから幸恵は自分のことを不幸だなどとは全く思っていなかった。

 大晦日も普通に幸恵はコンビニでバイトをした。そのまま正月をバイトをしながら迎えた。意外と大阪で正月を迎える人は多いようで、その夜はいつもよりお客さんが多くて忙しかった。正月の朝もいつもの隣の部屋の人はやって来た。店に入ってくるなりその人は幸恵に向かって言った。

「あら、お嬢ちゃん、今日もお仕事してはるの?田舎には帰りはらへんの?」

「はい」

 幸恵は答えた。

「お正月も大阪にいてはるの?」

 隣の部屋の人は尋ねた。

「はい」

 幸恵は答えた。

「あら、それは寂しいわねえ。お休みの日があったらぜひともうちのお店に来なさいよ。楽しいわよ」

 隣の部屋の人は言った。そしてまた以前もらった名刺を幸恵に差し出した。

「私のおごりにしといたげるさかい、ぜひ来なはりよ。いつが休みなの?」

 隣の部屋の人はいつになく畳みかけるように聞いてきた。

「お休みは土曜と日曜ですけど」

 幸恵は全くその店に行こうという気持ちはなかったけれど、その人に圧倒されて、そう答えた。

「ほなら、土曜の夜は混むさかい、日曜の夜に来なさいよ。今度の日曜ね。待ってるさかい、絶対来なはれや」

 隣の部屋の人は言った。そしていつものようにバナナと牛乳とカロリーメイトを取ってレジに持ってきた。

「ねえ、いい。今度の日曜の、そやねえ、夜の十時にうちのお店に来なはれや。お金のことは全然心配せえへんでええから。必ず来なはれな」

 隣の部屋の人はそう言い、コンビニを出ていった。幸恵は全くその店に行こうという気分にはなれなかった。今まで居酒屋すら行ったことがなかったし、お酒も飲んだことがなかった。まだ未成年だし、そういうことをしたいと思ったこともなかった。それなのにいきなりゲイバーに行くなんてそんな勇気は全く出なかった。次の朝に隣の部屋の人が来たらはっきり断ろうと思った。

 次の朝、いつもの時間にその人はコンビニにやって来た。バナナと牛乳とカロリーメイトを持ってレジに来た。幸恵は勇気を出して言った。

「あのー、昨日言われていたお店に行く件ですけど、やっぱり私はやめときます」

 隣の部屋の人は言った。

「あら、暇やったら来てみたらおもろいわよ。ほなら、私のショーだけでも見ていきなはれや。何も怖いところやないさかい安心し」

「でも私お酒を飲んだこともないし」

 幸恵は小さい声で言った。

「別にゲイバーやからってお酒を飲まんといけないことはあらへんわよ。ウーロン茶でも飲んで私のショーだけ見て帰ればええんよ」

 隣の部屋の人は熱心に言った。

「まあ、またちょっと考えてみて。絶対見て損はさせへんから」

 そう言って、その人は出て行った。幸恵はもともと気の弱い人間だったため、強く人に言われるといやなことでも断ることができなかった。ゲイバーなんてところに行く気には全くなれなかったけれど、あんなに熱心に誘ってくれるのに断ることは申し訳ないと思った。知らない世界を見てみたいというような前向きな気持ちではなく、単に断ることができないために一度ほんの少しの時間だけゲイバーというところに行ってみようかという気持ちになった。そんなことも仕方がないかとあきらめようと思った。次の朝、また隣の部屋の人がやって来て、レジのところで言った。

「どや、お嬢ちゃん、うちの店来る気にならはったか?」

 幸恵は小さくうなづいて、やはり小さな声で言った。

「はい、少しだけお邪魔させてもらおうかなと思います」

「おー、そうかい、そうかい、そりゃあええ。楽しみに待っとるさかい、今度の日曜の十時にな。ほなよろしくな」

 満面の笑みを浮かべてその人は出て行った。幸恵は複雑な気分だった。あんなに喜んでもらえることが不思議な気がした。時間はあっという間に過ぎ、日曜日になった。幸恵は昼過ぎに起き、その時から憂鬱な気分だった。ゲイバーというところは想像するに、人がたくさんいておしゃべりをみんなでべちゃべちゃとして、にぎやかなところに違いない。そんなところに行かなければいけないのは苦痛以外の何物でもない。しかし約束してしまったのだから仕方がない。身をぎゅっと固くして何とか時間が過ぎていくことだけを考えていよう。幸恵はそんな思いでゲイバーに行くことに臨んでいた。夜になり、全く気乗りがしなかったが、幸恵は出かけて行った。十三という街に行くことも初めてだった。ネオンがピカピカと光ってまぶしい街だった。隣の部屋の人からもらった名刺の地図を頼りに店を探した。駅から割合遠くてなかなか見つけられずかなり迷ったけれど、十五分ほど歩き回りようやく目的の店を見つけ出した。店の前にきれいな服を着て、美しい人が立っていた。この人もゲイなんだろうかと幸恵は思った。あまりに隣の部屋の人とは感じが違った。幸恵は恐る恐るその人に近づいて行き、勇気を出して話しかけた。

「あのー、私この店で働いているスキンヘッドの人に誘われて来た者なんですけど」

「あ~ら、トドちゃんのお知り合い?どうぞお入りになって」

 その人は妙に明るい声でそう言い、幸恵を店の中に招き入れた。幸恵は覚悟を決めて導かれるままに店の中に入って行った。扉の向こうの店の中は暗かった。天井でミラーボールが回っていて、その光だけが店内を照らしていた。ソファーがたくさん置かれていた。お客さんらしき人がそれぞれのソファーに座っていて、お店の人らしき人がそれぞれのお客さんに付いて何か話をしていた。思っていたより店内は広く、たくさんの人がいた。

「それじゃ~、こちらにお座りになって」

 店の外にいた人に案内され、幸恵は奥の方のソファーに座った。おしぼりを渡された。

「今、トドちゃん呼んでくるから、ちょっとお待ちになって」

 そう言いその人は店の奥の方へ行った。一人になって改めて店の中を眺めてみると、店の一番奥にステージがあり、何かショーをするようになっていた。そのステージに向かってすべてのソファーが置かれており、それぞれのソファーは他からはあまりよく見えないように配置されていた。自分が座っているところには、ソファーの前にガラスのテーブルが置かれていて、ピーナッツなどが入ったガラスの入れ物が上に置かれていた。そうこうしていると店の奥の方から、隣の部屋の人がやって来た。

「あら、お嬢ちゃん。来てくれはったのね。お待ちしてたわ」

 そう言い、持っていたグラスをテーブルに置いた。

「何飲みはる?ウーロン茶でええ?」

「はい、ウーロン茶をお願いします」

 幸恵は小さな声で言った。店内には大きな音でユーロビートの音楽がかかっていた。

「ちょっと待ってね。こちらウーロン茶お願い」

 隣の部屋の男の人は店の奥に向かって大きな声で言った。暗い中でその人を見ると、顔に真っ白な化粧がなされていた。目にはくっきりとアイラインが入っていて、どぎつい色の口紅が唇に塗られていた。決してきれいな女の人には見えなかった。むしろグロテスクな印象を与えた。

「よく来はったわ。楽しんでいってちょうだい。ゲイバーに来るのはもちろん初めてやわね?」

「はい」

「そんなに固くなりはらんでええんよ。みんなええ人ばかりやさかい」

「はい」

「お嬢ちゃんは今は大学生さんなん?」

「はい、一応そうです」

「一応って?」

「全然大学行ってないんです」

「そうやわねえ。いつもコンビニで夜にバイトしてはるもんね。そりゃあ、昼は眠いわよ」

「ええ、そうなんですけど」

 きれいな女の人のように見えるけれどおそらく男の人であろう人がウーロン茶を運んできてくれた。幸恵の前にウーロン茶が置かれた。

「ほなら、乾杯しよか。グラス持って、持って」

「では、お嬢ちゃんのこれからの幸せを祈ってかんぱ~い」

 幸恵は小さな声で「乾杯」と言い、ぎこちなくグラスをぶつけあった。

「お嬢ちゃんは名前は何て言わはるの?」

「はい、幸恵と言います」

「さちえちゃんか。ええ名前やん。どないな字?」

「しあわせにめぐまれると書いて幸恵です」

「ええ名前やねえ。そんなええ名前つけてもろうたんやさかい、親御さんに感謝せなあかんよ」

「はい、そうですね」

「ところでね。私の名前はここのお店ではトド子って呼ばれてるの。変な名前でしょ。トド子って。でも本名はたけしなの。ビートたけしのたけし」

「たけしさんってお呼びすればいいですか?」

「やだ、トド子って呼んで。たけしはもう何年も前に捨てたわ」

「捨てたんですか?」

「そうねえ、捨てたというより、生まれ変わったいうんかしら」

「私も生まれ変わってみたいです」

「あら、それじゃあ、幸恵ちゃんは男になってみる?」

「いや、そういう意味じゃなくて」

「分かってるわよ。こんなかわいい女の子に産んでもろうたんやさかい、女の子として楽しまな」

「あんまり楽しんでないですけど」

「そんなもったいないこと言うたらあかんよ。あたしら好きな人ができても結ばれることなんて滅多にあらへんのやで。気持ち悪いって逃げられるのがおちやわ」

「私もでも人と付き合ったことなんてないです」

「あら、そうなの。幸恵ちゃんかわいいからもてもてか思うたわ」

「男の人と話をしたこともほとんどないです」

「あら、もったいない。幸恵ちゃんが心許したら言い寄ってくる男なんていっぱいおるやろに」

「そんなことないですよ」

 踊り子さん、ステージ裏に集まってちょうだいというアナウンスがスピーカーから流れてきた。

「あら、ごめんなさい。ちょっとこれからショーが始まるから行かなあかんの。楽しんでてちょうだいね」

 そう言って、トド子さんは奥の方へ行った。一人になり特にすることもなかったので、幸恵はウーロン茶を飲み、店の中を眺めてみた。それまで接客をしていたたくさんのお店の人たちはショーに出るようで、店内には一人でお酒を飲むお客さんの姿が目立った。

 ほどなくしてショーが始まった。サンバのリズムに合わせ、きれいな化粧をし、とても男の人とは思えないきれいな人たちがヒラヒラの美しいドレスに身を包んで舞台に登場した。みんな舞台に上がってきて真ん中に来ると、とっておきの表情をしてまた袖にはけていった。幸恵はみんなのきれいさに圧倒された。自分より何百倍も美しい人たちばかりだと思った。何人も何人もきれいな人が現れて、最後にトド子さんが出てきた。他の人とは踊り方も違っていてアホの坂田さんのような歩き方で登場した。舞台の真ん中に来たときも志村けんのアイ~ンをして袖にはけていった。トド子さんだけが美しさを追求せず笑いを目指していた。それからもショーは続き、きれいな人が、透き通るような声でプリ・プリの曲を踊りながら歌ったり、三人のやはりきれいな人たちが和服姿で日本舞踊を踊ったりとショーは進行していった。ショーの合間にトド子さんが登場して、野太い声で松田聖子の「赤いスイートピー」を歌った。かわいらしい振り付けで踊りながら蛙を踏みつぶしたような声で歌った。お客さんがどっと笑った。ショーも終盤になってくると、少しセクシーな演目になった。ポールダンスで挑発的に見事な体型の人が踊った。どう見ても男の人には見えなかった。マドンナの「ライク・ア・バージン」を一人の人が歌い、その後ろで二人の人が踊った。ショーをずっと見ていて、いわゆるきれいではない踊り子さんはトド子さんだけだった。しかし、それだけにトド子さんはおいしいところをすべて持っていった。トド子さんが舞台上に登場するだけで、客席はやんやと沸いた。幸恵もみんなと一緒にお腹の底から笑った。ショーの最後は全員が登場してなぜか「上を向いて歩こう」を歌った。トド子さんもこの時はまじめに歌っていた。

 ショーが終わり、トド子さんはすぐに幸恵の席に戻って来た。汗をだらだらかいて、顔の化粧がぐちゃぐちゃになっていた。

「ちょっと、お水もらうわね」

 トド子さんはそう言い、グラスに水を注ぎぐびぐびと飲んだ。

「ショー、どないやった?楽しんでもらえたやろか?」

 そう言うトド子さんの顔はマスカラが流れて目の周りが真っ黒になっていてオバQのようだった。

「面白かったです。トド子さん、輝いていました」

 幸恵は率直に思ったままを言った。

「あら、ほんまに。そう言うてくれはったら、私もほんまにうれしいわ」

「なんだか感動しました」

「感動って、それ言い過ぎやわ」

「いや、ほんとにトド子さんの踊りを見ていて涙が出そうになりました」

「なんかうれしいけど大げさやわ」

 トド子さんは照れながら幸恵の肩を大きく叩きながら言った。

「ほんとに今日は楽しかったです。一生今日のことは忘れないと思います。遅くなってきたので、そろそろ私帰ろうと思います」

「あら、そう。でも引き留めちゃ悪いわね。またよければいらっしゃいや。いつでも歓迎よ」

「ありがとうございます。またぜひとも来させていただきます」

「ほんまに。おおきにな。ほなら気いつけて帰ってね」

「はい、それじゃあ。またコンビニでお会いしましょう」

「ほやね。またお世話になるわ」

 そうして幸恵は店を出て夜の街を歩き、電車で家まで帰った。

 幸恵は夜、コンビニでバイトをする生活が続いた。年度が終わりそうな時期になり、学費を納めることがもったいないと思い、次の年は休学することにした。別に退学してしまってもよかったけれど、とりあえずお金もいらないということだったので休学にした。しかし大学に対する関心は全くなくなっていた。もともとその大学をまじめに卒業したからといって就職にとても有利であるような有名な大学でもなかった。世の中はバブル景気で働き口はいくらでもあった。就職は何とでもなるだろうと幸恵は自分を納得させた。夜、コンビニでバイトして昼は寝ていたので、お金をまるで使わなかった。食べる物はコンビニの賞味期限切れの弁当をもらって、それでしのいでいた。だからコンビニでバイトしているだけなのにそれなりにお金は貯まっていった。

 ある日、幸恵がいつものようにコンビニのレジに座っていると、ちらちらとこちらの方を見てくる若い男の人がいた。色白のなよっとした体つきで髪の毛がぼさぼさの、見るからに女の子にもてそうにない感じの男の人だった。もっともそういう人は深夜にコンビニによく来たので初めのうちは特に気にもしなかった。夜中の二時頃だった。コンビニのバイトはいつも男の人とペアで入っていたけれど、もう一人の人は奥の方で配送された品物を受け取りに行っていた。ちらちらこちらを見ていた人は、もう一人のバイトの人がいないことを確認していたのかもしれない。店内の一番奥の冷凍食品の棚の方に向かって何かごそごそしていた。何をしているんだろうと見るともなしに見ていたら、こちら側を向いた時、ズボンからおちんちんを出していた。そのままスタスタと何事もない普通の顔をして幸恵の座っているレジの前を通り店の外に出て行った。幸恵はあまりのことに声も出なかった。キャーとでも言えば奥からもう一人のバイトの人が出てきたのだろうが、幸恵は何の言葉も発せられなかった。全く訳が分からなかった。ただびっくりしている間にそのことは起こった。

 このようなことは本来店長に報告するべきことだった。監視カメラに写っているかもしれないので、警察に連絡して何らかの対応をとらなければいけなかった。しかし幸恵は誰にもこのことを言えなかった。その男の人が怖いという感覚もあったけれど、このことに限らず、バイトで面倒なことが起こったことを人に話すという、当然のことが幸恵にはできなかった。バイトの場で、他のバイトの人と話をすることは全くなかった。今までそれで特に困るようなことはなかった。今回のことも誰にも話せなかった。ただ幸恵にとっても突然で一瞬の出来事だったため、びっくりはもちろんしたけれど、心に傷が残るというようなことはなかった。世の中には不思議な人がいるというような出来事だった。

 次の日にバイトに行ったときには、前日の出来事はもう忘れてしまっているくらいだった。しかし、午前二時頃になったら前日のあの男がコンビニの中に入ってきた。しばらく雑誌を立ち読みしていた。そしてまた店内をちらちらと見渡し始めた。幸恵はどうしたらいいか分からなかった。もう一人のバイトの男の人は店の奥の部屋で作業をしていた。幸恵が呆然としていたら、その男は幸恵が明らかに自分のことを意識していることを確認して、また股間からおちんちんを出し、アダルト雑誌コーナーに並んでいた「でらベッピン」に自分のおちんちんの先をこすり始めた。幸恵は声を出すこともできず、立ち上がることもできず、ただそれを見ていることしかできなかった。奥の方から足音が聞こえてもう一人のバイトの男の子がこちらに来たことにその男も気付き、ズボンの中にあわてて入れて、逃げるように店から出ていった。もう一人のバイトの子に先ほどの状況を説明することは幸恵にはできなかった。ただ、またかという思いと、この前よりもエスカレートしていることにうんざりした。もう二度とあの男が現れないことを祈った。

 その翌日、夜中の二時頃、しかしまたあの男は現れた。幸恵はその男が店内に入ってきただけでパニック状態になった。すぐにもう一人のバイトの男の人を呼びに行こうかとも思った。しかし幸恵はいつも他のバイトの人と仕事上の最低限の会話しかしたことがなく、自分の方から何かを話しかけるということを今までにほとんどしたことがなかった。今まではそれで別に不便なことは何もなかった。しかも呼びに行くと言ってもどう説明していいか分からなかった。だからまた今までのようにレジに座りじっと身を固くしてその男の様子を見ているしか術がなかった。その男はまた雑誌のコーナーへ行った。雑誌のコーナーはレジのまっすぐ前の列にあり、幸恵は顔を上に上げるだけでその様子が全く見えてしまった。その男はまたちらちらと辺りを見渡し誰もいないことを確認した。そして誰もいないことが分かると今回はさっと手際よくズボンを降ろした。ズボンの下に女物のパンティーを履いていた。そしてそのパンティを下にずらしてやはり中からおちんちんを出し、また「でらベッピン」にこすりつけ出した。そうしながら幸恵の顔を見て、にやっと笑った。幸恵は背中に寒気が走った。その男は今回はそれだけをして、すぐズボンを上に上げてすたすたと歩いてコンビニの外へ出て行った。とりあえずその男がいなくなって幸恵はほっとした。普段あまり怒るということのない幸恵だったが、徐々に怒りの感情が沸き起こってきた。最低の人間だと思った。何もできないことにつけ込んで自分に対してだけこのようなことをすることについて、卑劣すぎると考えた。しかし、そう思いながらも、こんなことをされても何もできない自分に対して情けない感情が起こった。もっと毅然とした対応ができていれば、こんなことはされないだろうに、何もできないでいる自分を責める気持ちが沸き起こってきた。今度、もし、またあの男が来てあのようなことをされたら、せめてもう一人のバイトの人を呼ぼうと決心した。しかしその後、その男がコンビニに来ることはなかった。一ヶ月ほども経ち、幸恵もその男のことを忘れかけていたある日のことだった。

 幸恵がコンビニのバイトに出かけようとした夜の八時過ぎだった。幸恵が家の外に出て少し歩きかけたら何か背後に人の気配を感じた。後ろを振り向いてみると、数メートル離れた電柱の後ろに人がいた。街灯の明かりでぼんやりとしか見えなかったが、明らかにコンビニにやって来た例の男だった。その男が今回はコートを羽織い立っていた。そして幸恵が自分の存在に気づいたことが分かると、おもむろにコートの前を開けた。中は全裸だった。

 幸恵は懸命にその場を立ち去った。頭の中は真っ白だった。とにかくその男から離れたかった。男は全く追ってこなかった。幸恵は完全にその男から離れることができてから、物事がようやく考えられるようになってきた。つまりあの男は自分の家を知っているということだ。どうしてだかは分からないけれど、あの男は自分の家を知っている。そのことを考えたとき、今までには感じなかった恐怖心が心の奥底から沸き上がってきた。実際に自分の家を知っていることにも怖さを感じたが、自分の家を突き止めたその行動が怖かった。ひょっとすると今度は自分の部屋にあの男はやって来るかもしれない。背中に寒気が走り体が震えてきた。自分の部屋にあの男がやって来る。考えるだけで怖かった。バイトをしている間もずっとそのことが頭から離れなかった。今晩のバイトが終わって家に帰ると部屋の中にあの男が裸で待っている気がした。そんな光景が頭の中に浮かんで消えることがなかった。自分の家に帰ることが怖かった。そもそもあの男はなぜこんなにしつこく私なんかにまとわりついてくるのだろう。それもどんどんエスカレートしてきている。今日されたことなどは完全に痴漢行為だから警察に本来通告するべきことだろう。しかしバイトの仲間にすら言えない自分が警察に言えるはずがなかった。あの男はそんな自分につけ込んでこんなことをしてくる。何もできない自分がこんなことを引き起こしている。自分があまりにも情けなかった。今度ばかりは警察に言わなければいけないのではないか。頑張って電話で言ってみることぐらいできるのではないだろうか。しかし必ずそうしたら警察が自分の家に来てもっと細々としたことを聞いてきてそれに答えなければいけないだろう。そのようなことに自分は対応できないと思った。こんな目に遭わされているのに何もできない自分があまりにもふがいなかった。幸恵はどんどん自分を責め始めた。バイトをしているほとんどの時間、自分について考え込んでいた。いつも以上に暗い表情をしてコンビニのカウンターに座っていた。しかしどれだけ自分を責めたところで、現実にあの男はまた家のそばにやって来るかもしれない。何か具体的な対策をたてない限り、どんどんひどい目に遭わされる可能性がある。誰か自分を助けてくれる人はいないだろうか。幸恵はすぐに隣の部屋の人を思い起こした。トド子さんなら何とかしてくれるのではないだろうか。トド子さんはあんな格好をしているけれど、もともとは男だし、怒ったら強そうに思えた。あんなひょろっとした男くらい一発で退治してくれそうな気がした。トド子さんに相談してみよう。そんな前向きな考えになれたのはもう夜明けも近い時間だった。おそらく今朝もトド子さんは朝食を買いに来るだろう。その時に相談してみよう。かなりいい考えだ。トド子さんなら絶対解決してくれるはずだ。何時間も沈んでいたため、その考えが浮かんでから幸恵は一気に明るい気持ちになれた。これで何もかもがうまくいくように思えた。ただ、そんな気持ちになりながらまた不安な考えが浮かんできた。レジで対応している時にそのような相談ができるだろうかということだった。一言くらい話をすることくらいはできるかもしれないけれど、このような込み入った話をしているような余裕はない。一言だけで伝えられるように言わなければいけない。どう言えばいいだろう。とりあえず今の一番の問題は今から家に帰ってまたあの男がいるのではないかということだ。だから今日一緒に帰ってもらうようにお願いしてみればいいのではないだろうか。幸恵はそのように考えた。いつもトド子さんが朝食を買いに来る時間は自分の仕事が終わるほんの少し前だった。だから待っていてもらってもそれほど迷惑ではないだろう。そんなことを考えていたら、トド子さんが店にやって来た。いつものようにバナナと牛乳とカロリーメイトを持ってレジのところに来た。幸恵はレジを打ちながら小さな声で言った。

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