月と水仙と鹿〜ショートショート〜

夜川青湖

月と水仙と鹿

 わたしは愚か者です。

 地に縛られたわたしは、春に目覚めてからずっと、夜空を眺めているのです。

 冬の間、わたしは地中深くで縮こまり、寒さを凌いで過ごします。暗いくらい地の中で、じっと突き刺す風の針が和らぐ時を待っているのです。


気が遠くなるほどの年月を、わたしは繰り返しているのです。

もう、何年も何年も。


それはいつのことだったか。

数年前のことだったか、それとも数十年も前のことだったか。繰り返すわたしの記憶は曖昧で、もうその始まりをあまり覚えてはいないのだけれど。

その年の春は、遅かった。根雪がちっとも溶けないのです。わたしはもうそろそろ地上に顔を出したいのだけれど、頑固な根雪がそうさせてくれません。わたしはすこしイライラしていました。早く出たい。暗い地の中ではなく、あたたかな春風に身を揺らし、青空を見上げたい。いち早くわたしの美しい姿を世界に見せつけたい。あぁ、称賛が待ち遠しい。そんなことを長く思っていました。

そうしてようやく顔を出せたのは、だからいつもよりもひと月近く後のことでした。

地上に顔を出したわたしは、まだところどころ残る雪に冬の長さを恨みました。ですが待ち遠しかったのはわたしだけではなかったようで、ちらほらと他の草木も地上から顔をのぞかせ、傍らに咲く桜のつぼみはまんまるに膨らんでいました。

待ち望んだ、春です。

わたしは世界に春を告げました。

わたしは自分の姿を世界中に見せつけるように、ぐっと背筋を伸ばして花を咲かせました。

その夜のことです。

春を告げたとはいえ、まだ夜は冷え込みます。わたしは寒さに凍えながらも、地上に顔を出し、そうして花を咲かせられたことを誇らしく感じていました。

わたしは美しく咲きます。ほかのどの花よりも美しく。

だってわたしは神々の昔、湖に映した己の顔に恋をした美しいナルキッソスの化身なのですから。

誇示するようにわたしは春の夜空にぐんと胸を張りました。そしてなんということもなくふと、夜空を見上げました。

桜のつぼみのその先に、まあるい月が、朧に世界を照らしておりました。

あぁ、なんという美しさでしょう。

知らず知らずにため息がもれます。

なんと神々しく、麗しいのでしょう。

その姿は、一つもかけるところのないにもかかわらずどこか慎ましやかで、静かで、厳かで、それでいて優しい、凛としたお姿でした。

わたしは急に恥ずかしくなり、顔を下に背けました。

それまでわたしは己を一番美しいと思っていたのです。だれよりも、どの花よりも美しいと。

あぁ、わたしはなんと愚か者なのでしょう。自分の姿に自惚れるだけで、他のものを知ろうとはせずにどこか見下していたのです。

そんなわたしの醜い姿を、月の光が炙り出しているように思えてしまったのです。

恥ずかしかった。消えてしまいたいくらいに。

わたしは俯いてその神々しい光から逃れたいと必死でした。ですがその気持ちとは裏腹に、美しい月の姿が気になってそっと夜空を見つめてしまうのです。

月は日ごとに姿を変えましたが、たとえ明かりが細くなったとしても、その美しさが陰ることはありませんでした。

少し欠けた月は清楚、三日月は冴え冴えとした美、というように、わたしをどんどん魅了していきました。

そして月の出ない新月の夜。月のない夜。わたしは静かに涙を零しました。

会いたい。あの美しい姿を今日は見られないなんて。そうおもうと寂しくて恋しくて仕方ありませんでした。

「あぁ、なんて美しいのだろう!」

 何度目かの新月の夜、山野を駆ける鹿が、わたしのそばに来て言いました。

「いいえ、わたしは美しくなどないのです。あの方に比べたら。わたしはとても醜いのです」

 わたしははらはらと泣きながらそう鹿に言いました。

「いいや、アンタは美しい。とても美しい。どうだい、オレの嫁にならないか」

 わたしはとても驚きました。驚きで涙がふと止まりました。

 奇想天外なことを言う鹿です。

 鹿と水仙が夫婦になるなど、前代未聞のことです。わたしは少し笑いました。

「わたしは水仙。鹿のお嫁は務まりませんよ」

そういうと、

「かまうものか! アンタは春を告げる誰よりも美しい嫁さんになるだろうよ」

と、少し怒ったようにそう言いました。

 それが鹿の照れ隠しだと気づいて、わたしの心はほんのりと温かくなりました。

「ありがとう、鹿さん。でもやっぱり鹿と水仙では夫婦にはなれないわ」

 言いながら、わたしはどんどん気持ちが沈んでいくのに気が付きました。

 そうです、わたしは夫婦にはなれないのです。

 わたしは気づいてしまいました。

 わたしは、恋をしている。

 そう気づいてしまったら、もうどうしようもありませんでした。一度止まったはずの涙はとめどとなく流れ落ち、わたしの葉を濡らし、ぽつりぽつりと地面に吸い込まれていきました。

 突然泣き始めたわたしに、鹿はオロオロとしていましたが、思い切ったように言いました。

「オレならアンタをそんな風に泣かせたりしない! 約束する!」

 なんてやさしい鹿なのでしょう。わたしはそれでも流れ続ける涙をそのままに、精一杯の笑顔で「ありがとう」と言いました。

 でも、違うのです。わたしが求めているのは、それでもやさしい鹿からでは得られないものなのです。

「ごめんなさい、わたしはあなたと夫婦になるわけにはいかないのです」

 申し訳ない気持ちになりながら、わたしはそこにはいない月を見上げました。

 わたしは焦がれていました。ただ見つめるだけしかできない、あの美しい月に。

 決して叶うことのない恋をしていることに、わたしはとうとう気づいてしまったのです。

 その後、鹿は何度も何度もわたしのもとを訪ねました。

 月日が巡り、季節が変わり、また春が来ても、変わらず鹿はわたしに求婚し続けました。

 鹿は年々雄々しくなり、そうしていつしか年老いていきました。

 そうして過ぎ去った何年目かの春。

「月に恋をしたって、話すことも触れ合うこともできないじゃないか。いい加減、オレの嫁になったらどうだ」

 いつになく鹿の目は真剣でした。それでもわたしは首を横に振りました。

「それでもいいのです。ただ見ているだけでいいのです」

 そういうと、年老いた鹿は悲しそうに鼻を鳴らし、あきらめたように瞳を伏せました。

 そう思うとカッと目を見開き、意を決したようにわたしに近づき、前足を必死に動かし、わたしの根元を力強くガッガッと掘り始めました。

 わたしは驚いて「なにをするのです!」と鹿を咎めましたが、他に何をすることもできずに鹿がわたしの根元を掘り返す様をただ見ていることしかできません。

 ブチブチと根が切れる音がしました。

 そして遂に支えを失ったわたしは、掘り返された土に倒れ、まるく黒い球根が空気に晒されました。

 さあさあと風が吹き、桜の木から花びらが舞い落ちてわたしの球根にひらりひらりと落ちて来ました。

 わたしは途端に渇きを覚え、急速にこの長い命の終わりを感じました。

「オレももう長くはない。どうせ死ぬなら、アンタの毒で死にたい」

 鹿は悲し気にそう言って、土にまみれたわたしを頭からゆっくりと咀嚼しました。わたしの視界は閉ざされ、なすすべなくわたしの全部は鹿にごくりと呑まれました。

  わたしの毒は、ゆっくりと鹿の体内に染みわたり、しばらくして鹿は静かにすべての動きを止めました。

 かたちのないわたしは、かたちなく泣きました。やさしい鹿をこんなに追い詰めてしまった。

 はらはらと見えない涙は流れ続けました。

 それでもわたしの心は月にあるのです。


 やがてわたしの意識は朧げになり、次第に鹿と混ざっていきました。

 自分が水仙か、鹿か、もう定かではありません。ふわふわと宙を彷徨う魂となり、上へ上へと上がっていきました。

 草の茂みを越え、満開の桜を越え、山を越え、雲を越えていきました。

 月に向かってひたすらに空を登っていきました。


 その様を見守っていた月が、ふわりと彼らの魂を柔らかく包み込んでゆきました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月と水仙と鹿〜ショートショート〜 夜川青湖 @aoko-y

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ