第37話 世界の重なり

 それは突然のことだった。


「何これ……」


 後宮でいつも通りに仕事していたルーナルーナは、あまりの出来事にその場へ座り込んでしまう。それは他の侍女にも同じことが言えた。皆一様に、ありえない物を見ている。コメットが何気なく呟いた。


「まるで、二つの世界が重なっているみたい」


 ルーナルーナは、その通りだと思った。今いるのは明らかにシャンデル王国のはずなのに、ダンクネス王国の様式の建物内部が少しブレて重なるようにして見えているのだ。でも、見えているだけで、物理的には何も無い。手を伸ばしてみても、すっと突き抜けてしまうだけだ。


(誰かが、二つの世界を本当に一つにしようとしているのだわ!)


 ルーナルーナの頭には、犬を連れて彼女を追いかけてきた黒い衣の男の姿が浮かぶ。いよいよ異教徒がここまでのことを成し得てしまったのであれば、この国も、そしてサニーがいるダンクネス王国も危ない。


 その時、給仕室の外から声があがった。


「これは黒い女の仕業だ! 早く捕えろ!」


 ひゅっと息を飲むルーナルーナ。忌み色をもつ彼女は、何かがある度に犯人扱いされるのは慣れている。だが、これだけは事なかれ主義で濡れ衣を被るわけにはいかない。あまりにも事が重すぎる。


「ルナ、早く逃げて! あなたじゃないことぐらい、私だって分かるわよ。こんな超常現象、普通の人間に起こせることじゃないわ!」


 コメットがルーナルーナを急かす。次第に、廊下から黒い娘を探す声が大きくなってきた。


「ルナ、早く! ここに来るのも時間の問題よ!」

「わ、分かったわ!」


(そうだわ、アレをすれば良いのよ! まだ一度も練習はしていないけれど、きっとできるはず!)


 ルーナルーナは、目を閉じて王妃の姿を思い浮かべた。憧れの女性の白い肌に白い髪。瞳は、赤を選ぶ。兎のように飛んで駆けて、早くサニーのところへ向かいたい。


 すると、ルーナルーナの姿は強烈な魔力と金粉を纏い、見る間に別人がそこに現れた。


「ルナ……なの?!」


 ルーナルーナの変化の様子をつぶさに見守っていたコメットだが、自分の目がにわかには信じられなかった。確かにルーナルーナの背格好、目鼻立ちなのだが、今いるのはこの国でも類稀なる美女なのだ。


「えぇ。以前レイナス様にお借りした魔導書に書かれてあったので、やってみたの」

「そ、そう。今のあなたなら、誰もあなただとは気づかないと思うわ。でも魔法なんだったら、すぐに解けちゃうかもしれないでしょ?! 早く逃げて!」

「ありがとう」


 ルーナルーナは駆け出した。廊下に出ると、誰もが彼女の方を振り向く。二度見する者まで見る。明らかに目立っているのは確かだが、その視線は驚愕と憧れのものであり、ルーナルーナにとってはむず痒くなってしまう。


 しばらく走ると、廊下の突き当りに大きな姿見が見えてきた。そこに映った女性は、ルーナルーナと同時にぎょっとした顔になり、次に口元へ手を当てて困り顔になる。そこでようやく、ルーナルーナも自分のとてつもない変化を実感することになった。


(この魔法、すごいわ! この分なら、誰に咎められることなく後宮を抜けることができる!)


 




 ルーナルーナが街に出ると、やはりそこも景色が二重に見えていた。あるはずもないダンクネス王国で見慣れた風景がぼんやりとそこにある。シャンデル王国でもキプルジャムは流行っているが、実際にダンクネス王国へ行けた者は極少数。となると、突然自分の目がおかしくなったと感じるばかりか、明らかに異文化と分かるものがそこに存在し、それを手で払いのけることもできないとなると、パニックに陥るのも当然だ。


「異教徒が国に呪いをかけたんだ!」

「この国は異国に滅ぼされるのか?!」

「ここはどこなんだ?! あれは何なのだ?!」


 あちらこちらから大勢の老若男女が大通りに集まり始め、喚き散らしている。中には王城へ乗り込もうとする荒くれ者まで出る始末。


「この世の終わりがやってきた!」

「女神様の怒りだ!」


 飛び交う怒号と悲痛な叫び。恐怖と怒りに染まる民衆の顔。じっとしていれば、危害を加えられることもないので生活に支障は無いのだが、視界が知らない物で一変するというのは、人々をかつてない程の混乱に陥れた。


(ダンクネス王国が寝静まっている今だから、これで済んでいるけれど、夕方になれば両国の人々がお互いを見ることになってしまう。サニーがあんなにがんばっていたのに、こんなことになってしまうなんて……もう、どうしたらいいの?!)


 ルーナルーナはおろおろしながら、街の中を歩き始める。無意識に慣れた道を選んでいたらしく、いつの間にか行きつけの本屋が見えてきた。


「あ、店主さん」

「ルナ、大丈夫か?!」


 今のルーナルーナは、纏う色がいつもと全く違う。にも関わらず彼女だと見抜いた店主に驚きを隠せなかった。


「えぇ、私は大丈夫なのですが……」


 ここで、ルーナルーナはまた一つのことを閃いた。


「あの、店主さん! この店で売っている神話関係の本を全て私に売ってください! すみませんが、ツケでお願いします!」

「ルナ、その髪と言い、実は女神の使いか何かなのだろう? そんなお方から金なんて取ってたら罰が当たるよ。ほら、持ってきな。儂もこの超常現象は神話と関係があると思ってたから、いくつか良い本を集めてたんだ」


 店主は勘定台から古ぼけた本を数冊手に取ると、ルーナルーナの胸に押し付けた。


「ありがとうございます! このお礼はいつか必ず!」

「気にするな! 今はお前ができることをしろ!」


 ルーナルーナはお辞儀するのもそこそこに、店の前を走り去る。そして人気のない路地を見つけて、そこへ身を滑りこませた。


 王妃に許可をとることもなく仕事を放って後宮を抜けてきた罪悪感は大きい。しかし今は、ルーナルーナにしかできないことをやり遂げたい。これまで世界の端っこで生きてきたしがない侍女ルーナルーナ。そんな彼女が、生まれて初めて使命というものを心に強く抱いている。


(サニーのところへ行かなくちゃ。私の知るところ、考えるところを全て詳らかにして、彼の力になりたいの。だって、この二つの世界を救うのは、絶対にサニーなのだから!)


 根拠のない確信と二人を繋ぐ強い絆、信頼がルーナルーナを突き動かす。ルーナルーナはポケットの中のキプルジャムを口の中へ流し込んだ。


(お願い! サニーのところへ連れてって!)


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