第8話 今宵のお客は2名様
夕方、今夜も早くに仕事を上がることができたルーナルーナは、夕飯を食堂でとるか、自室でとるかで迷っていた。
人が多い場所は、ルーナルーナのことを良く思わない人間も必然的に多くなる。疲れた身体を鞭打つような真似はしたくないと思い、結局食堂で包んでもらった弁当をもって自室へ向かっていた。その途中。
「こんなところで何しているの? 汚らわしい。せめて端を歩きなさい」
出くわしたのはキュリーだった。外から帰ってきたらしく、侍女用の黒いメイド服ではなく、貴族令嬢らしいレモンイエローのドレスを身に着けている。
「ごきげんよう、キュリーさん」
キュリーは鼻を鳴らしてルーナルーナの挨拶に応える。そして余裕たっぷりに尋ねるのだった。
「それで、夜会のエスコート役は見つかったの?」
「アテはできたのですが、まだきちんとしたお返事はいただいておりませんので」
途端に、廊下を優雅に進んでいたキュリーの足は止まってしまう。
「なんですって?!」
もしかすると聞こえなったのかと勘違いしたルーナルーナは、同じ言葉を繰り返す。驚愕のあまり目を見開いたキュリーは微動だにせず、ただ一言、
「ありえない」
と言った。
当然気を害したルーナルーナは会釈のみ返して、スタスタ自室へ急ぐのである。今は勤務中ではない。また、長々と先輩侍女に構っていられる程の社交性も持ち合わせていなかった。
すっかり夜になった。今夜もルーナルーナは、キプルの実を使った菓子を齧っている。キプルの木は後宮の一角に自生しているもので、教会から聖樹として指定されてはいるものの、実の採集自体は許されている。ルーナルーナは、定期的に実を拾いに行っていった。そして、皆が寝静まった頃を見計らっては、寮の竈で菓子を焼くのである。
ルーナルーナは、今夜もサニーに会えるような気がしていた。だが、また知らぬ間にベッドへ押し倒されるような失態は繰り返したくない。寝間着に着替えたものの、ベッドへは横にならずに窓辺の椅子で寛ぐことにした。
そして、塔の鐘が二十一の刻を知らせる。
――ゴーン、ゴーン
まるで、それが合図のようだった。
ルーナルーナの視界は少しずつ移ろっていく。シャンデル王国からダンクネス王国へ変化を遂げる。
「こんばんは」
「おはよう。早起きは三文の得って本当のことなんだね!」
ルーナルーナの目の前に現れたのは、何度見ても卒倒しそうになる程の美丈夫、サニーだ。いかにも待ち構えていたといった体のサニーに対し、ルーナルーナはタジタジになりながら窓枠へ後ずさる。
そこで、ふと以前からの疑問が頭をよぎった。
「いつもにも増して、豪華で高級な寝間着をお召しなのですね」
それは寝間着というよりかは、ルーナルーナの感覚によるとバスローブに近い。前身頃を重ね合わせるタイプの長衣で、色は黒に近い藍色。腰には金糸が使われていると推察される帯が締められてあった。そして、広い肩の上に羽織っているのは、出会った日にも身につけていたと思われる黒マントである。
一方、ルーナルーナはいつも寝間着として、薄手のワンピースの上にバスローブ風のガウンを羽織っている。自分とよく似た形の衣服なので、前述のようなことを尋ねてみたのだが、問われた当人は首を傾けている。
「さすがに、これを寝間着にする程の財産は持っていないかな」
「はぁ」
「もしかして、ルーナルーナはこの国のお姫様?」
「断じて違います!」
もしルーナルーナが姫だとすると、母親はミルキーナということになってしまう。あまりに似つかわなさすぎる。ちなみにミルキーナには三人の子がおり、いずれも白か銀の髪色をしている。
「そこまで否定しなくてもいいのに、俺のお姫様」
(俺の……お姫様……?! この人、絶対に天然たらしだわ。しかも、女性の好みが狂っているんだわ!)
いろいろな意味で目眩を起こしそうになるルーナルーナだが、急にサニーの背後の扉が開いたことで我に返った。
「おや、いらっしゃいませ」
入ってきたのは茶色の髪の男。サニーと同じく、シャンデル王国では見慣れない格好をしているが、衣の裾は少し短く、その下にはブーツで覆われたスラリと長い脚が突き出ていた。
「あの、私……」
ルーナルーナが自己紹介しようとすると、サニーが不機嫌そうに彼女の前に立ち塞がる。
「アレス、見るな! ルーナルーナの美しさが減る」
「はいはい。もう見てしまいましたから手遅れですよ」
「何だと?!」
怒るサニーに苦笑する男は、数歩ルーナルーナに歩み寄った。
「お初にお目にかかります。私はダンクネス王国貴族サーデライト公爵家嫡男のアレスと申します。尊き夜に愛された安寧と平和の女神よ、お名前をお伺いしても?」
ここでおさらいしよう。
ルーナルーナは平民である。故郷の村を出てから一直線に王都へ向かい、すぐに後宮に上がったという典型的な田舎娘である。しかも齢は二十五。それだけ長きに渡って、ほとんど適齢期と呼ばれる世代の男性と関わらずに生きてきたのだ。もちろん、村にいた頃も貴族と呼ばれる人種との交流などあるわけもない。ルーナルーナが、この年でおしっこ漏れそうと内心呟くのも無理ない話なのだ。
(それにしても、ダンクネス王国って、顔面偏差値が高いのかしら)
ルーナルーナは、アレスから送られる熱い視線を反らすこともできず、ただ侍女らしく頭を下げて固まることしかできなかった。
「アレス、ルーナルーナが怖がってるじゃないか。だいたい名前は、既に俺が教えてやっただろう?」
「しかし、それでは私から彼女の名前を呼ぶことはできません」
「これだから貴族は面倒なんだ」
顔をしかめるサニーを見て、ますますルーナルーナは、彼を裕福な商人の息子だと確信を強めるのだった。
(サニーって、貴族の友達がいるのね。さすがだわ。あ、それならば、もしかして貴族の女性と婚約していたり……まさか、既婚という線もあるんじゃ!!)
そこまで想像したところで、ルーナルーナはさっと頭を上げた。その顔に血の気は無い。
「サニウェル様」
「どうしたの?」
ルーナルーナは、何かの決意を秘めたような強い眼差しをサニーに向けていた。
「申し訳ございません。あの、昨日の約束は忘れてください。こちらからお願いしたことを取り下げるなど、大変無礼であることは承知の上です。しかし、あなた様は貴族の方とも交流があるご様子」
「確かに、あることはあるけれど」
ルーナルーナは、やはりそうなのだと思って、一人大きく頷く。
「私、本当は分かっているのです。本当は既に貴族階級の方と結婚されている、もしくは婚約されているのでしょう? そうでなければ、きっとお付き合いされている高貴な方がいらっしゃるにちがいないわ!」
「え、何故でそんなことになるんだ?!」
慌てて駆け寄ってきたサニーの腕を卒なく払いのけた頃には、ルーナルーナの声は涙混じりになっていた。
「何故って……見ればお分かりになりませんか? 私は忌避されるべき黒しか持っていません。対するあなたは、陽の光から生まれたと言わんばかりの誰もが羨む輝かしい容姿ですもの。本来ならば、私のような者がおいそれと関わって言葉を交わすことすら叶わない雲の上の方なのです」
「それ、俺のセリフなんだけど」
「同情は結構です!」
そこへ、張り詰めた空気を和らげるべく、アレスが大きな咳払いをする。サニーは気まずそうに、ルーナルーナから少し距離をとった。
「二人共、お忘れではありませんか? シャンデル王国とダンクネス王国。国が違えば文化や価値観が異なります。そう、衣装もそうであるように」
アレスは歌うように話すと、ルーナルーナのすぐ傍までやってきた。
「ルーナルーナ様の言葉ではっきりしました。二つの国の価値観は真逆なのです。ですから、ルーナルーナ様がこちらへいらっしゃれば、傾国の美女として崇め奉られること請け合いですよ」
「まさか……」
「それでは、証拠をお見せしましょう」
次に起こったことは、ルーナルーナにはにわかに信じられないことだった。
アレスはルーナルーナの足元に跪いたかと思うと、冷え切ったルーナルーナの手を壊れ物のような手つきで優しく触れる。そして、侍女仕事で荒れたボロボロの指先を労るように、優しくキスをするのだった。
「どうか、私と結婚してくれないか」
ルーナルーナが一生に一度あるかないかの経験にクラクラすると同時に、これとは別の感情も頭をもたげてきたのだ。
「アレス様、ごめんなさい」
サニーは到底手の届かない天上人。それでもルーナルーナにとっては、おそらく彼女の一生分の幸福を集めても余りある程の優しさを、たった二度の逢瀬だけで与えてくれた人物だ。せめて、心の中では慕い続けたいと思えるぐらい、既にサニーの存在感は大きなものになっている。だから。
「やはり私は……」
「ありがとうございます。お陰様で、私も命拾いすることができました」
ルーナルーナは、何気なく視線を上げた。すると、アレスのすぐ背後には、今にも彼を殺さんとばかりにナイフを振り上げたサニーの姿があった。なのにアレスは流れるような身の交わしでそれを凌ぎ、満足げに一人微笑んでいる。
「ルーナルーナ様、合格です。今朝は、あなたが実在すると確認できるだけで重畳と思っていましたが、そのご意志までも、しかと見極めることができました」
「えっと、それってどういう……?」
「サニーからまだ聞いていませんか? 今度の夜会は最高の夜になりますよ。微力ではありますが、私もお役に立てればと」
次の瞬間、サニーはルーナルーナに飛びついた。そしてアレスの上書きをせんとばかりに、指先と、そして額にキスを落とすのだった。
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