人間ソースコード
富升針清
人間ソースコード
凄い発見をしてしまった。
まだ若い学者がそう呟いた。
彼は震える手を握りしめながら、前に座っている教授を見つめる。
目の前に座る教授はいつにもなく和かに、彼の言葉を頷きながら聞いているではないか。いつもであれば面倒くさそうに、彼の報告など聞きもしない程の扱いしかしてこなかったと言うのに。
「成る程、君は凄い」
なのに、今は今迄彼が見た事もないぐらいの穏やかさで、信じられない事に彼を称賛しているではないか。
まるで幻を見ているのか。いつも蔑ろにされて来た若い学者がそう思って震えるのも無理はない。
だがしかし、幻だと怯えて震える事はない。これは逆に自分の発見が正しかった事を裏付ける結果なのである。
彼は、発見してしまったのだ。
人間にもソースコードがある事を。
ソースコードとは、本来コンピュータに命令する為に書かれるプログラム言語だ。
コンピュータにさせたい命令がある時に書く筈のソースコードが、人間と言う摩訶不思議なブラックボックスにも存在している事を彼は発見した。
これは、凄い発見だ。彼は目の前に起こっている現象を見て、もう一度小さな声で呟いた。
「実に素晴らしい発見だ。君の日頃の努力の賜物じゃないか。ああ、あの男よりも、君の方が優秀だったなんて、何で私は愚かな事をしてしまったんだろうか。矢張り、私の席を引き継ぐには君の方が随分と相応しい」
あの男とは、若い学者の先輩にあたる酷く狡猾で、頗る優秀な学者である。
人格には問題はあるが、優秀からか教授は日頃からその先輩学者を贔屓していた。一目置いていた事もあるが、若い学者はその贔屓の踏み台に日々されていたのだ。
でも、今日からは違う。
「教授、お茶をお持ちしました」
いつもなら、雑用は全て若い学者がやっていたのに、今日からは違った。
納得出来ない顔で、先輩学者がお茶を持ってやって来た。勿論、若い学者のお茶はない。
でも、それでいいんだ。
その姿を見て若い学者はほくそ笑んだ。
今日からは、僕がここの王様だ。
「先輩」
若い学者は先輩学者に声を掛けた。
その後に、何の意味も持たない24文字の羅列を彼に伝えて、次に声を掛けた。
「僕にもお茶を」
プライドの高い優秀な先輩は、いつもならば顔を歪め怒り出す事だろう。
しかし、今は違う。
「はい。今すぐにお持ちしますね」
和かに答えると、後輩であるはずの若い学者に一礼して部屋を出る。
そう。
この何の意味も持たない24文字の羅列が、人間に命令するためのソースコードなのだ!
若い学者は、ひょんな事からこのソースコードを見つけてしまった。そして、使ってしまったのだ。
だから、いつも彼を都合のいい小間使いだとしか思っていない教授は彼をソファーに招き入れたし、いつも彼を見下して馬鹿にしている先輩学者は彼の命令を和かに且つ速やかに実行に移した。
この人間用のソースコードを使い相手にインプットすれば、自分が意図するアウトプットが得られるという事だ。
恭しく自分にお茶を持ってくる先輩学者を見て、若い学者は満足気に微笑んだ。
さて、今度はこのソースコードを誰に使ってやろうか。
恨みを晴らすのも良し、気に入らない相手に使うのも良し。しかし、こんな世紀の大発見をそんなチンケな事に使うにしては少々勿体ない。
若い学者はお世辞にも美味しいとは言えないお茶を飲みながら考えた。
他者をまるで人形の様に操れるこのソースコードを知っているのは自分だけだ。
このソースコードを使えば、この国の総理、いや。他国の大統領にだってなれてしまう。
しかし、そんな事を彼は望んでいなかった。だって、彼は学者なのだから。
世界征服、いや、国を治めるだなんて興味すらない。
ただ、自分の好きな研究を自分の好きな様にやっていければそれで幸せなのだ。
そんな細やかな幸せを手に入れる為に若い学者は、まず資金を用意する事にした。
彼は教授の部屋を出ると、彼が住む街の寂れたビルの一室の汚い部屋に彼は足を運ぶ。
ドアを叩くと、人相がお世辞にも良くはない男が出て来た。
彼は会釈どころか挨拶もせずに、男に向かってソースコードを口にした。
このソースコードには少々コツがいる。前から五つ目の発音は人間には少々難しい。気を遣って言わねば、上手く発音出来ずにソースコードにはならないのだ。
若い学者がそう唱えると、男は呆然としていた。これが、命令の入力タイミングの目印である。
若い学者は透かさず、命令を言うために口を開く。
「金が欲しい」
すると、どうだろうか。人相がお世辞にも良くはない男が、にっこりと笑って若い学者を部屋に招き入れ、お茶と菓子を差し出しながら幾らいるのか彼に問いかけた。
若い学者が三百万と言えば、男は素早い手つきで茶色い封筒に金を入れ、若い学者に手渡したのだ。
若い学者は見たこともない大金に震え上がると共に、やはりこのソースコードは完璧なのだと喜んだ。本当に、誰もがこの言葉で自分の命令を聞いてしまう。自分で発見した事なのにここまで上手く行くと信じられないが、今迄の成功がそれを証明している。
自信がついた若い学者は、敷居の高いレストランに入って豪勢な食事に舌鼓を打った。勿論、ウエイトレスにはソースコードを使って。
彼は様々な所でソースコードを使っては自由気ままにサービスを受けた。皆笑顔で彼の命令を聞き、即座に行動に起こしてくれる。
まるで、自分が王様にでもなった様な気分を味わいながら、彼はまた考えた。
も自分の様な善良な市民ならば問題はないが、もし、善良ではない市民がこのソースコードを知って仕舞えば、世間は瞬く間に良くない方向へ行ってしまう。
そうなってしまえば、発見した若い学者は研究どころではなくなってしまうだろう。
しかし、若い学者は既に教授にこのソースコードの報告をしてしまっている。欲深い彼の事だ。このソースコードを学会に発表し、自分の地位を確固たるものにしようと企んでいても可笑しくはない。
若い学者は更に考えた。
どうすれば良いのかを。
そして、一つの妙案を思いついた。
このまま自分が消えてしまえば、全ての問題が解決するのではないのだろうか。
しかし、そうなると一つの問題が出てくる。それは金銭面での問題だ。先ほど男がくれた三百万をこのまま使っては近いうちに必ず底をついてしまう。
また、何処に行っても人の視線と言うものは必ずあるものだ。もし、その視線の元が教授だったら……。
些細な偶然はこの世界に確かに存在している。あり得ない話ではない。
だからこそ、その二つをクリアする秘策を彼は見つけたのだ。
彼はすぐ様スーツと花束を買い、一人の女性の元へ向かった。
大きな屋敷に一人で住む年老いた老婦人の元へと。
彼はその老婦人にソースコードを打ち込んで、自分が亡くなったばかりの旦那にすり替わろうと考えたのだ。老婦人の元にいれば、その屋敷に匿われ人目は避けれ尚且つ金の心配はしなくて済む。
老婦人の亡くなったばかりの夫は学会でも名が知れ渡った著名な学者である。彼女がその夫だと自分を信じ込めば、自分が研究にのめり込んでいても不思議にも思わない事だろう。また、著名な彼には随分と資産がある事も有名だ。金の心配はない。
なんと完璧な計画だろうか。
若い学者は大きな屋敷に上がり込むと、老婦人にソースコードを打ち込んだ。
そして、こう言ったのだ。
「僕は貴方の夫になりたい」
花束を差し出しながらそう言えば、老婦人は一瞬驚いた顔をしたが、優しくその若い学者を迎え入れた。
彼はここの底から安堵し、安住の地を手に入れたのだった。
「完璧だな」
教授が、先輩学者の報告を聞くと、思わずそう呟いてしまう。
「本当に、そんな魔法の様な言葉があるなど、誰が想像しただろうか」
「ええ。発見した自分でも驚いています。しかし、答えは彼の行動が裏付けている。彼はこのソースコードを聞いた後、何の疑いもなく全てのテストを期待通りに行いました。間違いなく、このソースコードは人の行動、思考を制御出来るものだと証明したのです」
教授の手にある資料には、ソースコードを打ち込まれた後の若い学者の行動が全て書かれていた。
「まさか、彼も本当は自分がそのソースコードを打ち込まれているだなんて夢にも思っていないだろう。そんなソースコードなど使わずとも闇金で頼めば金を貸してくれるのも、その金を使えばサービスなど受けられるのも当たり前だ。子供でもそれぐらいはわかっている。なのにも関わらず学者であるはずの彼がそれに気付くどころか、何一つ疑問にも思わずこのソースコードのお陰と思い込むなんて、普通ならばあり得ない状況だ。それ程君が発見したこのソースコードが完璧なものだと言う根拠の裏付けが取れていると言う事になる。しかし、この五つ目の発音は随分と難しいものだな」
「そうですかね?」
「ああ、使う時に慎重になってしまう気持ちがわかるよ。もう少し、言い易い言葉ならないのか?」
「教授。ご心配には及びませんよ。実際のソースコードは、言いやすいものですから」
そう言って、先輩学者は教授に意味のない26文字の言葉の羅列を囁いた。
言葉の羅列を聞いた後に一瞬、教授が電源の切れたロボットの様に俯くと、先輩学者はほくそ笑みながら口を開く。
「教授、お茶が飲みたいですね」
先輩学者がそう言えば、教授は顔を上げて先輩学者に柔かに微笑んだ。
「ああ。今すぐ淹れて来よう」
そそくさと部屋を出て行く教授の後ろ姿を見ながら、先輩学者は王様の様にほくそ笑んだのだった。
人間ソースコード 富升針清 @crlss
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