第3章 「僕ら女の (発見)」

第一話 発見


 新世紀が来て以来、もちろん気が昂っていた。狩りに出かけた。

 今日の出発は、珍しく次男のホームページという手近なものだ。彼の友人のリンクページを何となくのぞきに行くと、その人物の親が猫好きらしく、猫サイ

トで写真を掲載している旨あった。そこへ渡っていった。


 うちでは飼えないのでうらやましがりながら、人間にとって身近に触れることのできる最後の自然ともいうべき、家猫の冷たくも無心な視線にさらされた。

 ちょっといい感覚だ。

 

 そこから導かれるようにして、「ねこエッセイ!」のサイトへ行き、そこに張られた多数のリンクのなかから、さいころでもふるようにして当たったのが「ム、ム、ム」というサイトだった。


 小豆色を背景色に濃く使って、白い字がベッタリならんでいる。ザッと目を通しただけで、不可能を絵にしたような、エッセイのエの字にも到達不可能な文章の切れっぱしだとわかる。しかし明らかに獲物のにおいがした。


 意気ばかりは軒高な、しかし現実のなかで打ちひしがれた、夢見る以外に取柄のない哀れと言うべき人物の手になるものだ。女性であるのがせめてもの慰めか、生活に困っているわけではない。まあ概してのんきな身分のいい気な言い草だと、世の中にみられてしまう典型だ。


最新の文を少しくはしょりながら読んでいく、こんな具合だ。


「戦いの記憶の草っパラ」


二十一世紀の九月九日


昔、誰かが重陽の日である、と言った。そ

んなうがったことをひょいと口にする人だっ

たが。

上を向けばふざけるなと言いたいほどに大

きい、中へ入っていけばバカらしいほど小さ

い、この宇宙のスケールは一体なんなのサ、

あんまりだ。

「先端科学観察者」として日々活動してい

るが、最近の情報では、ヒトの幼児はたとえ

生まれつき耳が聞こえなくても手話で喃語を

「喋る」という。

音声であれ手話であれ、言葉を使うのは脳の

同じ部位が働いている、のだと。

言葉はかくもヒトに組み込まれている能力で

あるのだな。


そしてもうひとつは、アレッええっと、ワ、

もう覚えていない(話は変わるが、これから

もころころと変わっていくことだろうが、つ

まりこの駄文はすなわち自分の日々重ねてい

く忘却のその残り物の記述に他ならないこと

だろう、かろうじてなお、脳神経が辿りつけ

た記憶と思考の切れっパシの集合と言うこと

になろう、不可避的に、また現実的に)。


さて。

もうひとつは(ムムやはり降参か、これまで

か、待って、ホラつかまえた)この話。


不思議だ。台所のホコリまみれの棚を少し

整理した。その時ある回線がつながった。こ

んな小規模住宅のひとつ、自分の家のひとつ

趣味良く仕立てられないのか、お前は?!

どうせならいっそ最高級品質でうっとりする

ほど感じ好く!? 激しい声音だった。


「何をボサッとしてる。美的な住空間だ、誰

にも文句は言わせない。美しさを求めるぞ、

私は。つまり、主婦であろうとなかろうと文

明人なら!」


九月十日

 

しかし、文化って進歩があるのか。より民

主的、より高等教育、より科学、より環境破

壊?環境保護?より宇宙征服、より金持ち、

より発言力、より抑圧力、より有効な脅し。

人間の権力が大規模になるってことらしい。


ヒト個人の進化というよりも社会の進化の

方が頑張るべきかな。社会の進化とは変な言

い方だけど。

その指標の一つはナショナリズムだろうか

(他の指標は何、と自問してはたとペンなら

ぬ指が止まった、そうさな、アメリカじゃな

いが自由平等、つまりは人権擁護だけど。

ただし人間だけトオトシとするのは愚かなこ

とヨ、神の似姿と信じて自らを律するならま

だしもだが。

人間よ、あんたはただの自然の一部!)。


東西文化の「うろ覚えおおよそ比較研究家」

としてのこの耳に達した情報では、すでに東

京の中心区域での婚姻の十に一つは異文化結

婚だとか。


「異文化実地体験者」としては(自らのえ

せ資格ばかりを前面に出すのは資格のない輩

の証拠)、国際結婚はリスクが大きくとても

おススメできない、しかしその次世代たちに

おいて愛国心が五十パーセント薄まり、文化

許容範囲が広がることを考えると、これはど

うして大変な起爆剤となるはずだ。


もうひとつの起爆剤、それは自己発信の広

がり、特にインターネットというもの。

もっとも情報を発信するのみではないな、逆

だ。インターネットの世界には実にきとくな

人々がけっこう多く存在していて、情報をバ

ンバンくれる(金儲けを企むなんてのは無論

ふつうの事象であり、論外)。


奇特なと言ってもま、愛他的にして合理的な

「真正きとくな」方々もその中にいるのだろ

うが、自己満足派も多いのだな、これが。

自分には何かをする能力があると思うヤツ

らがそれを誇示する行為だ。かく申すわたく

しめもその一人であるのに、ついヤツらを批

判する口調になってしまうのもおかしい。


ま、いいか、と平気さを装うふりをする。

私だっていやしくも人間さまの一人さ、絶望

にたどり着くまでは諦めないぞ。

第一誰だってそれなりの水準で何かする能力

はあるに決まってる!(く、くやしい)


九月二十日


言い訳めくけれども、急ぎ片付けねばなら

ない用が入ってそちらに忙殺されてしまった。

そんなこんなの毎日が結局続いていく、それ

を良しとせよ、か。それを恨んでいるうちが

華だ。


ニューヨークの摩天楼にボーイングが自爆

テロのハイジャックにより激突する、近未来

の到来を現に見る。

そんなこんな世界を眺め倦きずに、記憶の

草っパラにどうしても生えてくる栄養不足の

いい加減な、ものぐさで物好きの雑草小花な

どを、偶然任せで見つけていくこの散策を、

古書に倣って落穂拾いとも徒然草とも、呼ば

ば呼べ。な−んて誰も呼ぶ人はいないのだが。


誰でもそれなりの悲しみを抱えているだろ

う。その大小を比べるのは愚かだ、としよう。

浴びるほどに読み、溺れるほどに書け、とあ

る大家が喝破(パソコンを使えばこそこうし

てスイと出現させられるこの漢字)したとい

う。


前置きが長くなるうちに道を失った、道草の

ついでに心の庭に生え出づる余計者を摘もう

か。未練がましき朝顔のツル、取り柄も無き

にこれみよがしのいぬ萩、ついに咲かずのハ

イビスカス、その根もしつこき弟切草。


九月二十二日


先日もとぎれた。さまにならない。日常が

呼ぶ。

困ったことがある。例の御大のご忠告に従

おうとしたのだが。興味深(おもしろとヨ

ム)そうな本の題名が新聞の広告欄に並んで

いる(バスに乗って町中の本屋へ行くほど自

由の身ではなくーーもっとも、たくさんの本

に並ばれても困る、ズタズタという目に遭

う)ののいくつかにちょっと気を引かれる。


と、そこへまた声が割り込んで曰く、「しか

し、そんな小説読んでどうなる、真理(真理

だと!)はわかりはしない、大説(たいせ

つ)じゃない、ただのエンターテインメイン

ト。時間の無駄なり」

そうそう、だからたとえ楽しそうなひととき

が過ごせることはわかっていても、拒否する。

時間がない、そんな時間はない。むしろ「誘

惑」に負けたくないし、そうして過ごした時

の浪費を恐れるからこそだ。


「フェミニズム文学者」としてホントのこ

とを言わしてもらおう、今にしてわかるよう

に、どの種の小説であれ、我々に既製の概念、

或いはせいぜいちょっと目新しい悪い考えを

押しつけるジャナイ?


白い布である若い読者にあれこれ生き方を指示

する、影響を与える、いわゆる善なる影響であ

れ結局は「嘘(当該の社会の価値判断)」をま

ことしやかに信じ込ませるヨネ。

私ときたら、信仰は人生の必須の善なる属性、

なんて感じるはめになって数年を無駄にしたンダ。


紆余曲折ののち、こんな悟りに到り、娯楽

小説はむろんのこと、文学作品の読書も自ず

と止んだ。そしてただ、知識の吸収源として

の本。


とはいえ思い出す、川端の「山の音」を読ん

で唸った。三島の作品はどれも一文ごとに繰り

返し読んだ、輝く言葉の情報量の多さに。


ひとつは寡黙に、もうひとつは華麗に人の心

を織り紡いで見せてくれた。心に残った。あ

る文明のある時代の最高の表現はやはり残さ

れてしかるべき、と認める?

しかし、そんな古典とは関係なく心理や社

会は、ドヤコヤして、泣き笑いして、波を

作って流れていくことを、我々年寄りは知っ

てしまった。


十一月二十二日


今日は夫婦の日だと、お幸せに! そのせ

いでは断じてないが、町田康の「夫婦茶碗」

を読む。

文体に似合わぬ、内容の無常と厚情。


これはこれとして、また別にこのノートパ

ソコン上でしておくべきことが自分としては

あったっけ! すでに夕刻、主婦としては夕

食の支度を始むべき四時半となったのに。中

断。

夜は「ホームページをオフィスにする」を

読む、その際に、


十一月二十五日


日曜の朝九時半、意気軒昂、清々しくも朗

らかに、コーヒーもうまくでき、朝日新聞上

をまなこ跳びしながらも、耳は六チャンネル

の田原総一郎の激したガラガラ声に傾けつつ、

さてグラハムパンでも食らわんと六面八ぴ

(海馬のどんな隅っこから出てきた言葉だろ

う、さすがの電子辞書もこの「ぴ」は書いて

くれない)でバターをこさいでいると、闖入

者あり。


もうこれでこの一日の行く末も決まったのだ。

血圧も文句なし、便通は昨日腸の掃除をし

たばかり、軽い体はちょうど六十一キログラ

ムの理想的体重を示していたのに。

何よりも意欲が沸いて快い興奮を感じていた

のに。この意欲さえトラマえられたら、多分

何かが生じて残るだろうに。

たとえ意欲だけに終わってもこの状態は麻薬

のようにオーケーなのだ。

これだけで生きている実感を感じるのだ。舌

なめずりするような生の実感、脳神経の楽し

い活動、こんな毎日だったら何者でなくても

オーケーなのだ。そしてこんな気持ちは年に

一回あれば忘れられない目標として記念日と

して残るほどなのに。


爆発寸前のこちらの反応に、闖入者はもっ

と不機嫌に去った。彼が再びやってくるとき、

その瞬間私は非常に緊張するであろう。午後

へ向かって次第に翳っていく。


十一月二十六日


記録。暗い午後が過ぎ、いよいよ宣戦布告

のときがきた。一瞬でもすばやく同居人の機

嫌の程を見抜こうと首を出して待ち伏せの姿

勢。


「おはよーっ」呑気な胴ま声、明るい声だ。

シメタ、忘れたらしい。迎合してへらへらす

る。コーラを命じられずとも持ってきてテー

ブルに置いたので、君はまごついた。だって

君までも自分からコーラの二リットルビンを

取ってきたのだから。


どうなってる。これにとどまらず君はいわ

ゆる「優しいおもいやりを見せ」内外に響き

渡るようないつもの金切り声を一度も発しな

かった。

わが君よ、何故に今日は変身してかくも扱い

やすく人間らしい。

驚いて、しかもほっとして嬉しく、まあ、

嬉しいというのは正確には当てはまらないが、

とりあえず命永らえたり、という感じが満ち

てきて、そりゃあ嬉しくもなるさ。

ともかくごたごたがもっともイヤでそれでこ

うしていつまでも君に仕えている。

「お金は誰が持ってくる? 」

とまで一度ならずのたまうのだ。


そんなわが君が、召し使いのあの侮辱あのわ

がままを許容したとは思えない。

突然ひらめいたわが洞察力よ、これは危な

い、何か良からぬ陰謀みがある。ほくそえみ

だ、あの上機嫌は。

何しろ、「奴婢も人間なり」との南北戦争以

来の知恵を、断固無視する決意をした君ダ

モノ。

わが耳がその決意を聞いたときこそ呪われて

あれ。

かく我々の、主君と奴婢との内戦、という

か、私の戦々恐々状態は続く。

ちょっと町田に似てしまった。ごめん。


十二月五日


今日はとても稀な元気な自由な日であるの

に(並べて読み返すと、けっこう元気な人間

に見えるケド、元気で自由時間のあるときだ

けパソコンに向かうわけだから、マ、当然)


行く末を思い知ってしまった。

フリータ−の、つまり非常勤講師、

売れない文法本、

三流雑誌にも廃棄された原稿、

無視された憧れの作家への手紙、

宙に浮いている翻訳作業、

不採用になった論文、

常時接続されていない壊れかかったノート

パソコン、

そうそう、まだある、

公募サイトでの、自分らしくない宣伝

活動の努力にもかかわらず顧みられない古い

童話、

これに関して古い友人とのありもしな

い摩擦の夢までみてしまってサイアク。


おまけに家事なるものがある。

家事はそのために失われる時間だけでも手痛

い損失だが、かといって部屋のありさまはゴ

ミだめかとも。


良いこと? あるある、むすこたちだ、一緒に

いるのは嬉しく楽しいし、何といってもすで

に人生の目標、しかも正しい夢をつかんでく

れてる。有難い。みんな親孝行者。

一方この母親はと言えば。世間が自分を認め

てくれないこと、それに相当する能力がある

のに、という幻想から逃れていない幼稚さだ。


これか? そんな空疎な要求を諦めたら家事に

も喜びを見出せるのか。何か趣味に力を注ぎ

満足するのか。現状のさらなるサラナル改善

に集中するのか。


そうではない。すべて違う。有名になるとか

金持ちになるとか、それはつい勘違いしてし

まった迷いだ。

ノーベル賞をもらってもオナシスになっても

そんな欲は次々に肥大していって充たされる

ことはない。

自分の能力の限りを与えられた状況において

発揮する、あるいは状況を開拓しつつあくま

で能力の向上を目指すこと、こう言うべきな

のだ。

これこそが私の願うこと、と言うべきだ。

では、このただいまの状況でまずは何ができ

るお前であるか。


書くことはいいことだ。

しかし、今や魔法の時間は切れた、もはや「作

家」ではない、ゴミだめの主だ。ここには精通

している。フン。


一月七日


今さっきパソコンが壊れた。しかしこんなこ

とを訴えてる場合ではない。突然同居人が起

きてきて元気に罵り続けている状態では。

彼だって私に悪しかれと念じているわけでな

いのだが、マア、ジコチュー甚だしい人なわ

けで、こちらも最近獲得した強気戦術を使う、

つまりムスッとしてみせる。


それはともかく、(とこう書いたところで、

ひょっとして突然フリーズしてしまいかねな

いという、経験に充分に裏打ちされた不安か

ら、非常に用心深く心と祈りをこめてパソコ

ンの上書き保存ボタンを押しつつ)ゴミだめ

の件。

この問題を何とか自分なりに人生の問題と

とらえて後悔の無いようにせねばなるまい。


グダグダ言う前に美化委員の実行あるのみな

のだが、そう簡単に済めばこうはならぬ。今

朝起きてみて余りのことに三男坊への悪影響

いかばかりか、こんな環境におい育ったせい

で彼が正しく未来を構築できないかもしれな

い、とまで思われてしゅん、としてしまった。


いくら自分をなじり、はた叱咤激励し、論理

的に分析解析容認しようとゴミは動かない、

流しは洗われない、埃は消失しない、カビは

退散しない、猫は入ってきて食い散らかす、

夫用、実母用、三男用、自分用、次々に違う

種類の食事と飲み物が必要となる、食器と残

飯と新聞と本とペットボトルと人間用ビール

とネコ用食肉の空き缶とそして埃は毎日たま

る、くずかごは家中で満杯となり、保存する

もの、捨てるものの、置き場所はどちらも無

い、家中が立てこんでいるのじゃ。通路は必

要上自然に生じる。それは複雑にうねった道

だ。掃除機はもはや無用のものと化す。


ホースをくるくる回転させられなくては使う

意味はない、棒が椅子にたえずひっかかって

いては醍醐味が無い。第一、排気ガスが気に

食わぬ。

さてそこで、スリッパを右へ押しやり、生じ

た場所を紙モップ(これについては後述)

でひと拭き、まさにそこへ新聞紙の小山を押

しやりその空き場所をまたひと拭き、おかげ

でやっと動かせるようになったテープルをグ

イと引き、床の空所を拭く。綺麗になったと

見るや、逆方向にテーブルを戻す、余計目に

戻す、脚の下から隠されていたゴミが露見さ

れるのでそれをシメシメとかき寄せる。この

ようにして数回押し引きすることによって無

事テーブルの下は清潔らしくなる。さあて次

は、次の獲物は肱掛椅子とその周りだ。


もう書くだけで疲れた。

で、大活躍しているその紙モップだが、ナ

ンとも重宝だ。ゴミと埃とダニが静かに床面

に沈んだところでそっと撫で回しくっつけて

回る。最近こんな風な、科学の掃除的成果が

まだいくつかあり洗剤会社には気の毒ながら

地球の負担が減ることとなって可。オオ、つ

い「環境オブザーバー」としての発言。


少々掃除をしてみるとかえってわかる。や

はり美が無いせいだ。ここには。それですべ

ての意欲が失せウツっぽくなる。美を取り入

れよ、そうとも、そこが針の一穴だ。そこを

中心に爽やかな、チロリィーンという風鈴の

音ともにすべてが魔法をかけられていくのだ。

借り庭なれども庭があり、仏壇があり、ネ

コ達がいて、遺伝子は三組も残っており、仕

事は曲がりなりにもあり、同居人は昼夜のシ

フトを組んでくれ、自分の肉体中のもろもろ

は健やかに感じられ、母親への孝もなし得て、

そこそこに周囲に愛され、いまだに叶わぬと

も夢を追いかけ、


一月十日


恐れている、この一言を言うのを。

馬鹿かと思われるだろうと。

それほどの絶対の前提は存在するなり。

我がごたくはその周りを回ってキャンキャン

ないているに過ぎない。

なんとかして言わずに我慢する方策がないも

のかと自分を説得するためのものですらある。


実に言いにくい、この簡単な一言が。

言ってしまえ、どんなに舌足らずでも、その

瞬間からすべての家族を敵に回すとも。


「わたしゃ家事雑用係の奴婢じゃナァーいっ!!!」


こんなにも傷ついている。

炊事掃除洗濯もろもろの家事は必要サ、面白

いときだってある、しかしこれが女の「天職

である」となると話は別だ。

まあ、子供は産もうサ、授乳も喜んで!

朝昼晩メシは作って食べるワサ、自分の分は。

それに超多忙の夫とか幼児とか要介護の老親

とか受験生の分とか。そしてこの例外措置以

外の健常者の家族に対してでも、家事雑用で

一日一生を過ごし、それを天職として好きな

人はそれもよし(カナ?)。


しかし、好きな他の仕事を自ら持ち自らを養

える女性はどうか家事を好きでありませんよ

うに!

好きなら、せいぜい趣味として!

さもなくば自分の健康をつぶすばかりでなく、

他の女性の人生に悪影響を与えることとになる

であろうから。


あなたも(誰に言ってる?)男に伍して教育を

受け、筋力以外ひけを取らぬと自他ともに認め、

なんらかのプロになり自分でパンを稼いでいるな

ら(たとえ不十分な稼ぎでも、それは社会システ

ムの不備のせいだから)、堂々と家族に要求を突

きつけるべきだ。


家事はみんなで分担しようって!


あなたを奴隷か女中(こんな言葉は小説中にしか

もはや無い)に貶めさせてはならない。

せめて、全員から平身低頭して毎度の食事に際して

お礼を言われるくらいは対価として必要だ。


そうでなければブタのエサでも彼らに投げあたえよ。

あなたは稼いだ、あなたは買い物に行った、あなた

は料理した、あなただけが食べるべきだ。


余りにも骨の髄まで染みついた女の役割を拒絶する

恐ろしさに加え、「軽い」仕事だからこそ大げさに

騒ぎ立てるみたいで気が引ける。

家族への愛情がないみたいで気が引ける。

男はもちろん女にも理解は得られにくい、だって価値

ある分担なんだから、と。


というのも、昔、一家の母親はただの料理係ではなか

った。食糧生産の全工程の専門家だったから、尊敬さ

れ権威を持つ面もあっただろう、本来は(その価値を

必死でカモフラージュしたのがヒィストリィなのだ)。


今ではどうだ。専業主婦という存在様式はむしろ女へ

の尊敬を失わせている。

一体どうなってるのだろう?

世界のほとんどで、少なくとも知られている数千年の

歴史において、女は自己認識においても第二種人間だ。


一体どうなってるのだろう?


スポイルされた我々よ、現代の家事従事者ヨ、もはや

他の職への道が無ければせめてそのスキルをもって売

りに出せヨ。

決して我が家の売春婦兼家政奴隷の身分に甘んじるな

かれ。外で他人のためのに家事をして対価を得、我が

家では例外なく分担を迫れ、さもなくば、さもなくば

はない。


妙に元気なことである。が誰でも知っているように、

物事は思ったようには進まない。


ところで、数日来の暖かさでつい春への憧れに毒され

た。庭に出る楽しみは完全に苦しみと変じたのに。

委しくは書かないが、ノラ猫撲滅のコミュニティ規範

に反したために。


一月二十三日


深刻な悟りに突然たどり着いた。(書くスペースを広げた)


このわけのわからない動物生命というもの、他の生命体を食らって自己増殖していくこの存在形式は、本当に我々がそう思いたがるように価値あるものなのか。

むしろ、動物という我々のような生命形態は悪魔の業であって、自らを滅ぼしていくようにすることがせめて正しい行為であるとしたら? 癌細胞としての自分を。

どうなの? わが孝行息子よ、どう思う?


ところで、この「神によって創造された世界」がかくまで複雑で理解しにくいのはどうだろう。

アリに人間の世界が理解できないのと同じだって。量子の世界はモノとエネルギー間での振動でありながら、しかもエネルギーの全体量は不変であり、光すら物質+反物質=光エネルギーという過程を繰り返しつつ進行するという、確かそんな風に末っ子が教えてくれた。


そう言えば人間だって結局量子の集まりだっけ。

この真実らしきことを把握するために何億年もの生命の進化によってヒトにまでいたり、その殺戮と自然破壊の数万年を経てこの科学的文明が必要だという、そんな可能性もあるのだろうか。


だから、どうなのだ。死と生の連鎖には整合性があるだろう、しかし個々の死は個々の替わられ得ない苦しみである。

食物連鎖の頂点に立つものの死は従ってまさに無駄な苦しみ。

フイ、何だか筋道がずれてきて収拾不能。


一月二十四日


昨日の「ガン細胞人間」という思いつきが、自分の欲をなだめるためのものに過ぎない面もある。


この時代は、偶然にも先端に居るという幸運を得た研究者のみがなし得る探求の結果を、追っかけ族はできるだけ手広く追跡して暮らすよりない、せめてもの代替行為として。

せめて自分の理解能力のなし得る極みに達すること、それを目標とせよ。


一月三十日


始めたときにはもう終わりだ。


三月二十日


始めてみた。

はなっからこんな恨みがましい調子ではあくまでも素人の愚痴となる。

最近気がついてみると、いわゆる文学というか、日本的純文学なるものの存在は薄いのではナイ?

試みの限りは尽くされているようだが。

こう言っても別に悲憤慷慨しているのではなく、この五十年の時代の推移を認識したに過ぎない、その感慨である。


ヒトの営為のうちの最近目立つ物としてのエンターテインメント、文学もそのひとつに過ぎなくなった。

文学は生きる道を探すこと、それは人生の意味を哲学する良き道しるべであり人生の写し絵でもあった。

だから真摯に受け取られたかの文学、社会と人生と宗教と悪と善と色と秘密とが文字と紙の中に書きこまれていて、まさに食べ物のようにそれを有り難く享受した。

涙した。

感動した。

知識を得た。善であろうとした。神と秘儀とを追求しようとした。(ほとんど同じことをすでに書いた気がする? しかし今度はもう少し前進できるかも)


そうなのだ、文学などはとっくの昔に見捨てられた。

我々は(って誰? まあ、新しもの好きたちのこと)哲学も心理学も場合によっては社会学すら、躍進はなはだしい脳神経認知科学、自然科学のうしろに立てかて、

「ちょっと今忙しいからネ、今、新しいことが分かってきてるから」

と口封じするはめになった。

そこには勿論、実験施設や観察道具などの機械的進歩に後押しされという事情もある。


つまり、人間の頭の中での問題設定を一度保留とし、留保するのだ、そしてその問いの解決を息をひそめて待っている、自然科学者のなすことを見守っている。


彼らが国境を越えて相談し合い理論を探り、計算し、実験し、その結果を解析するのを。

何か、思い込みでない客観的な価値が読み取れるかもしれない、と思って。

我々の世代が読んできた文学書、その描いた次元は五千年かそこらの社会と歴史と人間の脳の思い込みだった、と思ってそして待っている。


また宇宙と量子のことを考えていた。

その世界は人間の哲学とか、直観とか、超能力とか、右脳とか、そんな粗い組織で感得できるようなものではない。まったく。


誰でもがかってに書いて、それを空中に書き散らかしても良い時代だ。せめて自分だけの可能性の限りを尽くすのはそれはそれでいいことで、実は古今東西これまで有り得なかった有り難いことで、時代の恩恵としか言いようが無い。

まったくね。

一方、非営利団体という活動場所なども現れたりして、或いは太極拳などをして時間の流れを遅くしてみたり。


桜も咲きそうな午後の、本当に奇跡のように条件がそろったひとりのワークだ。


三月二十一日


春のお彼岸の中日である。

テレビの画面では要するに故人を偲ぶという名目で墓掃除の機会を作って春近い空気を吸いに出かけ、そして団子なぞを食べている。我が家では、そんな子供だましををする気はもともとない。


外では春の嵐がおどろおどろしく吹き渡って、白スミレや藪椿や今朝咲き初めたソメイヨシノの花びらを脅かしている。

目覚めるやパソコンを開ける。サプリメントをパパッと放り込む。コーヒーをガブッと飲みジェル状のチューブから165キロカロリーのエネルギーとアミノ酸をジュジュッと摂取する。

新しい書斎(居間の片隅の)は本棚無しである。これで書斎とは言えないかもしれないが、ともかく「無いよりはまし」の典型だ。   


四月七日


経済的精神的圧迫は一部改善された(運よく労働時間が増えたことによる給与のアップと末っ子の大学合格によるケアの軽減、またショートステイなどによる老人ケアの軽減)。


曲りなりにも、「書斎」および「クローゼット」(後者はキッチンの暗い半分を使ってもよいということになった)設置の条件もその使用時間も確保できた。


本業関係の新しい授業方法も、模索の成果をあげている。


健康状態もまずまず、ダイエットもよろしく、ワークの計画も有り余ってあり過ぎるのが難か。


などとウォ−ミングアップしているととりあえず、また浮世の義理が始まる。


しかし「やるのだぁーっ!応援するぞーぉっ!」


四月十五日


昔、気に入った先生は気軽に研究室に訪ねたものだが。若いときには向こう見ずで無鉄砲だった。何でも出来ると信じていた。本当に自分がしたいかどうかだけが問題だった。

恋愛が大事だった。宗教のようだった。


きのうは、たくさん洗濯をした。今日はたくさん食器を洗った。

今、新緑の竹林の向こうから澄んだ鳥のさえずりが聞こえる。鳥のことには疎い。


窓を開けて、四月の風の激しいにもかかわらず、首を出して空を見まわす。

天来のもののごとく、姿は見えねど美声は春を奏でて世に満ちている。

猫たちは温和しくダンボール箱の上と下に横たわって、素知らぬ視線を投げてくる。自由な獣たちの不可侵の視線。

もし言葉を紡いでいくのがイヤでない人は自らの所感を述べて良いのだろうか。


九月二十三日


秋の彼岸の中日。夏も無駄に飛び去った。自分が何者であるのか、何ができるのかどこまで開発されていく存在であるのか、それを試す機会が与えられない。

ここに女の脳の空虚がある。アスリートであっても結局は同じ脳の問題だ。

さらに、もし脳を開発することを許され、子宮が充たされホルモンが満足し、おしゃれと賞賛はたっぷり享受し、世界の多様性を眺め感慨を催し、政治も経済も、科学も一応理解しても、妻(つまみ)の役割(家事専従)を引き受けている限り人間ではない。


たとえこの家政を見事万端取りしきっても、この最後の一点において女性を卑しめる、それはこのシステムの結論なのだ。カカァ天下ってのがあったっけ。

温和し目の亭主をつかまえて仮の権力を築くか?

そうじゃない、誰をも抑圧したくはない。

このメモがだれかに読まれる事はほとんどあるまい、と思うからこうしてこの孤独なホームページに記しておこう。


遠く離れた北の国の人でも偶然に見つける、なんてことがあるだろうか。同じ気持ちだったりして。どうせ負け戦だ。遠吠えだ。

(あんたは特に弱虫ネ)

(こんなこと言うなんて恥ずかしい)

(だぁれも相手にしてはくれないよ、男も女も。個人レベルの問題だからネ)

(この屈辱と辱めはこの包丁で自分の胸を刺し通したいほどナノヨ)

(おおげさナ、刺しもしないくせに。平成のたわごと師!)


********


 ここまででつづきは書かれてない。もうだいぶ時は経つのに死に体である。諦めたのだろうか。

 そこに表現の可能性が口を開けて待っているので、ほとんど誰にも見られないとは言え、ネットの夢に迷い、電波の世界をさまよう女人は老いも若きも無数と言うほどの数だ。

 その中に、男女の性別役割にぶつかって悶々としている少数の発言がある。うまくこれらにぶつかればもちろんそこには、メールアドレスがそえてあるわけで。


 僕はと言おうか、わたしはと書こうか、最初はつい反応した、という感じだった。今ではまず目標を見定める。ひっかけるのもひっかかるのも理屈は簡単で

ある。人間がそれなりに発達させてきた本能的なしくみを使う。それはちょうど、背中に軽く手を触れる、とか、眉根をあげてしわを寄せるとか、特別なため息をついてみせるとか、そんなことで他愛もなく男も女も脳内に血がどおんと集まり心がぐらっと来て圧倒的な渇望に襲われる、そんな自然のたくらみと同じだ。


 僕は、体も心もれっきとした女の性である。うまく閉経期を乗り切り、28日周期の煩わしさとは無縁の身となったが、上手に触り合えたらいまだ花も実もある生身の人間である。だからと言ってそのことを重要だと感じるのでは全然無い。どうでもいい。


 女の子として生まれ、女子として教育され、女言葉を駆使し、流行に従ってミニスカートやマキシを着用し、特定の男性を自分で選んで恋愛をした。結婚妊娠出産育児家事主婦PT A 空の巣兆候群お決まりのコースを無事に辿ったのだ。が、ここまで世間を渡ってきて、なんだかどうしようもない。

 買い物習い事ボランティア資格庭仕事孫の世話自治会などなど、女性にも自由行動の選択は提供されているのだが、どっちかといえば有り難迷惑という感じがした。くだんのホームページの文句の多い女性とまあ少し似ていた。



 で、二十一世紀が開示して間もないある朝まだき、僕は目を覚まして驚いた。その前夜ほんの思いつきで、

「もし自分が男だったら? ちょっと男だと想像してみよう!」

と呟いてみた。そして自分の体を想い描き、全身が男の体である、男に見える、男としての自意識をもつ、と目をつぶって念じてみた。もっとも下腹のあたりは想像の範囲を超えていたので無視していたのだが。にもかかわらず、その時の自由感、開放感、全能感ときたら!

自分は好きなことをして生きていいのだ!

自分はなんでも選べるのだ! これを自由というのだ! 回りの空気が急になめらかに広やかに軽やかにまさつなのないものに変化した。


 すぐに席を立ち、靴を履いて、何処へでも行くことができる、夜でも酒場でも。それが許される、いや許されるどころではない。何かを見つけに外へ行って自分のものにすることができるのだ。そう欲すれば自分を自分で設定できるのだ。自分でそう決めて、その 目的のための行動を始めることができるのだ。

 このことが、初めて知った、それまで知らなかったのびやかさの意味であった。最近は若い男の子が、専業主夫になりたいということもあるらしいが、彼らが籠の鳥として自分たらしめるもの無しで生きられるとは思えない。単に社会の支配を厭って、苦労無く、自分の好きなことができる方策をそこに見ているのだろう。とはいえこれまた自然な、強制を厭うもっともな感情ではあるが。


 そして五十年前の青年にはこんな女々しいことを発言するなど思いもよらなかったことを思えば、平和な社会がつづき生活が向上するにつれ男女の生き方の差も比較的少なくなったのだとわかる。ともかく、こんな感激と思惟にふけりつつ眠りに就いた僕は、翌朝自分の頭の中がもはや女の意識ではなくなっているのに気づいたのである。カフカ的変身であった。


 ホームページ「ム、ム、ム」のメールアドレスに僕が送ったのはこんなメールである。


「始めまして。僕は初老の退職者です。ネットをさまよっていましたらこの場所へ

出て、読ませていただきました。一読すぐに貴殿が男性であると確信いたし ました。ここまで女性であることから逸脱 しようとするのはなまはんかな女性にはで

きないからです。そんな内容のものを書くハードルは一介の女性には無理だからです。そうですよね。 傀儡トビウオ」


ム、ム、ムの制作者は「かつら」とのみ名乗っている。確信はなかった。一つの可能性に賭けて揺さぶってみたのだ。


「拝復、傀儡さま。

わたくしは曲がりなりにも女性のつもりで おります。女性の鬱屈を男の方はこうまで 御存知無いはずですが。

いずれにしましても、読んでいただいて嬉 しいですわ。 かつら」


 女性であることを強調してきた。僕はその手は喰わぬ、裏返してやろうと思った。


「拝復、かつら様、

僕はもう一度エッセイを読んで みましたが、やはり文体のあちこちに執筆 者が男性である証拠が見られます。てらわずに、勢いに任せて、激しく、自由な人間としての決定権を求めています。女性なら もっと幸せとか愛とか優しさとかを、大事 なものと見なすでしょう。貴殿に近い女性が、多分家事を嫌がって文 句タラタラなのを聞いたとき、貴殿が試し に彼女の文句の背景を推測したのではない かと思っています。僕は悪気があって暴こうとしているのでは ありません。気に障ったらどうぞ無視して 下さい。 傀儡トビウオ」


 三週間ほどたった。僕も別に暇ではない。別件にかかわったり、新規の案件を探したりの毎日を過ごした。この仕事は余り成功の確率が高くないだけに。


「拝復、傀儡トビウオ様。

どういう趣意でいらっしゃるのかわたくし は測りかねております。たしかに主婦という役割に生まれ落ちたときから圧力的に配分された女の不満は、男性にも推量できるはずですから、男があのエッセイを書き、かつ、「問題はいわゆる

フェミニズムからの告発という一方通行で済むものではないゾ」という男性被抑圧論を背後に隠している可能性もありますから、わたくしが男性であるというのはありえますわね。でも、どちらでもいいのではないでしょう か。

わたくしは傀儡さまの指摘、というかいいがかりを全然不愉快には感じておりません。 むしろ愉快に思いました。トビウオさまは生活はいかがですか、少々 知りたく存じます。 ム、ム、ム カツラ」



「カツラ様、名前がカタカナになりましたか。失礼お許しくださってほっとしました。新聞などで時々読みますいわゆる男性学で すか、僕も当然興味があります。こうなるとなぜ「人間学」に統一しないのでしょう かね。哲学や社会学があるから? 傀儡」


「傀儡さま。

なぜ「人間学」に統一しないのでしょうか ね。哲学や社会学があるから?−−なんて 言わないでください、傀儡さま。女性学、 男性学を統一したものとしての人間学だっ たら、これまでの哲学や社会学とは一線を画したものでなければ意味がありませんよ。 最近雑誌で知って驚いたのですが、トルコ で九千年前の遺跡が発掘されつつあって、 さまざまな証拠によると、当時は男女のど ちらかに権力が偏るとか言うことはなく、 性別役割があったとしても差別的ではな かったということです。新石器時代のことです。

むしろ新石器時代の女になりたかっ た、カツラ」


「拝復、カツラ様。

むしろ新石器時代の女になりたかった? それはいまさら時間的に無理です、第一貴殿は男性なのですし。性転換でもしますか。 ただ、意識は変更可能ですよ。男、女、ど ちらになりたいとしても。 傀儡トビウオ」


「傀儡様

分かりました。僕はご指摘のとおり男で す! こう宣言するのは意外にも気分が高

揚しますね。全身全霊でもって男でありま すっ!! ム、ム、ム ムメイ氏」



 やったぞ、僕はほくそえんだ。


「拝復、ムメイ氏殿

白状するのは勇気が必要だったでしょうが、 意識を再設定すれば勇気リンリン、少年探偵団でしょう。僕の概算によれば、この近代世界の価値体 系では、女つまり女性の社会への貢献度は妊娠プラス家事のふたつを併せて二割、男の生殖貢献度一割、男性の占有活動領域七割しめて十割、というおおよその計算になります。貴殿は上記の七割をどのように使っておられますか。僕は退職者なので、これまで自分を縛って活動してきた分、自分の中にどんな部分が非活動のまま放っておかれたのかを知るはめになったわけです。

それらをいかに開放できるか、という問題が目下の焦点です。恥ずかしながら、料理は僕の趣味となっています。つれあいはおおいにこれを多としておりますよ。

トビウオ」


「トビウオ殿

少年探偵団がでてくるとはいよいよもって同世代ですね。それで最近の疑問点を思い出しました。

テレビの漫画やおもちゃ、ゲームなど、いい大人がそれを作るのを仕事として、子供ないしはその親に提供しますが、ありゃぁ一体何なんでしょうかね。子供はどうしていつの世もそんな大人のお仕着せを受け入れるのでしょうかね。

ナナシ」


「ムメイ改めナナシ殿

女性が作られた流行を受け入れるのとはまた別でしょう。もともと子供の脳がすべてを受け入れオーケーなのでは?作る側の大人だって、自分が楽しいもの、子供が楽しがりそうなもの、ひいては売れそうなもの、と考えますしね。

しかしこれに関してもっと詳しいことを脳神経研究者に解き明かしてほしいです。

トビウオ」



 こんな具合に僕らの意見交換はもっともなことに、素人談義ながらいわゆるジェンダー生成にまつわる社会の意識操作をテーマとするものとなった。


 誰か個人の特定できる操作の犯人が居るわけではないだろうが、少数の権力者集団が意識して為しうることだったのか? たとえば鎌倉幕府が武士の直接的な殺傷力をもって男子の力を誇示し、その脅威と威力を社会に浸透させるために儒教の拡張を是としたとか?


 我々ききかじり族二名の議論の最後は疑問符で終わる。調べておきましょう、とは言うにしても。ナナシ氏には自由時間がないわけではあるし。


 ところで、その後、この旧かつらないしはカツラにして新生ムメイ、ないしはナナシの生活は、こう報告されてきた。夫と名乗る人物からのメールで興味深い成り行きが記述されていた、ナナシは力業をはっきしたらしい。


「自分は実は、かつらエッセイに不吉な影のように登場するつれあいの方である。自分の妻が、突然自分はこれから男性になると宣言した。

これまでも自分の妻は表立っては言わないが、かなりの女権論者であって、自分の方はじゃあ男は働き蜂かよ、晩酌くらいけちるな、という典型的暴君であった。手も出した。

それでも会社があるうちは良かったのだが、リストラ後、ぶらぶらしているのに依然として妻の役割に甘えて、上げ膳下げ膳をさせていた。


それが一年たつ頃、異変が起こった。妻の反乱である。

自分はすっかり度肝を抜かれ、パニックになってどなり散らした。

しかし妻は一歩も主張を緩めない。恐ろしい迫力で人間としての権利を要求しだした。

家政婦や奴隷ではなく、人間として認められないなら、男性だと思ってくれ、という。仕事ですらない、家事のような程度の低い働きをあんたは自分ではしたくない、それで妻にさせるとは何ごとか、とまるで雷のように怒鳴り返してきた。


こぶしがぶるぶる震えて、今にも殴りかからんばかりだった。

それから、と妻はなお言い募った。今後、あることないこと、文句を言うな、することなすこと間違ってるとののしるな、何事につけ自分が正しいと大声を出すな、気分任せに不機嫌かと思えば急に笑いかけるな、あんたの操り人形でもなければ、鬱憤ばらしのオモチャでもない、対等な男性だと思え。

このままの人生が続くのなら、さっさと姿を消すか、あんたを殺して監獄に行くか、いやいっそ自分が死んだほうがましだ、とまで食いしばった歯の透き間からうめいた。


嵐の時間が何日続いたかも分からなくなった。

最後の切り札まで出された自分は、もうどっちかといえば降参である。」

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