希少率0、8%木原東子の思惑全集 巻3 古きフェミニズムの叫び 「他にない役割」「バカな風」「僕ら女の」

@touten

第1章 「他にない役割 1」

他に無い役割


1


(私は大原史子という物書きですが、ここ十年以上でしょうか、泰平の中にも

日々の出来事が国内外からリアルタイムで伝わってくるので、少しも落ち着き

そうも無い人の世にあって、暇とある程度の教養のある人で、まずは、教養に

もかかわらず能力の持ち腐れに過ぎた人生にいらいらして、何か自分たること

を残したいと想いつつ、さてそう意図してみても教養とは関係なく、たとえば

自分史ないしは、少しは文学的価値ある読み物として自分の想いと体験をまと

めてみたいが、読むに堪えるほどには書けない、ないしは邪魔があって書くに

いたらない、そういう人々が草の陰の小さなピョンピョン跳ねる虫にも似て蠢

いているのにぶつかっております。     


 今回引き受けた仕事は、平凡といえば平凡、数奇なといえば少しは独特なひ

とりの戦後日本の女性の生活史のまとめでありました。


 特に重点をおくように頼まれたのは「出産記」としての構成でした。そこに

は、諦観と安堵感をともなう、小さな、せめてもの役割を果たしたという認識

があるようです。しかし背後には自然への小さな恨みも見え隠れしているよう

です。


 また女性で出産経験もある書き手であるという理由で、私に詳細を物語る原

案をみせてくれたことも付け加えておきます)



 昭和四十七年、厳冬の夜、風雪の吹き荒れる音を聞きながら寝床についた河

田郁子はまもなく、これまでとは明らかに異なる内的な圧力を感じた。すでに

予定日は十日もすぎていたので、その日は病院で注射を打たれたのだが、それ

が具体的に何のためなのか母親の和代もいたのだが、あからさまに尋ねること

も無く医師の為すに任せていたのだった。


 本で呼吸の仕方などを読んではいたが、ほとんどの妊婦がそうであろうよう

に、郁子にもそれは知識にとどまっていた。収縮は三十秒で終わり、次は三分

後であった。気づいたときにこの間隔だというのはおかしい、と郁子の知識が

教えた。数回待ったが同じことが起こったので、両親を呼んだ。



 外はとんでもなく荒れていた。ほとんど真っ暗というほどの産院に着いたと

たん、牛のようにいきんで唸る音が聞こえ、それが一段と大きくなった後一秒

後、裂けるように産声があがった。              


 怒ってでもいるかのような響きがあたりを充たした。すべての哺乳類が体験

する最初の呼吸だ、と、驚きと衝撃が少しおさまったとき、郁子は自分に言い聞かせた。


 六人部屋ほどのところに落ち着いた。

 間隔は三分のままだったが、診察台に上がったり、浣腸されたりトイレに

行ったりするときに起こる収縮はかなりひどく、郁子は立ち止まってしばらく

堪えた。すると看護婦がどうしたの、大袈裟にというような反応を明らかに示

した。まだそれほどではないはずだというのだろう。


 ベッドに横になると、といってもお腹を斜めにうつぶせ状態だが、もう脚一

本、ほんの数センチも動かせなかった。動かすと痛みが生じそうなのだ。陣痛は表現の仕様のない種類の苦痛である。苦痛そのものが目的である。


 間隔はすぐに二分になり、一分になった。収縮は何分間続いているのか、郁

子には計ることが出来ない。息を詰めて堪えるしかない。うめきがどうしても

洩れる。


 時々トイレに行ったりなにか食べたりするよう言われるのがたまらなく苦し

いことだった。しかしある瞬間だけ、すっと楽に感じた。それは郁子が胎児も

同じように苦しいのかもしれない、と思いやったときだったが。





 朝になったのか、三十秒間隔で三分収縮という感じになると、目をあけていて

も余り意識していない。おまけに単なる収縮ではなくなった。腰骨のあたりが信

じられないほどの痛みを起こした。


 骨盤が開いているのだ。

 それこそ地獄の痛みだった。郁子はそれを紛らわそうと自分の髪の毛を力いっ

ぱい引っ張った。和代が強い力で腰をさすってくれる。母親の呻いている声が聞

こえた。


「ああ、まだまだ、ちっとも開いてないわ。指二本じゃね。少なくとも三本分よ」

 助産婦ががっかりさせる。


 たえず腰が折れそうなほどで、しかも身動きひとつ出来ないでいるのに、ちょうどやってきた掃除婦は陽気に言った。      

「そんな顔じゃまだまだだよね」


 昼になり、夕方になった。和代が無理やり卵かけご飯を食いしばっている口に入れた。

 こんなひどい苦痛をどの母親も体験したのかと郁子はかすかに驚嘆した。騙された、ここまできたらもう我慢するほかは無い、これほどの痛みだと知っていたら誰でも好き好んでやりはしない、仕方なく妊娠し、仕方なくこんな事態に陥ったのだ。


 そのころ、待ちに待った分娩室への移動が許可された。呻きながら歩いていき、両股を開いた姿勢をとらされ、その苦痛が絶望的であったとき、逃げ出すこともできない苦痛の囚われ人のように、郁子は泣き声をたてた。


「だめだよ、しっかりして。大和撫子は泣き叫んだりしない」

 思いもかけず強い母の言葉に郁子は怯んで泣くのをやめた。

 しかしその後は痛みは薄くなり、いきむ気がしない。ただ不愉快な、お腹が詰っている感覚のみになった。

「さあ、どうかな」

 いきなり柏という医者のバスの声がした。細い顔にメガネをかけた普通の男である。

「よおし、もうさっさと終わらせよう」

 

 郁子にとっては何よりも聞きたい言葉である。希望が湧いた。ただ、いきみがこない。柏が指を差込み、下に強くおしながら、自分も唸りつついきむように促す。

 郁子もどんなにか本気でいきみたっかったことか。しかしそれはまねに過ぎな

かった。しかしそんなどっちつかずの不愉快さ、むしろ便意のような感じが強くなるうちにも変化はあったらしい。


「お、頭が見えてきた。おおきいぞ、大きな頭だ」

 膀胱も圧されて不愉快極まりない。いつまでかかるのだろうか、頭の上の時計をみたりする。便意だ。


 破水がいつだったのか、麻痺したようで自分ではわからないうちに、会陰切開が始まった。実はそんなことは知らなかった。

 いきなり切られる痛みで郁子は思わず両足を閉じた。看護士が鋭く叱責した。

 はさみの音が鋭くなお二回響いた。もう痛みも感じなかったが、いきみもしないうちにもう生まれたらしかった。男の子だという。


 なかなか産声が聞こえなかった。

 しばらくして弱弱しく泣き声がした。二十一時十五分、郁子は自分で時刻を確認した。


「へその緒がね、首に二重に巻いていたんだよ、長かったからよかった」

 赤ん坊を見せてもらったはずだが、印象に残らなかった、顔が赤くないような感じが残った。


 そのまましばらく安静にしていた。全体的に不愉快だった。しだいに陣痛が

感じられた。余りにも無知な郁子は後産という言葉の意味も知らなかったが、

それがすでに済んだのか知らなかった。

 和代が入室を許されて現れた。少ししゃべっているうちに、

「どうしたん、汗をかいているじゃない」

「痛いの。陣痛みたいに」


 すでに呻きたいほどの痛みだった。和代はすっと立ち上がり、向こうに

行った。柏がすぐに来た。

「とても痛いんです」

 彼は無言で、郁子の腹をぐっと押した。なにか下から出た感じで、痛みが嘘

のように消えた。

「ああ、楽になりました、有難うございます」

 郁子は急に元気な声を出した。嬉しかった。


 それは産後の子宮弛緩による大出血だったのだ。

 二リットル近くの出血だった。郁子はO型である。


 たちまち具合が悪くなった。失血によるショック状態を引き起こしたらしい。

 ともかくとても気分が悪かった。たくさんの白衣の人々が呼び集められ協議

された。郁子はこれで死ぬのかな、と思ったりした。余りに苦しそうだったの

だろうか、一人が膝を立てさせようとした。

 郁子は死ぬような気持ちがして必死でいやいやと叫んだ。それをしたら全て

が消えそうな感じだったのだ。大きな氷の塊が腹部に巻きつけられたが、痛くて冷たく、不愉快極まりなかった。


 輸血の血液はなかなか届かなかった。両親はもう勝手に分娩室に出入りして

いた。

「雅彦を呼んで」

 夫の雅彦は関西にいて、こんなことになっているとも知らないでいるだろう。

郁子にとって大切な夫であった。


 あとになって、鏡を見た郁子は自分の顔の蒼白さに驚いた。和代は娘をもう

死なせてしまったと思ったと言った。

 九時過ぎに出産し、病室には戻らず、そのまま予備室で親子三人で休むこと

になった。苦しくて眠るどころではなかったので、郁子はたえず身動きした。

そのたびに驚くほどすばやく両親の顔がそこにあった。



 翌日もあちこちが痛み、トイレにしゃがむのが分娩前とおなじくらい苦痛

だった。尿はだしたが、怖くて排便を我慢した。便意は充分にあったのだが、

必死でそれを我慢した。だれも適当な指示を与えてくれなかったし、郁子も訴えなかった、我慢していた。


 二日後にやっと、放送で呼び出され、母親達の洗浄に参加した。郁子の股間の惨状はひどかったはずだ。だれもT字体を替えてくれず、肛門には便がこびりついていた。


「どうしたの、コート(便)でいっぱいよ」

 看護士に不機嫌に文句を言われて郁子は少なからず傷ついた。


 医師の柏をみたとき、郁子の中におかしな慕情が沸き起こった。分娩台から普通のベッドにうつるとき、少し距離があったので、彼が郁子を抱きかかえて運んだ。それが思い出されたのだ。


 年かさの看護士は、いくらかえらそうな口ぶりで、オートコンベアのように

次々と、若く不安だらけの母親たちの傷ついた股間になまぬるい水をぶっかけ、

全体を粛々と進行させた。                  


 少し人心地がついたころ、新生児がまだ名前もなしに、小さなベッドでころ

ころ運ばれてきた。郁子は初対面という感じでものめずらしいような気持ち

だった。しかし笑顔は自然に出てきた。

 その子は色白で、黒い眸をパッチリ開けていた。明るい光の中で、むしろ影を追っているようにも見えた。

 和代が初めておしめを替えようとして、両足首を持ち少しお尻をあげた。と

たんに尿がとびだし、暖かい尿は新生児の片方の目に見事に入った。目を閉じもせず、その暖かさを感じているようだった、多分羊水と変らなかったのだろう。

 子どもはまた連れて行かれ、両親も帰って郁子はただ自分の痛みや違和感と

戦うのみになった。


 なにか、神経を刺激するような音が耳についた。それが叫び声であることは

しばらくしてわかった。           

 絶えず妊婦の出入りがあり、一夜準備室で親子三人すごした夜ですら、絶え

ずいきみと産声が重なっていた。しかしこの夜聞いているそんな叫び声は、い

くらなんでも聞いたことがなかった。


 それは桁外れの痛み、拷問であるようだった。完全に自分を失っているか、

子宮に異常がおこっているとしか思えない、悪魔憑きという言葉を思いおこさ

せた。

 一晩中それが続き、翌朝母親達が股間にお湯をかけられにいくとき、隣の部

屋で小さく「助けて、看護士さん、痛いよお、助けて」といいながら横たわる

姿が見えた。

 何か機械につながれているようだった。足先がみえたが、指先のみがたえず

動いていたのが郁子の目にやきついた。


 年かさの例の看護士は、恐らく自分もへとへとだったのだろう、

「痛くなきゃ生まれないんだよ、ねえ」

 それは意地悪そうに聞こえた。


 夕方、彼女がベッドごとどこかに運ばれていくのを見た。おそらく手術室だ。

 やっと苦痛から開放されるのだ、と思い、自分の子がこんなことと縁がなく

生まれてよかった呟いた。生を受けた人間のおのおのが母親の苦痛なしで誰一

人として存在し得ないことが不思議とも思える。

 こんな目にあうのだったら、あとは主婦としてのうのうと男に養われて当然

ではないか、と郁子らしからぬ新しい認識を事実だと思った。これを人に言わ

なければとまで。




 その通りに、というわけではなかったが、郁子は主婦の生活を知った。国立

大学を出て、自分の能力を社会に生かす、しかし同時に家庭生活も営んでみせ

る、それが出来る自分だと当たり前のように考えていた。新婚生活すら仕事の

関係で別居結婚という形になったのだが、用心していたのに、どうしても充は

生まれてきたかったらしい。天から降ってきたように恵まれたのであった。そ

のために郁子はそれまでの故郷の山口県での仕事と生活を切り上げ、関西で親

子三人で暮らし始めた。


 少し慣れてくると、自分の教養や知性が衰えてくるのを感じた。子育てを疎

かに思ったのではないが、それだけでは満たされない。


 夫婦の関係は並み程度であったし、雅彦は変らず郁子の大切な男であった。

 夜遅く帰り、朝は決して遅刻などしなかった。雅彦が背広を着て、最後に髪

をとかすとき、いつのまにか郁子も並んでそこに立った。鏡の中で、鼻筋の白

くかがやく夫をじっと見詰め、彼が前髪を七三に分けると、垂らしたほうが似

合うのにと毎朝言った。

「こう? こんな風に?」        

 雅彦は垂らしてみせる。

「そう、それが似合う」         

 雅彦は満足したようにニヤニヤして、またきっちり似合わない七三に分けた。


 別れになんらかのふれあいをするような時代ではなく、かといって三つ指を

つく時代でもなく、中途半端にお互いの目をみつめてからじゃあな、と出て行

く。ドアの鍵を閉めながらまた絶対に帰ってきて欲しいと願っている自分が好き

だった。

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