第29話 8/31 病院
「準備はできた?」
「はい」
昼ごはんを食べた後、家を出た。朝から雨だ。午後になるにつれて、晴れてくるとの予報だが、真上の分厚い雲を見ると、にわかには信じがたい。
そこまで強くはないが、風邪を引くといけないので、傘をさして駅まで向かう。栞の希望で、一つの傘で向かった。これも憧れだったらしい。
僕らが今から向かう総合病院は、一つ隣の駅からバスで数十分揺られたところにある。この辺りでは一番大きな病院なので、多くの人がそこで治療を受けているはずだ。僕も骨折したとき、お世話になった。
電車からバスに乗り換え、病院前のバス停で降りた。僕ら以外にも何人かの人が降りるようだ。お年寄りが多く、同じくらいの年代の人は一人もいなかった。
「何も変わってないなぁ」
彼女はそう呟いた。
僕が最後に来てから、数年経っていたので少し塗装の剥がれが目立つようになっている気がした。広い駐車場を抜け、傘をたたみ、正面入口から入った。入った瞬間、病院独特のにおいが鼻に入ってきた。
僕が歩き始めても、彼女は固まったままだった。
「どうしたの?」
病院内ということもあり、最小限のボリュームで話しかけた。
「やっぱり、緊張するね。来るまでは平気だったんだけど、入ると、色んなこと思い出しちゃった」
治療のためとはいえ、かなり苦痛を強いられてきたのだろう。
「ここまで来たんだから、充分だと思うよ。帰ろう」
栞に無理をさせる必要なんてない。僕は回れ右をして、さっきくぐった自動ドアを通り抜けようとしたところで、彼女に袖を掴まれた。
「......ダメ。ここまで来たんだから、ちゃんと見たい」
そんな震えた声で言われると、引き止めたくなる。けれど、説得を試みても、失敗するだろう。ここまで来る決心をした彼女の意志は強いもので、僕が言っても簡単には崩せない。それなら、ただ付き添うだけでもいいから、最後まで付き合おうと思った。
正面入口から入ってすぐのところに、受付、自動精算機、売店などがある。奥に行くと、耳鼻科や眼科などのブロックごとに分けられたエリアがあった。僕らは治療を受けに来たわけではないので、エレベーター前に移動する。
三階から五階までが一般病棟となっている。六階にはレストランがある。確か僕が入院していたのは、五階だったかな。記憶は定かではないが、多分あってる。
「何階?」
エレベーターに乗り込んでから話しかけるわけにいかないので、乗り込む前に訊いておいた。
「五階だよ。555号室。覚えやすいでしょ?」
「うん」
五階まで上がり、降りると、懐かしい光景が目に入った。数年来に来たけれど、あまり変わっていない内装を見ると、色々思い出される。リハビリの辛かった思い出とか、病院食に文句を言ってたこととか。全部今となっては、良い思い出、として処理できる。
栞は顔を強張らせていた。握りこぶしを作り、緊張しているのがひしひしと伝わってくる。
僕はそっと彼女の右手を握った。
「えっ」
驚いたようだけど、少し彼女の肩の力も抜けたように思えた。これくらいしか僕にできることはない。
五階の案内マップを見なくとも、彼女は導かれるように歩いていく。彼女はこの廊下を何度歩いたのだろう。いや、歩くことは一度もできなかったのかな。
窓から差し込む光が眩しい。もう雨は止んだのかな。ちょうど555号室の前が照らされている。神様がスポットライトを当ててくれているみたいに。
「今は別の人が入ってるみたいだね」
病室前のプレートには、『山本建』と書かれていた。数ヶ月前までは、『柏木栞』だったのだろう。
「僕は入ることができないけど、栞は見てくる?」
「ううん。いくら死んでるって言っても、他人のプライバシーは侵害しちゃいけないもんね」
「わかった」
何も見えないはずなのに、栞は病室の扉を見つめていた。心の内を覗くことはできないけれど、表情から察するに、決心がついたような、そんな顔をしていた。僕は金縛りにあったかのように、動けなかった。彼女の空間に入ることは許されないような気がした。そこには神でさえ、侵入できないのではないかと思った。
もう大丈夫、という彼女の言葉で硬直が解けたかのように、僕の足は動き始めた。当てもなくぶらつくのは邪魔になりかねないので、用が済んだ僕らは五階を後にし、一階まで下りた。
「最後に私たちが出会った場所だけ見ていこっか」
その場所はエレベーターを降りた左手の角を曲がった先にある。
あの頃の僕らのような、小さな子どもたちが遊ぶスペースがあった。十年経つと、玩具なんかはすっかり変わってしまっている。
「かわいいね」
「うん」
遠目で僕らは動き回る子どもたちを見ていた。感慨深くなる。
「私もあんな風に、自由に遊びたかったなぁ」
僕は何と声をかけてあげればいいんだ。彼女の言葉は本心だろう。生前五体満足でなかった彼女は、いつも車椅子での移動だった。多くの人が経験する遊びを彼女は経験していない。子ども時代に誰もが一回はやったことのある遊びを彼女は知らない。
残り数時間で栞は消える。そんな状況でするのはおかしいかもしれないけれど、最後に一緒に遊びたかった。
「ごめん。困らせるようなこと言っちゃったよね。帰ろっか」
彼女は出口に向かって、歩き出した。
「待って」
「ん?」
「病院出た後さ、近くの公園で遊ばない?」
「公園? 別にいいけど」
彼女は不思議そうに、小首をかしげた。
病院のすぐ近くにそこそこ広い公園がある。僕の家の近くの公園よりも遊具は多いし、敷地面積が広い。
公園に着くと、子どもたちが何人か遊んでいた。
「どうして公園なの?」
「最後に自由に遊ぼう。子どもの頃、君ができなかった遊びを」
すでに雨は止んでいた。
「いいよいいよ。そんなことに付き合わせちゃ悪いし」
「今更すぎないか? じゃあ、僕が遊びたいから付き合って」
栞は小さく、頷いた。
「何するの?」
「鬼ごっこって知ってる?」
「さすがにそれくらい知ってるよ!」
栞は言った後、頰を膨らませた。
「じゃあしよう」
「でも私走ったことないから、上手く走れるかわかんないよ」
「いいんだよ。適当で」
じゃんけんで負けた僕が、最初に鬼になった。
「一つ訊きたいんだけど、鬼ごっこって二人でするものなの?」
「普通はもう少し大人数だね」
そっかー、と栞は言って、公園の広場の方へかけて行った。十秒ほど数え、追いかける。後ろからでもわかるけれど、今までに見たことがないレベルで不恰好な走り姿だった。僕もスポーツが得意な方ではないので、人のことは言えないけれど。
軽く走ったつもりだったけれど、すぐに追いついてしまった。
「はい」
僕は軽く肩にタッチした。
「速い! てか、笑ってない!?」
「いやっ、そのっ......うっ」
笑ったら悪いとは思うけれど、僕の表情筋は耐えられなかった。
「そんなに変だった?」
「いや、変というか、なんというか、変」
むぅ、と目を細め僕を見つめてくる。
「でも、走る姿、可愛かったけどね」
「そんなフォローいらないですー。走らなくていい遊びしよ。えっと、かくれんぼとか?」
「僕が探すから隠れなよ」
「わかった! 一分くらいちょうだい!」
「了解」
僕は公園の外に出て、道路側を向き、一分数える。こうして何気なく遊ぶだけでも、幸せだと思った。
消えて欲しくない。
そう思う気持ちがどんどん強くなってしまう。栞は満足して、消えることができるのだろうか? 僕が彼氏として過ごした一ヶ月は、未練を晴らすのに充分だったのだろうか?
一分が経ったので、戻る。暗い顔をして、彼女に会うわけにいかなかったので、頭を横に振り、気持ちをリセットする。上手くできたかはわからない。
さて、探すとするか。どこに隠れているのだろう。主に隠れられそうな場所は、何十本も生えている木々の裏とか、遊具の裏とか。女子高生が隠れられる場所は、限られてくる。
さっと園内を見渡したが、彼女の存在は確認できなかった。
とりあえず、片っ端から隠れられそうな場所を訪れることにした。公園に入って左手には砂場がある。さすがに砂場に隠れる場所はないか。砂場の向こうには、ブランコが二つある。こっちもないな。いくつか遊具はあるけれど、どれも隠れるには不適だった。
となれば、広場の方。僕の身長より何倍もある木々の裏はさすがに隠れにくいだろう。広場を囲むように生えている緑の茂みの裏は隠れるのにちょうど良さそうだ。一周してみよう。
ゆっくり、一周してみた。が、彼女の姿はどこにもなかった。
「嘘だろ......?」
他に隠れられそうな、ベンチの裏とかも探したが、見つからなかった。
僕の中に嫌な考えが浮かぶ。数時間早まって、栞は消えてしまったのではないかという。
もう一度、くまなく公園内を探す。
「......いない」
もしかすると、彼女は公園の外に出てしまったとか? 範囲は決め忘れていたし、可能性がないこともない。
今連絡しても、彼女には繋がらないし、どうしよう。広場の真ん中で佇んでいると、子どもたちから不思議そうな視線を向けられていることに気づいた。怪しい人ではないアピールをするため、笑っておいた。
歩き疲れたので、ベンチに座った。
「はぁ......」
これからどうすべきか僕が考えていると、急に肩に重みを感じると同時に、「わぁっ!」という声が耳元で聞こえた。
「ひっ」
情けない声が出た。こういう驚かされたりするのは、苦手なんだ。
「ふふっ。びっくりした?」
栞はクスクス笑いながら、「さっきのお返しです」と言った。ああ、僕が鬼ごっこのとき笑ったことか......。
「びっくりした」
「よしっ」
彼女は小さくガッツポーズをした。
「ちゃんと探してくださいよー。待ちくたびれて、こうして出てきちゃった」
「いや、公園全体を探したつもりだったんだけど、見当たらなかったから、栞がもう消えてしまったんじゃないかと思って......」
「心配だったと?」
「うん」
「私は消えませんよ。今日が終わるまでは。勝手にいなくなったりしません」
栞は優しく微笑み、言った。
とりあえず、彼女が消えていなかったことに、安堵の息をついた。
「じゃあ、どこに隠れてたんだよ」
「茂みを行ったり来たりしてましたねー」
行ったり来たり......?
「まさか......能力使ったのか?」
「はい。秋太が来たら、裏側から表側へスッと」
見つかるわけない! 確かにルール上能力を禁じていなかったが、ちょっとずるくない?
「ずるい......てか、かくれんぼってその場から動いても良かったっけ?」
「え、ダメなの?」
「多分」
僕の小学校では、動いてもいいやつは隠れ鬼ごっこって呼ばれてた気がする。
「知らなかった......私の負けですかね」
その後、鬼を交代して、かくれんぼをしたり、ブランコを漕いだりした。家を出たときは、真上にあった太陽も西の空に沈み始める時間だ。大勢いた子どもたちも家に帰り始めている。
「綺麗だね」
思ったことが口から出た。
「太陽? それとも、私?」
「栞」
夕日に対しての感想だったけれど、ベンチに座る彼女の横顔はとても綺麗だったので、そういうことにしておいた。
「ありがとー」
言った彼女は、また西の空へ向き直った。
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