第32話 それから 1
◇ ◇ ◇
並べられた薬草を前に、カトリーンは手元のメモを見つめる。そこには、そろそろなくなりそうな魔法薬が羅列されていた。
カトリーンが宮廷薬師に認定されて一ヶ月、プルダ薬局は今日も大繁盛で朝から客がひっきりなしに来ている。チティック薬局が廃業したこともあり、以前とは比べ物にならないほどの客足だ。
「んー、そろそろ薬の材料を採りに行かないとかな……」
保管庫の在庫状況を思い出しながら独り言ちていると、「リーンちゃん、お待ちかねよ」と明るい声がしてカトリーンはおやっと思った。今日は約束もしていないけれど、どうしたのだろう。慌てて立ち上がると、カウンターへと向かった。
「フリージさん、こんにちは」
「こんにちは、カトリーン」
カウンターの向こうには、思った通りフリージがいた。
「どうしたの?」
「リリアナ妃に至急で貧血予防の薬を頼まれたんだ。あるかな?」
「ありますよ、お待ちください」
どうやらお使いを頼まれたようだ。
笑顔で頷いたカトリーンが早速薬包を作ろうと体の向きを変えたときだ。ふと視界の端に入った外の景色に違和感を覚えた。誰かがガラス窓の向こうからじっとこちらを見つめているのだ。
「え?」
「ん?」
カトリーンにつられるように外を見たフリージも、こちらを見る視線に気付いたようだ。おもむろにそちらに向かい乱暴にドアを開ける。
「……何やってるんですか?」
フリージの呆れたような声に、しまったと言いたげに肩を竦めていたのは、ずっと昔にカトリーンが町で見かけた超絶美女だった。茶色い髪と茶色い瞳、顔の造作はまるで作り物かのように、恐ろしいほどに整っている。そして、彼女のすぐ横には平民風の格好をした皇帝陛下がいた。
(クズ皇帝とその愛人!)
カトリーンが驚いていると、愛人の女はペロッと舌を出して店の中に入り、フリージを見上げる。
「バレちゃった?」
「バレバレです」
「だって、高位貴族と異国から来た平民女性の恋物語なんて素敵でしょう? まるで恋愛小説だわ! 私、ナエラから話を聞いて、とても感動してしまって。これはもう絶対にこの目で見なければならないと決心したのよ。陛下の空いているお時間に合わせてわざわざ薬を頼む工作までしたんだから! さあ、こちらは気にせずに存分に愛を語り合ってちょうだい!」
「……工作だったのですか?」
フリージははあっと深いため息をつく。
愛人の女は呆気にとられてぽかんと眺めるカトリーンにも、にこりと笑いかけてきた。
「ごきげんよう、カトリーンさん。どうぞ、私は静かに見ているからいないものだと思ってね」
カトリーンはきらきらと目を輝かせながらにこにこしているその女性をじっと見つめる。
ほのかに膨らんで緩やかな曲線を描く腹部、長い睫毛に縁どられたぱっちりとした大きな瞳、ぷるんとした唇、真っ白な肌にピンク色の頬……。
これは、髪の毛と瞳の色は違うけれど──。
「もしかして、リリアナ様?」
「当たり! ここでは『リリー』って呼んでね」
愛人改めリリアナは口許に人差し指を当てて秘密だよ、と合図する。
カトリーンは唖然としてリリアナを見返した。もしや、クズ皇帝の愛人だとばかり思っていたあの日の美女も幻術で髪と目の色を変えたリリアナ妃だったのだろうか。
「わかりました。いないものと思わさせて頂きます」
店の入り口近くにいたフリージが低い声で答え、カウンター越しにカトリーンの手を取る。
「カトリーン、そろそろ薬草採りに行く時期だろう。貧血の薬はもういいから、これからデートに行こう。テテを呼んでくれ」
「え? ここに!?」
「上空で飛び移ればいい。行くよ」
ぐいっと腕を引かれて連れ出されると、フリージはカトリーンを抱えたまま呼び出したワイバーンのショコラに飛び乗った。
「テテ!」
カトリーンが大空に向かって叫ぶと、すぐに大空を飛ぶドラゴンが現れた。
テテはここ最近、更に大きくなり、カトリーンがハイランダ帝国に乗ってきたときとは比べ物にならないほどだ。今や、どこからどう見てもとてもワイバーンには見えない。
ショコラに乗ったフリージはテテがショコラの真下に来たのを確認して、カトリーンの手を引いて飛び降りた。テテは難なく二人を受け止め、悠然と飛び続ける。
「あ、ずるいわ。私のワイバーンじゃテテには追いつけないのに!」
見上げるリリアナが不満げに叫んだけれど、テテはぐんぐんと高度を上げる。
「せっかく、素敵な恋物語の様子をこっそり見ようと思ったのに……」
地上でしょんぼりとするリリアナを慰めるように、ベルンハルトが頭をポンと撫でる。
「仕方がない。俺達も久しぶりの街歩きを楽しもうか? 恋物語が見たいなら、歌劇でもいいぞ」
「本当? うん、行くわ!」
優しく諭されて、リリアナは表情を明るくする。
ベルンハルトはそんなリリアナの様子を見て優しく目を細め、その前髪を上げると額に軽い口づけをした。リリアナの頬はほんのりと薔薇色に染まる。
「行くか」
早速向かおうと振り返ると、無表情にこちらを眺める今日の護衛担当のレオナルドと目が合った。そう言えば、自分の側近で結婚が決まっていないのはこの男だけだと思い出す。
「レオナルドは結婚しないのか?」
「そのうちするでしょうが、今はまだ興味がありませんね。女の相手をするのは面倒ですし」
「なるほど。お前らしいな」
ベルンハルトはくくっと笑う。
そして気を取り直したようにリリアナの腰に手を添えて歩き出した。
この堅物軍人男がハイランダ帝国に砂糖爆弾どころかザラメの雨を降らせて周囲を驚愕させるのはまだ先のこと。
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