エリート外交官は落ちこぼれ魔女をただひたすらに甘やかしたい

三沢ケイ

第1話 さらば、陰鬱な日々 1

 見上げれば広がる空は雲ひとつない晴天。心地よい風が木々の枝を優しく揺らし、小鳥たちが歌声を添える。

 新たな門出に相応しいこのよき日に、カトリーンは信じられない思いで目の前の男性を見つめた。


「今、なんと?」

「だから、もう決まってしまったんです。もう人数は足りているので」

「そんなっ! これを見てわざわざ一週間かけて来たのよ?」


 カトリーンは手に持っていた新聞紙の切り抜きを男性の顔に突き付ける。そこには『求人募集』の四文字がしっかりと書かれていた。遠路はるばるやって来たのに、『もう結構です』だなんてひどすぎる。


「本当に申し訳ないとは思います。けれど、俺の一存で勝手に人を増やすことはできないんですよ」


 眉尻を下げて心底申し訳なさそうに謝罪する男性。


 しかし、カトリーンはこんなところで引き下がるわけにはいかなかった。

 なぜならば、ここで働けると思っていたからこそ遠い異国の地であるこの国──ハイランダ帝国までやって来たのだ。夜逃げ同然であのろくでもない家族に別れを告げて来たのに、帰る場所もない。


「そこをなんとかっ! 腕も確かなのよ? それに、魔法のお薬も作れるし、料理もできるわ。ほらっ、ここにお菓子が──」

「無理です」

「そ、そんな……。ひどい、ひどいわ」


 差し出されたクッキーの袋を完全に無視して扉を閉めようとした男性は、目の前のカトリーンの目にジワリと涙が浮かんだのを見て僅かにひるんだような表情をした。

 しかし、すぐに唇を引き結ぶとカトリーンから目を逸らし、「そういうことで」と無情にも扉が閉まる。


 カトリーン、十八歳。今この瞬間、知人友人が一人もいないこの異国の地で、一人放置されたのだった。

 ついでに言うと、所持金も殆どなかった。


 ◇ ◇ ◇


 事の始まりはつい一週間程前のことだった。


 まだ朝の冷え込みも厳しい中、カトリーンは屋敷の外にある井戸で一人水くみをしていた。たくさんの水をくむのは骨が折れる。魔法を使えば一瞬で終わるけれど、魔法が上手く使えないカトリーンは自分の力でロープを引くしかない。

 やっとのことで五つ目のバケツに水をくみ上げると、井戸の縁にぶつかったバケツから弾みで水が零れる。若草色の質素なワンピースのお腹辺りがビシャリと濡れ、その冷たさに体を震わせる。


「寒いわ……」


 指先がかじかみそうな中、服まで濡れてはたまらない。思わず弱音を零すと、近くにいたワイバーンが頭を寄せ、バケツを咥えた。


「運ぶのを手伝ってくれるの? ふふっ、お前は優しいわね」


 カトリーンは笑みを零す。ワイバーン──カトリーンはこの子をテテと呼んでいる──は少し頭を下げると、焦げ茶色のつぶらな瞳でカトリーンを見返してきた。

 両手にバケツを握り屋敷と二往復してようやく仕事を終えると、厨房に行って火おこしをした。これも魔法を使えないカトリーンは火おこしからせねばならず、いつも火がついたころにはすすだらけだ。

 それでも、火が起こせたことで冷えた体は少し楽になる。言うことを聞かなかった指先はだいぶ動くようになった。

 野菜を切って鍋に入れ、ようやくカトリーンは自分を見下ろした。


「これはちょっと酷いわね」


 濡れた部分に煤がびっしりと付き、いつも以上にひどい状態だ。まるで煙突掃除でもしたかのようだった。


 まずは着替えをしようと厨房を出ると、ちょうど上階から一人の少女が下りて来たのに気づいてカトリーンは咄嗟に端に寄った。


「おはよう、ヘンドリーナ」


 カトリーンの挨拶にヘンドリーナは気だるげな視線を向けると、ジロジロと舐めるように見つめてフッと笑みを漏らした。


「あら、お姉さま。随分と個性的な格好ですこと。魔法で綺麗にすればいいのに」


 小首を傾げて不思議そうにするヘンドリーナの様子に、羞恥でカッと顔が赤くなるのを感じた。カトリーナにはと知っていて、嘲笑の意味を込めてそういっているのだ。

 軽く会釈して横を通りすぎ、足早に階段を駆け上がる。背後から、「朝食、早くしてよね」と苛立ったような声がした。


「あーあ。これ、落ちるかしら?」


 ワンピースを脱いだカトリーンは薄汚れた衣装を見てため息を漏らす。まだ破れていないから、なんとしても綺麗に落としたい。けれど、この寒さ……。


「私にも魔法が使えたらなぁ」


 カトリーンは窓の外を眺めながら、独りごちる。

 カトリーンの住むサジャール国は、『魔法の国』として世界に知れ渡るほど魔法を使いこなせる人の割合が高い国だ。ざっと、国民の九十九パーセント以上は魔法を上手く使える。しかし、なんの運命の悪戯か、カトリーンはその魔法が上手く使えない方のわずか一パーセントに入ってしまった。


 魔法が使えたら、水くみも楽にできるのに。

 魔法が使えたら、火も簡単に起こせるのに。

 魔法が使えたら、洗濯も一瞬だし、お湯だってすぐに沸かせるのに──。


 けれど、使えないものはどうしようもない。

 その代わり魔法薬の調合は得意で、空いた時間に薬草を探しては調合作業をしている。家族からは『臭い』『汚い』って鼻を摘ままれるけれど。

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