第3話 悪魔の囁き
「中堂さん……」
うとうとしていると、何かを我慢するような小田桐の声に呼ばれた。中堂が顔を上げると、小田桐が肘を突いて上体を起こしている。疲れ切った顔ような、信じられないものを見るような顔だ。
「何です? 煙草でも吸いたいんですか?」
「違います。そもそも喫煙者じゃないので……それより、今日初めて会った男と寝るって、もう少し自分を大事にした方が良いと思います」
それを聞いて、中堂は笑い出した。
「馬鹿ですか君は。無理強いされたのは自分ですよ。ああ、警察に行きたければどうぞ。もっとも、現行の運用では、タチ側を強要されたと言う訴えは『良い思いしたでしょ』で一蹴だとは思いますけど」
「俺もそう思います」
小田桐は溜息を吐いた。
結局、中堂に押し切られる形で二人は身体を重ねた。さっきまで泣いていた中堂が、自分に跨がって甘い声で喘ぎながら腰を振る有様は、小田桐の常識をぶん殴ったかもしれない。
「そう思うって、どっちですか? 『良い思い』の方?」
「違います。訴えが退けられるというところです」
「不感症ですか?」
わざとらしくゴミ箱の中を覗き込む。使用済みのコンドームが2つ。中身の入っている片方が小田桐の分だ。もう片方には大した量は入っていない。相手は黙った。中堂はそれ以上を追求せず、
「さて、どうしますか? 私は構いませんよ、君がうちにいてくれても。ただ、私は無職なんで常に家にいますけどね。その上、私は君の身体を気に入りました」
「俺の下半身がですか……」
予想外の返事に吹き出してしまう。
「君、面白いですね! もう少し歯に衣着せても良いのに。そうですね、そうとも言います。なので、可能な範囲で良いのでたまにこういうことをしたいんですが」
小田桐は考え込んだ。中堂に知る由はないが、神谷と繋がりのある小田桐の親戚と言うのは、本当に神谷に頭が上がらないらしい。ろくな説明も受けていなかったが、それでも「頼むから、顔を立てると思ってここに行ってくれ。行くだけで良いから」と頼み込まれて来たのである。中堂の言葉を思い出した。
(愛人してただけですよ。家ごと捨てられました)
つまり、この家一軒を丸ごと中堂にくれてやった、と言うことだろう。どうやら、「神谷さん」という人は、凡人には理解できない行動力と価値観と財力の持ち主らしい、ということを、この一連の流れで理解した。
「恋人のために躊躇っていますか?」
中堂が意地悪な声音で尋ねる。小田桐は首を横に振った。
「そう言う人はいません」
仕事が忙しくて恋愛どころではない。もっとも、愛人業をしていたくらいだから、仮に小田桐が恋人持ちだとしても中堂が誘いを撤回するとも考えられない。割り切りましょうよ、などと言ってきそうだ。
親戚の必死な顔が頭を過ぎった。小田桐の両親が呆れるのも見えていないかのように、恥も外聞もなく、なりふり構わず、そんな「必死」を表す慣用句を全て纏って自分に頼み込む親戚の顔が。
小田桐には、自分の「ノー」がどう波及するか皆目見当も付かなかった。ただ、ここで彼が中堂をはねつけることで、中堂自身も自覚していないであろう、危うさのようなものが、極端な方へ振り切りそうな気もしている。
とりあえず、中堂が自分に飽きるまで付き合えば良いか。追い出されたら実家に帰れば良いのである。感染防御を行なう程度の良識もあることだし、自分たちで完結する話なら良いだろう。
と、言うことを考え込んでいる小田桐の顔を、中堂はにやにやしながら眺めている。この騙されやすく流されやすい若者はどう出るか。
「……わかりました」
思いもよらない返事を得て、中堂は一瞬だけ固まってしまった。まさか、OKされるとは思っていなかった。それこそ怒って出て行って警察に通報するか、「そんなの無理です」とスーツケースを引いて逃げ帰るかだと思っていたのである。底抜けのお人好しか、底抜けの馬鹿なのだろうか?
しかし、自分が嫌みを交えて提案した手前、驚いて、「あなたが言ったんでしょ」と言われるのも癪に障る。だから、そんな素振りは欠片も見せず、同じ姿勢でいる小田桐に覆い被さった。
「嬉しい」
「ちょっと、中堂さん……」
その唇を塞ぐ。人柄だろう。キスしている間、小田桐は中堂の肩に手を添えて、じっとしている。やがて顔を離し、荒い息をしている小田桐へ、中堂は囁く。
「こういうの好きですか? その気になっちゃうの早いんですね?」
「あの……」
小田桐は息も絶え絶えと言う顔で中堂を見た。
「苦しいです……」
何を言われているかわからずに中堂が沈黙していると、
「言いにくいですが、重いです……」
体重をかなり掛けていたことに、その時中堂は思い至った。
その後もしばらくベッドで小田桐をいじめて楽しんでいた中堂だが、流石に時間経過が気になって時計を見た。午後3時になっていた。
「ああ、もうこんな時間。来て早々に失礼しました」
小田桐はまだ荷ほどきもしていない。何より……。
「お昼食べてませんでしたね」
10時に彼が来て、少し話してからすぐにベッドに行ったのだから当然ではあるが。朝食以来何も食べていなかった。それは中堂も同じ事で、それを思い出すと空腹感を覚える。
「お煎餅ならあります。今日食料を買いに行こうと思っていたんですがね。君という据え膳が来てくれたので。お腹には溜まりませんでしたが」
冗談にもなっていない冗談を言い放った中堂が、ガウンを着て先にリビングへ降りると、小田桐も後から服を着てよろよろと着いてきた。やはり、性行為を無理強いされたこと自体のショックは大きいのだろう。台所のお菓子置き場から煎餅を取り出し、
「そう言えば、君おいくつですか?」
「この前27歳になりました」
「あら、お若いんですね。私は42歳になりました」
「そうなんですか」
煎餅の袋を放った。冷蔵庫で作り置きしてあった水出し緑茶をカップに入れて、無造作に並べる。中堂は小田桐に八つ当たりして気が済んでいるので、気楽な顔で煎餅を囓った。小田桐は、どこかぼうっとした様な顔で袋を開けている。
「夕飯、何食べますか? 面倒なので魚焼いて野菜茹でて、で良いでしょうかね」
「何でも良いです……」
「何でも良いが一番困るんですが」
「母親みたいなこと言いますね……」
「実家暮らしらしいことを言いましたね」
けらけら笑う。小田桐は溜息を吐くと、
「この辺に家具屋さんはありませんか」
「何か入り用ですか?」
「俺の寝床を」
「ベッドで寝たら良いじゃないですか」
ダブルベッドなのだ。大人の男が二人寝るくらいどうと言うことはない。それに、自分が気分になった時、そこにいるのは中堂には都合が良い。
「それは流石に……」
「私が盛りの付いた猫だとでも? 嫌な人ですね」
「そうは言いませんが、こう見えても患者さんの命を預かっているので、夜はちゃんと寝たいんですよ」
やや強い口調で言われて、中堂は手を止めた。
「薬剤師でしょ?」
「薬剤師だからです。医師の処方を確認して、カルテ見て、薬の効果を確認して、もしおかしなところがあれば、医師に問い合わせしないといけない。集中力のいる仕事です」
ぽかん、として、中堂は小田桐の顔を見た。
「そ、そうなんですか……?」
「病院ドラマなんかでもほとんど出てきませんからね、薬剤師。薬の組み合わせでは症状が悪化しますし、新たな症状が出てしまうことがあります。口から錠剤が飲めない人は、錠剤を潰す必要もありますが、薬によって潰して良いかどうかも違います。潰すことで効き目が落ちることもある。そうすると、期待した通りの治療にならない可能性も。薬剤師はそう言うところで医療に貢献しています。ただ処方箋通りに薬出してる訳じゃないんです」
ここに来て、一番よく喋ったんじゃないだろうか。中堂はまじまじとその顔を見てしまう。薬剤師がそんなに仕事をしているとも知らなかった。処方箋の通りに薬を持ってくるものだと。でも、言われてみれば「今、他に飲んでいるお薬はありませんか? お薬手帳お持ちだったら見せてください」と結構念押しするように聞かれていたような気もする。
「あら……」
「そう言うことなので、申し訳ないんですが、慣れないダブルベッドで人と寝るのは無理です。リビングでも構いませんので布団を買いたいです。自分で出すので」
中堂が押し倒した時よりも、薬剤師の仕事に影響が出るかも知れない時の方が怒っているように見えた。それがなんだかおかしくて、中堂は笑ってしまう。
「何かおかしいことを言っていますか?」
「君、自分が無理矢理された時よりも怒ってませんか?」
「俺だけの話じゃないんですよ」
「真面目ですね」
中堂は頬杖を突いて屈託なく笑う。
「そう言うの、私は好きですよ」
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