第1話

 話はさかのぼって、妹との初対面の二日前。このころになると、大学寮全体が浮足立ち始める。なぜ浮足立ち始めるのかというと、いよいよ一カ月の長期休暇、授衣暇に入るからだ。月はずれているが、君たちの時代の夏休みだと思ってくれたらいい。まあ、実際は秋休みなのだが、俺たちの場合は夏休みがない代わりに秋休みが一カ月あることになる。(いや、実は夏の五月にも田暇というのがあるけど、その話は省略)。

 遠くから来ている者は、この秋休みの期間に帰省する。あまり遠くて旅費がないという者には、なんと大学が旅費を支援してくれる。

 そもそも俺たちの時代の大学は授業料は無料ただ。衣食住も無償ただで支給される。ただし、学生なのだから給料は出ない。

 もっとも省試に合格して正式な文章生もんじょうのしょうになると、初位そいか八位という位がもらえる。その位に対する俸禄が出る。八位の俸禄は、君たちの時代の大卒初任給と同じくらいかな?

 とにかく今はそんなだから貧乏で、俺はいつもみすぼらしい服装をしていた。

 試験に合格して俸禄をもらえるようになれば、大好きな母上にもうほとんど全額渡してあげようと思っている。

 でも今は俺はみすぼらしい格好のまま、博士たちにあいさつをして、仲間たちとも一カ月後の再会を約して実家への道を急いだ。

 自宅へ帰るまで何日もかかる人もいるのに、自分は歩いても半時一時間で着いてしまう。なんと恵まれているのだろうか。

「母上。今、帰りました」

 家の裏で炊事のまきをくべていた母上は、目を丸くして驚いた。なにしろ前もって知らせておくことはできないので、突然帰って驚かせるしかない。それが自分の意志からではなくても、だ。

「元気でやっていたかね」

「はい」

 母上はうっすらと目に涙を浮かべてさえいる。大げさだな。

「しばらく見ない間に、立派になったね」

 そんなはずはない。いつものぼろ服のままの帰還だ。こういうのを親の贔屓目ひいきめっていうんだろうな。

「母上も元気そうですね。よかった、よかった」

「とにかく中へ」

 母上に笑顔を見せてから中へ入ろうとすると、家政を預かっている女と出くわした。

「あら、若様。お帰りなさい」

 ニコニコしているその女は秋萩あきはぎと呼ばれており、俺が生まれた時からこの家にいて、俺の養育係というと大げさだがそんな感じだった。もちろん、本当の名前は知らない。もっと偉い人だと、子供が産まれたらすぐに親からは引き離されて乳母めのとという養育係がおっぱいをあげ、さらには一人前になるまで教育するということだけど、もちろんこの秋萩はそんな大それたものではない。

 それに、俺の養育係にとどまらず、この屋敷の家政を全部引き受けている。これも偉い人の屋敷だと家司けいし政所まんどころみたいのがあってたくさんの人が働いているけれど、この屋敷ではそのたくさんの人の役を秋萩が一人でやっているのだ。早い話が、家政婦だ。

「そうそう、今日は殿さまがお渡りになるって、奥様もおっしゃってましたよ」

「おお」

 なんと、俺が戻る日を知ってて合わせたのかと思うくらいに、時宜よく父上がここに来るという。

 だいたい夫婦は最初は同居せずに、夜になると夫が通って来て、朝になったら自分の屋敷に帰っていくのが普通だ。そのうち多くの妻の中の一人の屋敷に定住して同居が始まるが、俺の母上はそれには選ばれなかったらしい。

 選ばれなくても、今でも母上は父上の妻であることには変わりない。正確に言うと、たくさんの妻の中の一人だけど。

 でも父上も母上もすでに四十代、昔のように妻のもとに通うなんて色めいた話ではあるまい。

 父上は去年、治部大輔じぶのたいふ、つまり治部省の次官級だったけれど、今年になってから皇后様のお世話をする役所である皇后宮職の長官の皇后宮大夫だいぶや近江守を兼任している。

 だから大学が今日から長期休暇だということも知っているはずだから、今日来たとなると母上よりも俺に会いに来たということだろうか? もしそうなら、それなりの用件があるはずだ。まさか様子を見に来たなどということはあるまい。何かとのんびりと構えている父上だけに、そんなせこせことしたことをするはずがないのだ。

 そんなことを考えて庭に突っ立っていると、後ろからバーンと激しく肩を叩かれた。

「篁! お帰り!」

 振り返らなくても、誰だかはすぐ分かる。俺をこんな形で歓迎するやつは一人しかいないから。

那木なぎ!」

 わざと忌々いまいましいふうを装って、ゆっくり振り返った。

「出た!」

 思ったとおりそこに、山猿…じゃ、ない…見慣れた女の子の笑顔があった。

「ひどい! 人をクマみたいに言わないでよ」

 そう言って、笑顔はさらに笑みを増した。

「おまえ、いつまでもそんなだから、通ってくる殿方の一人もいないんだろ」

「ふん。ずっとこの家にいなかったくせに。なんで誰も通ってこないなんて知ってんのさ」

「見りゃ分かる」

「ひどい、もう」

 いつものやり取りだ。

 考えてみたら妙齢の……いや、むしろちょっと、その……年食った姫君なのだ。でも、どうしてもそんなふうには思えない。

 何しろ、互いに赤ん坊のころからずっとこの家で一緒に暮らし、一緒に育ってきた。

 だから俺と同じ年なのだ。女が二十歳で独身っていうのは、ちょっとやばい。

「久しぶりやん。元気してたぁ?」

 本人はそんなこと、なんとも思っていないようだ。

「今日、殿様がいらっしゃるんだって」

「さっき、聞いた」

 俺は無愛想にしてはいるが、決してこいつが嫌いなのではない。もう空気みたいな存在だから、愛想を返そうとも思わないのだ。

「ほらほら、そこでじゃれていないで、早く若様をお屋敷に」

 縁側の上から、秋萩が那木をたしなめる。そう、那木は秋萩の娘なのだ。だからこの家で俺と一緒に育ってきたのである。

 秋萩は偉い人にとっての乳母のような存在だとさっき言ったが、その娘である那木は俺にとっては乳母子めのとご、つまり乳兄妹ちきょうだいということになる。幼馴染おさななじみといってもいい。

 こうなるともう本当の兄妹以上に親密になりすぎて、そこに異性を感じないのだ。

 もっとも那木の場合はそれだけでない。

 容姿はそこそこなのだけれど、色が黒い。そんな黒い肌を惜しげもなく露出するような服装いでたち。またそれが茶色ときている。髪も短く耳が隠れる程度。どう見ても東山から迷い出た山猿だ。

 山猿だけに愛嬌はあって、決して憎めない。

 それが俺の兄妹以上に親密な乳母子だ。

 こうして俺は実の妹以上に妹な那木に絡まれていたが、なんとかその母親である秋萩に助けられてくつを脱ぎ、久しぶりの我が家へと上がった。

 父上が来たのは、暗くなってからだった。

 二、三人の供をつれて、歩いて父上はやってきた。

 そこで俺は久しぶりに父上と対座した。

「いやあ、元気でやっているか?」

「はあ、お蔭さまで」

 父上は相変わらずのんびりとニコニコしている。もっとも俺が大学に入る前も、ここ二、三年はあまり父上と会うことはなかった。父上の方からたまにこの鴨川の東まで来てくれた時しか、父上の顔を見ることはできない。それでも父上は父上、尊敬もしているし、親しみも感じている。

 今、父上は近江守になっても、その前に阿波守だった時と同様に実際に近江には行かないようだ。

 でもその前、俺が十三歳の時に父上が陸奥守になった時は、父上は実際に陸奥みちのくまで下って行った。その時は俺も父上について一緒に行った。俺の仲間でも都を離れ、あんな遠くまで行ったことがあるという者はざらにはいない。でもあくまで父上と一緒にであって、決して陸奥みちのくへはひとり旅じゃあなかった。

 陸奥みちのくで父上はかなりの功績を打ちたてた。

 現地の異民族を駆逐して後からみかどより感謝状を賜ったし、出羽いではの国の国府を建てたのも父上だ。

 俺はその傍ら、馬を乗り回し、弓を射る腕を鍛えていた毎日だった。

 考えてみれば俺のこれまでの人生で、あんなにもずっと父上と一緒だったのはあの陸奥での日々の時以外はなかったような気がする。そのお蔭で、俺はぐっと父上とは親密になった。

 その父上が、やけにニコニコして俺の前に座っている。まさか縁談でも持ってきたのかと、俺はいぶかった。あまり積極的に結婚したいとは思っていないが、もしそうならとにかく話を聞いてからだと身構えた。

 ところが、父上は言った。

「いやあ、実はおまえにお願いしたいことがあるんだが」

 意外な言葉に、俺は戸惑った。

「お願いしたこと……ですか?」

「ああ。実は」

 父上は少しためらって、それから隣にいた母上をちらりと見た。何か母上に聞かれたら困るのだろうか。

 でも、父上は意を決したというふうに切りだした。

「おまえには、妹がいる」

 それは知ってはいる。もちろん、会ったことはない。

 俺には実は妹が二人、弟が一人いることは聞かされていた。でもみんな母親が違うし、それぞれ自分の母親の屋敷に住んでいるから、当然のことこれまでその誰とも一度も顔を合わせたこともない。この時代なら珍しくも何ともない普通のことだ。

 だから、兄弟姉妹がいくら多くても、母親も同じ兄弟だけが本当の兄弟といえる。でも、俺の母上から生まれた父上の子は俺一人。だから俺は実質上は一人っ子として育った。

 むしろ那木のような乳母子の方が本当の兄弟以上に兄弟(那木の場合は兄妹)であり、幼馴染みであり、親友である。母親が違う兄弟など他人であり、権力者の場合などは父親が同じなだけに一番警戒すべき政敵となる。

 幸い我が家は偉い人ではなく、貧乏貴族のはしくれだからその心配はないが……。

 だけど今頃になって、なぜ父上はそんな話を切り出したのか……そう考える余裕もなく、父上は続けた。

「その妹の博士となってほしいのだ」

「え、博士?」

 博士になれと言われても、まだ擬文章生であって文章生でもない俺がいきなり文章博士に?……って、そういうことではない。ここでいう博士とは、つまり自邸で学問を教える教授……家庭教師だ。

「妹って、どっちの?」

「二条西大宮の方のだ」

「ああ」

 合点がいった。父上の声がさらに小さくなったのも道理で、実は父上は今そこに住んでいる。もともとはその屋敷はその妹の母親の親の屋敷だったのを、父上がすでに相続してしまっているようだ。だから俺の母上にはばつが悪くて、その母上が隣で聞き耳を立てているだけに父上は声をひそめたのだろう。

「で、何を教えれば……」

「漢学だよ」

「え?」

 普通、女性が漢文の文章を読むなんてことはないだろう。だから意外だった。

「おまえの専門ではないか」

「いや、そりゃそうだけど」

 俺が首をかしげているので、父上は笑っていた。

「和歌、手習い、絵、琴、笛など、女としてのたしなみはすべて完璧だ。さらに漢籍に通暁すればこれは強みになる」

「強みって?」

 もしその妹に懸想片想いした男がいたとしても、漢籍の素養はあまり関係ない気がする。

「実はあの内侍ないしにしようと思っているんだよ。漢学の素養があればその点でも有利なんだ」

 懸想けそうした男がいたわけではないようだ。いや、むしろ内侍ないしにしようっていうんなら、懸想けそう男がいたらまずいだろう。

「漢学となるとどうしても男だ。でも、世間の一般の男を博士にして懸想けそうでもされたら困る。あれの母親もその点をかなり警戒していてな、そこでおまえに白羽の矢が当たったのだ」

「はあ」

 ――そんな、勝手に当てないでくれ……なんて、口に出しては言えない……。

「おまえはちょうど大学で漢学を学んでいるし、娘もおまえとなら腹違いとはいえ兄と妹、他人ではないし」

 ――いや、ほとんど他人に近いんだけど……。

「漢学だったら、父上が教えれば?」

 ――そうだよ、父上は漢学にも優れて勅撰漢詩集の撰者とかもやってなかったっけ?……

「いや、それが親子だといろいろ気まずいこともあってな。それに私には仕事もあるし……。やはり大学の学生がいい」

 父上はちょっと難しい顔をした。

「引き受けてくれるか?」

 俺はまず母上の顔を見た。母上は微笑んでいうなずいた。

 そっか――母上に異存がないのなら……

「分かりました。やります」

 父上の顔がぱっと輝いた。

「そうか。まずはこの授衣暇秋休みの間だけでいい。あとは休みが終わって大学が始まったら、必要に応じて旬暇の時にでもときどき見てやってくれ」

 旬暇とは十日ごと一日ある休みのことだ。十日ごとに指折り数えて、その前日の鬼のような試験を克服して、何とかたどり着く休みがそんなことでつぶれるのかと思うと少し気が重いけれど、尊敬する父上の頼みでは断れない。

 父上はその晩、一泊して帰って行った。

 俺が妹の所に行くことになったのは、さらにその翌日だった。その日が方角がいいとかなんとか父上が言っていたからだ。

 俺はまず何を教材にしていいかいろいろ悩んだ挙句、やはり『史記』がいいだろうと思った。

 いつも自分が勉強しているものだから、前準備する手間が省ける。

 そもそも内侍とは帝のおそばにお仕えして、帝の御命令とかを伝えたりもする役目だから漢文の読み書きは必須だろうけど、そんなのは内侍司でもいちばん偉い尚侍かみ典侍すけの仕事で、そんな役職に就くのは大臣級の人の娘じゃないと無理だ。公卿でもない父上の娘だとせいぜい掌侍じょうになれるかどうかだろうけれど、まあ、それとて帝のおそば近くにお仕えすることは変わりない。

 これから初めて会う妹はそういうのを目指しているみたいだけれど、果たしてどんな女性なのか……。好奇心もあったけど不安もあった。まずは、どう接したらいいのかも分からない。

 そんなことを考えながら川を渡り、そのまま四条を西大宮大路まで進んだ。二条まで上ってから西進すると大学寮の門前や朱雀門の前を通ることになる。そうなると警備も物々しいので、俺はそこを避けた。

 まっすぐの小さな川が道の真ん中を流れる西大宮大路を上って、二条大路にぶつかるその右前方が大内裏の東南角だ。ほんの小さな濠の向こうに築地塀が横たわって延々と続く。濠沿いには柳の街路樹が一定間隔にずっと並んで植えられている。その大内裏とは西大宮大路をはさむ形の西側に、教えられた屋敷はあった。

 想像していたよりも小さい。敷地ばかりが一町とでっかいが、その中に独立した建物が四つばかりであとは庭(庭というより空き地だな、こりゃ)というすかすかの屋敷だ。塀も乾燥した草を束ねて並べているだけの小柴垣こしばがきだった。

 だいたい平安京の大内裏に向かって左半分、つまり右京といわれているところはまだ空き地が多く、都城の中なのに耕作地すらあったりする。

 俺が小柴垣の屋敷の、門というか柵に設けられた入り口を入るといちばん手前の建物の玄関に父上がいた。

「おお、来たか、来たか」

 父上はにこにこしている。

「まあ、早速だがこっちだ」

 いよいよご対面か。そう思って通された部屋に入ったけれど、誰もいない。

 支度でもしてるのかなと思って部屋に入ってよく見ると、部屋の奥に簾が下りている。その前に円座があって、そこに俺が座るらしい。

「もう、お待ちかねだ」

 え?…と思って簾の奥を見ると、そこに人の気配があった。

 でも、簾の中身さらに几帳が立ててあって、中の様子は全く見えない。

 俺は怪訝な顔をして父上を見た。

「いやあ、いくら兄でも異腹だし、初対面なのでどうしてもいきなり顔を合わせるのは抵抗があるみたいでな」

 父上の弁明じみた愛想笑いに、まあ仕方がないかと俺は簾の前に座った。

「そのうち、うちとけるだろう」

 笑いながら、父上は行ってしまった。

 俺は部屋を見渡した。狭い部屋だ。本来、奥が簾で仕切られるような高貴な人がいるような部屋ではないから、簾もとってつけたもののようだ。

 とにかく黙っているわけにもいかないので、まずは俺から切り出した。

「篁だ。よろしく頼む」

 これが、妹が生まれて十五年もたって初めて対面する兄からの最初の一言だった。

 もっともこの時は、妹の顔も見ていないのだから、妹の年齢も全く分からない状況だった。妹というからには俺より若いということだけは明白だが。

「お兄様、はじめまして。よろしくお願いします」

 か細くもしっかりとした、初めて聞く妹の声。その声を聞いて俺は思わず、ほんの一瞬だけど胸がときめいた。

 ほとんど実の妹のようになりきっている那木の声を聞いても、こんな気にはならない。でも那木は本当は血のつながりはない。でも目の前にいるのは、母こそ違え血を分けた実の妹なのだ。

 なんだか妙な気分だった。

 その声を聞いて、もしかしたら今まで予想していたのよりはるかに年を食っているのかなとも思った。

 そして読ませてみた『史記』の本文を、さすがすらすらとはいかずたどたどしくではあったが読み下したその声が、俺の疑惑に拍車をかけた。

 指定した所を読み終わっても俺がしばらく何も言わずにいたので、妹の方が痺れを切らしたようだ。

「あのう」

 その声で、我に返った。

「あ、ああ、よく読めたと思う」

 明らかに俺の声はうわずっていた。笑われるかとも思ったが、簾の向こうの几帳のさらに向こうからは何の反応もない。ここで笑ってくれた方が気が晴れて、どんなに楽だったか。

 大学では唐の国の発音でこれらの文章を素読する。さすがに初心者にそれは必要ないだろうと思って、俺は妹には読み下しをさせたのだった。

 簾の下から、『史記』の本が差し出されてきた。妹が呼んだところがそのまま開いていたので、俺は象牙の字突き指し棒で、何箇所か紙に跡をつけた。筆と墨で書きこんでしまうわけにはいかない。

 それを中にもう一度入れた。

「この、印をつけた所があいまいだったので、もう一度読んでみてくれ」

 妹がまたたどたどしく読み始めた。

 先ほどは緊張していたせいで読み間違えたと思われる箇所はだいぶ直ったが、根本的に間違えているところ、読めずにいるところは当然同じ間違いをするから、今回はそこで止めて訂正してあげた。本は妹に渡してあって俺の手元にはないが、俺はもう暗唱しているところを読ませているのだから問題はない。

 何回か読むうちに妹の読む速さも速くなって、かなりすらすらと読めるようになった。俺はほとんど助言らしい助言もしていない。ちょっと直しただけで、驚くほどの上達ぶりだ。

 あとはこの話の背景や、内容について少しばかり話をしておいた。

 妹は今どういう表情でそれをきいているのか、全く分からないだけにもどかしい。

 活きいきと目を輝かせて聞いているのか、つまらなさそうに早く終わらないかなあというような顔で聞いているのか……全く想像もつかない。

 なんだか簾に向かって独り言を言っているみたいだ。

 でも、だいぶ話してからやっと話の切れ目に、妹が口を挟んできた。

「この虞という女性はどういう気持ちで、この陣地に項王とともに来ていたのでしょうか」

 俺は少し考えてから、口を開いた。

「女性の気持ちというのは、やはり女性がいちばんよく分かるだろう。それは貴女あなたが考えてください……」

 そういってしまってから、ハッとした。まるで他人の女性に対するような口ぶりだ。あくまで相手は妹なのだ。その辺をはっきりさせておいた方がいい。

「おまえが考えるんだ」

 決して冷たくはなく優しい口調ではあったが、あえてそう言い直した。

 それに対して妹がどういう反応をしたのか、とにかく全く分からない。

 そうこうして、なんとか一時二時間ほどの時間が過ぎ去った。

 俺はほとんど『史記』の内容の話をしていただけで、全く話がそれることはなかった。つまりそこには雑談などというものは全くなく、純粋に漢学の話しかしなかった兄妹の姿があった。

「そろそろ終わるか」

 父上が部屋をのぞいた。それがちょうどいい潮時に感じた。

 そのあと、俺は父上に母屋へと通された。

 一応、妹の母親にあいさつをしておけということでその部屋に通されたけど、こちらも簾越しだった。几帳はないので何となく姿の輪郭は見えた。でも、父上にとっては俺の母上とは別の妻だろうけれど俺にとっては他人だし、そんな中年のおばさんには興味はなかった。

 向こうも同様という感じで、俺の型通りの一通りのあいさつを聞いてもすぐに返事はなかった。

「ご苦労です」

 そんな言葉が返ってくるまで、少し時間がかかった。簾越しにも全く無表情であろうことはその声から察しがついた。

 妹の母が俺に対してかけてきた言葉は、後にも先にもそれだけだった。俺が博士家庭教師をやることはどうも父上が勝手に進めた話のようで、この母親はあまり歓迎していないのかもしれないということは十分に察せられた。

 それからまた別室で、父上が酒肴を準備してくれた。

 俺の家が秋萩と那木の母娘だけが仕えているのに対し、こちらは家司けいしも何人かいて、いわゆる召使いの子供の姿も見えた。実際、今俺と父上に給仕してくれているのもこの屋敷に仕えている女官のようだ。

 もしかしたら妹の母親の実家は結構高貴な血筋なのかもしれない。だが、そのへんのことは俺には全く知らされていないし、また聞こうとも思わなかった。

 でも、内侍にと考えるくらいだから、そんな低い身分ではないことははっきりとしている。

 ただ一つ、気になっていたことを俺は父上に聞いた。妹の年齢としである。

「十四だよ」

 俺の予想より一つ若かったけれど、なんと妙齢、適齢期だ。

 それを内侍にしようというのだから、よほど変な虫がつくのを警戒しているようで、それで博士家庭教師も兄である俺に話が来たのだなと思う。

 俺が驚いた表情をしているので、父上は笑って聞いてきた。

「何を驚いている?」

「いえ、しっかりしているので、もう少し年が上かと思っていましたので」

 たしかに、俺と同じ年の那木よりはるかにしっかりしている。顔は見ていなくても、漢文の素読の声などからもそれは感じられた。

 父上も、漢学以外の女性のたしなみは完璧に身につけさせていると言っていたし、たぶんそのとおりなのだろう。

「それと呼び方ですが」

 まさか、いくら妹でも同腹ならいざ知らずいきなり異腹の妹の実名を教えろとは言えない。

「朝桐姫とでもお呼びしましょうか」

 この時、朝桐という名前は俺が初めて提案したのだ。

「まあ、聞いておこう」

 父上は笑っていた。


 その日、ほろ酔いで鴨東の自宅に戻ろうとしていた時である。

 鴨川を渡りきったところでこっちに手を振っている少女がいる。

 鴨川はだだっ広い河川敷に流れが幾筋にも分かれたり合流したりして流れている川で、普段は水量はそう多くはない。

 流れも深くはなく、馬だと難なくざぶざぶと渡ってしまうが、さすがに歩いてだとそうはいかないので、橋がところどころにかかっている。

 橋とはいっても積み上げた石の上に板を掛け渡して置いてあるだけの橋だ。

 雨が続くと河川敷全体が流域となるのでこんな板の橋はすぐに流されてしまうが、水が引いたらまた誰かがちゃんと板を置いて橋を掛け渡してくれる。

 そんな板の橋を渡り切る前に、那木はもう俺に駆け寄って来ていた。

 十分想定内の、いやむしろ筋書き通りの展開だ。

 手を振っている少女なんて言ったけれど、本当ならもう結婚して子供がいてもおかしくない年頃なのに、那木はいつまでも少女だった。

「ねえねえ、どうだった、どうだった、どうだった?」

「別にどうもないよ」

「妹さん、美人だった?」

 俺は黙って首を横に降った。

御簾みす越しのご対面だ」

「うそーっ」

 那木は両手を自分の口にあてがっていた。

 俺は苦笑だけして構わず歩き続けたので、那木がそれを追ってくる形となった。

 家に着くまでに、俺は今日あったことのあらましをほとんど告げた。黙っていてもあれこれ根掘り葉掘り聞いてくるにきまっているから、先に封じておくつもりだった。

 だが、異常な状況がかえって那木の好奇心を掻きたててしまったようだ。

「どうして御簾越し? 信じらんない」

 那木にとっては、朝桐がたどたどしくも漢籍をなんとか読めたことなどどうでもいいようだった。

「私、本当は篁を私のたった一人の兄貴みたく思っていたのに、本当の妹さんが現れてはかなわないなあって思ってた。ちょっぴりいてた。でも、そんな他人行儀の扱い受けるなんて、篁がかわいそう。そうだ。今度私が一緒に行って、御簾から出て来るよう説得してあげようか」

 俺は思わず歩みをとめた。

「頼む! それだけはやめてくれ!」

 もちろん那木が本気でそんなことを言っているわけではないことは分かっているのにむきになってしまった俺を見て、那木は笑っていた。

 その日の夜、寝床に入ってから俺は考えた。

 なぜ朝桐は簾から出てきてくれないのか……もしかしたらすごい醜女しこめで、それが負い目となって出てこられないのか……天は二物を与えずという……でも、それならわざわざ博士家庭教師を兄にするなど、父上が警戒する必要もないはずだし……。

 ま、朝桐が美人であろうと醜女であろうと俺には関係ないか……この勉強会が終わったらたぶんまた二度と会わないだろう……そう思いながら眠りについた。


 それから、俺はこの屋敷に三日おきくらいに通うことになる。通うといっても、もちろん昼間だ。相手が妹なのだから、色めいた話であるはずがない。

 父上も官人で宮仕えがあるからいつもいるわけではない。

 俺が着くと家司のじいが出て、朝桐の部屋まで案内してくれる。

 なんと今回は俺が座るや否や、朝桐は矢継ぎ早に前回置いていった『史記』の教本の内容について俺に質問を浴びせてきたのだ。

 もちろん、俺にとっては簡単な内容ばかりだったから一つ一つ丁寧に教えてあげたが、気がつけばこの二回目はずいぶんな量の妹との会話のやり取りがあった。朝桐の声も十分というほど聞けた。

 ただ、残念ながら、その内容は『史記』の内容に関する、いわば事務的な勉強の話がすべてというのが今のところの状況だ。別に俺はそれで十分だと思っていたけれど、あることに気がついた。

 俺が一方的に話し朝桐が聞いているだけ、あるいは朝桐が一方的に教本を読むだけというやり取りよりもはるかに楽しい。何をもって楽しいというのか……時間がたつのが早いのだ。

 終わった後も、朝桐の鈴のような声が耳に残っていて、何か満たされるような感じだった。


 その三日後、三度目の授業のころから、俺が朝桐に簾から出てきてほしいと切に思うようになった。

 理由は事務的なことである。

 いちいち教本を字突きで印をつけて簾の下から入れたり、何か聞きたいことがある時に朝桐がまたそれを簾の下から返すというのでは効率が悪すぎる。

 やはり勉学というものは、同時に同じ教本を共にのぞき込んでという形で効率が図れるものだろう。

 それを言って簾を上げてくれることを促そうかとも思ったけど、ま、追々にと思って、その日の講義が一通り終わると、何も言わずそのまま帰ることにした。

 すると帰り際に、簾の奥から少し声調が違う声が聞こえた。

「お兄様。そろそろ秋風も冷たくなってきていますから、お気をつけてお帰りください」

 妹が初めて俺に駆けてきた、勉強とは関係のない言葉である。

 心持ちか少し明るい声のように感じた。

 でもその時俺は、ただただ戸惑っていた。、

「おお」

 それがこの時の俺の、唯一の返事の言葉だった。

 こうして回を重ねるごとに、どちらからということはなく勉強以外のことも少しずつだけれども、話をするようになった。

「お兄様は大学では、そのまま文章博士もんじょうはかせにおなりになるつもりですの?」

「いやあ、分からない」

 正直、何も考えていない。

「おまえは内侍になるんだよね」

「父と母がそう決めたことですし……」

 その時もその話題はそれきりとなって、再び『史記』の講読へと話は戻った。

 そんなことがたびたび挟むようになったけれども、結局は順調に(?)講義は進み、俺の長期休みも終わるころには一通りの講読内容を終えた。

 長い長いと思っていた休みも、終わるとなるとあっという間だと誰もが感じるだろう。俺もそうだ。特に今年の秋休みは、妹とともに過ごしたといっても過言ではない。

 朝桐はこの講義の間に、漢文の素読にはすっかり精通した。

 俺の教え方がうまかったのか、それとも妹が頭がよすぎるのか、あるいはその両方か……。

 冗談はさておき、とにかくあれほどたどたどしかった読みもすらすらと、もし男だったら大学の擬文章生試にも受かるんじゃないかと思うくらいである。

 もうこのころになるとかなり授業の内容以外の話もするようになっていたし、時には談笑さえするようになった。この講義を始めたころには考えられないことだった。

 そして、休みも最後の日の授業で、俺は最後にこう切り出した。

「まあ、ひと月勉強してきたけれど、もうこれ以上教えることはない。この勉強も今日で最後にしようか」

 そもそも父上からも、この秋休みの期間にと言われて始めた勉強会だし、そういう条件だからこそ呑んだのだ。

「いや!」

 驚いた。

 こんな叫び声のような声を朝桐があげることもあるんだと、俺は再認識した。再認識はいいんだけれど、「いや」ってどういうことだ?

「あの」

 俺は言葉が出ずにいた。でも、簾の奥からはしばらく何の返事もなかった。

「どういうことかな?」

 またしばらく時間がたってから、蚊の鳴くようなか細い声が聞こえた。

「これからも、続けてください」

 最初はよく聞き取れなかったので、俺は思わず聞き返してしまった。すると朝桐は同じことを、もう少し大きい声で繰り返してくれた。

 意外だった。たしかに父上は、必要があれば今後も十日に一回の旬暇の時に続けてもいいみたいなことを言っていたけれど、まさか朝桐の方から頼んでくるとは想定外だった。

「まだ何か知りたいことがあるのかい?」

「はい」

「もう『史記』は一通り終わったよ。『文選もんぜん』で詩文の勉強でもするか?」

 また、返事まで時間がかかった。そしてか細い声の返事が返ってきた。

「いいえ。もっとお兄様とお話がしたい。お兄様のことをいろいろと知りたい」

 俺のことなんか知ってどうするんだ問いかけたけれど、やめた。なんかそれを言ってはいけないような気がした。

 俺は返事に困った。

 そこで、妙案を思いついた。交換条件だ。もし簾をあげて顔を見せてくれるのなら、今後も続けよう……と。でも、これもやめた。何だかかなり卑怯な手口のような気がする。でも正直言うと、それで断られて、勉強を続ける話もなしになったら困るという心もあったのだ。

 そうなると、たちまち妙案なんかではなくなってしまう。

 最初、父上からこの話を受けた時は、正直言ってめんどくさいなと思った。だがひと月だけだし、休みが終わりに近づくのは悲しかったけれど、休みが終われば勉強会も終わりと思えば、めんどくささから解放されると思っていた。

 ところが実際に休みの終わりに近づくと、俺の心は微妙に変化していた。朝桐といろいろと話をするようになってからは、この時間が楽しくなったのだ。それが終わることが解放どころか悲しみにさえ感じられてきた。

 でも俺はそんなことおくびにも出さないで、あえて事務的にこの勉強会の終了を告げたら、朝桐からこのように抵抗されてしまったのである。

「分かった。とりあえず十日後に来るから、それから後のことはその時に」

 簾から出て来るかどうかについてはあえて触れなかった。そもそも妹が簾から出て来るよう俺がひそかに願っていたのは、勉学上の利便のためだ。この勉強会がこれで終わりなら、もう簾から出てきてもらう必要もない。

 なんだかんだでとにかくひと区切り、あとは十日後である。

 妹との距離も遠のくようだが、明日から大学寮に戻るので実際の物理的な距離はずっと近くなるのだが。


 翌日、俺は朝から大学寮に戻る支度で大忙しだった。

 今日は九月の晦日みそかで、今日の日没までに戻らないといけない。明日から大学が始まる。

 そんな大忙しの中、また那木がちょっかいを出してきた。普段ならもう慣れたもので、いてもいなくても空気のような存在だけれど、忙しい時にちょっかいを出されるとさすがにいやだ。

「頼むから、今日は勘弁してくれ」

 俺は書籍を整理しながら、部屋の入り口にいる那木の方を見もせずに言った。

「なによ、もう。またしばらくお別れなのに」

 ちらっと見ると、那木は頬を膨らませている。

「手伝ってくれるんなら、いてもいいぞ。って、おまえにこの書物の整理は無理だな」

「まあた、ばかにして。それよりも、妹さんの方はどうだったの? 御簾みすからお出ましになった?」

 なんか茶化されているようで本当ならむっとするところだろうけれど、不思議と那木なら腹も立たない。

「まだだ。で、本当は授衣暇秋休みが終わったら勉強も終わりのはずだったんだけど、延長してくれってさ」

 俺は手を動かしながら、口だけで那木の相手をしていた。

「え、それって。脈あるんじゃない? 篁のこと好きとか」

 那木が俺の前に割り込んでくるので、俺も書籍整理の手を止めて那木を見た。

「あのなあ、何か勘違いしていないか? 想い人を口説きに行っているんじゃない。相手は妹だぞ、妹!」

「そうだよ。顔を見せてもらいたいなら、想い人を口説く、それくらいの気持ちでいかなきゃ」

「やっぱアホだな、おまえは。血を分けた兄妹なら直接対面しても差し支えないだろうと思うから、顔を見たいと思っているだけだ」

「あ、そう? じゃ、これからは血を分けていない私と篁との対面は御簾越しね」

「言ってろ」

 まともに相手するのがばかばかしくなる。もちろん那木はけらけら笑っている。

「あ、そうだよ!」

 突然那木は、突拍子もない声をあげる。もう書籍の整理を再開していた俺は、その声にまた手をとめた。

「またろくでもないことを思いついたんだろ」

「想い人を口説く感じで……だったら歌でしょ、歌! 千早ふる神代かみよの昔から、女を口説くには歌!」

「あのなあ」

 ここに水があったら、ぶっかけて追い払ってやりたい。変なところで枕詞まくらことばをつけるな。

 歌で女を口説くなんて常識。でも、あくまでそれは女を口説くためだろ。そんなんじゃないって再三言っているのに、このアホはまだ暴走している。

 とにかく忙しいので、そんなことを考えている暇はない。

「いいか、今は大学から借りてきたこの書物を、全部今日返すんだから仕分けが大変なんだ。それが終わって時間があったら遊んでやるから」

「遊んでやるって、また子供扱いして」

「那木! 若様のお邪魔をするんじゃありませんよ」

 那木の母親の秋萩の声が、部屋に飛び込んできた。母親は那木の本当の名前を知っているはずだろうけど、俺の耳があるところでは俺が呼んでいる呼び方で那木を呼んでいる。

 その声に、那木は勢いよく立ち上がった。だが、勢いをつけすぎて積んであった書物につまずき、均衡を崩して俺に倒れかかってきた。

「うわっ!」

 俺はよけきれなくて、那木の下敷きになった。そして自分をかばおうとして伸ばした手は、しっかりと那木の両胸をつかんでいた。しばらく那木はそのまま固まっていたので、俺はなんとか那木を払いのけた。

「おまえ、案外胸あるんだな」

 那木は真っ赤な顔をして立ちあがった。

「ばか! 知らない!」

 那木は大股で部屋を出て行ったので、ようやく俺は那木から解放され苦笑を洩らした。


 長い休みが終わって最初の一週間は、体と気持ちが慣れるまで時間がかかる。

 遠い故郷に帰省してきたものは、ああだこうだいろいろと思い出話に花を咲かせたりもする。でも、ずっと都にいた俺は妹との勉強会のほかは変わりばえのない毎日だった。

 季節はもう冬を迎えようとしている。でもあくまでそれは暦の上であって、実際に寒くなるまでにはもう少し間がある。

 誰でもこの十日間はまだ休みの感覚が抜けきれずに学問に身が入らないものだが、俺の場合はさらに特殊事情があった。

 もちろん、朝桐のことだ。

 那木が言っていた歌という手も、あの時はすぐに却下したけれど、一考の価値はあるように思えてきた。あの那木でもごくごくたまにはいいことを言う。まあ、歌なんて即興でいくらでも読むことはできる。なぜかって。歌どころか、漢詩が即興で作れないと省試には受からない。

 大学が始まってから最初の十日目の旬暇には、前日の試験もうまくかたづけた。

 毎回旬暇の前の日は試験で、範囲は十日分の講義内容。それで、合格しなかったものはむちで尻を打たれるという体罰が法律で規定されている。

 さて、この俺がそんな笞で打たれるはずもなく、るんたったと西大宮二条の朝桐の屋敷にやってきた。

 鴨東の屋敷からだと半時一時間かけて歩いてきていたのだが、大学寮からだと本当に目と鼻の先だ。歩いてもあっという間に十二、三分で着いてしまう。

 だけども、朝桐のいる部屋の簾の前に座った俺は、なぜだか急に緊張してきた。

 那木があんなこと言うから、妙に意識してしまっているのかもしれない。

 俺はいつもの『文選』の教本を簾の下から中へ差し入れた。

 でも、そのモノ自体は「いつもの」ではないのだ。

 果たして朝桐が気がついてくれるかどうか。緊張の一瞬……のはずだったが、その一瞬がやけに長すぎる。簾の向こうからは何の反応もない。

 もしかしたら返歌を作ろうとして苦吟悪戦苦闘しているのだろうか……。

 そうしたら、返歌ではなく朝桐の言葉が聞こえてきた。

「お兄様は、そんなふうに私を思っていたのですか?」

 よほど耳をすましていないと聞き取れないような、か細い声だった。

 ――え?

 俺は耳を疑った。

 少なくとも、教本に俺が刻んだ歌は気がついてくれたようだ。まさか教本に墨で黒々と歌を書きつけるわけにはいかない。かといって貧乏な我が家のこと、貴重な紙というものがそう簡単に手に入るものではない。木片に書いたのではかさばって、教本を渡した時に目立ってしまう。

 そこで俺は教本の裏に字突き指し棒で強く歌を刻んだ。墨はつけていないから目立たないし、読み終わって紙を伸ばせばそれは跡形もなく消える。

 俺が刻んだ歌は、

 ――隔ててる吉野の川は枯れてくれ いもせの山を越えて行けるよに――

 この歌からどうしてあのような発言が出てくるのだろうか……理解に苦しむ。

 吉野川を挟んで両岸にある妹山いもやま兄山せやまが互いによく見渡せるよう、吉野川の水は枯れてほしいって、そんな歌だ。

 つまり、俺と朝桐を隔てている簾と几帳を吉野川に例えて、妹山(朝桐)と兄山(俺)が対面できるように簾と几帳を取っ払ってほしいという思いを込めただけだよな。

 妹兄山いもせやまって実際にある山なんだけど……実際には見たことないけど……、俺と朝桐の兄妹を表すにはちょうどいい歌枕うたまくらだろう。

 そんな歌を朝桐から「そんなふうに」と言われても、とがめられる覚えはないんだけど。

 そのうち、また朝桐からの言葉があった。

角筆かくひちを貸してください」

 角筆かくひちとは字突き指し棒のことだ。俺は自分の字突きを、箱に入れて簾の下へと差し出した。

 すぐに、字突きの箱とともに教本が返されてきた。裏を見ると、俺が書いた歌の横に、朝桐の字と思われる字突きで刻んだ跡があった。

 ――妹背いもせ山 姿が全く見えぬよに 吉野の川はどんどん濁れ

 ちょっと待ってよ……これ、少し厳しすぎませんか? どうして血を分けた兄と妹が顔を合わせるのを、こんなにも拒むのだろうか……。

 え?

 俺はふと、妹の筆跡に目をとめた。「妹背山」というのを俺は真仮名(万葉仮名)で「伊毛世いもせ」と書いたのに、朝桐の歌では真名(漢字)で「妹背いもせ」となっている。

 はっとした。ま、まさか……!!! 

 漢字で書かれたら、俺の歌の「いもせの山を越えて」というのはとんでもない意味になってしまう。

「朝桐! 違う! 誤解だ! そういう意味じゃない!」

 俺は大声で叫びたかったが、この部屋の外に聞こえたらまずい。だから声を押し殺して、でも十分気概を込めて叫んだ。

 そういう意味……「妹背の山を越える」とは恋人同士になること……でもそんな歌を実の妹に送るということは、兄妹の禁忌を冒して一線を越える……禁断の恋に踏み込むことになる。

 ああ、那木が変なことを言っていたからつい意識して、こんな誤解を生むような歌を詠んでしまったのか……?

 それにしても、たしかに奈良長岡世代のおっさんやばばあなら「いも」は妻か恋人、「背」も夫という意味にとらえてしまうかもしれない。「妹背」は恋人同士か夫婦ということになる。

 でも朝桐のような平安京生まれの若者なら、「いもせ」は「妹兄」で、普通に兄妹の意味にしかとらないだろうと思っていたのだ。

 そうなのだ。妹は天才なのだ。博学なのだ。それを忘れていた。そういう人は往々にして、今どきの平安京世代の若者とは違う、あまりにも奈良長岡な思考をしてしまうことがあるのだ。

「いいか、朝桐。よく聞いてくれ。吉野川はこの御簾と几帳だ。どんなに吉野川が濁ったとしても、川は次から次と新しい水が流れて来るからいつかは濁りもなくなる。俺はそれを期待している。俺が思っているのはそれだけだ。おまえが誤解したようなことは何も考えていない」

 俺は中腰になり、簾に顔を近づけて、声を殺した叫びを続けていた。

 俺はひるむわけにはいかない。ここが正念場だ……そう思っていた……何の? いや、分からないけれど。

 朝桐は、手を伸ばせば届く距離にいる。簾も几帳もごく軽い藁と布だ。現実的にはそれをむしり取ることも、その中に乱入することもたやすくできる。

 だけれども、そうする必要がどこにある? また、そうする意味がどこにある?

 いたずらに妹を傷つけ、怖がらせ、挙句の果ては騒がれて妹の母親が駆けつけてくるかもしれない。

 あくまで、妹の手で、妹の意志で簾があげられて、はじめて意味があるのだ。

 その時、簾の中から、また妹の声がした。でもそれは、俺に向けられたものではなかった。

わらわべたち。来なさい」

 すぐにこの屋敷に仕えている子供たちが二人、現れた。

「御簾をおあげなさい」

 言いつけられた少年たちは、器用な手でするすると簾を巻き上げ、終わるとすぐに退散した。

 残ったのは几帳だけだ。

 その几帳も、布が白い手ではねのけられた。

 俺が呆気にとられていると、几帳の陰から白く輝く顔が現れた。

「え?」

 俺は胸を太い弓でバーっと射抜かれた気分だった。あるいは頭の上から重い岩石を落とされたような衝撃を感じた。

 こんな絶世の美女は、生まれてこのかた見たことがなかった。

 夾纈きょうけち染めの上衣に繧繝花うんげんか模様の、肩から腕には領巾ひれをかけている。そして頭上の二髻に結った髪の下の顔は、今までに見たこともない美しさだった。

 聡明な感を受ける美しさと、まだ残っている少女のあどけなさが混じり合って何ともいえない雰囲気を作り出している。

 たしかに、十四歳の顔。きれいというだけでなく、可愛らしさも十分残っている!

 これは反則だ! 俺はキュンと胸が躍りだすのを感じた。体中が熱くさえなってくる。

 これなら父上も変な虫がつかないか警戒するはずだ。

「はじめまして。お兄様」

 妹は頭を下げた。

 一か月も共に勉強してきたのに今さら「はじめまして」というのも変だが、でも現実に顔を合わせるのは確かに初めてだ。

 そして妹のその言葉に、俺は我に返った。そうだ。この人は俺の妹なのだ。

 だが思う……俺にこんな美しい妹がいていいのか、と。なんかすごく得をした感じがする反面、罪悪感すら覚えた。

 でも、妹だというのが少し残念。妹でなければ早速恋の標的に……。

 いやいやいやいや、これほどの美女でもあり可愛い少女なんか、もし妹でなければこんな近くで直接対面して話ができるような夢のような状況はあり得ないだろう……て思う。

 見た目が美しいだけでなく、なんともいえない独特の香の匂いが漂ってきて、余計に頭をくらくらとさせる。

 その珠のような美しい顔で、にっこりと俺に笑顔を投げかけて……は来なかった。

 急に怖い顔になって。俺をにらむ。なんか怒っている様子だ。

「だ、だから、あれは誤解だって」

 俺は慌てて、やっと直接顔を見ながら弁解する。

「違います!」

 急に声を荒立てないで。

「お兄様は、お兄様は、分からない。私の気持ちなんか……分からないくせに、なんで自分の気持ちばかりをどんどん先に言ってしまうのですか」

「おまえの気持ちって……」

「知りません」

 朝桐はまだ膨れている。俺はどう扱っていいか分からなかった。

「ま、これからのことはまだ分からないけれど、とりあえずは一段落だな。こうやって互いの顔を見て、やっと俺たち、本当の兄妹になれたんだな」

「ばか……」

 またもや消え入りそうな小さな声だった。そのあとで朝桐はまだ何かぼそぼそ言っていたけれども、もう聞き取れなかった。そしてやっと俺に笑顔を見せてくれた。それは下手な比喩とかではなく、もう本当にぱっと光がさした。

 またもや俺は胸を目に見えない矢で射ぬかれる。

 その動揺を隠すためか、俺は取り繕って教本を開いた。

「さあ、勉強を始めようか」

 直接顔を突き合わせ、同時に同じ教本をのぞきながらの勉強は確かにこれまでとは比べ物にならないほどはかどった。

 ところがこの状況では、俺の心が熱くなり、胸は大きく鼓動を打って、頭もぼーっとし、全く上の空になってしまうのだった。


 その日の帰り道、もしかしたら僕の足は地面より三寸ばかり空中に浮いていたかもしれない。

 とにかく心が温かかった。

 理由その一。長年の……大げさだろ。朝桐と初めて出会ってからまだ一ヶ月ちょっとしかたっていない……たっての願いが今日かなった。朝桐がついに簾から出てきて、直接対面してくれたのである。

 兄妹なのに簾越しという異様な状況は終わって、世間並みの兄と妹の関係になれた。

 理由その二。その妹が予想していた以上に美しさと可愛さを兼ね備えた少女だったこと。そんな美少女と一つの部屋で二人きりで、これからは顔を突き合わせて勉学にいそしむことができる。

 妹だからこそ制限されてしまうこともあれば、逆に妹だからこ許されることもある。

 それに問題は、ただ外見的容姿ばかりではない。

 朝桐は御簾越しで勉強していた時からそうだったが、何かと俺とは気心が合うのだ。

 漢籍の内容についても、俺の解釈や解説に即座に同期する。互いの知識がぶつかり合って、いい意味で高次元で結合する。何しろ妹は天才だ。才女だ。だから俺と同期するのだ。

 そして何よりも、一緒にいて楽しい。笑い声の中で時間があっという間に過ぎていく。これがいちばん大事なことじゃないかなと思う。

 それからというもの、十日たつのが待ち遠しくて仕方がなくなった。

 大学の仲間にはことが悟られないように努めて平静を装ったし、博士たちにもこれまでとなんら変わらない天才ぶりを見せつけてやった。

 そして十日たって、休みの前日の間の試験も課題達成して、そして俺は『文選』やそのほかの漢籍をかき集めては西大宮二条邸に向かう。

 実は朝桐の漢籍についての知識は一通り習得しているのでもうこれ以上教えることもないのだが、さらに鑑賞を深めるということでさまざまな詩文を共に読んでいた。

 そうなると、自然とまずは詩文の内容からの派生であるが、だんだんともう関係のない話までに話題が広がっての雑談の時間が多くなった。

 俺の陸奥での話は朝桐もおもしろがって、目を輝かせて聞いていた。

 その顔を見ながらも、あまりの可愛さに俺は胸が押しつぶされそうになる。

 そして妹は、俺を兄として慕ってくれているということがだんだん感じられるようになった。

 どんなに美人でも、どんなに可愛い少女でも、自分に好意を持っていなければ何ら意味をなさない……と俺はかねてから思っていた。逆に自分に好意を持ってくれてさえいれば、そして性格がよければ、容姿はあまり関係ないとも思っていた。

 ところが今はどうだ? 美人でかわいい少女が好意を持ってくれている。これを最高と言わずして何と言う?

 家庭教師による授業といっても、それはほとんど逢引だった。

 こんな恵まれた状態が続くなら、そのうちばちが当たって来世は地獄に落ちるかもしれない。でも、それでもいいと思う。


 そんな、なんだかんだで秋はどんどん深まっていった。

 十月の下旬は紅葉の季節となったけれど、俺は紅葉どころではなかった。

 そして冬を迎え、ついに師走の底冷えが都の盆地を包み込むようになってきた。

 冬になると暗くなるのがぐっと早くなる。

 夏だったらまだ十分明るい時刻だけど、妹相手の講義…というか妹との語らいがつい楽しくて、気がつくと外は暗くなり始めていた。でも、なんだかまだ帰りたくなくて、「きりがいい所まで」という口実で部屋に灯火をともして授業を続けた。

 外はどんどん暗くなっていく。

 でも、真っ暗になる前に月が昇り始めて、その月の光が二人の部屋の中まで射してきた。

 今日は満月だ。だいたい五のつく日が旬暇で、十二月になってから二度目の旬暇だから十五日、つまり満月で当然だ。

 俺は部屋の外側の、簀子すのこと呼ばれる縁側まで出た。高欄という手すりもついている。俺の家の縁側にはこんな手すりはないから、やはり階級の違いを感じてしまう。

 俺がその縁側まで出ると、なんと朝桐もついてきた。

 立って月を見ている俺の隣で、朝桐は身をかがめて同じように月を見上げる。

 まだ暗くなったばかりで、今いる縁側とは反対側の西の方の空は、まだ少し赤味が残っている。

 我われの正面、つまりこの屋敷の東隣は西大宮大路を挟んで大内裏の長い築地塀だ。この屋敷の庭の周りは小柴垣こしばがきだけだから、庭の外の様子もよく見える。

 築地塀はすぐ右手の所で途切れる。そこが大内裏の西南の角なのだが、月はその向こうの遥か遠くの東山の上の方に今顔を出したところだ。

 つまり真東よりもかなり南寄りの山から昇ったことになる、それはちょうど、俺の実家の竹やぶの屋敷の上空あたりだ。

 冬の月だからだろうか、黄色というよりも白っぽい感じがする。

 しばらくそのように月を見ていたが、いつまでも無言で月だけを見ているというのもばつが悪い。だからといって何か言おうとしても、なぜか出てこないのだ。

 すると、妹の方が俺を見上げてきた。そして目が合った。

「月がきれいですね」

 その言葉が何を意味するのか、あるいは何か深い裏の意味があるのかその時は分からなかったし、また知ろうとも思わなかった。もしかしたら何の意味もない、そのままの言葉なのかもしれない。

 でも、その言葉を言った時に妹が見せた月よりもはるかにまぶしい笑顔に、俺の胸に、いや、全身に……高らかに鐘が打ち鳴らされたような衝撃が走った。

 俺は戸惑った。それが何の衝撃であるか分からなかったから。

 俺が高欄手すりに置いている両方の手、その左手の方のすぐほんの三寸くらいの所に、かがみながらも朝桐も手を置いている。俺がほんのちょっと手を動かせば、朝桐の手の上に自分の手を重ねることもできる。

 でも、それは物理的な「できる」にすぎず、心的にはそうしたいという衝動とは裏腹にたった三寸の距離が何里にも感じられる。

 俺だってもうこの年、女を知らないわけではない。

 ま、その話はここではとりあえず置いておいて、それなのになぜか十三~四歳の少年のような心になってしまっている自分が不思議だった。

 何をどぎまぎしてるんだ……と思う。

 もちろん、俺の手がわずか三寸を動けない理由が厳としてある。隣にいるのは妹だからだ。

 もうすっかり空も暗くなって、月のせいでそう多くはないけれど星たちが瞬き始めていた。

 夜の冷たい風が月の光に照らされた二つの影を包み込むようにして吹いてくる。でも、なぜか俺の心は暖かい。

 木々が風の音に微かにざわつく。向かい側の築地塀の中の大内裏の役所の屋根も、月の光に輝いている。

 すべてが俺たちのための舞台効果を、甘美な夜を演出してくれている。

 だが、もう一度言っておく。隣にいるのは妹なのだ。

 それでもこうしていると、まるで……

 ……と思った矢先、そんな思考をかき消すかのように誰かが庭を歩いてくる足音がした。でも、その足音は、俺たちが縁側にいるのに気がつくと驚いたようで、慌てて物陰に隠れてしばらくこっちの様子をうかがっているようだった。

 なんか気まずい思いがしたので中に入ろうとしたけれど、朝桐は月明かりの中でその物陰に隠れた男の顔を見て驚きもせず、平然としていた。

「あれはうちのお屋敷の家司けいしの方よ」

 つまり、この屋敷の使用人だ。

 その朝桐の言葉が聞こえたのか、物陰から出てきた家司のおじさんはニコニコしてこっちへ歩いてくる。

「なぁんだ、びっくりしました。あわや姫様にもついに通ってくる男君がと思いましたら、なぁんだ、お兄様ですか。色めいた話ではなくて、なぁんだ残念ですな。師走の月のように興ざめですよ。なぁんだ……」

 そのまま、大笑いして家司は行ってしまう。いったい何回「なぁんだ」と言えば気が済むのだろう? 朝桐は笑っていた。俺も苦笑を洩らした。

「師走の月って、そんなに興ざめなのかなあ」

「だって、やはりお月見は秋。仲秋の名月ですわね。師走にお月見する人なんてあまりいませんもの」

 朝桐も目を伏せて微笑んでいた。

 俺にとっては、朝桐と「こうしていると、まるで…」と考えた時に胸の中がパーっと熱くなったのに、そんな時に突然現れた家司のおじさんの方がよっぽど興ざめだ。もし朝桐と一緒にいたのが俺じゃなくて通ってきた恋人だったとしたら、あのおじさんはずっとのぞいているつもりだったのだろうか?

 ま、でもやはり朝桐とこんな時間にともに月を眺めていても問題にならないのは、兄としての特権かなとも思う。もし俺の心の中で朝桐が本当にただの血を分けた妹としか思っていないのなら、特権もへったくれもないのだが……え? 違うのか? いや、違わんだろ。違う? 分からん!

 黙ってしまった俺を不審そうに朝桐が見上げるので、また余計に胸が高まる。どこから来ている胸の高まりなのか、まだ分からない。

 黙ったままでいるわけにもいかないから、俺はつぶやいた。

「師走の月が興ざめっていうけれど、冬の満月はこれで最後だろ? 次に満月を見る時はもう年も明けて春になってるって思えば、ある意味感慨深いものじゃないかなあ」

「それでも」

 朝桐の言葉は即答だった。その目は俺を見ていない。目の前の、満月の光に浮かび上がった庭と、小柴垣の向こうの大内裏の築地塀の方に向けられていた。

「年が明けても、いいえ、何年たってもその思いは変わらないでしょう? この月は、心に秘めた思いを持つ人には感慨深いと思うものなんでしょうか?」

「え?」

 俺は妹の口から流れ出た言葉が、重く足元に落ちるのを感じた。

「それはどういう……」

 どういう意味なのかと聞こうとして、俺はやめた。

「心に秘めた思いを持つ人」――俺の心が見透かされたのか……あるいはまだ例の勘違いを引きずっているのか……。まさか……「心に秘めた思いを持つ人」は俺のことじゃなくて自分自身、つまり朝桐自身が心に秘めた思いを持っているということなのか……???

 だが、ここで妹の言葉の真意をただしても仕方ないし……それこそ興ざめだし……また、知るのが怖くもあった。だから、聞くのをやめた。

「寒い」

 妹は、ぽつんと呟いた。俺がしてあげられることは何もない。そんな自分が歯がゆい。せめて妹の言葉が凍らないように、俺自身の心の中で温め続けることしかできないようだ。

「中へ入ろうか」

「ええ。また誰かに見られて面倒なことになっても」

 そういって朝桐は、部屋の中へ戻って行った。でも俺は、なぜか続いて一緒に部屋に入る気にはなれなかった。

 しばらく一人残って、月明かりの庭を見つめていた。そして、小声で詩を吟じた。『文選』にも載っている阮籍の「詠懐詩」だ。

 ――夜中ぬるあたはず 起坐して鳴琴を弾ず 薄帷に明月り 清風我が襟を吹く 孤鴻外野にさけび……

 そこまで吟じるともう俺はやるせなくなって、部屋の中の朝桐に一声かけて、そのまま部屋には入らずに退出して大学寮へと帰って行った。


 また、日常の十日間が始まる。

 来年は欠員が出れば式部省の文章生試があるかもしれない。もちろん受験する。俺は受験生なのだ。

 ところが今の状態は、果たして受験生としてどうなのだろうか……???

 はっきり言おう。

 全く勉強に身が入らない。博士の講義中でも、ふとしたら博士の座っている上あたりの壁を見つめている。もちろん、壁なんか見たって何もない……いや、今俺の頭ではそこにはっきりと朝桐の笑顔が浮かんでしまうのだ。

「篁よ!」

 白いひげの老人の文章もんじょう博士が、鋭く俺の名前を呼ぶ。最近では博士までもが、俺をこの通称で呼ぶようになっている。

「どうも先ほどから上の空だが、話を聞いているのかね?」

 我に返って周りを見ても、他の学生は博士の講義を一語一句聞きもらすまいと貴重な紙の上に筆を走らせている。

「は、はい。聞いております」

 もちろん嘘だ。聞いていなかった。

 博士はもう再び講義を始めている。

 俺はため息をひとつつく。あと三日で次の旬暇だ。もう俺の心は先走りして西大宮二条邸に飛んでいってしまっている。

 なぜなんだ……と思う。

 その屋敷にいるのはあくまで血を分けた妹……しかも妹に会うのはあくまで勉強会のため……今は博士の話を聞いているが、妹の家では俺が博士。それなのに、それだけのことなのに、なんでこんなそわそわしてるんだろうか……?

 あの輝くような美しい笑顔の可愛らしい少女が、もし自分の妹でなかったならば……そんなことを考えて、頭を横に振る。

 危ない、危ない。

 もし妹でなかったならば……こういう考え方こそ禁忌の扉をこじ開けてしまう第一歩?

 いやいやいやいや、さすがにそこまではないだろう……と、思いたい。

 ――お兄様は、そんなふうな目で私を見ていたのですか?……

 何気に詠んだ歌を誤解した時の、あの妹の拒絶ともとれる見下すような言葉を覚えている。

 せっかく今は天真爛漫ともいえる笑顔を俺に向けてくれるようになった妹なのに、またあんなことは言われたくない。そしてまた簾の向こうに引きこもってしまったらと思うとぞっとする。

 教堂の前の方に座っている博士は、勝手に講義を進めているって感じだ。

 禁忌の扉……俺はまだそこには入っていない。まだ扉のこちら側にいる。今なら引き返せる。

 だけども、朝桐は俺のことをどう考えているのか……分からない。ただの兄か、ただの博士か……

 あの満月の夜に月明かりの中で漏らした言葉……

 ――この月は、心に秘めた思いを持つ人は感慨深いと思うのでしょうか?……

 妹のその謎の言葉は、いまだに真意が分からない。もちろんあれ以来、まだ朝桐とは会っていないのだ。

 心に秘めた思いを持つ人……つまり「みそかの人」……心にひそかな恋心を抱く人……その他に、ひそかに恋人と会っている人……あるいは「三十日みそかの人」であって、三十日は月が出ない日付、つまり心に月の光がない人という意味……? まだ、分からない。

 天才である俺をしてもこんなに悩ます言葉を吐くなんて、やはり妹は天才としては俺より上手うわてだ。

 それにしてもなぜ俺は、こんなに悶えるほど苦しんでいるのだろう。

「こら! 篁!」

 また、あきれたような博士の怒号が飛んできた。

 その二日後の旬暇の前日の試験で、俺は散々な結果だった。

「君は確か省試を受けるんだよね」

「はい」

 呼び出された部屋で、白ひげの博士にこってりとしぼられた。なんとか体罰付きの落第にはならなかったけれど、ぎりぎりのあぶないところだったという。

「もう、遊んでいる暇はない。明日の旬暇は取りやめ。補習の特訓だ」

「ええっ!」

 俺は頭の上に岩石を思いきり落とされた感じだった。

「いえ、その、明日は……妹の博士に……」

「省試に受かりたくないのかね?!」

 そう言われたら、何も言えない。

 俺は翌日、休日も返上して泣く泣く補習を受ける身となり、比喩とかではなく本当に涙を流して泣いた。

 朝桐はずっと待っているだろうな。まさか休日で休んでいる友人に、西大宮邸まで使いに行ってくれとも言えないし、連絡する手段もない。

 朝桐は待っていてくれる……本当に待っていてくれてるんだろうな。

 いや、案外――あら? 今日はお兄様、来ないのね。ふーん……で終わってたりして。

 いつの世も現実は手厳しいものだ。


 そんななんだかんだでまた次の十日。

 でも、今度はただの十日ではない。正月を挟んでいる。正月は宮中の行事や大学寮での儀式や催しでてんてこ舞いの大忙しなのだ。それで、宴会も続く。休んでいる暇なんかない。もちろん実家にも帰れない。

 俺が泣く泣く補習を受けていた日の十日後の休みは、正月行事のためにつぶれた。

 そして、今年は省試があることが正式に発表され、それに向けて俺の勉学はますます峻厳になっていった。

 そんなある日の夕方、わざわざ大学寮に俺を訪ねてきた人がいた。とある貴人の使いだという。

 誰だろうと思ったら、貴人とはいってもいちばん下っ端の貴族……なんだ、俺の父上の使いのものじゃないか。しかも、あの西大宮邸に仕えている少年じゃないか。何度か顔を見かけたことがある。

 渡されたのは、父上からの手紙だ。

 ごく短い漢文で、最近は博士に来ないのはなぜかという内容だった。

 俺は慌てた。

 ちゃんと旬暇ごとに妹の勉学を指導しに行くと約束したはずなのに、最近は怠けているとでも父は思ったのだろうか。それにしては、父上とは「必要があれば」ということで、毎回の休みごとに必ずとは約束していないんだけど。

 まさか朝桐が俺と会えなくてさびしいので、そのことを父上に訴えたのか……。

 ま、後者は希望的観測で現実は前者かもしれないけど、とにかく俺は次の旬暇には必ずと気持ちばかり焦った。

 今度こそはと名誉を挽回するために残りの日々をこんをつめて勉学に励み、見事に前日の試験を全正解して休みを勝ち取った……といいたいところだが、上の空で身が入らないのは相変わらずで、それでもようやく試験は何とかなったというのが実情だ。

 そして晴れて休みとなって、俺はとるものもとりあえずという感じで西大宮邸に向かった。

 あの満月の夜から、かれこれ一月がたっている。妹と初めて会って以来、簾越しだったころを含めてもこんなに会わなかったのは初めてだ。

 朝桐がどんな感じで、俺と対面するのか不安でもあった。

 だが、実際に会ってみると今までと何ら変わりない様子だったので、俺は安心した。安心はしたけれど、なんか、なんかなあって感じで、

 ――どうしてこんなに長く来てくださらなかったんですの? ……とか、

 ――お会いできなくてさびしうございました……とか、そういうのを少しは期待してたんだけど、そんなのは全くなし。ま、いっか。

 まずは型通り新年のあいさつをした後、妹はいつもの輝くような笑顔を見せて。また俺は胸がキュッと締め付けられた。

「しばらく来られなくて申し訳ない」

 俺の方から先手とって謝ると、また朝桐はにっこりと笑った。

「まあ、お兄様の勉強もお忙しいのでしょう? 私のことなど忘れても仕方ありませんわ」

「いや、忘れていたわけではないのだけれど」

 まさか、試験の成績が悪くて居残り補習で、休みまでも潰されたなんてとても言えない。兄というだけでなく、博士としての沽券にもかかわる。

 適当にお茶を濁し、いざ勉強を始めようとして持参した『文選』を広げようと……広げようと……え? 『文選』がない!

「どうされました?」

「いやあ、実は」

 これはもう、『文選』を忘れたと正直に言うしかない。

「おまえのことを忘れていたわけではないと言ったばかりだけど、実は……『文選』を忘れた」

 朝桐はぷっと噴いた。そのしぐさがまたかわいい……なんて言っている場合ではない。

 大慌てで準備して飛び出してきたその俺の手に抱えられていたのは『文選』ではなく、では何だったのかというと前日の俺の試験のための教本だった。

 仕方なくその教本を開いた。

「今日はおまえのために新しい教材を用意してきたんだ」

 もう『文選』を忘れたと言ってしまったあとの取ってつけたような言い訳に、また朝桐は少し笑った。

 だけど、かえってそれが場の雰囲気を和ませるには少しは効果があったようだ。

 早速勉強が始まった。

 朝桐にとっては初めて読む文章なだけに、まずは俺が範読といった感じだ。

『論語』の一節だ。

 ――のたまわく。よ、おんなこれを知るを誨へおしえんか。

 同じ本を一緒にのぞきこんでいるんだから仕方ないけど……顔が、顔が近いんですけど。

 それだけで俺はまた胸が高鳴ってしまうし、また朝桐の放つ香の匂いで頭がくらくらとしそうなのだ。すると、

博士先生!」

 兄ではなく俺を先生と呼んだ朝桐は、なんか含み笑いをしている。

「そこは『おんな』ではなくて『なんぢ』ではありませんこと?」

 もう、俺は顔が真っ赤になっているだろうことが自分でも分かるくらいだった。もう基本中の基本に関する初歩的すぎる間違いだよな。

 もっとも、大学ではこんなふうに読み下しているのではなく、唐語の発音で講読するのだから読み下しを間違えたとしても……。

 言い訳したってしょうがないけど、いくら朝桐が才女だからって大学と同じ唐語での購読は無理だろうと、読み下しで読んでるんだから……。

 気を取り直してさらに講読を続けるうちに、またもや初歩的な間違いをそのあとも二回ほど繰り返して、その都度朝桐から指摘された。

「お兄様、大丈夫ですか?」

 今度はお兄様と呼んで、朝桐はまじに心配してくれた。俺はしどろもどろだ。

「こんな基本的な間違いをするなんてな。俺、どうかしてる。どうも最近、もの忘れが激しい。いつもおまえのことばかり考えているからかもな」

 言ってしまってから、俺ははっとした。やばいこと言ってしまったんじゃないだろうか。

 でも朝桐は、俺がかなり冗談っぽく言ったので本気にはしていないようだ。

「まあ、そんな博士先生なんてあてになりませんわね」

 もちろん朝桐も笑いながらなので、本心で言っているのではないだろうけど、

「そんなもの忘れが激しいから、いつかは私のことも忘れてしまうのではないのかしら」

「忘れるものか!」

 なんか急に俺が本気になったので、妹は少し慌てたようだ。

「こんな漢籍の読み書きなんか忘れたとしても、おまえのことだけは忘れない」

 妹は、ハッとした表情を見せた。俺もドキッとした。

 二人の間に、少し沈黙があった。

 ――お兄様は、そんなふうな目で私を見ていたのですか?……

 あの時の妹の言葉が、また蘇る。

 でも今日は、そんなことを言ってくる気配はない。それどころか、妹は顔を真っ赤にしていた。

 ――なぜ? なぜなんだ?

 俺が呆気にとられていると朝桐の方から沈黙を破ったが、何かばつが悪そうに眼を伏せている。

「お、お兄様……に、二月になりましたら、大学の方はいかがですの?」

「いかがといわれても釈奠せきてんもあるし、三月には俺の省試もあるし、でも大丈夫。この勉強会は続ける」

「そういうことではなくて、二月の初午はつうまの日なんですけど」

「初午というと、伏見詣で?」

「はい。ご一緒していただけますか?」

 外に連れ出すとなると父上の承諾がりそうだが、朝桐の方から言い出したことだし、俺はとりあえず承諾しておいた。

 朝桐はやっと元の、ぱっと輝くような笑顔を見せてくれた。

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