第2話

「すまないね。わざわざ挨拶に来てくれて。アビゲイルは?」

 眼鏡を指で押し上げる仕草をする人物に、頼まれていた小包を手渡す。此処は何度か荷物を届けている、アビゲイルの父が所属している大学だった。

「外で待ってます。それで、あの‥」

 言わなければならない。そう決断してここに来たのだ。

 数秒、数分とは言え時間ばかり掛けている自分は、足の骨が歪んでいく感触に襲われていた。だけど、こちらの言葉を待ちながら、小包を分厚い天板を持つテーブルに乗せた紳士はきっと察しが付いている。知っていて時間を与えている。

 自分の娘の関係ならば尚更だった。

「責任取ってアビゲイルと一緒になりたいです」

 座っているアビゲイルの父親が大きく見える。逆に自分は小さくなっていく気がする。なのに口を開く仕草は、ごくゆっくりした物に見えた。

「アビゲイルが好きか?」

「はい」

「‥そうか」

 手に取っていた万年筆を、銅と木を組み上げて作り上げられた机の上に置いた。

「あの子はわがままだ、知っているだろがね」

 腕組みをして、何かを思案し始める。

「そして、君には懐いている。あの力も、最近では君にのみ使っているようだね。嫌ではないか?」

「嫌じゃないです」

「それは今だけだ。君にも打ち明けられない過去ぐらいあるだろう。本当に何も無いようなら――――それは、ただアビゲイルに流されているだけだ」

 何かを吐き出そうとした瞬間—―――否定しきれないと思い出してしまう。

 この世界の自分には何も無い。

 そんな自分は、アビゲイルと一緒になることでしか自分を守る事が出来ない。あまりにもアビゲイルに頼り過ぎた生活を送ることになってしまう。

 それをアビゲイルが望んだとしても。過去どころではない現在、未来でもあった。

「君には心の底から感謝している。あの子を救ってくれて、工場の計算も手伝ってくれて、それどころか私の助手のようなことまで」

「いいえ、そんな。俺はただ面倒を見てもらってるお返しを」

「だが、もはや私達にとって君は必要な存在になった。今、君を追い出そうものなら、困るのは私だ。工場の社員達にも顔向け出来なくなってしまう」

 再度、万年筆を取ってモルを使う計算を始め、次いで戻していく。

「正直に聞く。アビゲイルを襲った連中と、君は繋がっているんじゃないか?悪魔くん」

 肺を突き刺し、そのまま抉り出された気分となる。

 アビゲイルを狙った人買いとの繋がりなど、ある筈もない。だけど、そんな事は紳士だって知っている。だから―――後者で核心に触れてきた。

「‥失礼。あの連中と繋がっているなんて、傷を負ってくれた君に無礼だったな。すまない、謝ろう」

「いいえ‥」

 数える程もいない帝国の教授からの謝罪に、得もしれない重圧を感じた。

「だが、君の『悪魔』の話は別だ。あんな力、今すぐ戦場に送られても不思議じゃない――――今までいたとしても。君はどこかの研究所から逃げてきた実験機じゃないのか?今まではぐらかしてきたが、今回は逃がさない。さぁ、答えてくれないか?」

「‥‥この力は最近得ました。俺は後天的な方でした。‥いつから、俺のことを‥」

「先に私の質問に答えなさい。君はどこから来た?」

 長く聞かないでくれていた疑問だった。だが、きっと今がその時なのだと覚悟する―――けれど、何処から来たのか、それは自分にもわからない。

 自分にとって、『こちら』と『あちら』を表面上の距離で話せないからだ。

 あの世界は何処にあって、今どうなっているのか。

 そしてこの世界は何処にあり、今後どうなるのか。疑問は尽きない。

「‥‥わかりません」

「わからないか」

「‥はい。俺にとって、あそこは監獄でした。だから、今どうなってるのかもわかりません。逃げてきたんです」

 これが正直な答えだった。これ以上、何も言えない。

「嘘、では無いか――――よろしい」

 それだけ言ってノートに戻ってしまった。捉え方を間違えれば、脱走兵とも受け取られ兼ねない事実だというのに。だけど、紳士はそれ以上興味もないと言った感じにペンを手に持ち、メモや計算式に視線を向ける。

 こちらの言語はアイツから貰った力の一部で解読出来る。

 ノートには、爆薬の調合法や戦地で精製出来る殺菌作用のあるアルコールの使い方の指南書らしかった。兵器と医療の差は紙一重なのかもしれない。

「あの、」

「何も知らない君に、何かを聞いても仕方ない。しかし監獄とは。現在、この国一つ取っても、そのような施設は幾らでもある。世界中なら尚更だ。それらの内の一つを説明されても仕方がない。参考程度にさせて貰うよ。以上だ」

 俺を拾って面倒を見てくれる良い人ではあるのに、頭が良過ぎて全て自己完結してしまう。よって必要な事しか話さない人だった。

「それと、君の力に関しては実際に見たからだ。意識的か無意識かは知らないが、力で刺された傷を塞いでいたのをな」

「‥通報しないんですか?」

「そんな事をしたら私が困る。そして君がいなくなるとアビゲイルが、砕け散ってしまう。アビゲイルとの関係ならば構わない。前にも言った通り、あの子には縁談が来ている。それを一蹴でき、かつアビゲイルも望んでいる。私にとってこれ以上無い妙案だ。ただ、あの子はまだ子供で学校にも行きたがっている。行けない身体にするのだけは許せないから、覚えておいてくれ」

 簡潔過ぎる説明と答え。この人こそ本当に人間なのか、と疑ってしまう。

「そして、これも前に話したが、あの子が望むなら同じ部屋での寝起きを頼みたいぐらいだ。どうか、あの子を守って欲しい。とても脆い子なのでね」

 ノートを持ち、立ち上がった教授は真っ直ぐに目を合わせてくる。

「私はこの通り、あの子の為に出来る事は限られている。頼れるのは君しかいない。アビゲイルを頼んだ」

「‥そんな事、ありません。アビゲイルは―――あなたと話したがっています」

「そう言ってくれるのは君だけだな。失礼する」

 颯爽と黒いローブのようなアウターを両肩にかけて、過ぎ去って行った。そして何も言わずにドアを開けて出ていく。だが、ノブを捻りながら振り返る。

「3日後に帰ってくる。悪いがそれまで、1人であの子の面倒を見てやってくれ」



「お父さんとは、どうだった?」

 不安気な表情で覗き込んでくる姿は、ひどく痛々しかった。

「怒られた‥?」

「アビゲイルを頼むって」

 けれど、そう答えた瞬間、車の中で抱き着いてくる。

「良かったぁ‥。これでずっと一緒だね」

「いいのか?俺も、もう離れる気は無いのに」

「全然!構わないから!!もっとずっと一緒にいよ!!」

 胸板に顔を擦りつけてくる仕草には、小動物の習性を思い浮かべる。それと同時にアビゲイルの髪の香りが漂ってきて、頭がクラクラとふらついていく。

「作戦成功だね!また私に反応した〜」

「‥いい匂い」

「嗅ぎたい?—――いいよ。少しだけなら」

「それは帰ってからにしよう。帝都を案内してくれるんだろう、行こう」

 未だに顔を擦りつけてくるアビゲイルの背中を摩る。今日のアビゲイルは黒いコートの下に首や袖に、花や草の模様が形取られたドレスシャツを着ていた。

 また、今日は最初から最後まで自分が運転すると話したので、前側に4つのボタンがついたスカートを履いていた。端的に言って、可愛くて仕方がない。

「これも、俺を読んだのか?」

「わかった?こんな感じの服を着てると、君ってますます私のことばっかり見てるし、考えてるから、わかるんだ〜」

「ずるいな、それ‥‥今、何考えたと思う?」

「彼女が綺麗で可愛くて嬉しい、って感じかな?」

「正解。本当に綺麗で可愛いよ。シャツもスカートも。たまにでいいから、そういう感じの、もっと着てくれないか?」

「いいよ!勿論!だから、もっと私を見ててね♪」

 起き上がったアビゲイルに手を引かれる。

「それで、最初はどこに?」

「まずは普段から通ってるとこ。見落としがちだけど、あの商店街って帝国最大規模の商業地区なんだよ。ほら、立って立って!」

「自分で押し倒したんだろう」

「お、押し倒すって、‥なんか、大人っぽいね」

「もう大人だろう。俺もアビゲイルも」

 昨日と今日の朝を思い出し顔が真っ赤に染まっていく。オレンジの髪と相まって果実のようだった。

「そう、だったね‥。私、君で大人になったんだ‥‥」

「俺もアビゲイルで大人になった。いいから行くぞ」

 案内してくれると言ったアビゲイルの手を引いて車から降り、衆人の目があることも気にしないで歩き続ける。普段はあれだけ柔らかい手も、今は石像のようだった。

「み、見られてる‥」

「嫌か?」

「‥嫌なんかじゃないから!私が案内するから、こっちに来て!」

 普段、気にも留めない石畳みの感触すら新しい。それを踏みつけながらアビゲイルと走る感覚は、愛しさすら感じる。

 数分走った先にたどり着いたのは、普段酒類を卸している商店街だった。

 帝都が誇る商業地区。戦時下でのその扱いは国の為、あらゆる資源が帝都政府に召し上げられていたが、それは昔の話だと教えられた。

 昨今の商店街は自由な売買は認められ、市民の自由な消費活動が推奨されている。

 そうでもしないと、戦争時に国民から徴収した金銭を返せないレベルで借金塗れだからだ。どうにかして税金を手に入れて、借金返済の手立てにしたいのがわかる。

 戦争が終わり、帝国にも民主化の波が押し寄せている今、兵士も国民の1人1人だと気付いた政府は、急いで国民のご機嫌取りに紛争している。

 戦争から帰ってきた元兵士達は国の英雄。

 その英雄の家族や英雄自身を蔑ろにした場合—―――帝国の盾だった英雄が矛となって襲いかかってくる。それだけは避けたいのだろう。

「前までは兵士達だけが、本当に必要な物だけしか買えなかったけど、今はなんでも買えるの♪」

 商店街には缶詰や瓶などの保存食は勿論。ベーカリーや鍛冶屋、そして洋服屋、ブティックに近い店すらある。

 見渡す限り女性や子供、そして老人。それは客も店員も変わらない。

「ほら、あのお店で手袋買ったんだよ!」

 アビゲイルが指差した店は革製品の専門店だった。

「いいのか、あの店。革って牛とかだろう」

「だからなの。食肉とかで加工出来ないで捨てる革を買い取ってるのが革製品の連合団体なの。結構帝国中の商人が加入してるんだよ」

 帝国としても、捨てるしか無い物が金に変わるのはありがたいことなのかもしれない。

「それに、今は帰ってくる兵士の為に牧場とか、本業の再開を帝国自身が支援してるから、ああいうお店はこれから増えると思うよ」

 合成革がまだ無いこの世界では、革製品とは高級な上、代わりのない特別な存在。

 高い買い物はそれだけで経済を回すので、革製品の自由な売買も帝国は推し進めているのかもしれない。どこの世界でも資金難は変わらないようだ。

「ありがとう、アビゲイル」

「急にどうしたの?」

「これ、高かったんじゃないか?手にぴったりで、すごい使い心地いいよ」

 握っていない方の手袋をアビゲイルに見せる。

「次はアビゲイルに指輪—――は無理でも、靴とかプレゼントするから」

「‥あ、気付いてたんだ」

「お気に入りだったのに、急に履かなくなったら気付くだろう?」

 革製のブーツはアビゲイルのお気に入りだった。だけど、急にブーツを履かなくなった。きっと壊れてしまったのだろう。

「‥ねぇ、約束してくれる?」

「どっちがいい?」

「どっちも!」

「約束する。指輪とブーツだな。待っててくれ」

 辺り一面を輝かすような光が生まれる。美人の笑顔は世界を変えると学んだ。

「私がまだ小さい頃にさ、ここ、お父さんとお母さんと歩いたんだ。すっごく楽しかったんだから!」

 商店街を歩きながらアビゲイルは語り始めた。

「お父さんは珍しい物が好きだから、すぐのどこかのお店の入っちゃって、すぐお母さんに見つかって怒られて。それでさ、私も一緒になってお父さんを怒ったらね」

 本当に楽しかった思い出がここにあるようだ。

 饒舌なアビゲイルは、思い出話が止まらない。

「これは研究で必要ものだから、手元に揃えたいって言ってさ」

「前」

 話に夢中になっていたアビゲイルを引き寄せて、足元にあった木箱から守る。

「‥ちょっとだけ、びっくりしたかも」

「でも、危なかったから」

 腰を引き寄せた所為で身動きが取れないアビゲイルを、そのままクレーンのように持ち上げて石畳に立たせる。けど、安全面を考慮した無駄のない動きだというのに、

「子供扱いしたー。せめて腰で持ち上げて、脇を持ち上げられるのは嫌ぁー」

「次は腰だな、覚えておくよ」

 不満気な顔すら可愛らしい。

 アビゲイルの側にあるものは勿論、アビゲイル自身も輝いていた。

 しばらく商店街を歩き回り、軽く休める店に入ることにした。アビゲイルの勧めてくれた店は、まだ再開していなかったが、他の飲食店や喫茶店は思いの外、商売を再開している――――だが、やはり物価は決して安くない。

 アビゲイルが払ってくれなければ、入ることすら出来なかった。そんな俺は机の向こうにいるアビゲイルに縮こまっていた。

「そんな申し訳なさそうな顔しないで。やっぱり今度からしっかりお金貰おうよ」

「寝食の世話もして貰ってるのに、小遣いなんて貰えない」

「お小遣いなんかじゃなくて、労働の対価!蒸留場に配達、それからお父さんの手伝い、全部やってるもらってるんだから、こっちが申し訳ないよ。それにお父さん、しっかりと君への支払いは貯めてるんだよ。帰ったら見せてあげるね」

「いいのか‥‥俺、自分の服とか、食費、それに怪我の薬代だって、よくわかってないのに」

 どの程度の怪我をしていたかはわかっている。

 目が覚めた時、この身体は破けた袋のようだった。

 だが、こちらの医療も異常だった。ペニシリンといった抗生物質は既に青カビから作り出され、義手などの高い人体工学が求められる技術は既に存在していた。

 やはり戦争とは技術の進歩を飛躍的に伸ばす出来事らしい。

 これらは全て、昨今の戦争の為、発明された。

「そんなに心配?」

「‥‥俺さ、アビゲイルの隣にいたいのに。これじゃあ、」

「でもさ。君は家族なんだよ」

 決して安くない焙煎された豆を使い、淹れられたコーヒーが机に二つ置かれる。

「君のいた場所って、きっと寂しい場所だったんだよね」

 置かれたカップを、片手で持ったアビゲイルが目線を外さずにコーヒーを啜る。

 黄昏るようにしばしの静寂を楽しみ終わった時、机に戻して前髪を手で整える。

「だから知らないんだと思う。家のお金って、家族の為に使うんだよ」

 数度言われた言葉であった。

 忘れていた―――自分はもう、アビゲイルと家族であった。

「恥ずかしいとか思ってるなら、それは違うかな?君は私の家族で、家の為に頑張ってくれてる。だから、私は君を選んだの」

 もう片方のコーヒーを目の前まで押してくれる。

「それに、私は君との時間を楽しみたいの。私からの誘いを断る気?」

 世界はずっと灰色だった。

 誰かから命令されないと息を吸う権利すらなかった。何かを見ることすら許されなかった。空を見え上げることすらも。

「ほら、飲んで。一緒にいるんだから、もっと恋人っぽい事しよ」

 差し出されたコーヒーを手に取る。ひと口でわかった。戦争とは無縁なこの味は、戦争とは無縁であらねばならない人々が作り出した作品だと。

「どう?ここのお店も一押しなんだ」

「‥美味しいな。高いわけだ」

「そうでしょう〜」

 木製のテーブルから漂う甘い香り、ウェイターが歩くたびに聞こえる板張りの床の軋み、そしてカップを吸うと共に届いてくるコーヒーの渋み。

 ようやく理解できた。世界とは、こうも色鮮やかだったのか。

「また来てもいいか?」

「その時は、君からの誘ってね。待ってるから」

 冷める前に飲み干したいというアビゲイルの勢いに同調してしまい。カップからコーヒーはすぐに消えてしまった。



「ここが現皇帝が先代皇帝から王位を引き継いだ広場なの」

「‥すごいな」

 辺り一面が木々や芝生で覆われている。その上、石で出来た小道が所々にあり、広場というよりも自然公園のようだった。

 アビゲイルが見せたいと言った意味がわかった。

 帝都という石と蒸気、そして銅の都市の中でここだけ世界が変わっている。

 こちらの反応を見て気をよくしたアビゲイルが指差した場所は、石で出来たモニュメントと、地面が大理石で出来た一角だった。

「あそこで戴冠式をやったの。もう10年は経つかな?」

 後ろ手のアビゲイルが一歩一歩ゆっくりと進んでいく。

「近付いていいのか?」

「先代皇帝が一般市民にも開放するって決めたから、自由に入れるよ。ここでの暴力は兵士でも罪に問われるから、安心安心」

 笑いながら振り返るアビゲイルに太陽の日差しが当たる。石のモニュメントと相まって幻想的な雰囲気を感じる。それを追おうと、自然と足が前に出てしまった。

 アビゲイルを追いかけて結果、不思議な世界への門を見つけた気分になる。

「エスコート、して下さる?」

「指名とあらば」

 手の甲を突き出すアビゲイルの手を取って、石の小道を歩く。鳥の声や木々のざわめき、そして川の音。何をとっても一級品だと銘打てる。

 その上、アビゲイルという至高の麗人の手を引ける。このまま道に迷ってしばらく歩き回りたいと願ってしまう。

 だけど、世界はそれを許してくれなかった。石のモニュメントは目の前だった。

「結婚とかさ、こういう場所で挙げられたら、いいって思わない?」

「できるのか?」

「ほ、本気にしてくれるんだ‥‥ここでは無理かな‥‥」

 引いている手の指が微かに震えている。なおかつ目線を逸らして石の小道を見ている。アビゲイルの様子で気づいた、冗談だったとは思わなかった。

「ここで式典を上げれるのは皇帝自身とか、次期皇帝とか、そういう人達だけ‥」

「見たことあるのか?」

「‥うん、すごい‥綺麗だった‥」

「なら、真似だけでもしてみるか?」

 ゆっくりとアビゲイルの手を引いて、大理石の上、モニュメントの前に向かう。

「‥どこまでする?」

「どこまでしたい?」

「‥今日は、手を引いてくれるだけでいい‥、それ以上は、その時にしたい」

 どうやら自分にも心を読む力があるらしい。言いたいことがすぐわかった。

 大理石の地面を踏み、アビゲイルを引き寄せる。アビゲイルは一瞬戸惑ったが、構わず足を踏み入れる。硬い地面に靴の底が当たり、心地いい音が響く。

「男の人と乗るの‥初めてなんだ‥。また君との初めてだね」

「そうだな。俺にとっても、アビゲイルが初めてだ」

 岩のモニュメントまでは後少し。硬い音を立てて、ゆっくりとアビゲイルと歩く。いつか、またアビゲイルとここを歩く時を願って。

「嬉しい。同じこと考えてくれるんだね」

「俺も嬉しい。同じ事を考えてたなんて」

 近付いてみると、漠然と思っていた岩のモニュメントで合っていたらしい。

「これね。石碑なの。ここ、契約って書いてあるでしょう?」

 アビゲイルが石碑の文字を指差して教えてくる。

「王が契約—――誰と契約したんだ?」

 石碑には帝国建国の証として、石碑を作ったと書いてある。だが、その前に帝が契約して、ここを帝国と決めた。と書いてある。

 後の文字には、帝国周辺の立地や帝国を導く為の心構え。そして最後に、帝国の繁栄を約束であった。一体誰との契約なんだと視線を迷わせるが、決め手となる物はなかった。

「それは誰にもわからないの。でも帝国では、それをマキナって呼んでるの」

「マキナ?なんで‥」

「どうしたの?」

 マキナ、それは機械の意味。そしてそれはラテン語、俺の元いた世界の―――。

「マキナって、どういう意味なんだ?」

「それもわからないの、でもマキナってこの帝都の都市神って言われてるの」

 石碑を撫でながら、アビゲイル自身も不思議そうに答えてくれる。

「不思議だよね。神様って1人だけの筈なのに、帝都には2人いるの。でも、ずっと見守ってくれてるって、私は信じてるんだ」

 石碑から手を離して、繋いだままの腕に抱き付いてくれる。

「一度も帝都が攻められなかったり、君と出会えたのだって、マキナのお陰って思ってるの。変、かな?」

「‥変じゃないさ。俺もアビゲイルと出会えてのが、マキナのお陰なら感謝してる」

 アビゲイルと代わり、石碑に手をつく。

 けれど、アビゲイルが望んだ通りの感情など持ち合わせられなかった。何故ならば『マキナ』の一端に触れて気がしたからだ。

 見た目通りの石ではなかった。傷一つない石碑の感触、これは―――

「契約した王って、どうなったんだ?」

「初代皇帝は、この国を建てて後、起こった戦争で亡くなったって言われてるの。もう500年は昔の話だけどね」

 戦争で亡くなった。それは真実なのかもしれない。だけど、恐らくそれは建前だ。

「‥いい所だな」

「気に入った?」

「ああ。また来よう」

 石碑の話を全て信じた訳ではない。だが、初代皇帝にも、契約してでも成し遂げなければならない、譲れない願いがあった。きっとその信念は本物だ。

 この『悪魔』のような、ただ逃げたいから契約した、という弱虫とは違う。

 皇帝に成るべくしてなった。そんな人物なのだろう。

 石に見立てた――――から手を離し、アビゲイルの腰を引き寄せる。

「ど、どうしたの?」

「こうしたくなった。嫌か?」

「嫌じゃないよ。でも、なんで、そんなに怖がってるの‥‥?」

 心を読まれた。

 だけど悩みを言わなくても理解してくれるアビゲイルには、感謝しかなかった。

「向こうの事を思い出したんだ。‥‥大丈夫、少し疲れただけだから。行こう」

「‥うん、行こっか!お昼、食べに行こう!」

 アビゲイルと手を繋いだままで、大理石から降りる。

 あるはずも無い石碑からの視線を背中に感じながら。



「そう言えば、聞いてなかった」

 ランチとして取った、オイル漬けにされた魚の切り身、そして野菜と香辛料を挟んだベーグルのような物を食べ終わった時、気になったことがあった。

「アビゲイルの学校って、どこにあるんだ?大学のあった学術地区にも無かったし」

 しばらくこの街を散策してみたが、学校らしき建物は見つからない。

 と言っても、歩き回った場所は帝都外周の商業地区と市民街、公園は帝都の内部部分にあったが、それ以上先には行かなかった。

「あー、なんとなく察しは付いてるかもだけど、内部街にあるの」

「あの公園よりも先の?」

「そう。だから学校なかなか再開されないんだよ」

 内部街とは貴族街の意。そこでは帝国建国時に多くの貢献や護国戦争で活躍した家々の人間が暮らしているらしい。

「武力的な戦争が始まって、すぐに閉鎖されちゃってね」

「‥‥戦争とかで活躍した人間が住んでるんだろう。なのに戦争が始まったら、保護されるのか?」

「‥うん、おかしいかもしれないけど、今の貴族の人達って、そういう立場なの」

 帝国貴族とは、皆んなが皆んな兵士だと思っていたが違ったようだ。

「あ、でも別に皆んな、内部にずっといるとかじゃないんだよ。戦争が始まったら、いち早く戦地に行かないといけないっていう決まりがあるの。でないと貴族の立場を追いやられたりするらしいの。‥‥まぁ、行った振りだけの人もいるらしいけど」

「‥アビゲイルの家も、貴族なんだろう。‥誰か行ってるのか?」

「あははは、行った振りをしてるのって、私の家だったりするの」

「悪い。言いたくない事だったか。—―――この店、いいな」

 アビゲイルが昔から気になっていたらしい店の中は、店員の趣味らしく軍艦の操縦ハンドルや帆船の帆、そしてボート自体も飾られている。魚のオイル漬けもなかなかだったので、もしかしたらここの店主は、元は漁港に住んでいたのかもしれない。

「あ、そうだね。うん、初めて入ったけど、結構いいかも。ねぇ、海って憧れる?」

「‥‥俺、実はあんまり潮風とか、好きじゃない」

 オイルの後味を消すために、ブラックなコーヒーを口に流し込む。

 昔、コンテナ船に乗り込んだのを思い出す。

 乗り心地など皆無な鋼鉄だけの船の中、あの街から出ていくコンテナの一つを見つけ出し、内部を物を盗み出せ、という仕事だった。

 寒いし、痛いし、真っ暗な中での作業は酷いものだった。

「都会っぽいね。私も同じかも‥‥特に、船虫が‥」

「あーあれは俺も嫌い。出るか。」

 海をモチーフにしている店で、海への悪態をついている事に気付き、なんとなく居心地が悪くなってしまった。

「うん、お店の中も混んできたし、車に戻ろっか」

 ベルで店員を呼び、会計を済ませる。

 こういった振る舞いはやはり貴族だと思う。無駄なくそつなく、小切手で精算を済ませて、その上チップまで現金で払う。いつか1人で金を持ってここに来たら、同じことができるだろうか。

「じゃあ、行こ」

「ああ」

 アビゲイルを先頭に、扉まで向かう。扉に着く前に、幾人かのお客を見届ける。

 アビゲイルが選んだ店らしく客もそれなりに身なりがいい。貴族とまではいかないまでも、それなりに良い生活をしているようで、真っ白なシャツの上に思い思いのベストを着ている。

 黒に緑に、紺、そして赤。どうやらセンスというものは、金では買えないらしい。

 店外に出て、アビゲイルと顔を見合わせる。

「すごい服だったな」

 真っ赤なジャケットの中にも、真っ赤なベスト、その上帽子まで真っ赤だった。

「うん、あれって多分貴族だと思う」

 意外は反応が帰って来た。

「色を家の色として使ってる貴族って、少なくないんだぁ。だから、ああやって身に纏ってたりするの」

「アビゲイルも、色を持ってるのか?」

「あるにはあるけど、式典とかの公的な場所でしか着ないの。あの人が、どんな人か知らないけど、多分かなり偉いんだと思う」

 アビゲイルの小声で言う意味がわかった。こんな街中で話せる内容ではなかったようだ。

「誇ってるのか‥」

「うん、私は偉いって言ってるんだと思う。行こう、もう大体回ったし、ちょっと疲れちゃったね」

「車に戻りながら後は歩くか」

 もう自然と手を引ける。

 自分も、アビゲイルと手を繋ぐ感覚が自然なものになってきた。

 車までの道のりはそれなりに歩く、今日は一緒に歩こうという話になっていたので、帝都入口で止めたままであった。

 驚きなのが、既にこの帝都には駐車場に近い施設が設置されている。そして、貴族であるアビゲイルは、無料で止めることができる。

 格差、とはいかないまでも、階級といわれる許された生活レベルが未だに残っている。そして、それが当たり前となっていた。

「この後はどうする?帰るには、まだ早いかな?」

 空を見上げてみると、確かにまだまだ日が高かった。

 帝都の真上に太陽があり、帰るにはまだ早かった。

「んー他に案内できる場所ってあるのか?」

「あ、それなら!‥‥んん、もうないかな。まだ再開されてない施設とかいっぱいあるし」

「次の、また今度の楽しみって事だな」

「そうそう!また来よ!」

 次はアビゲイルに手を引かれる。人通りが少ないのを良いことに、踊るようなステップで回りながら、交互に左右の手で引いてくる。

「どう?悪くないでしょう?」

 オレンジの髪に日差しが当たる。太陽の色をそのまま、髪にしているように見える。また顔がこちらに向くたび、髪と同じ色のオレンジの目に目を奪われる。

「悪くないみたいだね♪」

「でも、危ないぞ」

「大丈夫、今度は腰で持ち上げてね♪」

 学校でダンスが必修なのか、足元も見ないで軽やかに爪先だけで回っている。

 それだけでは止まらずに、跳ねるように飛ぶ。

 手から離れてタップダンスのようなステップを踏み、ひとしきり回ったところで、満足気に頭を下げる。

「いかがでしたか?」

「‥綺麗だった」

 拍手喝采。客は1人。そして、この1人は、踊り手に心を奪われた。

「本当はここで腰を持ち上げるんだよ。次は忘れないでね」

 ウィンクだけで魂を抜かれる。悪魔の舞には、命を奪う力があるらしい。

「さぁ、行こう」

 真っ直ぐに手を差し出される。

 太陽の光を浴びたアビゲイルは、俺にとって悪魔でもあり女神であった。



「ごめんね。買い忘れなんて、格好悪いね‥‥」

「いいよ。それに俺も聞いてたのに、忘れたから。2人で忘れたな」

 暗くなった帝都外周を車で走る。水蒸気を吐き出すこの車は音がほとんどしない。

 その所為なのか、タイヤと車道から鳴る音が思いの外大きい。車両に使われているタイヤの質が悪い訳ではないのに、鳴るこの音はきっと事故防止の為なのだろう。

「帰ったら、湯舟にお湯を溜めよう。今日はふたりで歩き回って疲れちゃったし」

「いいのか?水だって安くないのに」

 本当は身体を洗う筈だった水を、飲み水にしなければならない時もあった。

 とても冷たくて、身体を洗っても、飲んでも、凍えていた。

 あんな記憶からすれば今の環境は奇跡のようだった。蛇口を捻る為に、目を盗む必要がない。しかもお湯も出る。その上全身で浸かれるなんて、信じられない。

「別にいいんだよ。気にしなくても。あ、じゃあさ、一緒に入る‥?」

「‥‥いいのか?」

「‥いいよ。それに、もう見せた訳だし」

 前を見なければ事故でも起こしそうだ。

 吐息を漏らしながら呟く声には、淫靡な気配と共に愛らしい少女像すら持ち合わせている。大人と子供の中間で、こちらを誘う雰囲気には、背徳的で罪を唆す悪魔の顔を覗かせる。

「‥どうする?」

 運転中の腕を摘んでくる。会ったばかりのしおらしいアビゲイルに戻っていく。

「‥心を読めば、わかるだろう」

「口で言って‥」

「入りたい‥」

「‥なら、入ろっか」

 友達以上恋人未満。恋人未満の今まで関係も楽しかったが、恋人になってからも楽しくて、この胸の脈動は比べ物にならない――――やはり罪を犯すようだった。

「早く帰ろう‥」

「‥‥帰ろうか」

 買い忘れたのは芳香剤。香水に使う植物や花。きっと帰る頃には、この車内は植物の甘い香りで埋め尽くされているだろう。

「いつもの場所でいいだよな?」

「うん、きっとこの時間なら開いてると思う。それに昔からも知り合いだから、閉まってても開けてくれるよ」

「ああ、だからか。結構親しく見えたのは」

 あの店は花だけでなく、元の世界で言うとアロマを専門に扱っている店であった。

 店で買っている植物や薬草を使って、屋敷の蒸留所と工場で石鹸や香水を製造し、かつ石鹸や香水の小売もしていた。

 確かに親しくなければ、そんな業務体系は成り立たない。

「いつも何話してるんだ?」

「うん?今日は暖かいね、とか、ハーブティーとか飲みたいね。とか」

「‥そんな話だったのか。随分、その‥」

「あははは。うん、なんて言うか、ほんわかしてるよね。でも、それがあの人の良い所なんだよ。今度君もゆっくり話そうよ」

「そうだな。アビゲイルと挨拶もしないといけないから」

「‥うん‥」

 アビゲイルは下を向いてしまった。心を読めても、不意打ちにはいつも弱い。

 しばらく、無言の時間が流れる。でも決して悪い空気じゃない。不思議とアビゲイルとの無言の時間も嫌いではなかった。それどころか、時折目が合う瞬間は、とかく愛らしかった。

 隣にアビゲイルがいてくれる。そう思うだけで、心の底から安堵できる。

「そ、そろそろだよ。この辺で留めよう」

「ああ」

 花屋に近付いてきた時、アビゲイルが声を出した。

 外に出て空を見上げると、だいぶ日が傾いている。もう空が赤く染まり、雲さえ色づいて見えた。やはりここは都会、帝都だ。周りの建物が高くて空が遠くに見える。

「どうしたの?」

「なんでもないよ。行こう」

 もう何度目かの手を引いて、目の前の花屋に足を運ぼうとした時、

「んー?あ、いらっしゃいませ~」

 銅製のじょうろを持った金髪の女性が店の前に現れた。もう閉店時間なのか、普段は街道を彩るように飾られて、陳列されている花や植物を店の中に戻していた。

「こんにちは。どうしたんですか、じょうろを持って?」

「んー?えー、なんでしたっけ?あ、そうそう、これ、壊れてしまったので直してもらったんですよ」

 エプロン姿で両手に持ったじょうろを振って強調してくる。数度話す機会があった為、この人の性格は知ってはいたが、それでも輪にかけて―――今回は危なっかしく、直してもらったばかりのじょうろを落としそうに見える。

「これ、お気に入りなんですー」

 ほんわか―――不思議な感覚だった。この人を話すと時間が経つのを早く感じる。

「それで、何かご用でしたか?」

「あ、そうそう。えーと、これの通りです」

「はーい。わかりましたー」

 受け取った注文表を軽く眺めて、じょうろを持ったまま店内に戻って行く。

「危ない危ない。忘れる所だったかも」

「俺も、今のは危なかった」

 あんな調子でも、帝都でも指折りの品揃えを誇る花屋の主人だった。

 まだ店外に出したままの花や植物の鉢植えを眺めてみる。

 どこから発注しているのか知らないが、色とりどりの花や、見たことない実をつけた植物が植えられている。そして香りひとつとっても、一級品かつ石鹸に練り込んでも負けない芳醇、だけど強すぎない優し気な香りを放っている。

 気候としては、現在特別暖かい訳では無いのに茎や花が瑞々しい。

「結構あるね。手伝ってあげようよ」

「いいけど、アビゲイルは中で手伝った方が良いかも―――あれを」

 花屋の店主は店内で、何か探しているようで首を傾げている。

 いい加減じょうろは離せばいいものを。

「うん、そうする‥‥じゃ、お願いね」

 ひとりで店を切り盛りしているのだから、自分達の心配など要らないのかもしれない。だけど、あの『ほんわか』と呼ばれる空気には、つい手を貸してしまう力がある。

 それをいち早く受け取ったアビゲイルは、急ぎ店内に入っていく。店の中はかなり広く、喫茶店のような見た目でもある。だが、いるのは人では無く植物が殆ど。

「さてやるか」

 陶器の鉢植え、木製の鉢植え、銅製の鉢植え。

 帝都では銅とは高いものではないらしかった。

 それなりに重量のある物もあり、かなりの肉体労働だった。あの店主は、かなり腕力があるのかもしれない。むしろ毎日これを続けているのなら、相応の腕力が付いてもおかしくない。

 ひとり無言で、まずは玄関へと運んでいる途中、つい足を止めてしまう花を見つける。

「‥良い香りだ。アビゲイルと同じ匂いだ」

 運んでいる物の中に、アビゲイルと同じ香りの花があった。見た目と香りが特に気に入った。もし給金を貰ったのなら買いに来ようと心に決める。

「ありがとうございますー」

「あ、終わりましたよ」

「ご苦労様です。疲れませんでしたか?」

 最後の鉢植えを中に運び入れた時、エプロン姿の店主さんが声をかけてきた。何故か、アビゲイルが店内の机に突っ伏している。

 それは毒を盛って、意識を奪った時を彷彿とさせた。

「どうしたんですか?」

「う〜ん、ちょっとだけハーブティーが口に合わなかったみたいですねー」

「ハーブティー?」

「そうですよー。あなたの分もありますから、どうぞー」

 我が悪魔が倒れている丸い机に案内される。大人しくついていくと、確かにハーブティーの香りがしてくる。甘い香りではない、薬草を思わせる香りには、身体に良いという謳い文句と共に、『ある事』を告げない宣伝活動を思い出した。

「どうぞ、座って下さいね。」

「失礼します。‥大丈夫か?」

 隣に座っても、全く起きないアビゲイルに声を掛ける。怖いぐらい反応しない。

「さぁ、冷めないうちにー」

 白いポットから流れるハーブティーが、白いカップに注がれる。ふわりと良い香りが鼻に届く、自然と手を伸ばして湯気を肺に取り込んでしまう。

 そんなにえぐみが強いだろうか?

「頂きます」

「どうぞ、どうぞ」

 —―――ひと口、ひと口で分かった。これは、『毒』だと。

「お口に合いませんでしたか?」

「‥これ、なんですか?」

 アビゲイルが突っ伏しているのがわかる。舌を刺す、というよりも味覚を狂わされた気分となる。舌が痺れている、そして脳すらも――――美しい女主人に笑顔しか感じられなくなる。方向感覚を鈍らせ、脳を酩酊させる薬にはある目的があった。

 それは痛みと緊張感を忘れ、正常な選択を取れなくする、総じて禁止された劇物。

 これは自白剤にも似ていた。ならば感じられるこの痺れは、麻酔と酷似している。

 それともただマズイだけだろうか。

「私が調合したんですよー。これさえ飲めば、一日の健康を約束します」

 そして一日が流星の如く、過ぎ去る事を約束する味でもあった。

 もしかしたら健康とは、忘れる事でもあるのだろうか。

「し、舌が‥」

「起きたか?」

 毒から身を守る方法を知っていた自分は、意識を失う試しはなかった。自分は舌の先端を犠牲にしただけで済んだが、きっとアビゲイルは飲んでしまったのだろう。

「どうですか?すっきりしません?」

「—――言われてみれば、」

 不思議そうに自分の頭や喉を押さえている。

 効能の程はなかなからしいが、これは『青汁』とほとんど変わらない。健康の為に味覚を犠牲にする契約である。脳を覗かれる代わりに、常に幸福を得られるチップを脳に埋め込んだのと同じ感覚かもしれない—―—どうやら自分も薬に染まっている。

 もう少しでいいから、飲み易い味にはならない物だろうか?

「蜂蜜とか」

「入ってまーす」

 この人は以外とまともなのかもしれない。

「‥‥ごめん、私のも飲んで‥」

 アビゲイルと間接—―――と思った時、心臓が高鳴った。

「ふふふ。私が好きなら、断らないよね?」

「大丈夫ですよー、まだまだありますからー」

 強気で絶対に断らないであろうと踏んだ選択肢であったが、このハーブティーの特性を熟知している女主人には一歩及ばなかった悪魔は、気絶の振りを敢行した。




「美味しいのに、なんででしょう?」

 金髪を掻き上げてカップを飲まれる姿は絵画のようだった。

 アビゲイルも成長したら、こうなるのだろうかと思いを巡らせていると、「何故、皆飲んだ直後はこうなってしまうのでしょう?」と言わんばかりの視線、答えを求めるような視線を向けられる。

「次は花も入れて下さい。蜜が美味しいですよ」

「あ、いいですねー」

 後から出されたクッキーのお陰で、だいぶ口が楽になっていた。店主様の「忘れてましたー」、という言葉を信じる事にした。

「それで、アビゲイルさんとはどんな関係なんですか?」

「‥アビゲイルと、恋人になりました」

 足踏みなどしない核心に触れる言葉に、カップを置いて真っ直ぐ見詰め返す。

「まぁ、素敵ですね。ふふ」

 ハーブティーに負けて、気絶から眠りに移行したアビゲイルの背中にコートを掛けてくれる。もしかしたら、本当に眠らせる為に差し出したのかもしれない。

「あなたが来て以来、アビゲイルさんはいつもあなたの話ばかりなんですよ。今日は、何があったとか、ふふふ‥‥」

 店主は娘か妹を心配するように、アビゲイルの髪を撫で始める。

「戦争が始まる前は、学校のお友達とよく遊びに来てくれて、楽しかったんですよ」

「昔からアビゲイルはここに?」

 不思議だ。最初はあれだけ苦かったハーブティーも、今は進んで飲む事が出来る。完全に舌が麻痺してきたようだ。むしろ、この苦みを求めている自分がいた。

「はい。ここに香水や石鹸を卸してくれるようになったのは、アビゲイルさんのお陰なんですよ。お陰で私も潤ってまーす」

 収入の柱となっているらしく、両手を頬につけて身体を振っていた。

 それは山の如く巨大であった。アビゲイルを優に超えている。揺れている。

「それで、どちらから告白したんですか?」

「‥‥いわないといけないですか?」

「ダメでーす。」

「俺から――――言わされました」

「流石ですねー」

 どこかで察していたらしい店主は、楽し気にアビゲイルの頬を突いた。

 しかし先ほどから全く起きないアビゲイルの様子が気になる。一体どんな植物を煎じたのだろうか。気絶し続けている―――本当に薬を盛られたように起きてこない。

 むしろ耐えられている自分や店主が異常なのかもしれない。

「最初は驚きましたよ。あのアビゲイルさんが男の子を連れてくるなんて、しかも」

「しかも?」

「ふふ、秘密でーす。」

 自身の頬に手を付けて、笑顔で言葉をハーブティと共に飲み干してしまう。

 こちらの関係をクッキー代わりにして、ハーブティーを楽しんでいる節さえある。

「実を言いますとね、私もつまらなかったんです。学校が閉鎖になってアビゲイルさんが気軽に寄って来られなくなって。今でこそ、仕事として来店されますけどね」

「アビゲイルは、よく来てたんですか?」

「そうですよ。さらに言うと私、アビゲイルさんの学校の卒業生なんです。あの学校は貴族以外も入学が認められているので、私のような一般市民でも入学できました」

「実を言うと、俺も一緒に学校に行こうって誘われてます」

「まぁ、素敵ですね。それはそれとして、あの学校は恋愛禁止ですから、お気を付けくださいねー」

 まただ、また楽し気に一口飲んだ。意外といい性格をしているのかもしれない。

「あ、ごめんなさい。気を悪くしないで下さいね、最近あまりいい話を聞かなかったもので――――ええ、こんなに楽しいのはとても久しぶりで」

 無意識に遊んでしまったと気付いたのか、カップを置いて謝ってくる。

 そして、つい気になってしまった。つい口を衝いてしまった。

「悪い話はあったんですか?」

「—―――はい、ありました」

 聞かなければ良かった。置いたカップを両手で掴んで熱で落ち着こうとしている、店主の仕草は痛々しかった。さほど親しくもないのに、出過ぎた真似をした。

「すみません。聞き出そうとした訳じゃないんです」

 悪い癖だ。迫る可能性がある『危機』には、敏感になってしまう。

「いいえ、聞いて下さい―――最近の話なのですが、夜の帝都に『狼』が出ると」

「狼?」

 帝都はこの世界最大の都会のはずだ。そんな野生の動物、現れるものなのか?

あの公園にいたのは、せいぜいが鳥だった。いたとしてもリスやねずみ程度だろう。

「はい。だから、夜は兵士さん達が見回っているんですが、‥‥被害者もいます」

 物騒な話になってきた。そして狼とは『よほどのことがない限り』、人を襲わない。もし襲うとしたら、それは人から何かをした時だ。

「でも、ほんとに深夜でなければ出ないそうなので、あ、でも、」

「‥‥そろそろ帰ります。アビゲイル、起きてくれ」

 外を眺めると、もう夜に近かった。あと1時間もしない内に夜の帳が下りる。

「ん?あ、そっか。まだ、帰ってなかったんだった」

 眠りから覚めたアビゲイルは目元をこすって、顔を見上げてくる。

「そろそろ暗くなる。帰ろう」

「‥うん‥帰る‥」

 寝起きで幼いアビゲイルと、ふらつきながらも立ち上がるが、ダメみたいだった。倒れ込むように胸に落ちてくる。背負いながら車に運ぶしかない、その算段を立てていると、「ダメみたいですね。今日は泊まりますか?」と提案される。

「そんな、悪いですよ」

「気にしないで下さい。それに、アビゲイルさんとお話ししたい気分なんです。」

「‥どうする?」

 未だに寝ぼけているアビゲイルだが倒れ込んだことで、幾何か目が覚めたらしい。

 正直渡りに船であった。この時間に帰るとすれば、兵士の検問に手間を取られる。

 自分のような他国の人間が、夜に堂々と闊歩していては『彼ら』も取り調べをせざるを得ないであろう。いまだ戦争の爪痕が蔓延っている現状なら尚更だった。

「泊まらせて貰おう。少しだけだけど話も聞いてたし。明日の朝一で帰れば大丈夫だから」

 教授も三日間後に帰ると言っていた。それに職人さん達も明日の朝まで来ない。

 朝帰りをしても、気付かれないと覚悟を決めるしかないようだ。

「お世話になります」

「はい、ゆっくりしていって下さいね」



「あはは‥結局、一緒だね」

 この湯船を一人で使っていたのだろうか。

 地下に建設されていた風呂場は地面を掘った――――石造りの浴室。よって二人で入っても余裕で肩まで浸かれる。こちらの世界で足を延ばせるとは思わなかった。

 そして―――アビゲイルの後頭部を眺めてから肩や背中を眺める。湯が透けているのは当然だが、アビゲイルの肌も透けるように白い。肌の血管が浮き出ていた。

「‥初めて。男の人と入るのって。君は?」

「俺も‥。女の子と、初めて入った‥」

「そっか‥。また初めて同士なんだね‥」

 赤く染まった背中で話してくる姿に、息を呑んでしまう。

 橙の髪から流れるうなじの産毛が湯と光に反射し、いつもよりも輝いて見えた。

「ねぇ」

「ん?どうした?」

「狼って、見たことある?」

「いや、見たことない。俺もずっと都会暮らしだったから。そもそも野生の動物自体をあんまり見たことないんだ。アビゲイルは、狼を見たことあるのか?」

「うんん、私も無いんだ。でも狼って人を襲わないって聞いたんだけど、どうしたんだろう?」

「だから探しに行こうとか、言わないでくれ。アビゲイルに怪我はさせられない」

「わ、私だって、怪我までして見に行きたいなんていわないもん!」

 僅かに怒気を含ませながら振り返ってきた事により、大きな波が押し寄せる。そして、両腕ではまるでその質量を隠し切れていない膨らみが、更に水紋を造り出す。

 —――けれど、湯に映る顔に言葉を失う。 

「でもさ、もし一匹だけで彷徨ってるなら―――可哀想かなって思って‥」

「そうかもな」

 もし狼の一頭が帝都に迷い込んで、不安から人を襲ったのなら確かに哀れだ。

 —―――だけど、それは本当に狼の場合であった。

「‥‥寂しいのかな?」

「アビゲイル、よく聞いてくれ」

 足を抱えて湯船に映る自分を見つめるアビゲイルに、浸かったままで近付く。

「俺はアビゲイルに救われるまで、ずっと独りぼっちだった。前にも話した通り」

「‥‥うん」

「もし俺とその狼を重ねてるなら、やめてくれ。俺はアビゲイルに感謝してる。ずっと、アビゲイルのことが好きだ。でもな」

 隣に周り、同じ方向に目を向ける。

「アビゲイル、なんで俺を人売りの手下だって思わなかったんだ?」

「え、だって、だってさ!—―――刺されて、血が」

「ごめんな。だけど、もしそういう作戦だったら、とか疑うべきだったんだ。俺を無条件で家にいれるなんて、危ないことしないで」

「‥‥なんで、なんで守ってくれた人を、君を救っちゃいけないの?」

「俺の怪我が偽物の可能性もあった」

 守るフリをして油断を誘う。弱っているフリをして、反撃の機会を窺う。人を騙すという策を弄する時、真っ先に習う技の一つ。自分は目を離せば、すぐさま死ぬほど弱い存在だと印象付ける事。相手が悪意者であろうが善意者であろうが。

 そして真っ先に習う理由は簡単—――誰もが、これで警戒を解くから。

「そんな俺が隙を突いて、アビゲイルを外に連れ出す可能性だってあった――――俺はアビゲイルに感謝してる。アビゲイルの為なら、なんだってできる。でも、俺みたいな何も無い奴は、この世界にはいない。可哀想に見えても、きっと裏がある」

 隣のアビゲイルが、肩に頭を置いた。

「‥‥誰でも救えるって、思わない方が良いって事?」

「そう。それに、話の『狼』だって『本当の狼』だっていう確証もない」

「えっと、どういう意味?」

「アビゲイルが言った通り――――狼は人を襲わない。もし襲う時が来たら、それは最後の反撃をする時。被害者がいるのに『狼の死骸』が無いのは、おかしくないか?それに俺達は知ってるだろう。その力を―――」

「‥‥悪魔?」

「可能性はある。狼になる悪魔なのか、それとも狼のような結果を残す悪魔なのかはわからない。だけど、もし悪魔の力だった場合、俺はアビゲイルを守れないかもしれない」

 その時、俺は恐らく死んでいる。

 そしてアビゲイルの笑顔が完全に失われた時、あの屋敷の心臓が今度こそ止まる。

「アビゲイルが消えたら、もう俺は何もないんだ。教授だってそうだ。だから、」

「―――わかった。うん、もう気にするのやめる。後は、帝都の兵士に任せよ!」

「そうしよう。俺も、もう何も言わないから」

 いつもの調子を取り戻したアビゲイルが、濡れた髪で耳をくすぐってくる。

「ふっふっふっ〜。どう?新しい技なんだよ?」

「‥‥悪魔め」

「悪魔だもん!」

 アビゲイルには、自分の力を直接は教えてはいない。だけど心が読める以上、きっと勘付いてはいる。だけど、アビゲイルが聞いてこないのなら、俺は何も言わない。

 信じてくれているアビゲイルを裏切れない。

「ねぇ」

「どうした?」

「私達、恋人に見えてるかな?」

 湯船の中で手を握る。

「見えてるに決まってる」




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