40,別離
アンナは二、三度はくはくと口を動かしたが、音は出なかった。
ヒカルは彼女の呆然とした目に怒りが宿るのを見た。
死体を跨ぎ越えてヒカルに肉薄すると、彼女は勢いよく平手を彼に見舞った。痛みはあったが、だがそれだけだ。彼女の怒りはもっともだ、ヒカルはそう思った。
次の手を振りかぶるアンナは、しかしスファノモエーに手を掴まれた。「まあ、そう怒らないでくださいな。考えようによっては、彼だって悪神に呪われた哀れな被害者であるわけですし」
穏やかな語調だが、アンナが必死にもがいてもその手を振り解く事は出来なかった。
「――じゃあ、どうするの? わたしはこれから、どうしたらいいの」アンナが暗い声で言った。
「悩む事はありませんよ」スファノモエーはあっけらかんと言い放つ。「リリスがいなくなった所で、この後の流れは変わりません。ヒカルさんはその身を『外つ神』に供し、
「それが最善だろうな」ノアがそれに同調した。「アンナとやら、お前が女王として君臨すればいい」
「でも、わたしはどうやって新しい世界を造るかなんて分からないよ」
「世界創造のプロフェッショナルはこの世にそう居るもんじゃあない。リリスだって知識があったわけではなさそうだし。とりあえず好きにやってみたらどうだ? 失敗しても誰も責めやしないさ」
「それに……」アンナはヒカルの方を向いた。「ヒカルはどうなるの?」
「お前、自分の恩人を殺した教唆犯と
アンナは俯いた。
「ま、我が主がどうとでもしてくださるだろうよ。……多分」
「というわけで、お前にはこれに乗ってもらう」ノアは自分が乗って来た球形の物体を指した。
「よくこれだけの金属を集めましたね」スファノモエーは球を撫でた。
「それはもう、深山幽谷を主の教えに従い掘り続けては
「……真ん丸なのは何か意味があるの?」アンナは未だ元気を取り戻してはいなかったが、疑問を口にする事は出来た。
「かつて存在した大陸ことアトランティスで、ホタルとエウィドンという人物が開発したらしい。これと同じものを作って、金星に移住するつもりだったんだと。我が主は生憎この世界の物理法則に明るくはないが、丸ごと真似すれば少なくとも望む成果が出る、と読んだそうだ」
「その人達はどうなったの?」そう尋ねたのはヒカルだ。
「さあね」ノアはにべもなく言った。「それはこの話には関係のない事だからな」
「あ、そうそう」スファノモエーが切り出した。「アンナさん一人では何かと不安でしょうし、ノアさんも世界再創造に参加しませんか? 一応はこの世界の住人なわけですし」
「断る。おれには他に用事がある」
「新しい世界よりも大事な用って何?」アンナが訝しげに訊いた。
「教えない。おれにとってはこの世界よりも大事とだけ」
「大丈夫だよ。『僕』がついてるから」ヒカルはヒナタの事を思い浮かべた。自分はアンナ=テラスと喧嘩別れする羽目になったが、『彼』ならきっと上手くやってくれると思えた。
アンナはヒカルの真意が読めず、首を傾げた。
「さあ、とっとと乗り込め。人の記憶まで干渉する
「最期に言い残した事はあるかい」そう言われても、すぐには言葉が出て来ない。
「あの……、えっと。みんな、ありがとう。アンナ、ごめんなさい。でも僕は、どうしても、
アンナは答えない。ただじっと複雑な表情のままこちらを見つめている。
スファノモエーはにこやかに手を振った。「お元気でー」
ノアがヒカルの座る内部を覗き込んだ。「今から扉を閉める。焼いて塞ぐから、多少の障害物があっても壊れて開いたりはしない。その『
残された三人は、垂直に飛び立った方舟を無言で眺めていた。その過程でぶち抜いた天井から、黒く滑らかな夜空と、一際大きな青い星が見えた。
「ああ――やっと、やっと終わりだ」ノアが唐突に言った。それまでのどの言葉よりも、人間的な感情を滲ませた声で。「
彼の体に異変が起きた。本来相当の時間が掛かるべきものを、まるで映像を早送りにでもしたように速やかに肉体が
「成程。どうやらヒカルさんは『外つ神』の下に到達したようですね」
アンナが屈みこんでノアの成れの果てを掬い上げても、それは指の間から零れてしまい、うねるエーテルの風が吹き飛ばしてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます