38,黒く逆毛立つ獣よ
「――シオン?」それはまるで、向きを間違えたまま押し込もうとしていたパズルのピースのように。視座の回転によって、欠落はぴたりと埋まった。
そうだ、この顔だ。どうして今まで思い出せなかったんだろう。リリスは、シオンの顔を持っていた。懐かしさが溢れる。最愛の家族の柔らかな笑み。
「今まで大変だったでしょう? 助けてあげられなくてごめんね」
「いや、そんな、僕は」声が上擦るのは、驚きの為だけではなかった。高揚感を抑えられない。
「もう大丈夫だから。わたしに任せて。きっとみんな幸せになれる世界を造っていきましょう、ね?」
「あ、うう」別人だ、と自分に言い聞かせても、胸は高鳴る。やっと逢えた、それだけでこれ程感情が高ぶるとは思ってもみなかった。やはり寂しかったのだ。
「ね、ヒカル。心配いらない、って言ったでしょ。リリス様が何でも叶えてくれるから」アンナが無邪気に抱きついた。
「あなたの悲しみや苦しみを、無駄になんてしない。全部の事に意味をつけてあげる。あなたは、最高の世界の礎になれるのよ」彼女の言葉は、砂漠に染み込む慈雨のように彼の心に吸い込まれていった。そうかこれが運命か。こんなに幸せな気持ちは初めてだ。ヒカルは顔が火照り、涙で視界が滲むのを感じた。死んでるように生きたくない、その答えは此処にあったんだ。僕が、新世界の礎に。望外の名誉だ、およそ考え得る限り最高の。
ノアの目に映る、青白い炎が幽かに揺らめくのを見た。
――これが、彼女のやり方なのさ。
突然目の前に、突然冷笑を浮かべた
――こんなに大切な人を、何故思い出せなかったと思う? 簡単だよ。彼女が記憶を奪っていたからさ。そうして
冷や水を浴びせられたような気分だった。ヒカルは心の中できょうだいを罵った。どうしてそんな酷い事を言うんだ、幸せな気持ちのまま死なせてくれればそれで充分なのに。
――おいおい、『僕』との約束まで忘れてもらっちゃ困るよ。死なないって決めただろ。まだ思い出せないの? 何でもかんでも他人にお膳立てしてもらって、それで幸せだなんて。赤ちゃんじゃあるまいし、『僕』まで恥ずかしいよ。
『彼』の顔から笑みが消えた。
――じゃあ、君自身は恥知らずの甘えん坊でもいい、ホントは嫌だけど。でも、それじゃあシオンはどうなる? 年が二つしか違わないのに、学校だってあるのに、それでも病院に通って、本を読ませてくれて、色んな話をしてくれた、たった一人の君の姉さんは。君は、彼女との約束までぶち壊すような薄情者だったかい?
その言葉が切欠となって、ヒカルの脳髄は深奥の記憶を取り戻した。あれは確か、僕の十四歳の誕生日の事。橙色のガーベラの花を携えて、彼女は、僕に――
――家にはちゃんとヒカルの部屋があるの。母さんが机も本棚も用意してくれたし、父さんがいつ退院してもいいように、って掃除もしてる。だからねヒカル、必ず
ぐうっ、と喉から呻きが漏れた。まさしく夢から覚めた心地だった。そうだ、僕は帰らなくてはいけないんだ、どんなに美しい夢を見せられても、心の底から安心できるあの人の傍へ、きっと、いや必ず。
「ヒカル? どうしたの? 具合でも悪い?」アンナが不安げに覗き込む。彼女からは悪意を感じない、いや、誰が悪意を持っていようと構うものか。先程までの彼なら、嬉々としてリリスの手を取っただろう。だが、最早それは出来ない。僕にはまだ、やるべき事がある。地の底で倦む魂と約束したのだから。
「……フェンリル。聞こえてるんだろう。こいつだ。
頬を指で撫でる。いくら擦っても、
消えたはずの血の跡が彼の頬に蘇った。ヒカルの影が急激に膨らみ、異形のカタチを示した。不浄な色の燐光が影の輪郭を縁取り、因果が逆転したかのように影から彼は表れた。
ヒカル以外の誰もが驚きに目を見開いて硬直した。そして、その素早い動きを捉える事は、ヒカルを含め誰にも出来なかった。
怖気立つ唸り声はたちまちの内に憎悪と歓喜の咆哮となり、靄で己を覆う事もなく立ち尽くすリリスを――自分の神殿なのだから、姿を隠す必要がなかったのだが――襲った。避ける事能わず、何故ならその狼はあまりにも巨大であり、一歩やそこら後ずさった所でその
ばっくりと大きく開いた口から粘つく涎を垂らしながら
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