36,四阿にて
「あれ、永理也。どこ行くの?」
彼の所持品は全て一つのスーツケースに纏められていた。着ているものも患者衣ではなく、外の世界の人が着る普段着だ。
「弟さん、探すんじゃなかったの?」
「ああ、それは」彼は少し照れ臭そうに口端をほんの少し上げた。「見つかったんだ。これから会いに行く。お前も元気でな」
そう言って彼は出て行った。振り向く事は一度もなく、ヒカルの知らない大人達と車に乗り込む姿を窓から見つめていた。
「……礼? どうかしたの?」
彼女の荷物を纏めた鞄を、品の良い老婆が持ち上げた。
「親戚のおばあさんの近くへ転院するの。つまり、お引越しね」看護師が代わりに答えた。
「今までありがとうね、ヒカルくん。礼ちゃんも……今は少し調子が良くないけど、きっとあなたがいてくれて励まされてたと思うわ」老婆が穏やかな笑みと共に挨拶をする。礼はこの頃自閉的になり、何を言っても反応しなくなっていた。
「じゃあね。あなたも、きっと良くなる事を祈ってるわ」
そうして彼女はいなくなった。別れの言葉さえ言えないまま。
「ねえねえ、死んだらどうなると思う?」ああ僕は彼の名前すら知らないのだった。
「分かんないよ。神様の国に行くって言う人もいれば、違うものに生まれ変わるって言う人だっているし」
「私が生まれ変わったらどうなるんだろうねえ? 『私』って何だろう? 生まれ変わったら何が変わると思うー?」
「……分かんないよ、そんなの」僕は、そう返すしかなかった。
「見に行こうかな、死んだ先の世界。どうせ私は捨てられた玩具だもの」
その晩、彼は夕食の時にくすねたスプーンを飲み込んで、二度と呼吸をしなくなった。遺体はヒカルの知らない内に運び去られた。
いいな、いいなあ。皆、此処から出て行けて。僕も連れて行って欲しかったよ。でも怖いんだ。僕にとっての世界はこの建物だけ、此処で人よりずっと短い人生を横たわって過ごすのが運命なのに、外に出たら――どうなってしまうんだろう?
「私の仕事は夜にあるんですよ。話なら日中にしてくれればいいのに」スファノモエーはそう言うが、その顔貌に迷惑そうな色は見当たらない。
「ごめん。でもあんまり眠いから、つい寝ちゃったんだ」お蔭で妙な夢を見る破目になった。ヒカルの傍から離れて行った人達の。
「もうじき夜型人間になりそうですね」
「本当、そう思うよ」
「それで、話とは?」
湧き上がる唾を飲み込んだ。「あなたの正体を教えて欲しい」
酌人は成程と頷いた。「世界の秘密まで知った今、もう怖いものはない、というわけですね。では、手早く済ませましょう。こちらへ」そして宮殿の外へと手招いた。
スファノモエーが案内したのは、宮殿から少し離れた場所に位置する
「此処は警備が手薄ですから。実を言うと、皇帝陛下が愛人と遊ぶ為だけの場所なのですよ」血や臓腑の臭いとも異なる奇妙な生臭さが鼻を衝いた。
「さて、では改めて自己紹介といきましょう」スファノモエーが振り返る。夜の色をした目がヒカルを射抜いた。太陽が西に傾いていた。
「あの星が見えますか? あの、暗くなりゆく空で一番初めに輝く星が。ごく最近まで、あれはこの天蓋を離れていました。何故か? 地底の最奥で縛められていたからです」
スファノモエーの肉体に変化が表れた。その顔つきが非人間的なものに変じた。衣服の背を突き破って漆黒の骨が伸長し、展開され、それは同じく真っ黒な羽根がびっしりと生えていた。
「私は『金星』。かつて古きアトランティスではスファノモエーと、今ではルシファーと呼ばれる者。黄昏と払暁にのみ輝く星、それが私です」
ヒカルはほうと息を吐き、顎に手を当てた。「そうなんだ。で、どうして皇帝の召使なんてやってるの?」
「……もう少し驚くかと思ったのですが。図太くなり過ぎでは?」
「いや、だって此処は僕にしてみれば異世界なわけでさ。もう何が出て来てもおかしくはないじゃない」
「はあ。まあ、いいです。それで、何故私が酌人を勤めているのか、紆余曲折がそこにはあったのですが、とどのつまり私もリリスによって復活させられた身の上だからです」『まあいいです』と言うものの、明らかに目の前の堕天使はがっかりしたようだった。
「その前はどうしてたの?」
「おや、ご存知ない?」
「うーん、聖書は読んだ事ないから」
「ふむ。つまらない相手かと思いましたが、一応話のし甲斐はありそうで良かった」
私は造物主によって造られました。かつては御使いの内最も優れた者として
それから長い間、私は身動きも出来ず凍った河に身を浸し続けていました。主へ叛逆した際に、元々あった
そう、リリスです。二番目に作られた人間にして、初めに作られた女。あれが私を解放し、その見返りとして協力するようにと言いました。え? だって断る理由がないではありませんか。ずっとコキュートスにいてもつまらないし、縛めが解かれたとあっては、彼女が新しい主君のようなものですから。とは言え喫緊の使命があるでもなし、皇帝の監視でもしているように、と仰せつかったので、此処で酌人なんぞをやっているのです。葡萄酒に
『外つ神』の昇天までに、彼女は出来る限り手駒を集めておきたかったようです。その多くは神との戦に負けた悪霊や魔物達。貴方が出会ったというヘルやフェンリル、クロノスとアエネイスもまたリリスの使徒、というわけ。――しかし、統率が取れているとは言えませんね。私を含めてどいつもこいつも、我が強くて目上の者に従う気質がまるでありません。でもそれも仕方のない事かもしれない、と最近は思うのです。唯々諾々と従う者ばかりでなかったからこそ、
「質問は一つだけにしてください。いい加減に戻らないと、私を探しに女中がやって来るでしょうから」
「ないならないで結構ですよ?」
「ちょっと待って、今……」何を尋ねるべきか、という自己への問いは、何を訊きたいか、という欲求への問い掛けに取って代わった。ヒカルは半ば無意識に言葉を紡いでいた。「……スファノモエーも、僕に死んで欲しいと思ってる?」
堕天使は僅かに目を見開いた。「そんな事気にしてたんですか」
それで遣り取りは終わった。
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