30,宵闇の誘い
ヒカルは廊下を歩く女中を捕まえて、自分の食事は部屋へ持って来させるように頼んだ。食事の度に嘔吐の光景を見せられては堪らない。何故かアンナもそれに倣った。
「賑やかなのもいいけど、ヒカルと一緒の方がいいもん」彼女はそう言って微笑した。裏表のない言葉だった。その美しさとあどけなさに呑まれてしまい、寝台が二人の部屋に一つしかない事は――恐らくイライアス並みの男でも優に二人はくつろげそうな大きさではあるのだが――抗議しそびれた。
ヒカルも初めの内は眠ろうと努めた。しかし目を閉じていても眼閃として絶えず蘇る内装の黄金や、彼の左腕をがっちりホールドしたまま眠るアンナの気配がそれを妨げた。生まれてこのかた、ほぼ全ての夜を一人用の寝台で過ごしてきた彼である。とうとうヒカルは寝るのを諦め、アンナが目を覚まさないように気を付けながら腕を取り戻した。
廊下には
あちらにはマイがいた。では、此処は。
「おや、もしかして迷ってしまいましたか?」
反対側から歩いて来た青年がヒカルに声を掛けた。
「え? いや、そうじゃないけど、眠れなくって」
「そうでしたか。此処は四方八方ぎらぎらと飾りたてられていますからね。慣れないお客様も少なくありませんし」
会話は終わりかと思ってヒカルはまた歩きだし、だがすぐに足を止めた。青年はその場から一歩も動かないのを奇妙に思ったのだ。その顔を仰ぎ見れば、夜を思わせる虹彩と目が合った。
「私が誰か分かりませんか?」
「えっ?」
青年はくすりと笑った。「皇帝陛下の傍でお酌をしていたのですが。こちらを見てくださらなかったのは残念です」
「あ――」言われてみれば、彼とよく似た背格好と衣服が視界を横切った記憶がある。「ごめんなさい、気付きませんでした」
「謝らなくていいですよ、私は気にしません。それよりも貴方にお伝えしたい事があったのです。明日の朝にでも、と思っていたのですが、今起きているなら話は早い……」酌人を勤めていた青年はそっと顔をヒカルの耳元に近づけた。それは周りに聞かれないように、というよりも、ヒカルの耳朶にはっきりと刻みつける為の動作だった。
「貴方に会いたい、という方がいらっしゃいます。もしも貴方が贅を極めた生活に耽溺せず、それが己を切り刻むと知っても尚真実をお望みならば、明日の日が暮れた頃に私を訪ねて来てください。ああ、お連れ様には内密に。飽くまでも貴方一人でおいで下さい」
「訪ねる……、って言ったって、あなたの部屋は何処にあるんですか?」
「此処と同じ階にあります。夕刻ならば誰かしらが行き来している事でしょう。ああ、そう言えばまだ私の名前をお教えしていませんでしたね」青年は顔を離し、その笑みを一層深くした。「スファノモエー、と申します。どうぞよろしく、ヒカル様」
ヒカルはどくどくと脈打つ心臓を胸に部屋へ戻った。直線的に歩いていたので迷いはしなかった。アンナは穏やかな微笑を浮かべたまま眠っている。ヒカルは寝台の端に腰かけた。
今すぐにでも駆けて行って、喚き散らしたい衝動でいっぱいだった。真実って何? どうして僕がそれに切り刻まれるの? あなたは何を知ってるの? しかしスファノモエーは名乗り終えた瞬間に素早く身を翻し、曲がり角に消えていった。覗き込んでみればその先は迷路じみた構造があり、無理に追いかければ戻って来られないかもしれないからと渋々引き返したのだ。真実、真実、し、ん、じ、つ。反芻を繰り返す内に言葉は解けてばらばらになり、単なる音の集合に成り下がった。
明け方近くになって漸く、ヒカルは睡魔を迎える事が出来た。
夢のように広大な花園。そしてそこに遊ぶ、美しい少女。気紛れに舞い踊る長い髪。それは画家が見たならば、必ずや筆を執らずにはいられない風景であったろう。しかしヒカルは絵を描く事があまりなく、加えて眠気を堪えるので精いっぱいだった為、少し離れた所でそれを見るともなく見ているだけだった。今は冬のようだが、どうして此処は花が満開なのかしら、と思っても、それを調べる事さえ億劫になっていた。向こうの方に屈んで花の手入れをしている人間は、ヒカルには点描のように見えた。
「ねえヒカル、起きてる? どうしたの、具合でも悪いの?」今しがた拵えた花冠を携えたアンナがこちらの顔を覗き込んでいた。
「ううん、眠いんだ」夢見心地でヒカルは答えた。
「じゃあ休もうか。寝るなら部屋がいいでしょ?」アンナが腕を引っ張って立たせてくれた。
何か、不気味な夢を見た気がしたが、目覚めた時には胸に苦いものが残るばかりだった。
アンナは日が暮れると運ばれて来た夕食を食べ、さっさと寝てしまった。無理もない、とヒカルは思う。日中ずっとはしゃぎ通しだったのだ。午後になると何人かがやって来て、二人を風呂に案内した。風呂場専用の奴隷だった。ヒカルは全身を彼らの好きに洗わせ、船を漕いでいた。汚れていた服は運び去られ、何故か彼の体にぴったりの新しい服を着せられた。
アンナとは逆に日中うとうとしたまま過ごした所為か、ヒカルは全く眠くなかった。彼は己を切り刻むという真実について夢想し、怖気づいた。しかしフェンリルを思い出し、あれよりも恐ろしいものなどそうそうあるわけない、と自分に言い聞かせた。晴れがましい宮殿での暮らしに馴染めそうもない、という思いもあった。人には身の丈にあった暮らしというのがあるのだ、と思い知った。
彼は部屋を出て行く。期待と不安、どちらも抱えたまま。
スファノモエーの部屋は案外にヒカルの部屋の近くにあった。個室ではなく、他の召使か奴隷と共用であるらしい。向かい合わせに三つずつ並んだ寝台からそう推測した。
「お待ちしていました。ひょっとしたら来ないかも、と思いましたが、来てくれて何より。相手方に文句を言われずに済みました」彼はヒカルの腕を引いて部屋を出た。「では行きましょう」
「え、此処で話すんじゃない、んですか?」
「少々訳アリのお方でして。裏庭くらいならこっそり入り込めますが、
裏庭もよく手入れがされていたが、今の時間は無人だった。外の空気を求めて現れる者もいなさそうである。ヒカルは何とはなしに空を見上げて、あれ、と思った。あんなに大きな赤い星、今まであっただろうか。
「連れて参りましたよ」スファノモエーが暗がりに声を掛ける。よく見ればそこには人が立っていた。
「待ちくたびれたぞ。日が暮れたら来るように言っただろうが」返ってきたその声は老人のようにも若者のようにも聞こえ、確かなのは男の声であるという事だけだった。
「日が沈みかけの時に行くのか、完全に日が落ちてから行くのか、教えてくれなかったのはそちらですよ」
「……まあいい。おれ一人では呼び出せなかったのも確かだ。礼を言おう、
見かけはまだ若い、少年期の終わり頃のようだった。しかしその顔は死人のような色をしていて、纏う緋色の外套の裾には記号とも文字ともつかぬ紋様が刺繍され、黒曜石の塊から粗く削り出したような長大な杖を携え、奇怪な事にその緑色の目には赤い炎が宿っていた。
「……漸く会えたな。ヒカル・サカキ、
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