23,クロノスの神殿

 何度空を見上げた所で、乾ききった暗黒の天蓋は変わらず黒々とそこに在る。ヒカルは洞窟より抜け出ていた。フェンリル一頻ひとしきり笑った後、夢遊病者めいた面持ちで洞窟の奥へ戻って行った。追いかけて疑問をぶつける気には、流石になれない。五月蠅いと、それだけの理由でマナガルムを――マイを殺した魔物。その傍若無人ぶりは他者との理解が不要な程の強大な力によるものであり、更に今は安らかな死の淵の微睡まどろみから戻らされて極めて不機嫌になっている。深追いすればどうなるか、というのは考えるまでもない。

 ヒカルには何も分からない。フェンリルは何も教えてはくれず、ただ呪いのみを彼に遺した。血に濡れた舌の感触は何度擦っても消えず、不快感だけが苦く跡を引く。

 。それだけが、今のヒカルの行動原理だ。絶えず横道にれ続けるような旅路において、その呪いが唯一の道標だった。



 生前にマイが言っていた事を思い出す。ここではと望んだものが目の前に現れるのだ、と。ヒカルは、未だ会った事のないクロノスを脳裏に思い浮かべた。鎌を持った男、冥府の君主――果たして願ったものが目前に迫っていた。

 生気のない、一見すると朽ちているような神殿はしかし、厳かな雰囲気を全体に纏って静かに佇んでいた。ヘルの館にあった、埒外の不気味さは仄かに漂うのみ。これは魔物の檻ではなく、人の営みの延長線上にある施設なのだ、とぼんやり考えた。

 神殿に閉ざされた所は見当たらない。ヒカルは一番近くの柱の間から踏み入った。







 神殿には簡素なつくりの祭壇が一つと、その傍らに鎌を携えた男の像があった。

 祭壇の前に、暗い色のローブを纏った人影が跪いていた。その人物に近寄ろうとして、しかし突如としてそれは遮られた。

 先程まで誰もいなかった筈の所に、陽炎のような揺らめきと共に男が現れた。ゆったりした衣服から伸びる手足は筋肉が張り詰めている。男は剣呑な眼光でもってヒカルを見下ろした。

「此処は、死者とその管理者のみが立ち入りを許された場だ。そして、お前はそのどちらでもない。何者だ? 何の理由ことわりによって此処へやって来た?」ヒカルはそろそろと視線を上げる最中に男が帯剣している事に気付いた。自分の返答如何でそれを抜こうと備える手も。

「え、ええと」射竦められたような心地だが、少なくともフェンリルのような問答無用の威圧感は男にはない。「僕は……死んだ、筈なんです。でも気が付いたら此処に……いや、此処の外にいました。途中でヘルに、此処へ来れば何とかしてくれるかもしれないって教えられて――」

「ヘルだと? あの女狐め、一体何を企んでいる」男が顔を歪めた。

「何も企んでなどいまい」ローブの人物がこちらに背を向けたまま立ち上がった。声はしゃがれた老人のものだった。「あれは兄ら程、狡猾でも身勝手でもない。ただ請われるままに答えたのだろう。そしてその助言はあながち的外れでもない。この地において、わしの他にその子供をどうにか出来る者もおらん」老人はゆっくりと振り向く。久遠をけみした皺が顔に幾つも刻まれていた。その手には鈍く光る鎌があった。「退くのだ、アエネイス。わしが片を付けてやろう」皺の数と深さ以外は祭壇脇の彫像によく似た顔がこちらを見た。

「――もしかして、あなたがクロノス?」ヒカルがふと零した言葉で老人は陰気に笑った。

「噂に聞く通りだ。『狭間の子』はこの世界の生者よりも神々われわれに詳しい」

「へ? 噂って?」ヒカルは思わず訊き返した。この老いた神こそが己の中にわだかまる疑問を解いてくれるのではないか。そんな僅かな期待が一条の閃光のように彼の心に射した。

「噂というのは正確ではないかもしれぬな。が教えて下すったのだ。『狭間の子』が間もなくやって来て、永遠とわの栄光の冠をもたらす、とな」

「その、『狭間の子』っていうのは何ですか?」

「無論お前の事だ。詳しくはわしも知らぬ。日輪が育まず、異界の光に導かれし命である、という以外はな」

「……もしかして、貴方は月の事を覚えていますか?」アエネイスと呼ばれた男が息を呑むのを、視界の端で捉えた。

「ほう、セレネとは懐かしい名だ。覚えているか、とは妙な話だな。まるで他の者は皆知らぬとでも――」

「クロノス」アエネイスが厳しい口調で老人の言葉に割り込んだ。「忘れたのか。先の戦争で。いつまでこの子供と遊んでいるつもりだ? 貴方がやらないなら俺が――」

「そうくでない。小僧は為に此処へやって来たのだ。訳も分からぬまま死ぬのは本望ではなかろう。少しくらいは大目に見よ」、その一語がふいに堪らない恐怖を伴ってヒカルを襲った。あるいはそれは、フェンリルに相対した時の恐怖がリフレインしているのか。

「ちょ、ちょっと待ってください」ヒカルは手を挙げてクロノスに迫った。「僕はまだ死んでないんですよね? やっぱり、見逃してもらえませんか?」

「は?」老人がその威厳に似合わぬ、やや間の抜けた声を上げた。見る見るうちにそのおもてに怒りが募った。「と言うたか、このたわけ。死は誰にとっても平等であらねばならぬ。お前は何かの手違いで死に損なったようだから、せめてこのわしが慈悲深くもこれ以上苦しまぬようにその生を終わらせてやろうというのに、『やっぱり死ぬの辞めます』などという寝言が通ると思うのか」

「いやほら、貴方の話を聞くに、僕にはまだやらなくちゃいけない事があるみたいですし……」咄嗟に出た言い訳は、聞き手の神経を逆撫でするに十分な効力を具えていた。

 アエネイスが怒りも露わに剣を引き抜いた。「無駄話はここまでだ。首を切り落としてやる。今度こそ間違いなく死ねるようにな」

 ヒカルが身構えるよりも速く、剣は大上段に振りかぶられ、ギロチンのように振り下ろされた。

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