第二部 冥府にありてトリウィア

17,再臨

 ばしっ、という擬音付きの、意識が肉体に回帰する感覚。彼は、ヒカルは、自分が立っている事を認識した。

「……は?」どういう事だ。確かに自分は死のうとして、それを実行した。手足の末端から消えていくような死の感覚、味わったのだから違えるはずもない。しかし己は未だここにいる。片手を挙げて動かしてみる。指先まで神経は健在だ。周囲を見回せば、そこは果てしない荒野が広がるばかり。見知った建物は影さえない。欠けたピースだらけのパズルを押し付けられたような気分だ。それをどうにか繋ごうと思考を走らせる最中、脳髄のシナプスは電撃的にある情報を拾い上げた。

 ――じゃあ、『僕』が貰うね。

 あの声は何だったのか。いつか夢の中で聞いた声。

 その時、一陣の風が吹いた。「……寒い」冬さながらの、身を切るような冷たさが脳髄の迷路からヒカルを放りだした。「まず、風をしのげる所を探そうかな」独り言ちながら改めて目を凝らす。さっきと同じく何もない景色が広がっていた。

 ヒカルは、ふとその景色に違和感を覚えた。その正体はすぐに分かった。空は星一つない暗黒であるにも拘わらず、夜の暗さが地上には全くないのだ。光源は皆無だが、地の果てまではっきりと見える。まるで子供の描いた絵みたいだ。空を黒く塗りながらも、地上に立つ自分たちを鮮やかな色彩で描写したような……。

 考えるべき事は幾つもあるが、ヒカルは取り合えず前へ向かって進む事にした。見落としているか、ここからでは見えない何か――この凍えそうな風を防ぐもの――があるかもしれない。「そんなものはなかった」という結果しか得られないかもしれないが、ここに立ち尽くしていても何かが進展するとは思えない。

 彼は漠とした荒野に踏み出した。








 『僕』は間一髪で助かった。掃除用の海綿スポンジを引っこ抜かれ、肺腑は突然戻って来た酸素に驚いてむせた。暫く咳き込んだ、さながら産声を上げる赤子のように。ようやく収まってきて意識が他の物事――険しい目でこちらを見つめる人、人、人――に向いた。医師せんせいが一歩踏み出すと屈みこみ、『僕』に顔を近づけた。

「早速で悪いが、調子はどうかね? 普通に声が出せるかどうか、試してくれたまえ」

「はい、大丈夫です。お陰様で」なんだか可笑しかった。『僕』はこれまで事なんてなかったから。

「貴方の気持ちは分かりますが」今度はテレーズが近寄って来た。「二度とこんな馬鹿な真似はしないように。生きる事でしか死者に報いる事は出来ないのですから」そこにはいつもの冷笑的な色はなく、何処までも真剣そのものだった。

「はい。二度としません」『僕』は頷いた。生きて死者に報いるべき、それは『僕』が












 の地平において、時刻を示すものは皆無である。ヒカルの体感では半日近く歩き通しのように思えるが、どういうわけか疲労さえ残らない。

 歩きながらとりとめのない事を考えるようになった。結局「いつか私に会いに来て」と呼ぶ声は誰だったのだろう。あの夢は何を指していた? そう言えば、まだ姉さんの名前を思い出していない。何故忘れたのだろうか。何故、何故、改めて考えれば分からない事だらけだ。どうして僕はここに――あるいはに――居た/やって来た? どれ程問うても答えはない。何処にも辿り着けない。まるで今の僕みたいだ、と思った。ここは脳髄の迷宮、虚ろな空白は僕に何も示してはくれない。笑いたいような、泣きたいような、曖昧な気持ちになった。その事に少し安堵した。僕の心はまだ死んではいない、ええと何て言ったかな、昔父さんに教えてもらった言葉――我思う、故に我在りコギト・エルゴ・スム。僕は父さんの持って来る本や、聞かせてくれる話が好きだった。父さんは劇作家をしていたから、ネタになりそうな知識や小話エピソードはいつも手帳にびっしり書いてあったんだ。母さんは父さんのそんな所が好きになって結婚して、というのも母さんは舞台専門の女優で――おや、大分思い出してきたな。この分だと姉さんについても遠からず思い出せるかも。彼の足取りはやや軽やかになった。俯いていた顔も知らずの内に前を向き、そしてを見出した。

 民家にしてはいやに大きく、神殿にしては妙に閉鎖的で、凝土コンクリートにも似た素材の外壁が隙間なく下からその『館』の外観のおよそ八割を覆い、その上から突き出た二割は『不気味』という言葉を建材にして建てたような、何処となく胸の悪くなる絶妙なアンバランスさを具えていた。ヒカルが外壁の前に立つと、ふいに理由もなく絶望的な陰が彼の精神を覆った。さながら断崖の前に立たされたような気分だった。見上げれば壁には扉らしきものもなく、手や足を掛けられそうな凹凸もない。何かある事を願って歩き続けたが、その果てに見つけたものが、これ? 僕はどうすればいい? 涙で開くようには思えない、というより開くべき部分がまるでない。まるで中のものを閉じ込めておきたい誰かが拵えたような壁。手を伸ばした事に深い理由はなかった。ただ脳髄の何処かが、冷たく硬い厳然たる感触をシミュレーションしていた。

 果たしてその壁はそのような感触だった。

 彼の予想通りでなかったのは、手を触れて暫くすると壁が音もなく動き始めた事だった。

 彼の手のやや右側に直線的な切れ目が走った。最初の内、彼はそれを見間違いだと思った。その判断が間違いであったと悟ったのは数秒後、壁の一部が内開きの格好で開き始めたのを見た時である。

 覆われていた外観の八割の部分は、先に見えていた二割を遥かに凌ぐ気味の悪さを誇っていた。細部を見ても何処がおかしいのかを具体的に指摘する事は出来ないが、全体を見ると「これで倒壊しないのが奇跡のようだ」と思わせるような組み立てをしていた。

 ヒカルは暫し躊躇った。中に入っていいものか、この中は安全なのか。開かれた門の前で立ち尽くしていると、館の方から声がした。

 ――お入りよ、お前さま、小さなお客人よ。

 底知れぬ深淵から響くようなその声は、どちらかと言うと女性的な声質だった。念の為に辺りを見回すが、ヒカルの他に『小さな客人』に該当するような人物は見当たらない。

 彼は中に入る事を決めた。



















 紫苑は幼い頃、父に尋ねた事があった。母は舞台に出演するとかで、その場にいなかった。

「どうして、死んだ人には名前が二つあるの?」

 父は少し考え込む素振りを見せた後、小さな娘に向き直った。

「シオンの言っているのは戒名の事だね。死んだ人は、仏様のいる世界に生まれ変わるとされているんだ。だから、向こうの世界に合った新しい名前を付けてあげるんだ。名前がないと、『名前のないおばけ』の仲間にされてしまうからね」

「じゃあ、も? ヒナタも新しい世界に行ったの?」紫苑は位牌を指差した。当時の彼女には難しくて読めない文字が並んでいて、それが死者の名前だという。

「――ああ、そうだね。ひなたは幸せな世界に行ったんだ。お母さんのお腹から出て来る事は出来なかったけど、それでも十ヶ月、間違いなくこの世界に生きていたんだ。だから名前は二つあっていい」それは娘にではなく、自分に言い聞かせているような口調だった。

「さあ、そろそろ病院の面会時間だ。ひかるのお見舞いに行こう。。シオンはお姉さんだから、きっと出来るよね」

「うん!」その頃は分からなかった。口角を上げながらも、父の眉に隠しきれない迷いが表れていた事など。

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