第3話 生ビール始めました・後編
これまでのドリンクメニューを、生ビールを追加したものにリニューアルし、煮物屋さん内の壁にも『生ビール始めました!』と貼り出した。
するとメニューを目にした常連さんが、おしぼりで手を拭きながら「お!」と口角を上げた。
「生始めたのか!」
「はい。家庭用のサーバなんですけどもね。置き場所などの問題で、それが精一杯なんです。なのでお手柔らかに」
「充分充分。煮物屋さんで生が飲めるなんて嬉しいぜ。じゃあさっそく1杯入れてもらおうかな」
「はい。お待ちくださいませ」
佳鳴は微笑むと、タンブラーを取り出す。そうして美しく入れた生ビールを常連さんにご提供した。
「はい、お待たせいたしました」
「ありがとう」
常連さんはにこにこと受け取ると、威勢良くぐいっと
「……っぷはぁっ! 旨ーい!」
常連さんはきゅっと目を閉じて歓声を上げる。嬉しさがそのお顔から滲み出ていた。
「喜んでいただけて、こちらも嬉しいです。はい、お料理お待たせしました」
今日のメインは鶏もも肉と里芋、しめじの煮物だ。彩りには塩茹でしたほうれん草を。
鶏もも肉はお酒とお塩の下味を揉み込んでから、皮目をこんがりと焼き付けてから煮込んでいる。
香ばしさが煮汁に溶け出して、里芋やしめじに含まれるのだ。
ほろっと柔らかく煮上がった鶏もも肉に、ねっとりとした里芋。しめじはしゃきっとした歯ごたえを失わず、それらを優しい煮汁がまとめ上げる。味わい深い一品だ。
小鉢のひとつは春雨の炒め物だ。茹でて戻した春雨を、千切りにしたピーマンと人参と一緒にごま油で炒め、お砂糖、日本酒、お醤油とオイスターソースで軽く味付けをする。
仕上げにもごま油を回し掛け、盛り付けたら白ごまを振るのだ。
つるんとした春雨に、しゃきしゃきのお野菜。ごまの風味が香る一品となった。
小鉢のもうひとつは厚揚げ
厚揚げのほっこりした旨味と香ばしさ、それと田楽味噌の風味が良く合うのだ。
常連さんは「いただきます」とお箸を持ち上げ、春雨炒めをつるんと食べ、生ビールを傾ける。そして「ほぅ」と息を吐いた。
「やっぱり良いなぁ、生ビール。家庭用でもこんなに旨いんだ。凄いなぁ」
「私たちも昨日試しで飲んでみて驚きました。業務用と
「うんうん。それにしても生ビールと他のビールって何が違うんだろ。作り方?」
「それぞれ容器が違うだけで、中身は全く同じものなのだそうですよ」
佳鳴のせりふに常連さんは「そうなの?」と目を大きくする。
「はい。ですので違いは注ぎ方でしょうか。それでできる泡の違いかと。やはりサーバからで無いと、生ビールの様なきめ細やかな泡は難しいですからね」
「なるほどねー」
常連さんは感心した様に言って、また生ビールをぐびり。
「気分の問題ってのもあるかも知れないな。旨い。けどまぁ、2杯目からはいつものハイボールにするよ。生ビールが続くと店長さんたちが大変そうだ」
「まぁ、お心遣いありがとうございます」
本当にありがたい、と同時に申し訳無くも思う。佳鳴がぺこりと頭を下げると、常連さんは「いやいや」と笑顔で首を振る。
「とりあえず生! ができる様になって嬉しいよ。どちらにしても俺は2杯目からは飲むもの変えるタイプだしね」
「本当に助かります。生ビールをご提供する様になってどうなるか、私たちもまだ未知数でして」
「いやぁ、増えると俺は思うね。
「あら、何を賭けられます?」
佳鳴がいたずらっ子の様に言うと、常連さんは「わはは」と豪快に笑い声を上げた。
そしてその常連さん、酒屋の若大将さんの読み通り、生ビールは大変ご好評いただき、普段は1杯目から日本酒や酎ハイなどを飲まれるお客さまも、1杯目は生ビール、とご注文される方が相次いだ。
2杯目からはいつものお酒に切り替えられる常連さんも多かったが、普段からビールを好まれる常連さんは、2杯目以降も生ビールを楽しまれた。
佳鳴と
週明けの火曜日なので、週末ほどの忙しさでは無い。それでも生ビールの分いつもと勝手が違うので、少し焦ってしまう様なシーンもあった。
ドリンクはもちろんお料理もあまりお待たせしない、それが煮物屋さんの長所だ。そこが
だがお優しい常連さんは「慌てなくても良いから」なんて、笑いながらおっしゃってくださる。本当に申し訳無いと思いながらも、「ありがとうございます!」と元気な声を上げた。
そうしてどうにか生ビールご提供初日を乗り切った佳鳴と千隼。
シャワーを浴びて、これから生ビールと反比例して売り上げが落ちるであろう瓶ビールの
「お疲れさま」
「お疲れ」
そう言い合いグラスを煽る。小振りなグラスの中身はあっという間に空になった。佳鳴は手酌で2杯目を注ぎ、「あー、何とかなった」と溜め息を吐いた。
「本当にな。客の心遣いがありがたかったぜ」
「本当。お飲物を作るってことは同じなのに、いつもとやり方が変わるだけで手間取っちゃったり。でも週末までにはきっと慣れるよね」
「多分な」
千隼も手酌で入れた2杯目を傾ける。
「ちょっと大変だったけど、やっぱり生ビール入れて良かったよ」
「ああ」
唇を白い泡でふぅわりと彩り、嬉しそうに顔を綻ばせるお客さまを見るたびに、ああ、やはり生ビールをお出しできる様にして良かったと、佳鳴も千隼もしみじみ思ったのだ。
お客さま、常連さんは皆さん口には出さなかったが、やはり煮物屋さんでの生ビールの提供を待っておられたのかも知れない。
そう思うほどに、生ビールはご好評だったのだ。
これからもっとスムーズに動ける様に頭を働かせなくては。明日もまたしっかりと励もう。
佳鳴と千隼は気合いを入れる様に、グラスの中身を飲み干した。
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