第2話 CAさんの日常

 一月が経ったころ、訪れた都築つづきさんは倒れてもおかしく無い様な疲労をにじませていた。


 美しくつややかな黒髪を、いつも後ろで綺麗にひとつにまとめている都築さんだが、今日は心なしか少し乱れている様な、艶が損なわれている様な気がしてしまう。


「こんばんはぁ〜」


 まるで悲鳴の様な声を上げる都築さんに、佳鳴かなる千隼ちはやも大いに驚く。


「いらっしゃいませ都築さん。どうかされました?」


「かなりお疲れの様ですね。大丈夫ですか? お水入れましょうか?」


 佳鳴たちは慌てるが、都築さんは「それよりもビールください〜!」と悲痛な叫びを上げながら滑り込む様に椅子に掛けた。


「はい。お待ちくださいね!」


 千隼がおしぼりを渡し、佳鳴は急いでビールの小瓶とグラスを出す。


「お待たせしました」


「ありがとうございます〜」


 都築さんはビールをグラスに注ぎ、豪快ごうかいに喉を鳴らしながら一気に喉に流し込んだ。


「……っ、はぁっ!」


 盛大に溜め息を吐き、「あ〜、生き返りましたぁ」と歓声を上げた。


「大変だったんですか? 大丈夫ですか?」


「はい。もう大丈夫です。驚かせてしまってごめんなさい。ラストのフライトでちょっと困ったお客さまがおられて」


「あら」


 佳鳴は目を丸くする。煮物屋さんもお客さま商売だが、CAさんとなるとお相手されるお客さまの数のけたが違う。中には難儀なんぎなお客さまもおられるだろう。


 そういうお客さま相手でも、快適な空の旅をお過ごしいただける様に心を砕かなければならないのだから、本当に大変なお仕事だ。


「ホステスさん代わりにされてしまいました」


「あら、まぁ」


「ファーストクラスの若い男性だったんですけども、付きっ切りにされてずーっとワイン注がされてました。その間にこにこしてなきゃいけないので顔は痛いですし、立ちっぱなしだし。笑顔と立ちっぱなしはいつものことなんですけど、私がそのお客さまに掛かりっきりになると同僚にも迷惑を掛けてしまうして、本当に精神に来ました。国内線だったことが救いです。時間が短いので」


「それは大変でしたね。ここではごゆっくり寛いでください。少しでも癒されていただけたら嬉しいんですけど」


「もうこちらの空気感だけで癒しです。終わったら煮物屋さんに行けるって、それをはげみに頑張りました。ご飯も楽しみです」


 都築さんはふわりと頬を緩ませた。


「すぐにご用意しますので、お待ちくださいね」


 佳鳴は微笑んで手を動かした。




 翌月訪れた都築さんは「こんばんは!」と元気いっぱいだった。


「いらっしゃいませ」


「いらっしゃい。こんばんは」


 出迎えられてカウンタに腰を降ろした都築さんは、千隼から受け取ったおしぼりで手を拭いて「ふぅ」と一息吐かれる。


「ビールお願いします」


「はい。お待ちくださいね」


 さっそく小瓶ビールとグラスをお出しすると、都築さんは心地好さそうに喉に流し込む。


「あ、聞いてください店長さんハヤさん。私、この前初めて体験しましたよ。『お客さまの中にお医者さまはおられますか』ってやつ」


「あら、具合が悪くなられたお客さまが?」


「そうなんです。実際にはそんな呼び掛けはしないんですけどもね。搭乗者リストを見るんです。乗り物酔いは珍しく無いんですけど、心臓が苦しいってうめくお客さまがおられて。もう本当に慌てちゃいました。もちろんそんなの表には出せないんですけど」


「私だったら目の当たりにしたら、怖くて冷静じゃいられないと思います。大変でしたね」


「びっくりしました。幸いお医者さまがおられて、診てくださって。心臓に持病をお持ちだったんですって。お薬も持ってらしたんですけど、苦しくて動けなくて、足元のバッグから取ることができなくて。お医者さまがゆっくりとお話を聞き出してくださって、お薬を飲んでくださって事なきを得ました」


「良かったですねぇ」


 佳鳴も千隼もほっと胸を撫で下ろす。


「本当に。お客さまのお生命も大事なんですけど、機内でどうにもならなくて最寄りの空港に一時着陸なんてことになったら、他のお客さまのご迷惑になっちゃいますから」


「そうなんですね。お生命と天秤てんびんに掛けられるものでは無いのかも知れませんけど、それぞれのお客さまにご事情がありますものね」


「そうですよね。これからもいろいろな経験があると思いますけど、もっと臨機応変りんきおうへんに、柔軟に対応できる様になりたいです」


 都築さんはそう言って、ぐっとこぶしを握り締めた。


「大丈夫ですよ。都築さんでしたら」


 佳鳴が笑顔で言うと、都築さんは「だと良いんですけども」と照れ臭そうに口角を上げた。




 そしてまた翌月、都築さんは来店される。美味しそうにビールを飲みながら。


「昨日だったんですけどもね、機内で小さなお客さまと鬼ごっこしちゃいましたよ」


 にこにことそんなことを話される。


「小さなお子さまのご搭乗はいつものことなんですけども、本当にじっとしていられないお子さまだったでしょうね。お母さまが『おとなしくしてなさい』なんて言っても聞かないんですよねぇ」


 都築さんはおかしそうに笑う。


「なのでお客さまへのサービスが無い時間帯に、少しお相手をさせていただきました。その子は捕まえて欲しいみたいで、あんまり速く走ったりしないんですよ。何度も後ろを振り返って。捕まえられたらきゃあきゃあ喜んで。あ、男の子なんですけどね。あの、多分なんですけど」


 都築さんは少しばかり苦笑しながら首を傾げた。


「お母さまが生まれて間も無さそうな赤ちゃんを抱いてらしたので、最近妹さんか弟さんが誕生されたんでしょうね。それであまり構ってもらえなくなってしまって、寂しかったのかも知れません」


 それは良く聞く話だ。お母さまが赤ん坊に手一杯になってしまうのは仕方が無い。


「赤ちゃんはどうしても手が掛かってしまいますものね。それで先に生まれたお兄ちゃんお姉ちゃんが寂しい思いをするって言うのは聞きますね。そういう時にお父さまのご協力が不可欠なんでしょうが」


「その時はお父さまらしき方は見掛けませんでした。お隣女性でしたし。お母さまと小さなお子さまふたりの移動は大変ですよねぇ」


「そういうのを手助けしてさしあげるのも、CAさんのお仕事なんですね」


「はい。少しでもお母さまのお力になっていたら良いんですけども」


「きっと大変助かったと思いますよ。そのお母さま、もしかしたらご実家に出産のために帰られて、ご自分のお家に戻られるところだったのかも知れませんね」


「あ、そうですね。赤ちゃん本当に小さかったから」


「でしたらお子さんおふたり連れは慣れておられないかも知れませんし、そうしてお手伝いをしてくださることは本当に助かると思いますよ。しかもCAさんですから信用もできますし」


「ふふ。だったら嬉しいですねぇ。私もCAになりたいって思ったきっかけが、初めて飛行機に乗った時に、鬼ごっこでは無いですけども、その時のCAさんに構ってもらった経験が大きいんです。優しくて笑顔が綺麗で、まるで女神って言うか。そうなれるにはまだまだだと思いますけど、憧れなんです」


 都築さんは懐かしげにふわりと微笑んだ。

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