21章 美ボディへの道

第1話 空腹の理由

 駒田こまださんが煮物屋さんのドアを開けた時、店内がわずかに騒ついた。すらりと高い背に長くて細い足、きゅっと引き締まった腰。露出しているところに余分な脂肪なども無く、染みやしわひとつない肌はまるできらきらと輝いている様だ。


「こんばんは」


 そう開いているだろう口は大きな不織布ふしょくふマスクに覆われて見えない。だが軽やかな声はきっと駒田さんの表情をにこやかにしているはずだ。


「こんばんは。いらっしゃいませ」


「いらっしゃいませ」


 駒田さんは眼鏡にさえぎられたぱっちりとした大きな目を細めて小首を傾げる。カウンタにしゃきっと姿勢良く着き、眼鏡とマスクを外すと「はぁっ」と息を吐いた。


「あ〜、マスクはやっぱり息苦しいですね〜」


 駒田さんはマスクで隠されていた形の良い口元を上げる。


「大変ですねぇ」


 佳鳴かなるは言いながらおしぼりをお渡しする。駒田さんは「ありがとうございます」と受け取って手を拭いた。


「念のため身バレ防止をしておかないと。眼鏡もサングラスにしようと思ったんですけど、そうしちゃうとまるで不審者ですからねぇ」


「確かにそうですねぇ。正体はばれにくくなるんでしょうけどもねぇ」


「加減が難しいところです。えーっと、赤ワインください」


「はい。お待ちくださいませ」


 佳鳴は大振りのワイングラスを出して、ボトルから赤ワインを注ぐ。


「はい。お待たせしました」


 駒田さんは差し出されたそれを「ありがとうございます」と受け取り、さっそく口を付けた。


「ああ〜、やっぱり赤ワイン美味しいぃ〜。普段我慢してるからなおさら美味しい〜」


 駒田さんはそう言って、うっとりと目を細めた。


銘柄めいがらをお選びいただけなくてすいません」


 佳鳴が言うと、駒田さんは「いいえぇ」と軽く首を振る。


「飲みやすい美味しいものを置いていただいているんですから。このぐらいの風味が食事には1番だと思います」


 ワインは佳鳴と千隼ちはやでいくつか試飲をして選んでいた。白はやや辛口のすっきりとしたものを。赤も甘みと酸味のバランスが良い軽めのものを仕入れている。


「そうおっしゃっていただけましたら助かります。ありがとうございます」


 佳鳴は言って笑みを浮かべた。


 今日のメインはえびと人参ときゃべつとしめじの味噌煮込みだ。半月切りにした人参とざく切りにしたきゃべつ、小房にほぐしたしめじをさっと炒めてから出汁と酒を入れ、軽く煮込んだところで合わせ味噌を溶いてさらにことことと煮込む。


 えびは固くならない様に、しっかりと臭み抜きをしたものを仕上げ数分前に入れて火を通す。仕上げにごま油を垂らし、器に盛付けたら彩りに青ねぎの小口切りをぱらりと振った。


 小鉢のひとつはちんげん菜のごま和えだ。塩茹でしたちんげん菜を太めの千切りにし、調味液と黒すりごまで和えた。


 もうひとつは冷奴。薬味はちりめんじゃこを明太子で和えたものである。


「あ、味噌煮嬉しいです。じゃあ今日はお汁物はお澄ましですか?」


「そうですよ。わかめと水菜です。今日もしめにお飲みになられますか?」


「はい、ぜひ。あ、お味噌汁毎日飲んでますよ。インスタントですけど、お味噌と具が別々になったちょっと良いやつです。わかめもたっぷり入れて。朝はお米しっかり食べてます」


「良いですねぇ。オイルもってますか?」


「晩ご飯にアマニオイルを掛けて食べてます」


「良いですね。どちらも大事ですから、ちゃんと摂取してくださいね」


「はぁい」


 駒田さんは笑顔で頷いた。




 駒田さんが最初この煮物屋さんに来られた時は、空腹で昏倒こんとう寸前の有様だった。


 常連さんに旭日あさひさんという広告代理店にお勤めの男性がおられるのだが、その方に支えられて、開店直後のまだ他のお客さまがほとんどおられない煮物屋さんを訪れたのである。


 ぐったりとうつむいた駒田さんを前に、心配になって佳鳴は言った。


「旭日さん、お連れさまの体調がお悪いんでしたら、うちでは無くて病院にお連れした方が」


「救急車呼びましょうか?」


 千隼も言って電話に手を伸ばす。すると旭日さんは「いやぁ」と苦笑する。


「この人駒田ちゃんって言って新人モデルでさ。さっきまで撮影で、それは無事に終わったんだけど、腹が減って動けないってさ。でもダイエットしてるって言うからさ、下手にコンビニ飯とか買うより、いっそここに連れて来た方が良いかなって思って」


「ダイエット、ですか?」


 佳鳴から見ると駒田さんはダイエットなど必要無いほどに細かった。いくらモデルとはいえむしろせ過ぎだと思った。ちゃんと栄養が摂れていないのでは無いかと思うほどに。


 千隼が他のお客さまのところに戻り、佳鳴が旭日さんを前に心配げにやや眉をしかめると、旭日さんは「うーん」と困った様に唸る。


「いくらモデルのダイエットつったってさ、こんなになるまでやるってなぁ」


 すると駒田さんは「はぁ……」と辛そうな溜め息を吐いた。


「あの、大丈夫ですから。帰って寝ちゃえば」


「そんなこと言ってもさぁ」


 旭日さんは弱り顔で頭を掻く。


「でも空腹でしたら、しっかりご飯を食べていただいたら良いんですよね?」


 佳鳴が言うと、駒田さんは弱々しく頭を振る。


「駄目です。食べたら太っちゃうんで……」


 駒田さんの外見から薄々感じていたことだったが。


「もしかして、食べないダイエットをされてます?」


「サラダは毎日食べてます……」


「他には? お肉とかはどうですか?」


「お肉なんて食べたら太っちゃいます……」


「以前はお肉を食べて太られたんですか?」


 その言葉に駒田さんは「はい……」とか細い声を上げる。


「私、昔はお肉とお米を食べ過ぎて太っちゃったので……。やっとサラダでダイエットして痩せれたのに、せっかくモデルになれたのに……、私太りやすい体質だから……」


「それはもしかしたら食べ方と量が良く無かったのかも知れません。お米はともかく以前にはお肉はダイエットの天敵だなんて言われていましたけど、今は違うと言われている様ですよ」


「私もそう聞いたので焼き肉を食べたんですけど、そしたら太っちゃって……1キロも……」


 1キロなんて体重変動の許容範囲だ。朝と晩の体重測定だけでもそれぐらいの差は出る。食事前と後でも変わるのだ。


 どうやら駒田さんは少しでも体重が増えてしまうことに、相当過敏になっている様だ。だから食事はサラダだけにしているのだろうが、佳鳴が知る限りは逆効果である。サラダの内容にもよるが、これが生野菜だけだと言うのならなおさらだ。


「お豆腐などはどうですか?」


「お豆腐あまり好きじゃなくて……」


「美味しいと思えないですか?」


「味が無いって言うか……サラダはお野菜の味でなんとか食べられるんですけど、お豆腐はそれができなくて」


「サラダにドレッシングとか掛けてらっしゃらないんですか?」


「ノンオイルを少しだけ掛けてます。それでもお豆腐は美味しいって思えなくて」


 ノンオイルとは。これもまた実はダイエットには逆効果なものだ。モデルさんであることを除いてもダイエットに神経質そうだが、昨今の情報はあまり取り入れておられないのだろうか。


 以前太っていたのをサラダで痩せたとおっしゃっているので、その固定概念に取りかれてしまっているのかも知れない。可能性としてはそちらの方が高そうだ。


「じゃあ太らないご飯をお作りしたら、食べていただけますか?」


 佳鳴が言うと、駒田さんは「え……」とゆっくりと顔を上げる。そこで佳鳴はようやく駒田さんのお顔を正面から見ることができた。


 整った綺麗なお顔立ち。目は猫の様にぱっちりしていて鼻筋はすっと通り、小さなピンク色の唇は形良い。しかし頬がけて目元が落ちくぼんでいる様に、不健康そうに見えた。目にも生気が感じられない。


 ナチュラルにほどこされた化粧は崩れていないが、乗りが悪そうに見える。


 さりげなく腕に触れてみると、身体はすっかりと冷え切っていた。


 きちんと栄養を摂って健康的になれば、もっともっと魅力的なモデルさんになれるだろうに。


 確かに職業柄そう肥えることはできないだろう。だが無理なダイエットで身体を壊してしまっては元も子も無い。


「そんなご飯があるんですか?」


「はい。ここは私に任せていただけませんか? あ、その前に。少しお待ちくださいね」


 佳鳴はカウンタの中に戻ると湯呑みを出し、お湯と水を入れて軽く混ぜて、駒田さんにそれをそっと差し出した。


「ぬるま湯です。これで身体を温めてください」


「ぬるま湯? 身体を温めるんだったら熱い湯の方が良いんじゃ無いか?」


 旭日さんの言葉に佳鳴は「それはしんどいかもです」とやんわりと首を振る。


「空っぽのお腹にお白湯を入れるのは少し刺激が強いかなと。この感じですと胃も弱っておられると思いますし」


 すると旭日さんは合点がいった様に「なるほどな」と頷く。


 駒田さんは「……ありがとうございます」とおずおずと湯呑みを受け取り、ゆっくりと口を付けた。すすっと小さな音を立ててぬるま湯をすする。


「……あったかい。美味しい」


 駒田さんは心地よさそうに目を細めて呟いた。

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