第4話 ふたりのサプライズ

 その日、開店間も無い時間に「こんにちは」と訪れたのは渡辺わたなべさん。渡辺さんはやや奥まった席に掛けた。


「いらっしゃいませ」


「いらっしゃいませ〜」


「今日は加寿子かずこさん、佐藤さとうさんとここで待ち合わせなんすよ。夕方からなんて珍しいっす」


「そうなんですね。あれからもご指名はあったんですか?」


「あったっすよ。いつもランチからのデートっす。今日みたいなのは無かったっすね。ここに来たいとかも言わなかったっすし。だから何かあったんじゃ無いかってちょっと心配なんすよ」


「そうですね。何事も無ければ良いんですが」


「なので注文は加寿子さんが来てからで頼むっす」


「かしこまりました。ではそれまで麦茶でもお出ししましょうか」


「助かるっす。ありがとうっす」


 佳鳴がタンブラーに入れた麦茶をお出しすると、受け取った渡辺さんは一気に半分ほどを流し込んだ。


「喉乾いてたからありがたいっす。あれ? この店麦茶なんてあったっすか?」


「これは私たちが営業中に水分補給する用です。いつでも水出しで作っているんですよ」


 すると渡辺さんは「え、ええ」と慌てる。


「すいません、水分補給大事なのに」


「いえいえ。パックはまだまだあるんで大丈夫ですよ。お気になさらないでくださいね」


「そうですよ」


 佳鳴かなる千隼ちはやが笑顔で言うと、渡辺さんはほっとした様に頬を緩ませた。


「ありがとうっす」


 佐藤さんが来られたのはその時だった。「こんにちは」としとやかにに頭を下げる。


「いらっしゃいませ」


「いらっしゃいませ」


 そうして入って来る佐藤さん。その後に続いて入って来られたのは年かさの行った男性だった。すらりとした痩せ型の、紳士と言って良い様な上品さが感じられる。


「こんにちは」


 男性も穏やかな笑みを浮かべて頭を小さく下げる。佳鳴たちは「いらっしゃいませ」と出迎えた。


ゆうちゃんお待たせしたわねぇ」


 佐藤さんは渡辺さんを見付けてにっこりと微笑んだ。


「加寿子さんこんちはっす。あの、そちらは」


 渡辺さんが立ち上がりおずおずと佐藤さんの背後を覗き込む様にすると、男性はにっこりと笑う。


「あなたが渡辺佑さんですね。初めまして。佐藤加寿子の夫で昌守まさもりと申します」


 すると渡辺さんは大いに慌てる。先ほどの麦茶云々の時の比では無い。佳鳴と千隼も驚いて「え?」と口を開いた。


「ああああの、あの、俺」


 渡辺さんはしどろもどろになってしまう。それはそうだ。自分のことをどう説明したら良いのか。


 まさか旦那さんに「奥さんにレンタルされていた擬似彼氏です」と言うわけにはいかない。いくら親子の様な触れ合いだったとは言え、これは夫婦の亀裂きれつを生みかねないことだ。


 佳鳴と千隼も何も言えずはらはらと見守っていると、佐藤さんの旦那さんは呆れた様に口を開く。


「加寿子、全然息子に似ていないじゃ無いか。渡辺くんの方がよっぽどハンサムだろう」


「あらぁあなた、私はそういう意味で言ったんじゃ無いですよぉ」


 佐藤さんは少し膨れた様に言い返す。渡辺さんは狼狽うろたえたまま「あ、あの」と口をぱくぱくさせた。


「ああ渡辺くん、驚かせてしまって申し訳ないね。大丈夫だよ。全部加寿子から聞いているから」


「全部って」


「佑ちゃんが、私が指名したレンタル彼氏の彼氏さんだってことよ〜」


 佐藤さんがあっけらかんと言うので、渡辺さんはまた「えええ!」と焦ってしまう。


 これには佳鳴と千隼もぎょっとした。そんなことをして大丈夫なのか。


 しかし佐藤さんご夫妻はにこにこと渡辺さんに笑い掛けた。


「私が仕事にかまけている間に、家内がわがままを言った様で本当に悪かったね」


「い、いえ、あ、あの」


 渡辺さんはまだ目を白黒させている。


「まぁまぁ佑ちゃん、まずは座りましょう。ちゃんとお話するわねぇ。あなた、ここのお食事とても美味しいんですよ。楽しみですねぇ」


「そうだね。楽しみだ」


 佐藤さんが渡辺さんの背中を軽く叩いて元の席に座らせ、佐藤さんがその横に、旦那さんがさらにその横に掛けた。


「店長さん注文良いかしらぁ。あら、佑ちゃん注文はまだなの?」


「は、はい、まだっす」


「あ、そうよねぇ、私たちがお待たせしちゃったものねぇ、ごめんなさいねぇ。佑ちゃんもお酒で良いかしら?」


「あ、は、はい」


 渡辺さんはタンブラーに残っていた麦茶を一気に飲み干し、「はぁっ」と盛大な溜め息を吐いた。


「あ、焦ったっす。俺どうしたら良いんすかねぇ。あ、しゃ、シャンディガフで!」


 めちゃくちゃである。佳鳴と千隼に訴えかける渡辺さん。しかし佐藤さん夫婦を見ているとなんら心配は無さそうだ。佳鳴たちは「ふふ」と笑う。


「大丈夫だと思いますよ、渡辺さん。お話をお伺いしてみましょうよ。渡辺さんご夫妻はご注文どうされますか?」


「そうよぉ佑ちゃん。この前のお話ね、もうすっかり解決したのよぉ。私は白ワインでお願いねぇ」


「そうなんだよ渡辺くん。私もうっかりしていたんだよ。私はビールでよろしく頼むよ」


「そ、そうなんすか?」


 渡辺さんはまた少しびくついている。


「瓶ビールになりますがよろしいですか?」


「もちろん構わないよ。うん、最初家内からレンタル彼氏の話を聞いた時には驚いたものだがね、私が寂しがらせてしまったのが何よりの原因だったんだよ。だけど私はね、家内を困らせたく無かったんだよ」


「困らす、っすか?」


「そう。経済的にね。息子もいて、今でこそ手が離れているけど大学を出すまではそれなりに掛かるだろう? 私学に行きたがればなおさらね。そんな時に経済力を理由に諦めさせたく無かったんだよ。家内の生活もね、私は結果として家事も子育ても家内に任せることになってしまったから、じゃあ私は稼げるだけ稼ぐ、老後、定年後も困ることのない様にね。だからいろいろなプロジェクトにも参加して給料を上げるだけ上げて、家内に渡す分とは別に貯金もしていたんだよ」


「そうなのよぉ。私が佑ちゃんにかまけている間にも、この人はそうやって私と息子のことを考えてくれていたのよ。本当に恥ずかしいわぁ」


 佐藤さん、加寿子さんはそう言って手で顔を覆ってしまう。


「それは何も言わなかった私が悪いんだよ。で、先日無事に定年を迎えてね。これからはまた夫婦水入らずの生活が始まるよ。息子も独立することになったしね」


「そうなんすか?」


「ああ。もう社会人になって数年になる。いつまでも親のすねをかじらせるわけにもいかないからね。私もだが息子も今までさんざん家内に甘えて来たんだ。そろそろ自分のことは自分でやるべきだろうってね。だから加寿子、暇ができたからって息子の家に掃除や洗濯なんかをしに行くんじゃ無いよ」


「分かってますよぉ。ちゃんとひとりでなんでもさせないとね。だからね佑ちゃん、安心してねぇ。私はもう大丈夫。この前は愚痴なんて聞かせちゃったけど、ちゃんとね、夫と、昌守さんとね、話し合いができたから」


「本当に済まなかったね渡辺くん。今度ね、ふたりで旅行に行くことにしたんだよ。これまでろくにそんなこともさせてあげられなかったからね」


「そうなのよぉ。台湾に行くのよぉ〜。まずは近い海外から初めてみましょうってね。楽しみだわぁ〜」


 佐藤さん夫妻は嬉しそうに笑っている。渡辺さんは半ばぽかんと話を聞いていたが、泣きそうに顔を緩ませると「あ〜良かったぁ〜」と声を上げた。


「俺はただのレンタル彼氏で、ただいっ時加寿子さんを楽しませることしかできなくて。でも加寿子さんが困ってても何もできなくて。だから本当に良かったっす!」


「あらあら佑ちゃんたら」


「おやおや。加寿子、この渡辺くんは本当に良い子だねぇ」


「でしょう〜? だから私、本当に楽しかったんですよ〜。あなたには渡辺くんに感謝して欲しいですよ」


「本当にそうだねぇ」


「あ、いえ、そんな、そんなこと無いっす」


 渡辺さんは慌てて謙遜けんそんするが、それは佳鳴と千隼も知っていることだ。だからこそ加寿子さんと昌守さんを笑顔にできたのだ。


「さぁ渡辺さん佐藤さん、積もるお話もあるでしょうが、お飲み物ができましたよ」


 佳鳴と千隼が微笑んで飲み物を渡すと、「ありがとうっす」「ありがとうねぇ〜」「ありがとう」とそれぞれ受け取る。


「ま、昌守さん、俺お注ぎするっす」


 渡辺さんが笑顔でビール瓶を持つと、昌守さんは「おや、ありがとう」とにこにことグラスを掲げた。そうして全員のドリンクが揃うと。


「乾杯!」


 威勢いせい良く、しかし上品にグラスを重ねた。それぞれのペースでぐいとグラスを傾けると、「はぁっ」と心地よい息を吐いた。


「お料理も楽しみだわぁ。あなた、ここはお料理もとても美味しいんですよ」


「ああ。楽しみだねぇ」


「はぁい、お待たせしました〜」


 佳鳴と千隼が整えた料理をお出しすると、皆は「わぁ」と嬉しそうに顔を綻ばせた。

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