15章 扇木さん家の家庭の事情

第1話 姉弟と母親の関係

 その日の夜、煮物屋さんは絶賛営業中。常連さんが多く無い席を埋めていた。本当にありがたいことだ。


 21時を過ぎたころ、店備え付けの電話が控えめに鳴る。ファクスと一体になった電話機だ。


 受信音を小さくしているのは、お客さまの迷惑にならない様に。姉弟にだけ聞こえたら良いのだ。近くにいた千隼ちはやが受話器を上げた。


「はい、煮物屋さんでございます。はい、……ああ、うん、うん、解った」


 千隼は簡潔にそれだけを言うと、受話器を置いて「ふぅ〜」と小さく溜め息を吐いた。


「千隼、お母さん?」


 千隼の口調で、相手はお客さまなどで無いことは判る。佳鳴かなるはそう見当を付けて声を掛けた。


「おう。えて動けないってさ。俺、さっと行ってぱぱっと作ってくる」


「私が行こうか?」


「いや、俺行く。煮物頼むな」


「解った。お母さんによろしくね」


「オッケー」


 千隼は手早くエプロンを外しながら奥に入った。


「じゃあ行って来る。お客さま方すいません、少し抜けますね。ごゆっくりなさっててください」


 するとお客さま方は「はーい」と返事をし、千隼を送り出してくれた。


「店長さんたちのお母さんって、確かデザイナーされてるんでしたよね」


 常連客の結城ゆうきさんが聞いて来る。今日は冷酒を楽しまれていた。


「はい。お陰さまで、どうにかやっている様ですよ」


 佳鳴が言うと、こちらも常連の田淵たぶちさんご夫妻が「へぇ」と感心した様な声を上げる。


「何のデザイナーなのか、お伺いしても?」


 田淵さんの奥さん、沙苗さなえさんが控えめにいて来るので、佳鳴は何気無い調子で「子ども服ですよ」と応える。


「そうなんだ。何だろう、こんな美味しいご飯を作られる店長さんたちのお母さんだったら、凄く可愛い子ども服を作られそうな気がします」


 田淵さんがそう言うので、佳鳴は「そうですねぇ」と曖昧あいまいに応える。


 しかし佳鳴、そして千隼にとっても不思議ではある。なぜあの母親が子ども服のデザイナーになったのか。


 要はこの姉弟にとって、母親は「そういう」存在なのである。




 車で出た千隼は途中の郊外型スーパーで買い物をし、住居の入っているマンションに着くと、キィケースを取り出しオートロックを開けた。家の鍵はスペアを預かっているのだ。


 エレベータを使って目的階へ。エコバッグをがさがささせながら廊下を歩き、部屋のドアを開ける。


「母さん、来たよ」


 玄関でスニーカーを脱ぎながら千隼が言うと、奥から女性がのそりと出て来た。


「あぁ千隼、来てくれたのか」


「そりゃあ「腹が減って死にそう」なんて言われちゃあな。ぱっと作るから。洗い物は自分でしてくれよ。俺作ったら店に戻るから」


「助かるよ。いや、もう冷蔵庫もすっからかんでねぇ」


 女性、佳鳴と千隼の母である寿美香すみかは言うと、おかしそうに笑う。千隼が念のために冷蔵庫を開けると、確かに食材はろくになく、缶ビールとつまみになりそうなプロセスチーズが少し入っているだけだった。


「材料費は払うからさ」


「色も付けてくれよ。姉ちゃんひとりに店任せて来てんだから」


「もちろん解ってるよ」


 寿美香は言うと苦笑する。


 千隼はエコバッグを手にキッチンに入る。


 キッチンは普段ろくに使われていないだろうに、綺麗に掃除されていた。千隼はわずかに驚く。


「へぇ、綺麗にしてんだ」


「家政婦さんに来てもらってるからね」


「じゃあ飯も家政婦さんが作ってくれるんだろ?」


「作り置き食べ切っちゃった。だって土日は休みだからさぁ」


 確かに今日は日曜日だ。金曜日に作ってもらったおかずや常備菜を、昨日1日で食い尽くしてしまったと言うことか。


 千隼は「ふぅ」とわずかに面倒そうな溜め息を吐くと、エコバッグから食材を取り出す。


「簡単なもんだぜ。良いだろ?」


「もちろん。食べられるなら何でも良いよ」


 それならコンビニにでも行ってくれよと千隼は思ってしまう。それでも千隼たちにSOSを投げるのだから、それなりに母親としての自覚はあると言うことなのか。


 いや、本当に母親の自覚があるなら、子どもに面倒を掛けさせない様にするものか? 千隼には判らない。


 千隼はまず米の支度をする。残った米は置いて行くので、寿美香ひとりでも簡単に炊ける様に無洗米にした。急ぐので浸水無しに急速炊飯のスイッチを入れる。


 続けてまな板と包丁を出し、まずはしめじを取り出して石づきを落として解す。


 次に白菜。洗って芯を落とし、ざくざくと切って行く。


 人参は皮を剥かずに半月切りに。


 厚揚げもざくざくと厚めのスライスに。


 豚肉はこま切れを買って来たので、そのまま使う。


 鍋を熱してごま油を引き、まずは豚肉を炒めて行く。色が白く変わったら人参を加えてさっと混ぜる。そこに被せる様に厚揚げと白菜の白い部分を入れたら、材料が少し顔を出す程度に水を入れ。沸いたら顆粒かりゅうの出汁を入れて煮て行く。


 白菜がしんなりして来たら白菜の葉としめじを加え、全体を混ぜてさっと煮たら甘みを加える。砂糖と日本酒だ。


 普段手ずから料理をしない寿美香だが、調味料などは一応揃えていることは知っていたし、今は家政婦さんも来てもらっているのだから、過不足は無かった。


 5分ほど煮たら、次に醤油を加える。そのままことことと煮て行く。その間に千隼は洗い物を済ませた。


 そのころにはもう火が通っているので、千隼はコンロの火を止める。


 豚肉と野菜の旨煮の完成である。


「母さん、出来たから。米が炊き上がったら適当に食ってくれ。俺帰るな」


 千隼は素っ気無く言うと帰り支度をする。


「慌ただしいねぇ。お茶ぐらい飲んで行ったら」


 寿美香が言うが、千隼は「いや」と返す。


「姉ちゃんひとりに店任せちまってるから」


「信用してないの?」


 そう意外そうに言われ、千隼は少し気分を害してしまう。


「違うよ。姉ちゃんは凄い頼りになるよ。忙しいのにひとりで任せて悪いってこと」


 千隼が少しつっけんどんな口調で言うと、寿美香は「そうだよね、解ってるって」とまた苦笑した。


「ありがとうね。またお願いね」


 寿美香が言うと、千隼はふぅと呆れた様に息を吐いた。


「ひとり暮らしするって家出てったんだから、自分でどうにかしろよな」


「ごめん、本当にごめん」


 寿美香は悪びれずに言う。千隼は呆れるしか無かった。


「じゃあ」


 そう言い残し、千隼は寿美香のマンションを出た。




 また車を運転し、姉と自分の店にたどり着く。煌々と明かりを放つ店を前に、千隼は少し憂鬱ゆううつな気持ちを抑えようと努める。


 佳鳴はともかく、お客さまに悟られてはならない。千隼は軽く両頬をぱんぱんと叩くと、裏に回って車を停めて家に入り、そのままエプロンを着け店の厨房に出た。


「ただいま戻りましたー」


 そう明るい声を上げる。すると客席から「おかえりー」と陽気な声が上がり、千隼はそれに癒される。


「お客さま方、本当にすいませんでしたね。姉ちゃん、何か変わったこととかあった?」


「ううん、大丈夫だよ。ありがとう」


 佳鳴が笑顔でそう言うのなら大丈夫なのだろう。佳鳴は基本隠しごとのできないタイプだ。


「それよりお母さんは? 大丈夫だった?」


「いつも通りだったよ」


「ああ、じゃあ大丈夫だね」


 佳鳴は千隼のあっさりした応えに苦笑した。


 この姉弟の母親は、どうにも人間としては破綻はたんがちの様で、父親含めて家族は少しばかり苦労をさせられたのである。

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