第4話 それはきっと始まりの
数日後、訪れた
カウンタに掛けておてふきで手を拭いた高橋さんは、ふぅと小さな息を吐いて、口を開いた。
「あの、私、昨日の晩、
「渡部さんと言うことは、スカウトされたお話ですね?」
「あれからも考えたんです。でも、店長さんが言ってくれた「目くらまし」って言葉が胸に刺さってしまって。私、芸人になりたい訳でも、歌手になりたい訳でも無いんです。お芝居が好きだから劇団に入ったんです。なので「女優になりませんか?」だったら、目くらましにやられていたかも知れません。もちろん迷いに迷うとは思うんですけど。なので今回はありがたいですし申し訳も無いんですけど、お断りしました」
「そうですか」
佳鳴は応え、にっこりと微笑む。
「高橋さんが出された結論なら、それが今のベストなのだと思います。ご納得されているなら、良かったな、と思います」
「はい!」
高橋さんは満足げに微笑んで頷いた。
「あ、注文良いですか? まずはお酒で。あとでご飯とお味噌汁ください」
「はい、かしこまりました」
佳鳴たちは料理を整える。今日のメインは鶏の水炊き風だ。処理した鶏がらと白ねぎの青い部分、
出汁にしっかりと鶏の味が出ているので、そのままでも食べていただけるが、お客さまの希望でポン酢をお出しする。
小鉢は水菜の刻みわさび和えと、ひじきとちくわの白和えだ。
「鶏のお出汁美味しい〜。置いておいて、あとでご飯に掛けて食べよう。絶対美味しいやつだ!」
出来たら鶏だしも味わって欲しかったので、スプーンをこっそり添えている。高橋さんは具を食べる前に鶏だしを口に含み、うっとりと目を細めた。
スプーンはその役割をしっかりと果たしていて、ほとんどのお客さまが見事に鶏だしを飲み干してくれていた。
そうしていつものハイボールとともに食事を進めていると、また常連さんが訪れる。
「こんばんは。お酒でお願いします。ビールで。あ、高橋さん」
入ってくるなり注文をし、高橋さんに気付いて笑みを浮かべる。
「公演、本当に良かったよ。次も行かせてもらうね」
岩永さんの言葉に、高橋さんは「ありがとうございます!」と満面の笑みを浮かべた。
岩永さんは高橋さんのふたつ離れた席に掛ける。おしぼりを受け取り、続けてビールを受け取って、美味しそうにグラス半分をぐいと
続けて料理を受け取り、ゆったりと食べ始める。
そうしていると、またお客さまが訪れる。
「いらっしゃいま、せ」
迎えた
高橋さんもドアが開く音に反応したのか首をひねり、「あ」とそのまま固まった。
渡部さんはせかせかと店内に入って来て、高橋さんの隣に腰掛けた。
「高橋さん! 押し掛けてごめんね!」
渡部さんが叫ぶ様に言うと、それまでくつろいでいた他のお客さまが「何だ?」「何だ?」とざわつき、次にはなだらかに静かになる。
「電話でのお話は分かったわ。でもやっぱり直接会って話がしたかったの。どうして駄目だったの?」
高橋さんはうろたえて、「あ、あの」と言い淀む。それを見て渡部さんは詰め寄る様に前のめりになっていた姿勢を正した。
「ごめんね。電話ではあまりちゃんと話が出来なかったから。きちんと話がしたいなって思ったの」
渡部さんの言葉に、高橋さんは「ん」と喉を鳴らし、気合いを入れる様にハイボールをひと口飲んだ。
「あの、お申し出は本当にありがたいと思っています。ですが、私は歌手になりたい訳でも、芸人さんになりたい訳でも無いんです」
「ええ、そうね。そう言っていたわね。でも今は歌手スタート、芸人スタートで、ドラマに出て俳優活動をする人もたくさんいるわよ」
「でもそれは、売れてなんぼ、ですよね」
高橋さんが言うと、渡部さんは
「その段階に行けるまで耐えられるかどうかが判りません。それに女優さんとしてお声掛けいただいた訳じゃ無いってことは、まだそのレベルに達していないってことですよね。私にはその覚悟がありません。1番好きじゃないことをしながら、芸能界に居続けられる覚悟が。なのでお断りしました」
高橋さんがそうはっきりと言うと、渡部さんは困った様に小さく息を吐いた。
「そんなあなたを守るのが、マネージャーである私たちの仕事よ。それでも?」
「はい。もうこんなチャンスは無いと思います。ですけど、もし、もし将来、渡部さんが私の演技を認めてくださって、女優としてスカウトしたいって思ってくださったら、その時にはお声を掛けてくださったら、多分私は喜んで受け入れると思います。親は反対するでしょうけど、バトルも
「……そう」
渡部さんはそう言い、また小さく息を吐いた。
「解ったわ。今回は引き下がるわ。でも完全に諦めた訳じゃ無い。私は地元がここだから、次の公演も見させてもらうわよ。次の予定は決まってるのかしら。おおまかでも」
「来年だと思います。うちは年に1度の公演なので」
「そんなに先なのね! でもそうね、1年また
高橋さんは曖昧に笑みを浮かべる。劇団員は真剣であるものの、週に1度の練習でどこまで伸びるか。それは高橋さん次第なのだろうが。
「じゃあ私はこれで失礼するわね」
そう言って立ち上がり掛けた渡部さんに、ひとつ離れた席にいる岩永さんが「おいおい」と
「何も注文しないで行くのか? ここ飲食店だよ」
「あ!」
渡部さんはそう声を上げて口を押さえる。高橋さんと話をすることに夢中で、すっかりと忘れていた様だった。渡部さんは慌てて座り直した。
「ごめんなさい、うっかりしてたわ。ええとゆっくりしてる時間は無いの。ウーロン茶と、何か軽くつまめるもの……」
そう言って渡部さんはきょろきょろとカウンタに目を走らす。そこで岩永さんがこの煮物屋さんのシステムを簡潔に説明した。
「そうなの? じゃあ本当にごめんなさい、ウーロン茶だけって良いかしら」
「はい、大丈夫ですよ」
佳鳴がにっこりと応える横で、千隼がウーロン茶を用意する。氷を適度に入れたグラスに、冷たいウーロン茶を8分目に注ぎ、台に上げる。
「お待たせしました」
「ありがとう」
渡部さんはウーロン茶を受け取ると、ごっごっと喉を鳴らしながら一気に飲み干してしまった。グラスにはほとんど溶けていない氷がしっかりと残される。
「慌ただしくてごめんなさい。今度プライベートで帰って来た時に、ゆっくり寄らせてもらいますね。岩永くん、来年の高橋さんの公演が決まったら真っ先に連絡ちょうだいよ」
「解ったよ」
岩永さんが苦笑しながら応え、渡部さんは今度こそ立ち上がる。
「お邪魔しました。高橋さん、また!」
渡部さんはそう言い残して、会計を済ませてばたばたと店を出て行った。
そんな渡部さんを高橋さんはやや呆然と、そして岩永さんは苦笑いしながら見送った。他のお客さまもことの成り行きが気になったのか、静かに見守ってくれていた。
「ごめんね、高橋さん。渡部がどうしても高橋さんと直接話がしたいって言うから、俺が連絡したんだよ。嫌な思いさせちゃったね」
岩永さんが言うと、高橋さんは「いいえ」と首を振る。
「私も直接お話が出来て良かったです。電話じゃ確かにちゃんと思っていることを伝えられないですもんね。渡部さんが聞いてくださって、良かったです」
「そう言ってもらえたらほっとするよ」
「はい」
高橋さんは言って、安心した様に笑みを浮かべた。
高橋さんはこれからも、クラブ活動の延長の様な劇団で活動を続けるのだろう。だがその心中は今までとは違うかも知れない。自分の成長によっては、それで身を立てられるかも。そう思えば、取り組み方も変わって来るだろうか。
将来、芸能界で活躍する高橋さんを、テレビや舞台などで見られる様になるのだろうか。それはまた、とても楽しみではあるのだった。
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