第37話 退く者 追う者 待ち構える者
三好長逸
将には下の者には知られたくない事がある。別にやましい秘密がある訳ではない。ただ単純に軍として当然の話である。下々の者が各自で判断を下してしまったら、組織として成り立たなくなってしまうからだ。
故に、情報は将の下へと集う。最前線で戦戈を交えて戦う事が将の仕事では無い。最前線の兵たちが万全に戦うよう導き、判断を下すことこそ、将の務めなのだ。
将が命令を下す。ただそれだけで兵が迷いなく戦えるように。
だが――。
「支度が済んだら出るぞー!」
「おーう!」
知ってしまった。知られてしまった。
本来ならば隠密裏に進ませるべき行軍の打ち合わせを敵軍を挟んで行うという暴挙によって。話の内容がどこまでが本当か、どこまでが嘘か、そんな事はどちらでもいい。援軍が一人だろうと、十万だろうとどちらでもいい。こちらの意志が統一できているのであればそんな事は些細な問題である。
だが、ここに居る全ての者が情報を知ってしまった。ある者は真に受けて慄き、またある者はハッタリだと鼻で笑い、そしてほとんどの人間が先の光景を存分に思い出している事であろう。たった一手で組織としての軍は崩壊した。
この期に及んで脳裏に浮かぶのは家中で最も気に食わない男の言葉。この出陣に最後まで反対した松永弾正が、
「万が一、黒田左少将本人が出てきた場合はすぐさま撤退を。正面から当たるのは愚の骨頂」
と忠告してきた理由がよくわかる。周囲を敵に囲まれた状況を鑑みるに、その可能性はほぼ無きに等しかったが、その存在が目の前に現れ、そして弾正の言葉通りに追い詰められた。城から投げられ、我が右腕を掠めて地面に突き立った槍も然り、おおよそ常人のする事では無い。
せめて将としての最後の務めを果たそう。
「手勢はようやく纏まったか?」
「は……?」
「先の動揺は少しは収まったか?」
「は、はい!」
「では全軍に伝達を。仕舞だ。撤退する」
「は……?」
「早くしろッ!」
話が言葉に従うどころか、「まさか」とでも言いたげだった側近を怒鳴りつけると、四方から怒号のような鬨の声が聴こえた。間に合わぬか……決断が遅すぎだったか。
「伝令を飛ばせ!こちらに向かっている殿に急ぎ伝えよ!臆病者と天下に謗られようが、笑われようが構わぬ。取り返しのつかぬ事になる前に退け。儂らの負けじゃ!これ以上傷を広げるな!」
「は……はっ!」
急ぎ、伝令となる者が走り去っていく。周囲もようやくだが、撤退の命が伝わり、辺りが騒然とし始める。一万の兵の動きは流石に重たい。
「多少の犠牲は覚悟しろ。左右後背、陣を厚く、まともに敵の襲撃を受けて立とうとするな。何としても敵の足を止めよ。いなして時間を稼ぎながら速やかに退く!」
一体その指示だけで何人の犠牲が出るのだろうか。1万以上の軍勢は統制さえ取れれば多少の厚みになるが、このような事態に陥ると足かせにも近い物になってくる。逃亡も歯止めが利かなくなる事を鑑みると、おそらく、10の内1戻ればいい方だろう。
100の兵を率いる時と1万の兵を率いる時では違う。だから、多少マシでも統制が残っている内に撤退する。
逃げる時は逃げる事に徹する。一矢報いる事など毛頭に無い。
我ら三好は退き戦で勝ち続けて畿内の覇者となったのだ。
退くも三好――瞬く間に戦局をひっくり返してしまったあの敵総大将に、我らの本領を見せつけてやる事が、我が唯一の望みと言えよう。
◆
淡河城内 大手門前
黒田隆鳳
「殿!三好勢が撤退の準備を――」
「へぇ……」
出陣の支度をしているさなか、物見からもたらされた報告に、思わず感心の声が零れ出た。こちらの予想以上に決断が早い――というと相手を侮り過ぎだろうか。ありがたいと言えばありがたいが、少々気分は複雑だ。
相手の撤退は予想していたが、三好長逸の決断は俺が思ったよりも早かった。もう少し粘るかと思ったが、奴の評価をもう少し修正しておかないといつか痛い目を見そうだ。
三好三人衆というトリオ漫才師かと思いきや、この期に及んでの決断力。統率力は侮れない。退き際でこそ、相手の将の真価がわかる。
差し詰め、この振る舞いは名刺代わりって所かな。ああいう重鎮を御せるのだから、三好長慶も大した武将だ。
だが、戦はこの一戦で一旦終わりだ。
撤退、降着、そして和睦。今、俺たちが深入りをするわけにはいかない以上、ここが精一杯の落とし所であろう。ここで決着をつけてもいいが、考え無しに突っ込むと痛い目を見る事は因幡の件で散々学んでいる。
折角、官兵衛ら天下の参謀たちが必死で策略を捻り出し、順序を正しているのだから、それに沿うのが筋と言う物だろう……多分。
「予想より早かったが、予定通りだな」
「ほとんどお前のせいのような気がするぞ……?隆鳳」
「お前とカンキチの筋肉のお陰かもしれねぇじゃん」
こっそりと、俺にだけ聞こえるように呟いた武兵衛の言葉を一瞬で封じ込めた。そんなに頭を抱えて「うぁー」ってなるならやるなよ。ったく……黒田家自慢のアホの子は気楽でいいねぇ。
「神吉下野守」
「うぃっす」
「敵将、三好
「……うぃっす」
俺の言葉に、背後で神妙に控える神吉下野守以外の、指揮官見習いの若手らが少し身を乗り出すように構えた。神吉下野守の手勢以外に俺から預けた兵にはそういう連中をあえて沢山選抜してある。どこか相手を侮っていた空気が一気に引き締まった。
「……判断が、早い」
「大軍は小回りが利かないからだろうな。引き際の見極め一つで相手の技量が推し量れるってもんだ」
「……苦難の道」
淡河弾正の言葉に、俺たちが追い込んでいる側であるにもかかわらず、三好長逸の決断を感心するように眺めた。兵数に差がある物の、これから俺たちの追撃戦。そして回り込んだ伏兵らの襲撃により、かなりの被害が予想される。それでも即断したのだから、大軍を率いる事のむずかしさをまざまざと感じさせられる。
これからは俺たちが常にそういう判断を求められるのだ。
「して、追うのか?左少将」
「当然。ま、ある程度だけどな」
「その心は?」
「黒田は侮りがたし――徹底してその印象を焼き付けないと奴らは同じ事を繰り返す」
「……余にも心当たりがあるな。そうか……」
心当たり?ああ、意識が飛ぶまでぶん殴った事か。それと、年越し相撲大会で閣下に容赦無くボコされた事も心当たりの一つかな?
そういえば公方もアレから大人しくなったよな……ま、それで理解できるならそれでいい。そういう事だ。やったね、公方。仲間が増えるよ。
「悪いが、公方と閣下にはここに残って貰うぞ」
「いえ。むしろ、ご配慮いただき有難うございます」
そもそも、コイツらが戦う理由なんてねぇからな。これは俺の戦だ。勝ち戦で公方に死なれる程馬鹿らしい事ったらありゃしねぇ。
「護衛兼留守役はカンキチ。三木城からの後詰を手配するが、それでも城が手薄になる以上、警戒は怠るなよ?玉を獲られるな」
「うぃっす。要人護衛はお任せあれ」
「追撃は外の休夢、山名、この城から俺、武兵衛、神吉下野守、淡河弾正。機動力は俺達が遥かに上だ。的確に狩れ。深入りはいらねぇ。逃がしてもいい。だが、二度と歯向かえ無いほどその心を圧し折れ。徹底的に恐怖を、圧倒的な力を、絶対的な後悔を――俺達の名前を嫌というほど刻み込め!」
「「「はっ!」」」
「んじゃ、始めるぜ。押し太鼓を鳴らせ!開門ッ!」
名刺交換のついでに特等席で見させてもらうぜ。
……少し心配な事もあるしな。
◆
半刻後 山名祐豊
読みが当たった!読みが当たった!読みが当たった!大鉱脈じゃ!
左少将殿による先の突撃を見て、即座に回り込んで正解じゃ。撤退を決めた敵の横腹に噛み付いた以上、徹底的に食い散らかしてやる。
更には背後から左少将殿らも返す刀で追撃を開始したという。敵の兵力が多過ぎる以上、全てをとは言えんが、我が糧としてくれる。
武門、山名の復活は近いぞ!
「父上!」
「おお!ここじゃ!」
退路を完全には塞がぬよう、波状の如く繰り出し、そして逃げ惑う敵を狩ってきた義親が血まみれになりながらも声を挙げた。修行に出してからだから、3月振りだが、やはり我が子の成長はいいものよ……。
それにしても、お互い身体に矢を突き立て、それでも歯を食いしばって戦場を駆ける様になるとは思わなんだが。
「父上。少し拙いかもしれません」
「何か掴んだか?」
「敵総大将の本隊がこちらに急行していると」
「ふむ……救援して退くつもりか。左少将殿に伝令は、」
「出してあります。目下問題はボク達が挟まれる位置に居る事かと」
「それは困るな」
精兵を預り、ひと山当てたとはいえ、儂らでは力不足は否めない。義親も見違えるほど戦えるようになったが、それでも一時的に戻されただけでまだ半人前だ。
功は欲しい。欲しいが……これ以上の深入りは禁物か。
「一番近い隊は?」
「休夢さまの隊かと。怒号も聞こえる距離まで迫っていますので、すぐこちらに来るはずです。あとは三木城を出立した別動隊が」
「休夢殿と合流だな。そして、おそらくここが決戦の場になろう」
「つまり?」
「退くには遅い――左少将殿が来るまで耐え抜くしか無いという事じゃ」
遠くから確かに聞こえるこちらに向かう軍勢の音を聴きながら、儂は肩に刺さった矢を引き抜いた。たとえ血塗れになろうとも、これ位屁でも無いわ。さあ、気合を入れよ!
「新手じゃ!方円にて出迎えぃ!総員踏ん張りどころぞ!」
まだ死ねん。まだ死ねんわ!
◆
山名義親
ボクは変われたんだろうか。一時的に父上の手伝いに回されてから、それがずっと不安でした。ボクがまだ半人前だという事はわかっています。それでも3月程とはいえ、徹底的に鍛え上げた事は無駄ではないとわかるまで、そう時間は掛かりませんでした。
……そう思っていました。敵本隊の接近を許し、また判断を遅らせてしまったのはボクの甘さだと思います。
これは……また修行の日々ですかね。武兵衛さんにまた怒られそうです……。
「敵、来ます!」
兵の声に反応して、槍が勝手に動く。何千、何万と繰り返した事が今身体に確かに活きています。眼を動かせば、右前方にて、先ほど合流した休夢さまが吠え、攻め寄せてきた敵部隊を豪快に弾き飛ばしていました。その二つだけでも大分戦える気分になってきます。
ただ、左前方が……見えません。何度か敵と切り結んだあと、気が付いたら左目側はいつの間にか真っ黒に染まってました。多分、見えませんね……これ。
でも構いません。何故か笑ってしまいます。眼をやった後に落馬してしまった事もあって、口の中が切れて凄まじく痛いですけど。
「その迂闊さを後悔して死ねッ!」
自然と零れ出る汚い言葉。空いた左手の指で銃を模して、自分のこめかみに当てて挑発した瞬間、正面から迫ってきた兵が、側面から鉄砲の一斉射撃でバタバタと倒れて行きました。
「退きます!」
「よく耐え抜いた!」
敵の動揺の隙に即座に決断。すれ違いざま響く、武兵衛さんと双璧をなす「雷神」櫛橋左京様の声。三木城から駆けつけた味方が声を挙げて追い越していきます。
でも、ボクも訓練時に撃ってみましたが、なんであの人の隊の鉄砲はあんなに精度が高いんでしょうかね。
「お前ら親子は頑張り過ぎだ、バカたれ」
「あはは……いやー……その、すみません。武兵衛さん」
ボク達が退くと、そこには武兵衛さんたち本隊が待ち構えていました。それと同時に、敵勢も本隊が来てしまったことを察知したのか、速やかに退いていきます。あとは、散らばってしまった逃亡兵らを斬り捨てるだけでしょうか。
「つーか、なんだその左眼は」
「アハハ、やっちゃいました」
「あー……無理かな、これ。諦めろ」
「そうします。まあ、仕方ないと思いますよ。深入りしすぎました」
「そこら辺の説教は帰ってから、小兵衛に任せておけ。怪我人を引き留めるな、武兵衛」
唐突に掛けられた声にギョッと振り向くと、左少将様がゆっくりと近づいてきました。確か前見た時は白い乱髪兜だったはずなのに、血染めで真っ黒になっているんですが……この人はどれだけ血を浴びてきたのでしょうか?
「ま、なんだ……お疲れ」
「い、いえ……有難う御座います」
「敵はもう追わないのか?大将」
「終わりだな。予想以上に戦果はあがったが、被害も予想以上に増えちまったし」
ああ、やっぱり少し深入りしすぎでしたか。まだまだですね……。
「ああ、被害のでかさは山名の所為じゃねぇさ。敵大将がこちらの予想以上の速度で救援に入った事が原因だ。三好長逸といい、アイツら……やっぱ一筋縄じゃいかねぇな。末端はともかく、中枢の練度は恐ろしく高い。この規模の戦いに慣れてやがる」
「確かにな。そう考えると山名勢が壊滅しなかっただけでも殊勲ものか」
「んだな。まあ、半分はどこぞのハゲオヤジの手柄かな。あのオヤジ、いつになく輝いてやがる」
「また休夢殿にぶっとばされるぞ、お前」
なんというか……怖いもの知らずといいますか、強いですねこの2人は。思わず笑っちゃいましたけど。
……ボクは笑っただけですよ?
「そういえば父上は?」
「あー……」
ボクがふと訊いてみると、武兵衛さんは呆れたような、それでいてどこか言いづらそうに口を籠らせました。
討死とかではないようですが、なにをやったんでしょうか?
「山名のおっさんなら、頑張りすぎて後方で強制休養に入らせた。怪我だらけでふらふらだったんで今、軍医に診てもらってるが、まあ無事だ。ただな、」
「おい、隆鳳!」
「いやー傑作でよ。うわごとのように叫ぶんだわ。山名家が復興するまで死ねん!だの、息子の立派な姿を見るまで死ねん!だの、娘が武兵衛と結婚するまで断じて死ねん!だの……おかげで武兵衛が困惑しちまってよ。ありゃ殺しても死なんわ」
「あー……ハイ。ソウデスネ」
父上……はしゃぎ過ぎです。
たとえ山名家が復興したとしても、武門ではない何かになるような気がします……。
あと、武兵衛さん。顔が赤い事は脈ありと見ていいですか?もし、そうであれば、ボクはもっと気が楽になるような気がします。
「さて……仕舞いだな。左京らを呼び戻せ。山名隊はご苦労だったな。休養に入れ」
「「はっ!」」
この戦……黒田家での初陣で失った物も大きいですが、何かを得られた気がします。
また、修行の日々ですね。
◆
オマケ
後程、左京と武兵衛。
「武兵衛殿。遂に嫁を取るって?」
「……え?遂にっていうか、縁談なんて一度も貰った事無いんだが」
外堀が埋まっていても鈍感男は大体こんな感じ。
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