第8話
杖をつき始めたのも、膝が痛いのも。
カリンはゆっくりと首を横に振る。
両方とも歳だからだよ。検査結果が出たのは今年になってからだ。まあ、影響はあったみたいだけど……。
どうして……。
わたしは穏やかなかれを見つめる。カップを包んでいたかれの手に、外側から両手をかさねる。
レット。泣かないで。
視界がにじみ、わたしはうつむく。
ガンというのは、ゲノムが変異して起こる。
カリンが淡々と言う。
わたしの命というちっぽけなものは、その変異に耐えられないだろう。けれど、わたしのからだをつくる遺伝子という物語は、変容して、あらたなページをつくり、それを、ずっとこの星に伝えつづけるんだ。わたしが土になり、それを栄養にして、さまざまな微生物や植物が育つだろう。かれらのからだ、かれらのゲノム、かれらの知性は、汎知性共同体を通じて、人間にも語りかけるかもしれない。そう思うと、わたしはうれしい。
でも。じゃあ、だれがわたしにコーヒーを淹れてくれるの。だれがわたしと一緒に歌うの。だれが、わたしの間違いを直して、だれが、――……
わたしが去ったら、きみはそう思ってくれるのかい。
あたりまえだよ! カリン以外のだれに、わたしがそう言うとでも――
カリンはわたしの手を握り直す。カップから離して、両手でわたしの両手を包み、ぎゅっと握る。
……ありがとう。きみはわたしの宝だ。うろの中のいとしい若木。
カリン!
わたしは手に額をつけて、声を上げて泣く。カリンはずっと、そばでわたしの手に、手をかさねている。
……トモシビタケを知っているね。
まだぐずぐず鼻をすするわたしに、かれは静かに言う。
……動物に宿る冬虫夏草……え……?
顔を拭い、わたしは顔を上げる。
弱ったサルに寄生するのは確認されているが、研究所にかけあって、培養菌を分けてもらえないか申請中なんだ。
なにを言って……。
カリンはタオルを取ってきてわたしに渡し、冷めてしまったカフェオレをもうひとくち飲む。
首府の安楽死法、三年前改定されただろう。
……科学者が自分の生体を人体実験に使えるっていう?
カリンはおおきくうなずく。
きみが同意してくれるなら、親族ひとりの同意という法律上の要件もクリアする。
カリン――……死ぬ前に、トモシビタケを自分に寄生させるってこと?
そうだ。人間への寄生は事例がない。サルと同じことが起きるか、研究にデータを提供できるだろう。
そんなの……自殺と一緒じゃないか。どんなことがからだに起こるかわからないのに……。
どちらにせよ、ガンで死ぬということは、痛みや呼吸の苦しさのなかで死ぬということだよ。痛み止めや呼吸器で緩和されても、死の直前の苦しみというのははげしいものだろう。死は安楽なのは、不治の病にかかったものの必然なんだ。
……。
じつを言うとね、わたしは自分の苦しみなどどうでもいいんだ。自分のからだ、自分の知性が、科学や、この星、この星をつくるすべての生き物、化学物質、それらに寄与できる――科学の下僕になれることがうれしくてたまらない。
わたしは息を吐いた。
――なにを……。
呆れた生態学者だと思ってくれて構わない。二度とわたしのような被験者が出てくれないほうがいい。気が狂っていると思ってくれていい。わたしにつける薬はないんだ。
わたしは苦い笑みを顔に浮かべる。
カリン……あなたは……。
なんと言ってよいかわからず、わたしは頭を振る。涙は止まって、わたしは胸の底から笑いが起こるのを感じる。カリンも一緒になってくすくす笑う。
レット――愛するレット。わたしの味方でいてくれるかい。
わたしはうなずく。
大学に行くのは保留するよ。病院でも旅行でも、好きなところに一緒に行こう。
畑は埋め戻して、ヒツジは売ってしまった。とりあえずは手術が必要らしく、病院に付き添った。内臓と骨の腫瘍を取って、関節の組織を失った代わりに機械の脚を手に入れ、カリンはご機嫌だ。リハビリで思うように身動きできなくても、療法士を質問攻めにして困らせる。薬をたくさん飲み、食欲はなくなり、数週間でげっそりと痩せてしまう。移動の揺れを最小に抑えた新型の介護カートを借りて、ふたりで首府の街に出かける。
ヴァスィーレが待っている。公園の温室、簡易な熱帯のバイオームの、丁寧に整備された木道を進み、滝のそばのカフェで話をする。ヴァスィーレは以前に知らされていたらしく、フルーツティーを飲みながらパンケーキをぱくぱく食べ、わたしだったらきのこにからだを乗っ取られるようなことはしないが、メタン菌を注射して噴火口に入るぐらいはするかもな、と言う。
イリャーナには。
通話では伝えたさ。でも信じられないの一点張りでね、ここのところなにも音沙汰がない。機械の脚を自慢しようと思っていたんだが。
カリンの前には白湯だけが置かれ、わたしはその耐熱ガラスの透明なゆらめきを見つめる。
わたしをよそに、老人とその息子は軽い口調で会話を続ける。ヴァスィーレは首府に来るまでの列車の車両が改善されたこと、仕事は相変わらずなこと、カリンの治療の今後について話す。もうかれが口にのぼらせることには傷つかない自分がいて、わたしは驚く。ヴァスィーレは人間の感情には疎く、実生活はとても大ざっぱで、でも仕事の同僚には好かれていて、でも恋人や友人が欲しいと思ったことはいちどもなく、研究とおいしいものがあれば満足するという人生を送っている。それを理解する。すこしカリンに似ている。イリャーナには似ていない。
みんなで会いに行こうか、イリャーナのところに。
ヴァスィーレが真剣な顔で言う。
わたしとおまえだけのほうがいいだろう。
カリンが静かに言い、わたしは思わず口をひらく。
わたしも一緒に行くよ。
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