第6話

 ……レット?

 彼女の青い瞳が揺れる。

 ……いい?

 わたしは彼女の頬を両手でくるみ、かさねて訊く。

 ――ええ……

 彼女はうなずく。わたしはすぐに彼女の頬に唇を押し当てる。カリンとイリャーナがいつもしているように。それから、こめかみ、目尻のちかく。彼女の眼鏡がじゃまになり、顔についているには重い金縁のそれをはずしてベッドに置き、眉に口づけする。彼女は反射的に目を閉じる。身を乗り出して彼女の肩をぎゅっと抱きしめ、もういちど離し、瞼に。額に。彼女が口をひらきかける。それを唇でふさぐ。彼女がびくりと震える。それを抑えるように、わたしは彼女を抱きしめる。これ以上、どうしたらいいのかわからない。彼女に動いて欲しくない。彼女の唇に唇で繰り返し触れる。のけぞろうとする彼女にすがりつく。イリャーナが立ち上がる。ぐい、と身を引く。わたしは腕に力を込める。それをつよい力で振り払われる。放り出されて、わたしはベッドにうずくまる。おおきな音を立てて、わたしの部屋のドアが閉まる。

 耳を澄ませる。彼女が立てる音をじっと聞く。外套を取る音、鞄をつかむ音。玄関のドアが開く音。

 心臓がおおきな音を立てている。いつもそばにあったもの、あたたかくやわらかいもの、――……やさしさが去っていくのを感じる。



 夕方になれば、カリンが帰ってくる。その前に、わたしは家を出る。草原を歩き、森に入る。下草はすくなく、木の根と石を避ければ歩ける。風がモミの葉を揺らす。もっと暗いところへ行きたい。湿っていて、つめたくて、だれも来ないところ。藪をかきわける。イバラのなかを進む。肌を切り裂く棘の痛みに涙を流しながら、わたしは手で穴を掘る。砂や石を含んだ貧しい土壌。でも、人間の手は長く入っていないから、手でも掘れるやわらかさだ。土にまみれながらわたしは掘る。驚いた虫が湧いてくる。それでも掘り続ける。いくら掘っても穴はおおきくならない。せいぜい顔を埋められる程度だ。わたしはそこに顔を突っ込んで、大声で泣く。

 イリャーナ、あなたが好き。

 言えなかったことばが胸のなかでするどく反響する。

 行かないで。

 わたしを助けて。

 ……レット。

 静かな声がわたしを呼ぶ。わたしは動きを止める。身になじんだにおいの、あたたかなからだを持つ老人が、背中からわたしを抱きしめる。



 仕事をやめてきた、とカリンが言う。

 えっ?

 レットと一緒に過ごす時間のほうがたいせつだ。

 わたしの傷を洗いながら、カリンは微笑む。

 もともと定年はとうにすぎていたし……。

 そんなこと……――わたしのせいで……

 きみがすくすく育つのを見ていたほうが楽しいよ。

 老人はにこにこ笑う。わたしはまだ泣いている。

 すくすくなんて育たないよ! わたしはねじ曲がって徒長してる!

 長い人生だ、どういう育ちかたをするかなんてどうにでも変わっていく。土を変えようか? もっと光があるほうがいい? それとも日陰のほうがいいかな?

 わからないよ!

 ……わたしもわからない。でも、一個ずつたしかめて、きみが呼吸しやすい場所を一緒につくろう。

 沁みる消毒液をかけ、それをさっとガーゼでおさえて、かれは手早くわたしを介抱する。

 わたしは黙る。ほとんど禿げてしまったかれの頭、しわしわの手、きびきび動くかれを見る。包帯を巻き終わって、かれはストーブに薪をくべる。



 わたしの部屋の窓から外を見ると、カリンが庭を掘り返している。草を抜いて、肥料を混ぜて、種を蒔き、水をじょうろで与える。

 もともとオアイエにトウモロコシはなかったんだけど、近代になって種を蒔いたらよく育つということになって、以来、コムギとトウモロコシがオアイエの主食だ。

 そばの草の上に腰掛け、かれは説明する。

 いまは四月だし、オアイエではみんな農作業で大忙しだろうな。そうだ、ヒツジを飼い始めようと思うんだけど、この土地では何頭ぐらい飼えると思う?

 オアイエ型のバイオームシェルフに住んでいるのはカリンとわたしだけだ。それに、機械や樹木の手入れをしている用務員の家族。

 わからないよ……。

 ぼんやりと答えるわたしに、カリンは空――キューブの天井を見上げる。

 ウェブで調べてみよう。故郷にいたのはもう五十年以上前だから、いろいろとあやふやでね。

 ……カリンは、どうしてわたしを引き取ったの?

 わたしの唐突な問いに、かれは目を丸くする。

 イリャーナが去って二週間ほど。かれは当然、彼女にことのあらましを聞いているだろう。知っていて、なにも触れない。だから代わりに、ずっと気になっていたことを訊いた。

 かれはわたしに向き直り、わたしも草に座らせて、わたしの目をじっと見つめた。

 きみにオアイエを見せたかったからだ。もちろんここはほんもののオアイエじゃない。だけど、首府にも、きみの故郷のように、すばらしい自然を愛する人間、そのなかでなければ生きて行けない人間もいる。それを知って欲しかった。

 ……それだけ?

 だれに来てもらうかはたまたまだよ。知っているだろうけど。

 うん。あのひとたちが決めたんでしょう。

 そう、首府の火山諸島受入委員会だ。わたしはたいして地位もないから、だれにするか希望を出そうとも思わなかった。ほかの里親候補とのタイミングのちがいだけだ。妻が死んでだいぶ経って、子どもたちはたまに帰ってくるだけで、このシェルフはほんとうにもったいない使い方をしている。まあ、オアイエから来る人間がわたし以外にはほとんどいないからだけど……。

 不便だもの。首府のほかのひとは、縁のないこの気候は維持するのももったいないと思うだろうね。

 はっきり言うなあ! でも、そうやって多様な環境がこの星にあることを伝えていかないと、首府の政策もゆがんでいくだろう。砂漠や湿原やサバンナ、熱帯や温帯、極地。この星には多様なバイオームがあった。それを忘れて、便利な環境でしか生きなくなったら、わたしは病気になってしまう。

 カリンはそうだろうけど。

 きみだってそうだろう? 火山諸島の子どもたちは、みんなバイオームシェルフに引き取られた。そうじゃない子はみんな体調を崩して、環境を変えたそうだよ。

 ……。

 レット、ようこそオアイエへ。よく来てくれた。

 いまさら?

 わたしは笑う。カリンはいつも通りにこにこ笑い、わたしの肩をたたいた。

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