私の海と父の家

天井

私の海と父の家

重い、金管楽器みたいな音が、両耳を突き抜ける。

酷い耳鳴りだなと私は思った。


青黒い世界に包まれながら、息をそっと吐く。


それは歪な球体へと変化して光の中に消えた。


濁った色のクラゲが私の視界に現れる。


しばらくしたらそれは点になって闇の中に消えた。


体を丸めながら私は光を目指した。


体が浮くのを感じる。


水面に到着。

全身で息を吸う。

長くて短い私の旅がここで終わった。


太陽がここぞと言わんばかりに刺し殺そうとする。


私は顔をしかめて砂浜へと泳ぎ始めた。


砂浜に到着。底の無い瓶が私の帰還を歓迎した。


濡れた足が灼ける砂を潤す。


その足で貝殻を蹴り飛ばしながら悠々と凱旋する。



帰ってきたぞ!



なぜか歓喜の感情が満ちる。


よく分からなかったがそれでいいと思えた。


暫くの間、燃えないゴミだらけの砂浜を練り歩いた。


水色のサンダルが二つ並んで恭しく私を出迎える。


「苦しゅうない」


そう独り言ちながら、私は独裁者気取りでその忠節なる二人の臣下を履いた。


そしてそのサンダルに連れていかれるがまま、コンクリートで固められた階段を上る。


右手にある橋を渡り、しばらく道なり。

申し訳程度に植えられた街路樹には、蝉が寄ってたかって鳴き荒んでいた。が、不思議と気にならない。

どうしてだろう?


ゆらゆらと揺れるしっぽが見えた。

横たわる猫。

猫はあんまり好きじゃない。

だってほら。

私が近づくと、すぐ逃げちゃうから。


家に辿り着いた。


なんともない片田舎の木造平屋建て。


屋根の瓦は黒々と光り、和室の網戸は穴が空いている。


庭の雑草は夏という青春を謳歌しているではないか。


伸び伸びと自由に育っている。


これぞ生命の神秘!


などと馬鹿な事を考えていたら、玄関からのっそりと父親が出て来た。


「涼子、またそんなカッコで海いっとったんか」



良い夢から覚めた様な気がした。


「ただいま」


「上がる前に足洗え」


「はい」


出来るだけ全ての感情を殺して返事をした。


外付けの蛇口を捻る。

サンダルと足を洗う。

洗い落された砂を眺めていると不意に背筋が寒くなった。


足を洗った後、裏口から家に入って風呂場に向かう。

桶にシャワーで湯を貯めて、それで身体を流す。

全部、流れ落ちた。


風呂場から出るとすぐそこには鏡台。

醜い裸だと思った。

タオルで拭いた髪をすきたいので、ブラシがある棚を開ける。


するとその奥から密かに化粧品達が私を覗いていた。


試しにファンデーションをひとつ取ってみる。開けてみるとそれはひび割れていた。正しいやり方も分からず、スポンジで乱暴に粉を擦り付ける。


そしてそれをそっと肌に付けてみた。


なんだ。ちょっと色が変わるだけじゃないか。


そんな事を考えているとふとぼろぼろと目から涙が零れ落ちて止まらなくなった。


泣くのが嫌で嫌で堪らなかった。


酷い自己陶酔だと自分を罵ったがそれでも止まらなかった。


しばらく鏡台の前で立っていたがようやく落ち着いたので居間に向かうと父はいなかった。


テーブルには線香みたいになってる吸い殻と、灰皿と、数本残ったタバコの箱。


パッケージには煙管を吹かすネイティブアメリカン。


彼が静かな眼で私に語りかける。


『種は蒔かずとも落ちる。そしてそれは刈り取らなくてはならないのだ』


目を擦りながら、私はその妄想を受け入れた。



その次の日、庭の雑草は全部私に殺された。


その翌年、私の海は立ち入り禁止の標識が合法占拠した。

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私の海と父の家 天井 @tenjo1028

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