きっと

松風 陽氷

きっと

 自分を裏切って楽になるか、自分を信じて苦しい生を歩み行くか、選ぶ時が来た。来てしまった。只それだけだ。日々の時間は刻一刻と当たり前の如く過ぎて行く。


 僕が彼と出会ったのは十年も前のことだ。だから、彼のことはよく知っていて、僕以上に彼のことを知る人はいないだろうとさえ思っていた。しかし、そんなことはなかった。

 昨日、彼は真夜中の二時にいきなり寝所を飛び出して建物の三階から飛び降りようとした。彼はとても心優しく明るく誰彼と平等に菩薩の如く接するが、そんな彼がいきなり飛び降りて死のうとするのだ。彼は叫んでいた。只、「死にたい」「殺してくれ」と、大声で猿の様に叫んでいた。私はその姿に慄き、慌てて彼を押さえ付けた。酷く恐怖を感じた。ホームの黄色い線の外側でギリギリにすれ違う通過電車よりも恐ろしかった。こう云う光景は、いつ見ても慣れない。次の日、彼は「おはよう」と笑顔を見せた。まるで昨日の夜のことが僕の馬鹿げた悪夢であったと言わんばかりに。僕は戸惑いながらもおはようと返し、そうして普段通りの日々を送れる様に努めた。その晩、彼はベロベロに酔って帰って来た。けらけらと笑いながら彼は「嗚呼、楽しい」と言った。とても幸福そうに見えて心臓が痛くなった。彼は僕を見るなり「こいこいをしよう」と言った。昔から彼はちょっとでも酔うと決まって花札をせがんだ。僕は彼の肩を担ぎながら居間まで運び出し花札と冷水を持って来た。冷水をボタボタと零して乱暴に口を拭う相手を見ながら僕は苦く笑った。苦く笑うことしか出来なかった。こんな時以上に幸福そうな彼を僕は見たことがない。きっと彼はこんな時しか幸福になれないのではないか。僕は手を抜いてわざと負けてやった。彼は無邪気な子供の様にニコニコと笑って僕を見下した。見下しながら、自分の役の五光をぼんやりと見、そしてため息と共に徐に呟いた。

「僕は、死にたいとは思っていない。只、生きて行きたくない……生きて行かねばならない、明日が続いて行くというのが恐ろしくてならないだけなのだよ。君はきっと、何でこんなに酒を飲むのか、疑問で仕方ないのだろう。……答えは簡単さ、教えてやろうじゃあないか。明日が怖いからだよ。……たったそれだけの理由さ。明日も生きて行く、その、当たり前の様なことが、僕にとっては恐怖でならないんだ。良いかい、君、明日と云うのは決して希望なんかでは無い。人は日々に苦しませられながら生きている。苦悩の無い日を一日でも送ったことがあるかい、君は? どうだい、無いだろう。そう云うことだ。一日一日と人は苦しむ。そうだと分かっていて、ではどうして人間と云うものは生きようとすることが出来るのであろう。家族の為、とでも言うのかね。だとしたら家族の居なくなった者はどうなんだい。ほら、全く何の理論性もないじゃあないか。くだらん。死にたいと言うと、それは駄目だと言う人がいる。そう言う人が居ることは、きっと幸福なことだ。少なくとも世間的には、幸せな恵まれし人間だとされる。しかし、如何しても僕にはそれが理解出来ないのだよ。何故、貴様に、そがんと言われなくてはならんのだ。何故死んではいけないのか。貴様が悲しんだところで僕にとっては痛くも痒くもない。何の為にそんなことを言うのか、そんなことを言って僕の死にたいという気持ちが綺麗さっぱり晴れるとでも、本気で思っているのか。もしそう考えているのだとしたらそれは、愚の骨頂というやつだろう。そんな言葉で人の願望が揺らぐ訳がないだろうに」

 彼は僕が飲んでいたウイスキーロックの江戸切子をぐいと呷りながら顰めたその顔のまましばらく俯いていた。きっと彼は、明日になったらこんなことを言ったなんて忘れて仕舞っているのだろう。朝になればきっと又、笑ってこめかみを叩き「おはよう」と言うのだろう。

 知ってるさ。

 僕はやおら彼を抱き締めた。そうしたいと、衝動的に思ったのだ。彼はされるがままだった。ブリキの置物の様に冷たくじっと動かなかった。死んでいるのではないかと思う程に、無反応だった。彼の心臓は皮肉にもドクンドクンと響いており、只生命の役割を全うする為だけに阿呆の様に動き続けていた。こんな日々が二年程前からずっと続いている。終わりの見えない暗闇の中でキノジの手を引きながら、僕は歩いている。これはきっと、死んだら終わる。そしてきっと死ぬまで終わらない。呼吸と等しく日常のもの。僕は彼の奥深くに眠る大切な物に触れてから暗闇を歩く生活になったが、しかし、きっと彼は僕と出会うずっと前から、ひとりぼっちで暗い沼底を彷徨っていたに違い無い。彼は可哀想な人間だ。彼は自分が気狂いであることにさえ気付けないのだ。彼はずっと生まれてから黒の中に居た所為で自分の世界が暗いものだということを知らず、そして気付けないままでいるのだ。抱き締める腕に力がこもる。

「苦しいよ、肋骨が痛い」

 彼はクスクスと俯き加減に小さく笑った。瞳を見るともう焦点が合っておらず、パタリと倒れ眠って仕舞いそうだと思った。寝所まで運んで寝かせてやると、合わないピントで僕をじっと見つめ、ほろっと小さく訊ねた。拳骨を待つ叱られた幼子の様に、大きな恐怖に怯えた瞳で。

「きみのこと、を、ぼくは、信じても……いいの、かな」

 洞窟の奥の、暗く冷たい湖面の様な、不動の沈黙。数秒後彼はけらけらと無邪気に笑って僕に抱きつき「大好きだよ、アイラービュー!」と言って目を閉じた。

 彼はきっと明日も変わらず「おはよう」と言う。彼はきっと覚えていない。忘れて仕舞う。彼はきっと自分が死にたいと思っている事さえ自分で気が付いていない。自分の気持ちが見えないのだ。きっと僕らが歩むこの暗闇は、もしかすると、彼の見える世界の全てなのかもしれない。昔初めて彼が自宅で深酒をした時、僕は丁度出掛けていて、「ただいま」と扉を開けると廊下で這いつくばって寝言を叫ぶ彼がいた。酷く酩酊し、焦点の合わないまま「怖い、苦しい」と叫んでいた。心室心房全てが一度にぺしゃんこになり、脳味噌に焦げ付くような電流が走る位ショッキングな光景だった。残骸から察するに彼は酒と睡眠導入剤をチャンポンしたらしく、それはそれは随分といじらしい程に狂っていた。きっと彼は自分の目を自分で潰したに違いない。だから彼は気狂いで、だから彼は怯え強いで、だから彼は真っ暗なのだ。苦悩から目を背ける為の手段がそれしか無かったのかもしれない。目を潰すしか、無かったのだろう。でなければ誰が好き好んで自分の目玉を潰したりなんかするのだ。

ㅤアルコールの揮発臭の中で寝ている彼がポツリ、声を発した。それは、起きている時は勿論酔っていても絶対言わない言葉。

「助けて」

 彼は今夜も涙を流していた。透明に輝くその夜露が、僕には黒く濁って見えた。彼は泣いている時の顔が一番美しくなる様に造形されている。置きっぱなしにしていた花札を片付けてから彼と同じ寝室で眠りに着いた。その晩、彼を無理矢理犯す夢を見た。彼の顔はまるで万華鏡の様にコロコロと変化したが、やはり泣いている時の顔が一番美しかった。朱に交われば赤くなる? 黒に交われば、僕は、何色になるのだろう。

 午前六時に目を覚ました時、彼はスヤスヤと無防備を晒していた。呆れ顔で笑い朝食の準備に取り掛かろうとする僕のことを、彼は知らない。彼は何も覚えていない。全てを忘れて、見ないで、又「おはよう」と欠伸をする。これだから彼は、きっと救われない。一生、救われない。そして僕はこんな日常を憎々しい程愛している。彼の寝ぼけた「おはよう」と共に、鼻腔に広がるブレックファースト。僕らは盲目の友人。

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