EBE ダブルディフェンダーズ
TocoNikky
#1 神隠しの鄉
地球外生命体調査機関。
それは日夜を問わず出現する未知の生命体を相手に活躍する組織である。長いので通称“ELIO”と呼ばれている。ここでは様々な役割を担う職員達が未知の存在の脅威に備えて待機し、地上の平和を守っていた。
しかし、敵もそう簡単に姿を現すことは少なく、時として人間社会に巧みに溶け込み、水面下で事件を拡大していくものもいる。そんな場合にELIOの調査部門は出動するのだが、今回、なかなか洗い出せないケースがあった。ELIOの各部門の重鎮を中心に揃えた総司令集団“中枢”は、やむを得ず、ある人物に白羽の矢を立てることに決めた。
その日、ディグが部屋に戻ってくると、中に掃石が待っていた。何か用があってきたことは明白であったが、上座のソファで横になるという作法を無視した様子は、とても物を頼む態度には見えなかった。
白い髪――プラチナブロンドにヘッドホンを身に着けた姿が印象的な少年・ディグは、それを見てしばらく部屋に入るのを躊躇したが、やがて覚悟を決め、しかし溜息を吐きながら歩を進めた。
「よぅ。待っていたぜ」
掃石は持参してきたコンビニのサンドイッチを頬張りながら、炭酸飲料を持ったもう片方の手を振った。部屋の主より図々しい態度である。
「掃石さん…そこで何をしているんですか?」
「何って、見ての通りじゃねーか」
「見てわからないから聞いているんですが」
「いやいや、ほら、これを見てくれよ」
と、サンドイッチを持った手でテーブルを指す。ソファ二つに挟まれた長方形のパイプテーブルの上、A4サイズの書類の束が投げ捨てられたように置かれていた。ディグはそれを拾うと、表紙の文字を見た。
「芳賀農村…?この近くですか?」
「いや、いっこ隣の県にある。いわば秘境の村だわな」
掃石はサンドイッチを食べ終えると、炭酸飲料で喉を潤した。弾ける泡の音と甘い爽やかな匂いが部屋に広がっていく。
「住民はほぼ高齢者。獣道化した国道が一本近くを走ってるくらいで、外との交通は殆どないといっていいな。ちなみに特産品は、ここでしか採れない芳賀農椎茸」
「過疎の村ですか…嫌な予感がしますね」
そう言うと、話が早いとばかりに「おっ」と掃石が声を上げる。
「いやぁご明察。どうもEBE関連の事件が起こってるらしい。現在進行形で」
「そんなことだろうと思いました」
ディグは先程より深い溜息を吐いた。
EBEとは“Earth Baneful Element”の略称で、所謂「地球外生命体」のことである。そうは言っても有名なグレイタイプやタコ型といったようなものを指すのではなく、宇宙から飛来した未知の存在を総称しての言葉である。それらの持つ形態や知性、能力、危険度は個体によって様々で、まさに未知数であった。
しかし、ディグはそう言った怪物を直接相手にするのが仕事というわけではなかった。どちらかというと彼は裏方であり、負傷者を処置する医療部門に所属している。戦闘は本来、防衛部門の仕事なのだ。
長い付き合いになる掃石はそれを知っているはずなのだが、そのまま話し続けた。
「もう六ヶ月くらい前なんだけど、どうも調査部門だけでは尻尾を掴めないらしくて、EBEの索敵能力者…えっと、お前の弟を導入してみようって話になったんだ」
「中枢は、随分あいつのことを信頼するようになったんですね」
「いやいやそう怒るなって。調査班の無能さに免じて憐れんでやってくれよ」
「仕方ないですね…」
そうは言いつつも、内心では不服感が残っていた。
中枢――つまりELIOの上層部はディグの弟である“ウルリ”のことをとても煙たがっていた。もちろんそれは、彼の過去の記録から見た危険性を考慮しての妥当な評価だとは思うが、その対応があまりにも冷酷だったのだ。これについて当の本人があまり意に介してないことは幸いと言える。
掃石も勿論それは知っていた。しかしどういう手段を使われたのか不明だが、中枢から説得するよう言われたのだろう。彼の申し訳なさそうな顔を見て、ディグも心中に沸き立つ気持ちを抑え込んだ。
「それで、どういう事件なんですか?」
「失踪事件だよ。村の周辺に近づいた人達が、なぜか軒並み戻ってきてない」
「村の人が関係している可能性はないのですか?」
「そりゃ怪しいと思ったさ。けど、厄介なことに村人達は、これを神隠しだと言い張るんだと。成り行きに任せるとの一点張りで、信じられるか?しかも余所者を嫌うもんだから説得にも応じないし、実のところ調査に行った職員はみんな追い返されてるんだ」
「なるほど、それは厄介ですね」
「信心深いお方が相手だと特にな」
「それ、俺達が行っても大丈夫ですかね」
「んん…いい顔はしないだろう。けど、完全武装した大人が大人数で行くより、軽装の若者の方が警戒心は薄れるだろうさ」
掃石は肩を竦めて言った。
「あっ…とそうだ。これ覚えといて欲しいんだけど」
「なんですか?」
「芳賀農村では毎月このタイミングに祭りをやるんだよ」
「祭り、ですか」
「そう、村の神様を祀る祭りだとか…。とにかく余所者を特に入れたくない時だと思うから頑張ってくれな」
「それならもっと後に行った方がいいんじゃないですか?わざわざ警戒しているところへ行くのは」
「中枢が睨んだ失踪のタイミングとしては一番濃厚なんだって。証拠を掴むだけでもいいんだ、頼むよ!」
「はぁ…」
掃石はソファの上で両手を重ね、拝むように懇願した。それを魅せられて、複雑な顔をしながらディグは再び溜息を吐いた。
今日の職務を終え、ディグは週末の身支度をしていた。掃石が居座っていた仕事場の隣には、彼の自室があるのだ。
ベッドの上に衣服やら必需品やらを広げて置いていると、どこから物音が聞こえてきた。不審がって上を見上げた瞬間、ダクトの金属板が勢いよく蹴り落された。突然の出来事に目を見張っていると、そこからひょいと、ディグと同じ年頃くらいの黒髪の少年が降りてきた。
「よぅ!何してんだそれ?」
と、元気よく発声したかと思うと、それに答えさせる間もなく彼は獣のように走り回り、ベッドにダイブしてきた。その上でゴロゴロと暴れるものだから、用意していたものが辺りに飛び散り、遂には旅行鞄まで蹴り落された。
しばらく呆気に取られていたディグだったが、鞄の落下音で我に返ると、いつの間に自分の腰にしがみついていた少年の頬を叩いた。
「いってぇ!あははは」
「笑い事じゃないよ、まったく。全部落っことして…ていうかどこから入ってきてるんだよ」
「あははは!ごめん!ダクト!」
少年はそこからするりと抜け出し、床に転がった。とてつもない躁状態に、ディグの顔が思わず引き攣る。しかしこれは今に始まったことではなく、むしろ平常運転である。
「もう…しっかりしてくれよウルリ。高校生にもなって」
「高校行ってないもん、オレ」
「そうだけどさ。もっと年相応に振る舞えってこと」
「え~。そんなこと言われてもなぁ」
ウルリは床から跳ね起き、ディグの隣に座る。
「年相応にしたら、外に出て、学校に行ってもいいのか?」
「他にも条件がついてくるだろうけどね。お前は人より強い分、体調管理をしないといけないから」
「めんどくさいなぁ」
「そう言ってると、連れて行ってやらないぞ」
「えー!そんなぁ!」
バタバタと暴れるウルリを余所に、床に散らばった物を拾い集めるディグ。衣服はきちんと畳み直して、他の物と一緒に鞄の中に詰めていった。
いつの間に気が変わったのか、それを興味深そうに見ていたウルリは、ごろんとベッドに寝転がって言った。
「なぁ、どこか行くのか?学会か?」
「いや、仕事だよ。明日、現地調査に行かないといけなくなってね」
「寂しくなるな…」
「何言ってるんだ。お前も行くんだぞ」
「えっ!?」
ウルリが飛び起きる。赤色と金色の瞳が大きく煌めき、何かとても素晴らしいご褒美を与えられたかのような反応を見せた。
中枢の取り決めで、ウルリの外出は必要時以外禁止されていた。なんなら普段待機しておくはずの地下の隔離寮から出ることすら許されていないのだが、今回のようにしょっちゅう脱走していた。常に狭い部屋の中にいなければならないという圧迫感が彼を突き動かすのだろうが、それをする度に緊急警報が鳴り、一部の施設機能を麻痺させてしまうのは中枢にとってEBE事件以上の悩みの種であった。ちなみに今月に入り、脱走した回数は二十回以上に及んでいる。
そんなウルリだからこそ、ディグが何気なく放った言葉は行幸に等しかった。
「本当に!?行っていいのか~!?」
「言っとくけど旅行じゃないぞ」
「うん!あんなせまっ苦しいところにいるよりかは断然嬉しい!」
「ん、そう言ってくれると助かるよ」
ディグはふとテーブルに目をやった。そこには掃石から受け取った村の資料がある。
彼は、仕事の事情を話すかどうか迷った。連携が物を言うチーム行動では、情報共有しておくに越したことはない。しかし、事件の特殊性を考えると、嘘を吐いたり誤魔化したりしなければならないこともあるだろう。感情がもろに出てしまうウルリでは、それができるかどうか不安だった。警戒心の強い村人を、懐柔しろとまでは言わないが、せめて穏便にことを済ませられるだけの能力が、果たして彼にあるのだろうか、と。
「なぁ、どうしたんだ?お腹でも痛いのか?」
ウルリが、怪訝そうにディグの顔を覗き込んでいる。もちろん彼の心情を察してはいないのだが。
「ああ、何でもない。ところで、行く所のことなんだけど」
「おぅ!どこに行くんだ?」
「……実はお祭りがあるらしい」
「え!マジで!屋台出るかな!?」
「いや、屋台は出ないと思うけど」
「へ~どんな祭りなのかな。楽しみだな!」
「ん…」
目を輝かせるウルリに、ディグは敢えて説明を省くことにした。知らないというリスクはあるが、自らぼろを出すよりはずっと安心だと思ったからである。
「あ、あと、勝手に人に話しかけたりするなよ。何か行動する時は、俺に知らせること。いいね?」
「おー、なんか修学旅行みたいだ」
「お前行ったことないだろ」
ディグは苦笑した。引き攣った笑みの裏では、複雑な思いが絡み合っていた。
単身あるいはチームでの野外活動には幾度か経験があるものの、これほど不安に思ったことは初めてだった。未知のエリアに行くことへの不安やうまく潜入できるかの不安、援護のない不安に加えて、ウルリをコントロールしなければならないという不安が積み重なる。吐き出しそうになるのを、彼はぐっと抑え込んだ。
日付が変わり、まだ日も低いところにある頃、ワンボックスカーが人気のない山道を突っ切っていく。車内では同僚のメアと掃石が前の席に、ディグとウルリが後ろの席に座っていた。ウルリは仕事という名の外出に興奮気味のようで、落ち着きなく窓の外を見ている。その横では、いかにも寝不足といったような様子でディグがぐったりとシートにもたれていた。
「ディグくん、昨日何かあったの?」
ハンドルを切りながら、メアが心配そうに言う。メアはディグと同じ医療部門に所属している女性で、話を聞いて今回車を出してくれたのだ。掃石はこう見えて免許を持っておらず、なぜついてきたのかと思うくらいこの中で浮いていた。
「荷造りにしちゃ時間がかかり過ぎだわな」
「ウルリがなかなか寝かせてくれなかったんですよ…まさか三時まで粘られるとは思ってませんでした」
「え?眠くなるまで起きとくだろ?」
「なんてやつだ」
掃石は面白そうに言った。ディグはそれに反論する気力もなかった。
剪定されていない木々が多くなり、徐々に道も険しくなる。やがて道自体がなくなり、途切れたアスファルトの上で車は静かに停まった。
「ごめんね、車じゃこれ以上進めないみたい…」
「いえ、ありがとうございます。ここまで送ってくれて」
「ここから歩きか?どこの方向に行くんだ?」
「辛うじて人が通ってるっぽいところがあるから、それを辿っていくといいよ。調査職員曰く、歩きやすいところを歩いてたら着くらしいから」
「適当だな!あはは」
荷物を下ろし、メアと掃石に見送られながら、ディグとウルリは歩き始めた。
秋の気配が濃く、辺りの木々はその葉を美しい暖色に彩らせている。そっと耳を澄ますと微かに、きれいな鳥の鳴き声が聞こえてきた。
紅葉の海を踏みつけながら、二人はしばらく黙々と歩いていた。取り入れた酸素がすぐ運動に使われるため会話がなかったのだが、やがて沈黙に耐え切れなくなった――あるいは有り余る体力を持っているせいか、ウルリはぴょんぴょん跳ねながらディグの傍に寄り、その胸の内を明かしてきた。
「なぁ!山登りなんてオレ初めてだよ!テンション上がるな!」
「そうか?俺はそうでもないんだけど」
「もやしっ子だもんな~肌も白いし。運動しようぜ!あの坂の上までさ、走ろうよ!」
「荷物を持ってなくて、仕事じゃなければ乗ってやってもいいよ」
「おー!じゃあ…って、ダメじゃん!荷物持っているし、これ仕事じゃん!?」
「残念ながらそうなんです」
「それは残念だ…」
ものすごくがっかりして肩を落とすウルリ。見ているこちらが申し訳なくなるくらい、落ち込んでいた。しかし不要な運動や会話は、それだけ体力を奪ってしまう。行く末の見えないうちは、ディグはなるべく無駄なことはしたくなかった。例えウルリが心底がっかりしていようとも、その気持ちを変えるつもりはなかった。
それからまた三十分ほど歩いたところで、道に変化があった。
明らかに舗装されたアスファルトが現われたのである。野草が生い茂ってボロボロになっていたが、過去にここで交通整備があったことは明白であった。
歩きやすくなり、少しスピードを上げたところ、微かだが遠くの坂の上に第一村人の姿が見えた。
「あ!人だ!人がいるよディグ!」
と、制止する隙もなくウルリは大声を上げた。それに気づいたのか、第一村人はこちらに振り返り、驚いたように目を開いた。
「おや、どうしたんだろう?」
「あっ…おいっ!」
ウルリはとっとこ村人に近づいた。村人は依然として驚愕の表情を見せている。そこへ一言、二言かウルリが話しかけた。すると村人からも幾つか言葉が返り、会話が成立しているようだった。
「もう、先に行かないでくれよ…」
「あっディグ。ちょうどよかった!」
「何がいいんだよ?…っと、怪我人か」
「……」
見ると、その村人は同い年くらいの少女であった。傍らには籠と、幾つか野菜や木の塊のようなものが転がっている。足を摩っており、どうやら転んだらしかった。
「出血はあるけど…捻挫かな」
「治せる?」
「応急処置だけなら…」
ディグはポケットから救急道具を取り出すと、彼女の足の手当てを始めた。
「あなた、お医者さん…?」
少女が恐る恐る声をかけてくる。ディグの手を振り払ったりしないあたり、完全な余所者嫌いではないらしい。
「いや、少し知っている程度だよ…はい、終わった」
「あ、ありがとう…」
少女がすぐに立ち上がろうとしたので、慌ててそれを止める。
「完全に治ったわけじゃないんだから、安静にしないと。行く所があるなら送っていこうか?」
「い、いえ、大丈夫…でも…どうしよう…」
「何か困ってんのか?」
「あなた達、外の人でしょ?怪我を治してくれたことはお礼を言うけど…」
「でも、こっちもやっと人に会えたんだ、あんたが頼みの綱なんだよ」
「道に迷ったのですか?うう…どうしよう」
少女は「ううう…」と小さく唸った。それは厄介ごとに巻き込まれた気持ちを吐露する悪態ではなく、本気で申し訳なさそうに悩んでいる様子だった。
もし少女が誤解をしているのだとすれば、それはディグにとって好都合だった。顔を合わせるなりすぐに「余所者か!帰れ!」を決め込まれようものならお手上げだったのだが、思わぬ好機である。どう言いくるめようか考えていた矢先、ウルリが少女に向かって話しかけた。
「でもよかったー!早く怪我が治るといいな!」
「あ、は、はい…」
満面の笑みを浮かべるウルリに対して、少女はさっと視線を逸らしてしまう。その頬は少し赤らんでいるようだった。
「あの…もしよかったら、うちでお休みしていきませんか?すぐ帰すって言えば、お父さんも許してくれると思うんです」
「えー!いいのか?なぁ、この人ん家で休ませてもらおっか!」
「ちょっと、勝手に話進めないでくれる?」
予想外の展開に思考の整理が追いつかないディグ。それを余所に、ウルリはすさまじい勢いで少女と親交を深めていた。事前情報を一切説明しなかったのは思わぬ効果を示したようである。
「村では電気も通ってますから、電波も届くと思いますし…」
「わ~宿はあるかな?」
「宿は…ありませんけど、でももし日が暮れるようなら、お父さんに頼んでみます」
「わぁ!それ助かる!このまま野宿するのも楽しそうだけど、やっぱり布団が恋しいからな~」
「…ふふっ。でも期待しないでくださいね。今日はお祭りの日で、みんな気が立ってますから」
少女は微かに笑って、周囲に転がったものを籠の中に集め始めた。
おそらく採ったばかりの野菜や山菜がみずみずしい光を放っていた。ディグも手伝いのつもりで拾おうとして、黒い塊を触った。
それは一見無秩序に削り出されたものに見えたが、触った感触は動物の皮のようだった。表面はまるで木のように乾いているのだが、妙な弾力も残っている。
すると少女が「あっ!」と声を上げた。
「それはダメ!!」
その形相はまるで畏怖のものを見るようで、触ってはいけないということを暗に思わせた。ディグはすぐにそれを少女へ手渡そうとするが、彼女はそれよりも先に奪い取った。
「ご、ごめんなさい。私が言ってなかったから…せっかく親切にしてくださったのに」
「いや…こっちも聞かなかったから」
「いえ、いいんです…どうしよう…どうすれば…」
少女はうわ言のように呟き始める。それを耳にしたウルリは、思わず顔を引き攣らせる。
「なぁ、お前大丈夫か?怖いぞ」
「あっ…やだ、ごめんなさい!気にしないで」
少女は笑って、よろよろと立ち上がった。ディグは荷物をウルリに預け、彼女に肩を貸す。少女は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ありがとうございます…うちの家までは、まだもう少し歩くんです」
「こちらこそ、すごくありがたいよ」
「な!」
少女は再び照れたような笑顔を見せた。しかし、そこにはどこか影があるようだった。それは彼女の先程の異様な口走りが、頭の片隅に残っているせいかもしれない。ディグはなるべく無心を装い、少女の案内に従った。
坂を下り終えた先には幾つかの家屋が群れを作って建っている。中には茅葺の屋根もあって時代を感じさせるが、ライフラインはしっかり整っているようだった。
木製の電信柱が広い間隔に立ち並び、その一つ一つに古そうな豆電球がくっ付いている。中には既に割れてしまっているものもあった。
家屋の周りには田畑があり、そこには作業をしている人の姿があった。鎌を携えた老人はこちらを見つけるなり驚愕の顔色に変わった。野菜を洗っている女性の傍を通りかかると、彼女はいかにも嫌そうに「余所者が来たわ」と言わんばかりの視線を送ってきた。
「ごめんなさいね。本当、こんな時だから…」
と、少女が申し訳なさそうに言う。
「いつもはみんな、優しい人なんです。お祭りが近いこともあるけれど…」
言いかけて、少女は口を噤む。どこか目が泳いでいて、バツの悪そうにしている。
「だけど、何?」
「い、いえ。失礼かと思って…」
「もしかして、俺が日本人じゃないから警戒してる?」
「えと…あの」
どうやら図星のようで、少女は動揺した。
「気にしないで。そういうのは慣れてるから」
ディグは祖父の仕事を継ぐために日本へ渡ってきた身である。文化などの違いで苦労したことは幾つもあったが、今ではその殆どを克服している。とはいえここは彼にとって異国の隔離社会ともいえる集落。稀有の目で見られるのは慣れていても、やはり少しは身構えてしまっていることは否めなかった。
「あ…そこの角のが、うちの家です」
少女は空気を切り替えるように、少し大きな声を上げた。見ると、目の前に立派な木造建築が佇んでいた。
「うわ、でか!いい家に住んでるなぁ」
ウルリが感嘆の声を上げる。それを聞いた少女はまた可愛らしく頬を染めた。
「すぐ開けますね。と言っても、うちの村では鍵なんか付けないのだけど…」
ディグに支えてもらいながら、少女は玄関の引き戸を開ける。カラカラと音を立てて開いた戸口の向こうから、やや湿ったような木の匂いがした。
少女は「上がってくださいな」と声をかけるが、それよりも早くウルリは玄関に侵入していた。ディグは彼の非礼を詫びながら、少女の招きに従って入った。
そろそろ昼に差し掛かる時間とはいえ、部屋の中は妙に薄暗かった。どうも目に触れる窓という窓が閉め切られているようで、軋む床と相まってお化け屋敷のような雰囲気を生み出していた。
「ここで少し待っていてくれますか?」
そう言うと、少女は襖を開けて部屋の一つに入った。ぱたん、と閉じられると、直後くぐもった誰かの声がボソボソと聞こえてきた。
ディグは付けていたヘッドホンを外して、その会話を聞き取ろうと試みた。彼の耳は常人以上に良いので、人の声を鮮明に拾うことができた。
「桃花、遅かったね。どうしたんだね?」
「お父さん、お客さんなの。遠くから来て、道に迷ってしまったみたいで…」
「客?こんな時期に、またどこかの取材番組が首を突っ込みに来たのか?」
「違うのよ。二人組の男の子で…私と同じくらいの…。怪我をみてもらったから、お礼がしたくて」
「なに、お前怪我をしたのか?大丈夫な怪我なのか?」
「ええ。ほら…」
「…なるほど、わかった。二人をここへ呼びなさい」
「わかったわ」
すっと襖が開いて、少女が手招きをする。会話を聞いていたディグは素直に従った。その後ろから、事情を知らないウルリが続く。それゆえに彼は緊張して、少しばかりびくついているようだった。
「ええと…君達が、そうだね?」
咳払いをして、少女の父親が声をかけてきた。彼は四十代くらいの男性に見えるが、痩せていて弱弱しく、そのせいか布団から上体を起こした格好で二人を出迎えた。
「はい。急な来訪ですみません」
ディグは深く頭を下げる。ウルリもそれに倣った。
「道に迷って困っていたところ、彼女に助けてもらいまして…少しの間休ませてもらえるかもしれないということで、伺いました」
「ふむ、それは大変だっただろう。この時期は熊が出るからな…襲われなくてよかった。うちでよければ、ゆっくり休んでいきなさい」
「やった!ありがとう!」
真っ先にウルリが声を上げた。それを聞いた桃花の父親は、ゆっくり微笑んだ。その笑い方には親子の遺伝を感じさせた。
「ところで、桃花の怪我をみてくれたのは、そっちの君だね?」
「あ、はい」
「どうもありがとう。数ヶ月前に妻をなくして、もうお互いしか残っていなかったんだよ。桃花までいなくなったら私は…」
「もう、お父さん!そういうこと言わないで!」
桃花は叫んだ。声に怒気を混じらせていたが、どこか寂しそうな悲鳴でもあった。
「すまんなぁ、歳を取るとすっかり涙脆くなって。だが、お前が嫁に行くまでは死なんぞ」
桃花の父親は細い腕を振り、丸めたこぶしをぐっと突き上げた。彼の娘は「わかったから、ちゃんと寝てね」と言って彼を窘めると、布団にゆっくりと横たわらせた。
「休むには二階を使ってください。外出は、しない方がいいと思います。長居するにしても、お祭りの始まる時間までには出発してくださいね」
「どうもありがとう」
桃花に案内され、二階へと通される二人。
二階は全ての襖が解放され一つの部屋を形成しているが、やはり窓が締まっているので薄暗かった。彼女が降りていくのを確認すると、ディグはすぐに携帯電話を取り出した。
「電波来るのか?」
ウルリは既に荷物を放り出して、寛いでいた。ゴロゴロとディグの足元に転がり、彼を見上げている。
「いや、録音だよ」
ディグは静かに答えた。
「証拠だけでもいいからって、掃石さんが言っていたからね」
「い、いつの間にそんなことを…」
「できれば穏便に解決したいからね。あの子も良くしてくれているけど、村の人だし、すぐ撤退した方がよさそうだ」
「えー!祭り見ないのか?オレちょっと見たいんだけどなー」
「村の雰囲気からして、おそらく楽しい祭りじゃないぞ」
「そうかなぁ」
ウルリは不服そうな顔をした。
「ディグはさ、疑り深いんだよ。冗談を心から楽しめないタイプだぜ」
「あのさ、最初に言ったけどこれは仕事なんだよ。デスクワークと違って危険もある…ってそもそも俺が最初に言ったこと覚えてるか?」
「いんや、全然」
「はぁ…だろうな」
ディグは嘆息した。残念ながら、これは事情を説明しなかった弊害である。
「とにかく、もうちょっと大人しくしてくれ。何か気が付いたことがあったら、絶対俺に知らせること。いいな?」
「あー、そういえばそんなこと言ってた気がする。うん、りょーかい」
絶対に了解してなさそうな態度で、ウルリが手を上げた。
ディグは心底に不安が募るのを感じた。ウルリは身体的に人より強く、そして特殊な能力も持っている。しかしそれが慢心となっている節があった。その慢心がいつか命取りになると思うと、ディグは小言を言わずにはいられなかった。
「もう、何かあってからじゃ遅い――」
突然、ディグが言葉を切る。それに気づいたウルリは、怪訝そうに彼の顔を再度見上げた。
「どうかし…」
「しっ」
ウルリの言葉を遮り、ディグは階段へと近づいた。階段は部屋の外にあり、玄関のすぐ傍に繋がっている。床の軋みに気を付けながら、彼は耳をそばだてた。
ディグは可能な限り階段の傍へ近づく。すると、玄関から幾つかの声が聞こえてきた。
「桃花ちゃん、余所者を見つけたのかね」
「…はい」
「しかも異国の人間だろ?下手に扱うと騒ぎ立てるぞ」
「いえ…あの人はそんな人じゃ」
「ちょうどいいじゃないですか。今夜は祭りですから」
「納得なさられるか?」
「受け入れます。むしろ喜ばれるでしょう」
「そうだな。なんたってウツボ様は…てっ!な、何するんだよじーさん」
「その名を軽々しく口にするな。まったくこれだから若造は」
「あの…お茶でもいかがですか?お父さんもみなさんと会いたがってましたから」
「そうするかね。まったくいい子だよ桃花ちゃんは…」
声の主たちは、やがて玄関を抜けて家の中に入ってきた。彼らは先程ディグ達が通された、桃花の父親がいる部屋へと入った。そして出迎えの声が上がり、騒がしさが増した。
ディグは更に階段へ近づく。付いて来ようとするウルリを押し止め、彼は盗聴を続けた。
楽しげな声は四つ。うち一つは桃花の父親のもので、残る三つは来訪者達のものであった。桃花の父親は元気を取り戻したように、嬉しそうに談笑していた。
「しかし、おじさんが倒れたって聞いた時は驚いたよ」
元気な若者の声がする。彼は三人の中では一番年若く、口調も明るかった。
「奥さん、まだそこに…?」
「いや、もう旅立たれました。尊い方の元へ行くのです、怖いことはありません」
落ち着きがありながらも鋭い口調の者が答えた。声は若いが、村の重鎮を預かる身なのだろう。
「そう、あの方はきっと導いてくださったはずだ…」
最後に声を発したのは、一番年老いた者だった。先程若者を叩いた、信仰心に篤い老人である。
「ああ、妻も喜んでいると思う」
桃花の父親が苦笑していった。言葉には少し感情がないようようだった。
「うちには桃花がいる。辛くても耐えられる…」
「お嬢さんの時期は、少なくともあなたの生きているうちはこないでしょう。あの方のお言葉ですから、間違いありません」
「それを聞いて安心したよ」
桃花の父親は絞り出すように答える。
「ところで…今月は」
「ああ、それはもちろん決まっていますよ」
「ええと、硲谷さんところの息子さんだっけ」
「いいえ。硲谷家の方々ではありません」
「じゃあ…まさか」
「本当にいいお嬢さんですよね。代わりを見つけてくるなんて。しかもあんな…」
「気鳥。数は?二人共か?」
「いいえ、一人で十分です。もう資格がありますから、好都合です」
「またやるのかぁ。久しぶりな気がするな。前も良く知らないテレビの取材班だったけど」
「その時は穏便に済まなかったが、今度はうまくやるわい」
「村のすべての方々に伝達をお願いします。“生贄が変わった”と」
彼らは次々に立ち上がり、互いに気合を入れる言葉を発した。
それを聞いたディグは、血相を変えて部屋に戻った。その様子に只ならないものを感じたのか、ウルリが心配そうな顔色を浮かべた。
「なぁ…何かあったのか?」
「しっ。大きな声は出さないで」
ディグは人差し指を立てて、ウルリの口を制する。
「どうやらまずいことになってきた。ここから逃げるぞ」
「えっ?い、今から?荷物は?」
「そんなもの気にしてられないよ」
その時、階段の方から駆け上がってくるような物音がした。二人は思わずその方向に視線を向けた。
やってきたのは桃花だった。息を切らし、焦った表情をみせている。彼女は落ち着きを払いながら、震える声を潜めた。
「あのっ…もう疲れは取れましたか?」
「ああ、おかげさまで。ちょうどここから発とうかと思っていたところだよ」
「そ、そのことなんですけど。今、お客様が見えてて…あの…い、ここから逃げてください!」
「な、なんだって?」
「今ならまだ間に合うと思います。急いで!」
「なぜそんなことを伝えに?あんたもこの村の人なんだろう?」
「それは…!せ、説明している時間はないんです!」
そうしているうちに、一階が騒がしくなる。桃花はそれに気づくと、
「時間を稼ぐから、窓から逃げてください!すぐ傍に大きな木が生えているから、伝っていけば安全に降りられると思います!」
そう言い残して、彼女は階段の下へ引っ込んでいった。やがて幾つかの話し声が聞こえてくる。それは桃花と、来訪者達のものだった。
ウルリは情報の整理がつかず、目を丸くしながら、ディグの方を見る。
「なぁ!なんかやばそうだぜ。あの子の言う通り、今のうちに逃げた方がよさそうじゃないか?」
「そうみたいだね。でもその前に、お前に頼みたいことがある」
「え、なに?」
ギシッという階段の軋みが近づくにつれて、緊張が高まる。それに対しディグは呼吸を整え、可能な限り気を落ち着けた。
そして突然、彼は走り出した。下の階にも聞こえるように思い切り床を踏みしめて、窓を開放する。その音に気付いたのか、階段を上ってくる音が早くなった。ディグは後ろを振り返ることなく、窓から身を乗り出した。
「あっ!おい、あいつを逃がすな!」
取り乱した声が背中にぶつかる。ディグは意に介さず、一階の屋根に飛び出した。
「くそっ!勘づいていたか!」
真っ先に追って来たのは手拭を頭につけた若い男性だった。気鳥という男ではなさそうである。
ディグは彼が屋根に乗ってこようとするのを見計らってから、近くに生えていた木に飛び移った。器用に枝を伝って、難なく地上に降り立つ。
「き、気鳥さん!」
若い男性が叫ぶ。その直後。
ドン、という発砲音が山の静寂を切り裂いた。見ると、二階の窓から猟銃を携えた男――気鳥の姿があった。彼がその引き金を引いたのだ。
弾は、ディグの肩を掠めただけに終わった。しかし衝撃で大勢が大きく崩れ、転倒してしまう。立て直した時には、既に数十名の村人が彼を取り囲んでいた。
「その人を捕まえてください。硲谷家の大切な代わりです」
気鳥は淡々と述べた。村人はそれに答え、操られるかのようにふらふらと近寄り始めた。
ディグはやむを得ないとばかりに、臨戦態勢に入った。訓練で培った動きは、戦いにてんで素人の村人を撃沈させるには十分な効果があった。しかし、どれだけ倒しても彼らは次から次へと向かってきた。
やがて息の切れかけたところで、機敏な村人が隙をつき、ディグを押さえ込んだ。まるでアンカーのように両腕が組み付き、暴れて抜け出そうとしてもびくともしなかった。
「やれやれ、ようやく大人しくなったな。こないだのよりか、ずっと骨がある」
村人の群れを割って、老人が歩いてくる。先程気鳥達と話していた老人である。殆ど歯のない口を歪に釣り上げ、感心したように呟いた。
「硲谷のせがれよりいい生贄になるだろう。あの方…ウツボ様もきっと喜んでくださるはずだ」
「ウツボ様…なるほど、それが今回の黒幕の名前か」
「気安く呼ぶな、余所者!」
老人は憤り、その骨ばった手をディグの首元に伸ばした。垢だらけの爪が喉に食い込んでくる。老人は血走った、焦点の合わない目で忌々しそうにディグを睨み付けた。
「あの方の名前は、村の中でも限られた者にしか呼ぶことを許されない。増してや下賤な外の人間が、口にしてよい物ではないのだ」
村人達は老人の言葉に賛同するかのように、口々に声を上げた。その瞳には狂気を孕み、正気を失っているようだった。
「さぁ、みなさん。準備は滞りなく行ってください。長く待ち詫びた、最後の祭りを遂行するために」
気鳥が声をかけると、村人達はぴたりと静まった。そして軍隊のように、一様に歩き始める。老人は乱暴に手を離すと、村人の中に消えていった。
猟銃を抱え、部屋を後にしようとした気鳥。しかし階段に近づいたところで、振り返った。視線の先には染みだらけの押入れがある。
「気鳥さん、人間撃つのに躊躇しないんすね…」
と、屋根から戻ってきた若い男性が、頭を掻きながら言う。
「俺、完全になんで追いかけたの?って感じだったよ」
「いえいえ、当てるつもりはありませんでした。ほんの威嚇射撃です。ところで、ここでの仕事はまだ残っていますよ」
気鳥は押入れを指差した。
「もう一人がまだ見つかっていません。おそらくやり過ごそうという腹なのでしょうが、きちんと見つけて捕まえておきましょう」
「押入れか…わかりました。見てきます」
若い男性は押入れの取っ手に手をかけ、サッと引き開けた。
そこにあったのは、段ボールの山ともう使わなくなった機材などだった。
「…?どこにも、いないぜ」
「ふむ、先程の騒動で、逃げてしまったのかもしれません。しかし、村からは出ていないはずです。片方が捕まったとなれば、離れられないでしょうから。みなさんに知らせて、祭りの後にでも探しましょう」
「そっすね」
ぱたん、と押入れを閉じる男性。二人は二階を後にした。
そのしばらく後になって、再び押入れが開く。
ウルリは天井裏に隠れていたのだった。表情は不安に沈み、そこから飛び出すと恐る恐る窓から顔を出した。
村人は既に引き上げたらしく、誰もいなかった。今しがた部屋から出て行った二人も、かなり離れたところまで歩いて行っていた。
ウルリは窓から身を乗り出し、平然とそこから飛び降りた。かなりの高さから飛んだにもかかわらず、彼は無事に着地した。
「ほ、本当に大丈夫なんだよな…?」
独りになった不安から、ウルリは弱弱しい声を漏らす。しかし彼には、ディグに託された頼みがある。このまま引き下がるつもりはなかった。
ウルリは獣がするように姿勢を低くし、四つん這いとなる。すると、両手のつまからザワザワと黒い毛が覆い始めた。変化は一瞬で、彼を人間の姿ではなくしていた。力強い四肢を持つ、獣の姿に変わっていたいのである。これが彼の持つ特殊な能力であった。
黒い獣は長い鼻を地面につける。微かな人間の残り香が、彼の鼻腔を刺激する。それは目に見えずとも、はっきりと群衆の足跡を示していた。
賑やかな音が脳内に響く。それは不規則なリズムで打ち鳴らされる太鼓の音であった。続く意味不明なお囃子と笛の音から、件の祭りが始まったようである。
ディグは納戸のような場所に閉じ込められていた。窓は完全に閉め切られており、扉の位置も分からないほどの暗闇を形成している。ただ、外の音が聞こえるくらい壁は薄いようで、なんとか様子を伺うことはできそうだった。
ディグは建物の隅に寄り、壁に耳をつける
手持ちの道具は予想通り全て没収されてしまっていた。ヘッドホンを取られてしまったのは残念だったが、壊されたり傷つけられたりするよりはマシだった。あれは研究部門の特注品で、世に二つとない逸品なのだ。
しばらくすると誰かが納戸の方に近づいてきた。その足音は二つあり、土と枯葉を蹴り散らして歩いている。耳を澄ますと、二人の話していることがはっきり聞き取れた。
「いやぁしかし今月はラッキーだったねぇ」
「ああ…また一ヶ月寿命が延びると思うとね。あの子には悪いけど…」
「あの方の決定だからねぇ。僕らじゃあ逆らえないよ」
二つの足音は談笑しながら遠ざかっていった。その声色はこれから起こることを完全に理解しているのか、世間話でもしているかのように平静であった。
「冗談じゃないぞ、全く」
ディグは思わず独り言を呟いていた。
その時である。
「ええ、冗談ではありません。これは神託なのです」
バタン、と納戸が開け放たれ、同時に光と声がなだれ込む。逆光でよく見えなかったが、それは気鳥の声であった。
「時間になりましたので、お迎えにあがりました」
にっこりと微笑む気鳥。声は至極落ち着いていて優しいものであったが、気味の悪いほど吊り上がった口角と虚ろな瞳を見る限り、かなり重症な狂気に取りつかれているようだった。
「嬉しくないお迎えだね」
「おや、そうでしょうか。神の世界に行けるのですよ?あなたはもっと喜ぶべきです」
気鳥の背後から二人の男性が出てくる。男達は機械のように動いてディグを捕まえると、強引に納戸の外へ引き出した。その後に気鳥が続く。
「今月の祭壇は素晴らしい出来になりました。ウツボ様もきっと満足なさられるでしょう」
「ウツボ様って、なんなんだ?神様なのはわかったけど、なんの神様?」
「あなたがその名前を口にすることは許されていませんよ。しかしまぁ…冥途の土産ということで、それくらいは教えてさしあげましょうか」
気鳥は二人の男に指示をすると、ゆっくりと歩き始める。指示を受けた男達はディグを捕まえたまま、気鳥の歩行に従った。
村全体の異様さに感化されたかの如く、山道は不気味なほど静かであった。月がないため辺りは完全な闇に包まれており、気鳥達の手元で揺れる提灯の朧な光が余計に不気味さを増幅させている。道を歩いていると、左右に同じような提灯を持った村人達の行列が現われた。彼らは一様に機械的な動きで行進していたが、表情は虚ろながらもどこか楽しげな様相を含んでいた。
「ウツボ様は、我々の神様です。たくさんの恵みを与えてくださる、言わば母親のような存在…」
気鳥は歩きながら、淡々と語り始めた。
「あの方は芳賀農村の反映を長く支えました。厳密には、あの方がもたらした宝箱による繁栄でした。私の先祖は代々村の祭祀を務め、村長でもありました。ウツボ様の言う事を守って、あの箱をずっと大切にしてきたのです…なのに!」
突然激情を膨らませる気鳥。拳を固め、憎い物を潰すかのように振り下ろした。その様子と怒声に、周りにいた村人達がびくりと震えた。
「ウツボ様の箱はずっと秘密にされてきたのです。しかし、余所者が先祖に黙ってそれを盗み出した!神の禁を破り、結果、箱は効力を失ってしまいました。悲しいことに、余所者のせいで、村は衰退の一途をたどる羽目になったのです」
悲し気に俯く気鳥。それに続くように、村人の中からすすり泣く声が沸く。
「私達は、箱の力を取り戻すために、余所者を屠りました。最初はただ、力を奪われたことへの復讐だったのかもしれません。しかし、私の代になってついにウツボ様は現れてくださった…私はこれが使命だと確信しました。余所者の首を捧げ、あの方の力を取り戻す事を」
「いや、それはウツボ様じゃない。あんた達は操られているんだよ」
「なんですって?」
ディグの反論に、気鳥は厳しい視線を向ける。
「ウツボ様の事を塵芥ほど知っただけの余所者が…あなたの言葉は、生贄を回避したいがための戯言にしか聞こえませんね」
「いや、そういう訳じゃなくて、あんた達の言うウツボ様っていうのは」
「静かにしなさい。もうすぐ聖域です」
ディグの言葉を遮り、気鳥は前を向いた。
そこには少し傾いた古い鳥居が、暗闇の中でぼんやりと浮かんでいる。そこから先には、苔むした階段が続いた。
「本来次の生贄は、ウツボ様自ら選ばれます。一度選ばれたなら、逃げ出すことはできません。必ず、ここへ引き寄せられ…祭壇の上で首を落とされます。その首を箱に納めれば…新たなる神の力として生まれ変わるのです。もちろん、何度か代替の方法を試しました…しかしこれ以外の方法では、箱は反応しませんでした。形式の真似事では、真の儀式とはならなかったのでしょう」
気鳥は長い階段を上がりながら、喋り続けた。
「しかし今まで捧げてきたものは、全てウツボ様の力を蘇らせるほどのものではありませんでした。それはなぜか?…私達の村の伝説に、力を失う時、箱の中から逃げ出したものがあるのです。それは人間の首だったのですが、ただの首ではなかったのです」
話しているうちに、開けた場所に出る。そこには無数の松明が建てられ、ぱちぱちと火花を放っている。それらの列が導く先にはまな板のような祭壇が設置され、そのそばでは白い箱が恭しく祀られていた。
「おや…これは、なんということでしょう」
気鳥が感嘆の声を上げる。村人達もそれに続いて、わぁわぁと口々に叫び始めた。中には畏敬を込めて手を合わせる者、地面に伏せて拝み始める者もいた。
彼らの視線の先、正面の祭壇の上に、いつの間にか金色の光が出現していた。それは一際眩しい輝きを放つと、その正体を現した。
燃えるような金色の光を纏い、銀色の細長い腕を幾つも持った、三メートルもあろうかという巨大な龍。しかしその頭はよく描かれる爬虫類のそれではなく、皮膚を鱗に覆われた人間に酷似していた。その顔は、ゾッとするような笑みを浮かべていた。
しかし気鳥は、それを嬉しそうに眺めていた。
「ウツボ様が生贄を捧げる前に降臨なさられるとは…こういうことは初めてですよ。やはりあなたの首こそが、神の力を取り戻すのにふさわしいのでしょう」
「どの首を差し出そうが一緒だと思うけどね…」
「いえいえ、あなたのそれは違います。なぜなら。箱から逃げ出したものは、あなたのような異国の人間の首だったのですから」
気鳥の表情が、怪物のそれと重なった。
恐ろしく歪んだ狂笑。怪物の意識が、この男に乗り移ったかのようであった。
しかしディグは、彼の人間性を失った表情を目の当たりにしても平然としていた。観念して現実を受け入れたからではない。彼の“狙い”が、怪物の後方へ迫ってくるのを分かっていたからである。
突如としてけたたましい声を上げる怪物。悲痛な、しかし怒りの込められた絶叫であった。村人達は思わず耳を塞ぎ、怪物の苦しみと同調するように身をよじり、崩れ落ちる。その隙に拘束を逃れたディグは、耳を塞ぎながらその光景を見た。
暴れる怪物の肩あたりに黒い獣が取りつき、爪や牙をこれでもかと食い込ませて襲い掛かっている。怪物はその肉を抉り取られるたびに叫び、振りほどこうとのたうつ。だが獣はしっかりとしがみついているため、なかなか離れなかった。
怪物は直接引き離そうと腕を伸ばした。獣はそれを素早くかわすと、大きく飛びのいてディグの傍に着地した。
「ちょっと遅かったけど、悪くないタイミングだったね」
獣に向かって、ディグは声をかけた。すると、強い警戒の姿勢を取っていた獣は、
「そう?ありがとう!ヒーローは遅れてくるものだからな!」
あっさり警戒を解いて、嬉しそうな声を上げる。その声は姿が違えど聞き覚えのある、ウルリのものであった。
夜の闇を打ち消すように強い光を放つ怪物。その姿は悍ましいが、放つ輝きは神々しさに満ちていた。
怪物は両目を光らせ、自らに仇なそうとする不信仰者をはっきり捉える。そしてもう一度、悍ましい鳴き声で威嚇した。
それに対し、ウルリも威嚇をやり返す。獣がするように、鋭い牙を見せて低い唸り声をあげた。しかしそれは獣の鳴き声というより声真似であり、あまり迫力のあるものではない。
「油断するなよ。いつもの悪い癖だぞ」
「心配すんない!あいつは神様じゃない。オレの目にははっきり“見えている”からな!」
自信たっぷりに断言するウルリ。かく言う彼の両目には、どんなに優れた変身能力を持つEBE相手であっても、その正体を見破る力があったのだ。現在、彼より正確な看破能力を持つものは存在しない。
「そうか…じゃ、やっぱりこいつはEBEだったんだな」
ディグは冷静に考える。
「初めて見る型だから…第四級特殊指定亜型ってとこか。いや、龍型かもしれないな」
「よし、早くやっつけよう」
「俺は援護するよ」
ウルリに渡しておいた銃器を受け取るディグ。それは研究部門が対EBE用に改良した特別製の銃器であった。
彼は構えると、間髪入れず引き金を引いた。二度、発砲された弾丸が正確に怪物の腹を撃ち抜く。怪物は短い悲鳴を上げ、空へと舞い上がった。
ウルリはそれを追いかけて跳躍した。その時の姿は四つ足の獣ではなく、上半身を屈強な筋肉で武装した獣人のようであった。巨大化した顎で怪物に食らいつくと、その重みで地上に引きずり落す。怪物は土埃を舞わせながら必死の抵抗を見せた。長い尻尾で祭壇を破壊し、周囲にいた村人達をなぎ倒す。そのショックで村人達は我に帰ったらしく、恐怖の表情を湛えて散り散りに逃げ出した。
騒ぎに動じる様子もなく、ディグは続けて銃弾を放った。怪物の頭部が容赦なく吹き飛ばされる。しかし怪物は頭が欠けてもまだ動いていた。
「あぁ!なんということでしょう!」
逃げる村人達に逆らって、よろよろと気鳥がやってくる。その表情からは正気が失われ、ただ絶望だけに取りつかれていた。
「おい、近づくな!」
ディグが叫ぶが、気鳥のおぼつかない足取りは止まらない。彼はがくりと怪物の傍へ跪くように倒れ伏した。
「神よ。村に繁栄を、お与えください…」
その瞬間、気鳥の頭部が跳ね飛んだ。怪物の振るった腕が、無慈悲にも彼の命を奪ったのである。
怪物はその死んだ身体を掴むと、肉を貪った。骨を砕き、血を啜る様は異形の悪神にしか見えない。さすがのウルリも表情をこわばらせ、ヒッと引き攣った声を上げていた。
しかしディグは冷静さを失わなかった。怪物の頭部をしっかりと狙い、何度も撃ち込んだ。顎が砕け、目を吹き飛ばされたところで怪物は初めて弱弱しい悲鳴を上げた。もう力が残っていないのか、死体を手放し、ズルズルとその身を引きずって山中に逃れようとする。
「そうはさせるかー!」
怯みから立ち直ったウルリは再び跳躍し、思い切り怪物の背中を踏みつけた。掠れるような悲鳴を上げる怪物。その腕を虚空に向かって伸ばすのだが、獣人の全体重と共に突き刺された牙が、怪物の致命傷となった。
伸ばされた腕がゆっくりと地面に落ち、怪物は静かに息絶えた。
「ふぅ…なんとかやっつけられたな!」
一仕事を終えたウルリは満足そうに息を吐いた。その傍にディグがやってくる。
「ディグが囮になるって言った時はちょっと怖かったけど、なんとなかってよかったよ~」
「何ヶ月も見つからずに潜伏してたやつだ。こういうタイミングでないと姿を現さないと思ったからね」
「オレ、結構活躍しちゃった感じ?」
「そうだね」
「へへ~やったぜ」
嬉しそうに照れるウルリ。しかし姿は獣人のままなので、とてもではないが照れているように見えないのだが。
ディグは意に介さず、取り返した携帯電話を使ってメールを送信した。
「もう少ししたら調査班が来るはずだ。操られていた村人達も元に戻ったようだし、先ずは落ち着いたね」
「うん!けどなんかオレ、すげー疲れたよ」
そう言うと、いつの間にか元の姿に戻ったウルリはくたくたと座り込んだ。
「ろくに休めなかったしお祭りは見れないし、全然楽しくなかった…」
「だから言っただろ。仕事だって」
ディグは肩を竦めた。
その時、背後で砂利を蹴る音が聞こえた。二人は順次に振り返る。先程の戦いで、感覚が鋭敏になっていたのだ。しかし、身構える二人の前に現れたのは新たな敵ではなく、肩で息をした桃花だった。
「い、いったい何があったんですか?」
「あー…え、えーっと」
「なんて説明しようか?」とウルリが視線を送る。
「ちょうど今、黒幕を討伐したところだよ」
送られた視線を受けて、ディグは率直に答えた。
それを聞いた桃花は一瞬戸惑ったようだった。しかし、彼らの後ろに横たわる亡骸を見つけて、全てを悟ったようだった。
「それ、もしかしてウツボ様…?あなた達、ウツボ様を倒したんですか?」
「正確には、あんた達の伝説にあるようなものではなかったけどね」
「じゃあ…やっと終わったんですね。ウツボ様の支配が…」
突然、桃花は手で顔を覆って、その場にへたり込んだ。
「お、おい大丈夫か?」
小さく聞こえてくるすすり泣きに、ウルリは狼狽した。心配そうに彼女の顔を覗き込むが、桃花はそれを否定するように首を振った。
「いえ…急にすみません。やっと自由になれたので、感極まってしまって」
「どういうこと?」
「私、本当はこの村の出身じゃないんです。ここには、三ヶ月前に家族と一緒に迷い込んでしまって…木の塊のようなものを覚えていますか?あれはご神体なんです。ご神体に触れてしまうと、生贄として役目を全うするまで村に閉じ込められてしまうんです」
「マジか!じゃあディグはあの時呪われちゃったわけなんだ…って、逃げられなくなるのになんで逃げろって言ったんだ?」
「まだ間に合うと思ったんです…ウツボ様の影響を完全に受けるのには長い期間がかかるので。だからいつもは気鳥さんが、その人が影響を受けるまで空き家に閉じ込めているんです」
「な、なるほど…」
「変な感触だったけど、ご神体って本当はなんなんだ?」
「あれは、ウツボ様が分裂させた頭です。時期が来ると、村のどこかに落とすんです」
「お、落とすって…それ死んじゃってないか?」
「EBEには解明されていない謎が多いから、そういうこともできるんだろう」
ディグが口を挟む。あの奇妙な感触の謎が分かり、彼はあっさり納得したようだった。
対するウルリは「そ、そうなんだ、へ~」と小声で呟いた。口ではそういうものの、飲み込めてはいないようであった。
「私が最初に見つけた時は、お母さんが、気味が悪いからって取り上げました。でもそうしたら、あの人…気鳥さんがやってきて…その日は、ちょうど今日みたいにお祭りの日だったから…」
記憶を掘り起こして、桃花の声は次第に暗くなる。
「お母さんは私を庇ってくれました。お父さんも…でもその代わりに、ウツボ様の影響を強く受けてしまいました。それからはずっと、生贄になるためにここに住んでいたんです。この村の何人かの人は、私達みたいに迷ってきて、それを待っていました。その間はずっと、気が気でなかった…」
桃花は袖で涙を拭いて、顔を上げる。
「あなた達を見つけた時はどうしようかと、迷いました。親切にしてくれたから、どうにか引き返すように言おうと思ったけど、余所から来た人を見つけたら知らせるようにと、気鳥さんに強く言われていたから…」
「なるほどね」
冷静に聞いているディグの横で、ウルリは釣られて泣いていた。大きな声を上げそうだったので、ディグは視線をくれずに手を伸ばし、その口を塞いで黙らせた。
「事情は大体わかった。今回の事は、最優先で対処してもらえるよう伝えるよ」
「ありがとうございます…本当に」
桃花はもう一度涙を拭って、笑った。
やがて秋の夜長の静けさを割いて、遠くから複数のサイレンが聞こえてきた。高台にある広場から臨むと、それが幾つかの赤いライトを灯して近づいてくるのが見えた
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