第6話 因果応報

 生まれて初めて、自分の意志で人を傷つけた。


 発した言葉が気付かない内に人を傷つけていたことは、これまでに何度もある。その度に俺は後悔して、反省して、同じ過ちを繰り返さないように努力してきた。

 大人になるにつれて段々とその努力が実り、俺は「優しくて」「誰も傷つけない」「聖人」のように扱われるようになった。

 俺も自分のことを聖人とは言わないまでも、それなりに優しい人間になれたと思っている。


 いや。思っていた。


「あがああああぁぁ!!!!」

「もっと苦しめよ。もっと、もっと、もっともっともっと!」

「ぐふうぅ! こ、の、出来損ないが……ぎゃあああ!!」

 

 課長へ金属バットを振り下ろすたびに高鳴る胸の鼓動。俺は今、気付いた。自分が本当はどんな人間なのか。

 俺は誰かを傷つける人間が許せなかったんじゃない。

 本当は俺も人を傷つけることで快楽を感じるクズなのに、今まではただ誰かを傷つけるような力と度胸がなかったから、親に言われた通り「人を傷つけることは悪なんだ」と自分に思い込ませて、優しい人の仮面を被っていた。

 今日、初めて意図的に人を傷つけたことでその仮面は剥がれ落ちた。今の俺の中に、人を傷つけることへの抵抗や罪悪感は一切存在しない。

 頭の中にあるのは、目の前に縛り付けられた憎い相手をどうやって極限まで痛めつけて殺すか。ただそれだけ。

 家族や誰かのためなんかじゃなく、己の快楽のために俺はひたすら金属バットを振り回している。


「もう……許してくれ……。ちゃんと謝罪もする……」

「は? この程度で俺の苦しみを分かったつもりか? まだまだこれからだ。ほら!」

「がはあっ! ……許して……。た、頼む……頼むから……」

「あっそう。勝手に頼んでろ。もう一発腹いくぞ。ほら!」

「ごぶっ! う、おえぇっ!」

「おおい、汚ねえな。吐くなら先に言えよ」


 俺は辛うじて吐瀉物としゃぶつかわした。せっかくのホコリ一つ見当たらないような綺麗な床が汚れてしまった。

 立て続けの殴打によって、少し前までの課長の強気な態度は完全に影を潜めている。

「……結局、立場が全てなんだな。あんたは会社で、自分の立場を利用して宮下さんや俺を傷つけた。俺は、殺人サブスクを利用してあんたを傷つけることのできる立場になった。あんたもよく身に染みてるだろ。弱い立場の人間は、たた虐げられ続けるしかない」

 俺は言葉を継ぎながら、ヘコみの目立ち始めた金属バットを足元へ放り捨てた。バットが床で何度か跳ね、カランカランと高い音が室内に反響する。

 その反響の中で俺は隅のテーブルまで行き、再び包丁を手に取った。 


「そして優位な立場は、人間性に関係なく得ることができる。これがこの世界の一番クソな所だ。あんたみたいなクズが人の上に立てるんだ。いびつだよ、この世界は」

 課長の元に戻り、 ももを真上から一刺し。

「ああああ!」

  ももも一刺し。

「ぐっ、ふっ、ぐぅぅぅ!」

 抜いた刃から滴り落ちる血液が、吐瀉物まみれの床に赤い彩りを足す。


「でも、嘆いても仕方ないよな。きっと大昔から人間の社会なんてこんなものなんだろうし、どうせ今更変えられない。昨日まではあんたが優位だった。今は俺が殺人サブスクのおかげで優位になった。ただそれだけだ」

「ふーっ、ふーっ。……ぐっ、よく喋る奴め……」

 肩で息をしながら課長が俺を睨む。

「誰かのおかげで、我慢してばかりの日々が続いてたもんでね。その分今日は心ゆくまで楽しませてもらう」

 次はどこを刺そうか。その次は。またその次は。違う道具も借りてみようか。

 ああ、楽しい。久しぶりだ、こんなにいい気分なのは。

「くれぐれも勝手に死ぬなよ」


 過ぎ去る時間に比例して課長の体は傷つき、そして辺りは血の色に染め上げられていった。


 ◇


「ヒュー……ヒュー……」

 死にかけの息だ。戦争物の映画でボロボロの兵士がこんな呼吸になっているシーンを見たことがある。

「死にたいですか、課長?」

 課長の体は、もはや傷の無い所を探すのが難しいくらいの状態だ。俺の服にもベッタリと返り血が付いている。どれくらい時間が経ったのかも分からないほど、俺は一心不乱にこいつを傷つけ続けた。

「課長? 死にたいですか?」

 返答はない。聞こえるのは虫の息だけ。


「……分かりました。俺ももう満足しましたし、そろそろ終わらせましょう」

 持ち手まで全て血で被膜された包丁の刃を、課長の喉元に添える。

「一言謝ってればこんなに苦しまなくて済んだんですよ。……あんたが悪いんですからね。全部、全部、何もかも」


 課長が事切れる前に、俺は自分の手でとどめを刺した。

 

 これで俺を苦しめ続けたがん細胞は消えた。明日からはもうパワハラに悩むこともない。この殺人が本当に罪に問われないのであれば、だが。

 まあ最初に課長を殺す決意をした時点で自分の人生は諦めてたから、たとえ罪に問われたとしても当然の報いだし別に構わない。


 とりあえず今はシャワーが浴びたい。この部屋の奥にはシャワールームがあり、血を洗い流すことができる。

 俺は包丁を床に手放してシャワールームへ向かった。

 脱衣所に用意されていた大きめのビニール袋へ汚れた衣服を入れ、それから浴室に入りシャワーを浴びる。

 絶妙な温度のお湯は俺の体に付いた血を綺麗に流し去り、排水口に吸い込まれていく。

 

 ――現実感が無い。


 俺が人を殺した。人を殺せた。

 そしてそのことに対して何ら良心の呵責は無く、こうやって平然とシャワーを浴びている。

 たかぶりが落ち着いて状況を客観視できるようになると、自分のことが少しだけ怖くなってきた。

 俺はこんな人間だったのか。

 今までは自分が仮面を被っていることすら気付いていなかった。苦しめられてもただ耐えるだけだった。

 でもこれからは違う。自分の素顔に気付いた俺は、今後も迷わずコロホを利用するだろう。俺のことを苦しめる人間は、全員ここで殺す。殺す時にはきっと快楽も感じるはずだ。


 ――間違ってないか? 人間として。


 ……いや。間違ってない。そもそも悪いのは最初に人を傷つける奴らだ。

 課長だってそう。俺をいびったりせず真面目に中間管理職を勤め上げていれば殺されることもなかった。

 因果応報、やったことは跳ね返る。俺は跳ね返す側の存在。俺の殺人は正しい殺人なんだ。


 ◇


 シャワーを終え、荷物の中に用意していた着替えに袖を通した俺は、ここを後にすることにした。

 確か道具類は放置したままで良かったはず。

 俺は課長の死体を特に気にすることもなく、自分の荷物を持って部屋を出た。


 相変わらず雷が空を騒がせている。今日はまだまだ荒れた天気になりそうだ。

 エレベーター傍のカウンターに行き、帰る旨を伝えて預けていたスマホを返してもらう。続けてICカードを返却する。すると受け取った女性が「ありがとうございます。またのご利用お待ちしております」とわざわざ立ち上がってお辞儀をしてくれた。

 俺はお礼の言葉と共にお辞儀を返してエレベーターに向かい、そして下りのボタンを押そうとした。


 しかしちょうど下からエレベータ-が上がって来ていたようで、指がボタンへ触れる前にタイミング良く扉が開く。

 中には男性が一人乗っていた。

「……あれ? お前……」

 その男性が目を見開いて言う。

 俺も思わず固まりながら呟いた。

「宮下さん……」

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