第5話 正しい殺人
俺はまず、自分の荷物を部屋の隅にある横長なテーブルの上に置き、続けて課長の目を塞いでいる布を外した。室内のひんやりとした空気感とは裏腹に、課長はすでに汗だくだ。怒りと恐怖の入り混じった視線を俺に向けている。
「怖いですか?」
課長が激しく肩を震わせながら呻く。
「あんたが悪いんですよ。分かりますよね? 俺があんたのせいでどれだけ苦しんできたか。悪い奴には
そこで入口の扉がノックされた。
「失礼します」
男性スタッフが扉のロックを解除し入室する。申請した包丁と金属バットを持ってきてくれたようだ。
「むんんん! ぐぬんんん!」
課長が一際大きく目を見開いた。自分の命を奪うために用意された道具を見て、死というものをはっきり意識した様子だ。
「こちらに置いてもよろしいですか?」
スタッフが俺に置き場所の確認を取る。
俺が「はい、大丈夫です」と答えると、スタッフはまず金属バットを隅のテーブルに立て掛けた後、トレーに乗った状態の包丁を静かにそのテーブルの上に置いた。
「失礼致しました」
スタッフが俺に一礼して退室する。
「さて。早速殺したいところですが、あんたにはまず謝ってもらわないとな」
包丁を手に取って課長の前に立ち、口元に貼られたビニールテープを一気に剥がす。
「っつう……! くそ、何なんだこの状況は! お前、俺を殺すって、本気で言ってるのか!」
「本気ですよ。でもその前に、謝ってください。そうすればできるだけ楽に死なせてあげます」
俺は包丁の切っ先を課長の左胸の辺りに触れさせた。
「謝る? お前にか? 何でお前に謝らなくちゃいけない? おおよそ俺の言動に対して不満があったんだろうが、そもそもお前が無能だから悪いんだろう。俺はいつも事実を述べていただけだ。出来損ないの部下を嘆いていただけだ。自分の力量の無さを棚に上げて、こんな凶行に
相変わらず耳障りなダミ声だ。この声を聞くだけで吐き気がする。
「確かに俺は出来損ないです。それに上司が部下にきつく指導するのも当然なこと。でも、あんたは度が過ぎたんだよ。俺は無能と罵られようが理不尽に無視されようが必死に我慢した。だけど、家族を侮辱されたことはどうしても許せなかった」
思わず包丁を持つ手に力が入った。切っ先がわずかに課長のスウェットに沈み込む。
「俺に対しての言動はこの際謝らなくてもいい。でも、人前で俺の親を侮辱したことは何としても謝ってもらう。一言でもいい。間違った発言だったと認めてくれ」
課長は俺を睨み上げながら鼻で笑った。
「……はっ、どうせ殺されるのなら謝る必要なんかないな。そもそも俺にはお前の親を侮辱した記憶なんか無い」
「……俺の聞き間違いか? 今、記憶が無いって言ったか?」
「ああそうだ。俺はどうでもいいことはすぐ忘れる主義でな。自分が何を言ったかなんてイチイチ覚えてないんだよ」
「……この野郎……」
本当に根っから腐りきったクズだ。相手の気持ちなんか露ほども気にせず、息をするように侮辱し、そしてそれを咎められても悪びれやしない。
「昨日のことすら覚えてねえのかよ! あんたは昨日、大勢の社員がいる前で俺の家族を馬鹿にした! それもオフィス中に響くようなデカい声で! これが正しい行為か間違った行為か、考えなくても分かるだろ!」
「……お前はどうしようもない奴だな。笑えてくるよ。ふっ、ハッハッ!」
課長が歪んだ笑みを浮かべる。
「何がおかしいんだ?」
「救いようのない奴だよ、お前は。今から殺人を犯そうとしている奴が、偉そうに正しさを説きやがる! こんな滑稽な話があるか? 間違ってるのはお前だろうが。頭冷やして自分を見つめてみろ!」
「黙れ」
俺は包丁の刃を課長の首元に突き付けた。
「こうでもしないとあんたはこれからもたくさんの人間を傷つける。相手の気持ちなんて意に介さず、そしてそれが裁かれることもない。それこそが本当の間違いなんだ。だから俺があんたを止める。ここならそれができる。殺しが許されるこの場所なら」
「殺しが許されるだと? 何を馬鹿な……」
呆れたような課長の表情。俺は構わず続けた。
「『殺人サブスクリプション』。好きなだけ人を殺せるっていうふざけたサービスだ。俺も初めは相手にしてなかった。でも、試しにあんたをターゲットに指定してみたらこの通り。どれだけ憎んでも憎み足りなかった相手が、今身動きを封じられて俺に殺されるのを待っている。死ぬべきなのにのうのうと生きてる人間をこの手で殺すことができる。このサービスは正しい殺人を実現させてくれるんだ」
「ベラベラと……。正しい殺人? 自分が何言ってるか分かってるか? 狂ってるぞ、お前」
「だとしたらあんたのせいだ」
「話にならんな。……そうか、殺人サブスクリプションか。本当にふざけたサービスだな。じゃあやってみろ。殺しても本当に捕まらないのか、まだ試してないんだろ? 俺はどんなに脅されようがお前に謝るつもりはない。時間を浪費する前にさっさと俺を殺して、正しい殺人とやらを遂行しろ」
課長が自分から包丁の刃に首を押し付ける。刃の食い込んだ皮膚から血が溢れ始めた。
俺は手の力を抜き、包丁を課長の首から離して一歩下がった。
「……そうですか。謝る気はないと」
「ああ」
課長の目は俺を鋭く捉え続けている。
「俺、言いましたよね? 謝れば楽に死なせてあげるって。でもあんたは謝らなかった。だから、楽には死なせません」
テーブルに包丁を置きに行き、代わりに金属バットを手に取って課長の元へ戻る。
「傷つけられる側がどれだけ苦しいか、骨の髄まで刻み込んで死ね」
俺は金属バットを振りかぶった。
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