第4話 図書室、降り注ぐ西日とうどんの匂い
がたがた、と机の動く音で目が覚めた。はっとして顔を上げたら、後ろでコノエがくっくっと笑いをかみ殺そうとしていた。
「おはよ」
奴はそんなことを言う。俺はちょっとばかりむっとした顔を返す。
がたがたと教科書やノートを片づける音。掃除の道具を出す音。妙に目を押さえこんでいたのか、視界が多少ぼけている。だが廊下側の窓からは、次第に西日の気配。
中学時代と違って、机をいちいち後ろに寄せたりはしない。教室の端のロッカーからモップを出す女生徒の姿。五月も後半は中間服だ。上着を着るにはもう暑い。風がさわやかで心地よく、午後の、学食で腹も満ち足りた時間、眠くならない奴の気が知れない……
「いや~実にキミ、熟睡してましたねえ」
後ろでどうやらその様子を傍観していたコノエは、実に楽しそうな表情で言う。
「……起こせよ……」
「別に指すセンセイではないでしょうに。ご安心を。キミは大丈夫だったし」
そういう問題ではないのだ。基本的に俺は授業では居眠りは…… したくは、ないのだ。してしまうけど。
コノエはわりあいそのへんはルーズで、授業に出席してちゃんと聞いている時もあれば、出ても寝ていることもあるし、出ずに屋上とか図書室の片隅で寝ていることもあるらしい。
「ま、ともかくさっさと引き上げた方がいいですな」
確かに。掃除当番の視線が痛い。
水曜の終わりは五限だ。いつもより少し終わるのが早い。俺は首を軽く回すと、図書室で借りていた本だけをカバンに放り込んで閉じる。
「返すのですかね? 図書室寄ってくならつきあいますけどね」
「寄ってくよ」
何せこの高等部の図書室は、中等部の頃からのあこがれだったのだ。
別に俺は本キチガイという訳ではないが、少ないよりは多い方が好きなのだ。何せこの学校自体、歴史がある。その長い時間のうちに蓄えられた本ときたら。
旧校舎の一角が、その図書室だった。
大正の終わりだか昭和の初めだかに建てられた旧校舎は、全体的に天井が高い。だいたい新校舎の三階分の高さで二階建てなのだから、その高さも想像がつくと思う。
おかげで階段は長い。一階あたりを上るのに何かひどく疲れる。だが途中にその古き良き時代の残物とも言えるような模様が壁のあちこちに見られるのがいい。それだけでお釣りは来る。高い天井へと続く大きな窓からは、この時間陽の光が斜めに差し込んできてひどく綺麗だ。
……これで、学食の実に庶民的な香りさえしなければ!
この時間は、運動部の欠食生徒のための、うどんだのカレーだのの香りがこの美しい階段室にも実に濃く漂ってくるのだ。
いやまあ別にそれはそれでいいのだ。結構ここの食堂のメニューは単純だが、美味いのだから。
俺は結構よくお世話になっている。昼ならず、時に夕方も。
入り口でブリックパックのコーヒーとか買って、意味もなく、小中学から一緒だった今原や西条といったクラスの連中と、ただだらだらとたむろしているのもそう悪くはない。
最も、コノエとはそういう「だらだら」はしない。奴はわりといつもさっさと帰ってしまう。
そして俺は俺で、あれ以来時々奴と一緒にライヴハウスに出かけたりもする。
未だにこいつとタキノの関係も訳判らないままだが、(そういえばタキノという名が姓なのか名なのかすらも未だに判らないじゃないか)さすがに奴らのいちゃつきには次第に免疫ができてきていた。
ふと、そのうどんの香りに乗って、ピアノの音が聞こえてきたような気がした。
「何、どうしましたかね」
コノエは階段の途中で立ち止まった俺に訊ねた。
「いや、どっかでピアノ、誰か弾いてる?」
ああ、とコノエは天井を振りあおぐ。西日に、奴の明るい色の髪が光に透ける。
「ちょうどですね…… この窓の向こう側あたりなんじゃないですかね」
奴は腕をすっと窓に向かって伸ばす。
「何が」
「ピアノ室」
初耳だった。
「ピアノ室なんてあったのかよ」
「あれ、内部持ち上がりのくせに知らなかったんですか?」
コノエはやれやれ、とばかりに笑顔とともに肩をすくめた。俺はちょっとばかり顔をしかめてみせる。
「……別に校内案内とかある訳じゃないだろ……」
「ま、そう言えばそうですがね。……ああでも我らがクラスメートは通ってるようですな」
「クラスメート?」
「ワタシ同様外部生の」
「マキノ?」
「そうそう確かそんな名前。割とあの人はちょくちょく放課後はあそこに居るようですね」
それは更に初耳だった。
「よく知ってるなお前……」
「クラスメートでしょ。そうゆうこと色々と知ってるのは面白いではないですか……」
そういうものかなあ、と俺は首を傾げる。そんな様子に気付いたのかどうなのか、奴はそう言えば、と話題を変えた。
「RINGERの次のライヴが決まったようですがね」
「何なに」
すかさず俺は聞いていた。思った通り、とばかりにコノエはにやにやと笑う。だがそんなことに構ってはいられない。いつだって、と俺は訊ねた。
「それが、いきなり。今日なんですよ」
「げ」
「だからどうしようかなあ、と思ったんですがね」
「ちょっといきなり過ぎないかあ?」
「いやワタシもそう思ったんですがね。タキノがいきなり昨夜言ってきたもんですからねえ」
昨夜。
昨夜と言っても、確かこいつは八時くらいまでは俺につき合って、楽器屋とか本屋とかをはしごしていたはずだ。
「電話?」
「いや? 何で電話なんですか?」
何を今更、という感じで奴は問い返す。あ、そう、と俺は肩を落とした。こうなったら一度は聞いてみたかったことを聞かなくては気が治まらない。
「……あのさあコノエ」
「何?」
「タキノってお前の彼女だよね? 何処の学校?」
「彼女?」
天井を見、窓を見、壁を見……それからやっと奴は俺の方を向いた。
「そーかあ…… やっぱり彼女に見えますか」
「違うのか?」
「いや、そうですがね」
……要領を得ない。でもそれがどうした?と言いたげな様子に、何やら聞いたこと自体が馬鹿馬鹿しく思えてしまう。
「それよりか、キミどうしますん? 今日……」
「結構金欠なんだよな」
「じゃ止しましょうか」
……
「別にさあ、好きだからって、いつもいつも通うことはないんですよ?」
「……お前は行くのかよ」
「ワタシはどっちでも。キミほどあのバンドにキョーミがある訳じゃあないですからね。タキノもキミが行くなら行くとか言っていたけど、ワタシにはその義理はなし」
「彼女抱きしめてた方がいい?」
「そりゃそうですよ。一晩中、愛しい彼女なら」
……一瞬鳥肌が立った。どうしてまあこんなことをぬけぬけと言うのか!
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