第3話 彼女は

「おかえりー」


 RINGERの番が終わったので、俺とコノエは後ろに下がった。

 タキノが手を振っている。後ろで彼女はちゃっかり丸テーブルを一組を占領して、カルピスソーダを呑んでいた。

 俺とコノエはそこに空いて(空かせて?)いた椅子に座った。途端に、俺は何かひどく力が抜けるのが判る。

 タキノは首をかしげると、コップごしに俺をのぞき込んだ。


「あれ、カナイ君、何か顔赤いよ。呑んだの?」

「呑んでないけど、何か暑そうですね。人に酔ったですかね」

「そうか……?」


 頬に手の甲を当ててみる。確かに熱い。


「ほら、まだ冷たいよ。一口あげる」


 タキノはカルビスソーダをつ、と差し出す。いいのかな、と思いつつ、俺は氷が半分のようなそれを受け取った。ひどく甘いんだけど、奇妙に美味しい。


「あーっ、全部呑んでいいなんて言ってないよ」

「ごめん」


 仕方ない。妙に喉が乾いていたのだ。口を手の甲でぬぐいながら、丸テーブルの上に空になってしまったコップを置いた。


「ごめん、も一杯買ってくるよ」

「いやいいですよ。ワタシが買ってきましょ。それよっかカナイ君や、キミまだちょっと座ってなさいや。何かふらふらしてるじゃないですか」


 コノエは立ち上がろうとした俺を手で制し、そう言った。


「ふらふらしてる?」

「ん」


とタキノもうなづいた。


「休んでた方がいいよ。ホント」


 うん、と俺はうなづくと、それまでコップを掴んでいた手を両頬に当てる。

 氷がたくさん入っていたコップは汗をかいて冷たくなっていた。手もそれに冷やされて、火照った頬にひどく気持ちいい。

 にっこり笑ってタキノは言う。その時やっと、その大きな目が黒目がちのものであるものに気付いた。


「気に入ったんだね、よかった」

「気に入った――― のかなあ、俺」

「だって夢中で見てたんでしょ?」


 そうだったのかな、と俺は何度か顔を軽くはたく。ついた水が、すぐに乾く。そう言えば、そうだった。


「はい、ウーロン茶でいいですかね?」


 器用に三つのコップを手にしたコノエが戻ってくる。カルピスソーダをタキノの前に置くと、そう言って俺にも渡した。悪い、と俺は受け取ると、今度はまだ飲み物が入ったままのコップを顔にべったりとつけた。


「はい」


 コノエは手を出す。


「何だよ」

「この分だけは払ってくださいな。400円」


 俺はコップを下ろすと、上着の内ポケットを探った。ひいふう、と数えて400円…… ん?


「こっちはいいですよ。ね?」


 うん、とタキノもうなづく。立ってる人の向こう側が明るくなる。次のバンドが始まったらしい。だが二人は平然として飲み物を口にしている。


「いいのか?」

「なあに?」

「何がですかね?」


 口を揃えて二人は言う。


「次のバンド……」

「お目当ては済んだもん。あなた見てる方が面白いじゃない」


 カルピスソーダのストローを加えたタキノは、あっさりと言う。コノエも無言でうなづく。


「ま、実際、あのバンドはいいですしね」


 今度はタキノが無言で大きくうなづいた。


「RINGER」

「そ。RINGER。もう結成してから結構なるらしいんだけどね。ただヴォーカルがころころ変わるんですよ」

「ヴォーカルが変わる?」

「ま、ワタシの得た情報としてはね。タキノ? キミは何か聞いてますかね?」

「ギタリストさんとドラマーさんは結構長いらしいわね。最初に結成したのは、その二人だったんじゃないかな?」


 へえ、と俺はうなづく。そして正直な感想を口にする。


「詳しいなあ」

「まーね」

「そりゃね」


 二人の言葉がだぶる。


「だってなあ」

「ねえ」


 うなづきあう。そのテンポに、何となく俺はまた赤面してしまう。

 しかも、それはそれどころではなかった。うなづきあいを何度か繰り返すと、やがて二人して笑い出す。

 タキノはコノエの側に椅子ごと近づくと、奴の首に両手を回した。奴もまた、それに気付くと、彼女の腰を引き寄せる。慣れている手つき。


「カナイ君なかなか引かないね。顔まだ赤いよ」


 タキノが不思議そうに言う。誰のせいだと思ってるんだ。



 結局その日は、コノエとタキノの二人と、RINGERというバンドに当てられたようになって、他のバンドのことなんて全く覚えてなかった。

 それじゃまた、と奴は駅で手を振ろうとする。タキノもまた、奴にべったりとくっついたままだ。あてられっぱなしだ。免疫がないから、見ているだけでも恥ずかしい。

 カップルに免疫が無いのもそうなんだが、普段学校で見るコノエの姿と違いすぎるのも原因の一つらしい。

 俺はああ、と手を振り返そうとして、ふと思い立って、ポケットに手を突っ込む。


「コノエっ!」


 奴は顔を上げた。俺の手から五百円玉が飛んだ。

 器用なものだ。駅の近く程度の照明の中で、奴はそれを片手で受け止めた。


「何ですか」

「RINGER、良かったよ」

「ふーん」


 奴はにっと口の端を上げる。それはよかった、という言葉がその後に続いた。



 いつも通学する駅に置いておいた自転車に乗って家に戻ると、灯りがついていた。珍しいことだ。

 俺はちら、と居間をのぞく。母親が電話をしていた。俺の気配に気付くと彼女は受話器を隠した。声をひそめた。

 気付かないふりをして、キッチンへと入っていく。特に何かしら用意してある訳ではないので、俺は炊飯ジャーを確認して、冷蔵庫を開けた。

 端の方でばさついた米の飯。昼に炊いたのがそのまま置かれたのが丸判りだ。

 ステンのやかんをかけると、俺は勝手に茶を入れる。こうゆうメシになってしまったら、もう水気を加えないと食えたもんじゃない。

 テーブルの上にあった缶をひねって、茶漬けだかふりかけだかの袋を出す。そうして適当に冷蔵庫のものとかを並べて茶漬けをかき込んでいたら、母親が顔を出した。


「帰ってたの、フミオ? ……声くらいかければいいのに」

「ただいま」

「言ってくれれば何か作ったのに」

「何とかなったよ。あんた電話中だったし」

「また親のことをあんたなんて言う……」


 髪が乱れている。俺は黙っている。TVのスイッチを入れる。

 端末を引っ張り出してチェックする。

 

「しつこいなぁ……」


 一つ上の幼なじみからの着信履歴が並んでいた。生徒会長なんてやっている女だ。

 わざわざ返すのも正直面倒だった。

 と、言うより年々苦手になっていた。

 そんな俺に気付いてか気付かずか、母親はふらりとキッチンから出ていく。

 彼女は疲れている。彼女は待っている。

 彼女は待たない。何かをちゃんと返事してあげたいのに、今の俺には、どうしてもそれができない。

 彼女は電話をする。俺はその回線の向こうが何処だか知っている。親父ではない。彼は単身赴任している。遠い西の街。彼にかける訳ではないのだ。


 そして彼女は淋しい。


 だが俺にどうしろって言うんだ?

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