#4 妖爾ヶ岳の戦い
のどかな陽気に包まれた阿久更町。ぽかぽかと暖かい太陽の光を浴びて、生命達は抗うことができず春眠を貪っていた。
それは講義を退屈に思った学生達も同様で、窓から差し込む陽光の魔力に当てられ、一人また一人と眠りに落ちていった。
鬼怒谷は真面目に講義を受ける数少ない学生の一人だった。多くの学生に効果抜群だった眠気を誘う教員の抑揚のない話にも、彼はしっかり耳を傾けていた。
その時、彼の携帯電話が反応する。見ると、画面には秋色の名前が表示されていた。振り向いてみると、いつも睡眠学習をしているはずの秋色が起きており、携帯電話を弄っていた。しかしやはり眠気はするようで、目が少々虚ろだった。
鬼怒谷は画面に視線を戻すと、送られてきた文面を確認する。そこにはストレートに、「たのみたいことがある」とひらがなで書かれていた。
瞬時に先日のことを想起した鬼怒谷は、小さくため息をついた。
講義が終了すると共に、不思議と学生達は目を覚ました。どういう原理か謎であるが、休み時間になると自然と起きてくるのだ。
秋色も先程のテンションとは打って変わって、明るく快活な調子を取り戻していた。
「おっす鬼怒谷!メッセ見てくれたよな?」
「うん、見たよ。どうしたの?」
「あれっ、さっき内容も送ったぞ。見ろよー」
「いや、一通目の短文から何も届いてないんだけど...」
そう、鬼怒谷が苦笑して言うと、秋色は自身のアプリを確認し始めた。その時、「あっ」と短い声を発したが、すぐに携帯電話を閉じた。
「それはさておき、今日もお前に相談したいって奴から連絡があってさ。暇だったら行ってやってくれないか?」
秋色は自らの不備を無かったことにして話し始めた。鬼怒谷は気づいていたが、敢えてそこに言及しないでおくことにした。
「ええ、また?僕は霊能者じゃないんだけど...」
「でも光莉さんの件は解決したろ?その話を友達にしたら、ぜひお前に頼みたいって言われてさー」
「秋色、口が軽すぎるよ...」
鬼怒谷が恨めしそうに視線を向けると、秋色は両手を合わせて謝罪した。しかしその顔は笑っている。
「いいじゃん。こないだのオレ、超ファインプレーだったじゃん?光莉さんの住所に番号も聞いてやっただろ。それで釣り合うはずだぜ」
「ぐっ...それを言うか」
鬼怒谷が反論出来ないのを見て、秋色はからからと笑った。取り引きというより弱みを握られているような状況であるが、鬼怒谷は折れるしかなかった。
「んじゃそういうことで、内容を説明するからな」
「あ、やっぱり送信し忘れてたんだね」
思わず突っ込んでしまうが、秋色は無視して続けた。
「町の北側の山の麓にほとんど壊れかけの施設があんだけどさ。そこって昔から取り壊し作業がされてんだけど、未だ終わってないんだよ。原因は機械が故障したり作業員が怪我したりといつもまちまちなんだけど、巻き込まれた人はみんなポルターガイストが起きたって言うんだ」
「本物のホラースポットじゃないか!?」
「かもしれないな。何かの羽音がしたり、暗闇の中に赤い光がゆらゆらしてたり...過去に霊媒師みたいなのも来たらしいけど、なんともなってないんだと。あんまり気味が悪いから、なんとか解決してほしいってさ」
「そ、そうなんだ...それ、誰の相談?」
「だからオレの友達だよ。まぁそいつその近所に住んでんだけどだいぶ怖がりでさぁ、鬼怒谷の話したらすげー食いついてきたんだよね。だからさ、今回も頼むわ!」
「えぇぇ…」
「大丈夫だって、こないだの怪異を解決したお前なら!」
話を聞かされて、鬼怒谷はこれ以上なく不安な気持ちになった。本物の霊能力者が散った場所へ、霊感すらない自分が向かうのは無謀でしかないと思った。しかし、放っておけないのも彼の性。
鬼怒谷はさきほどより深くため息をついた。
こんな短期間で“彼女”を説得しなければならない機会が巡ってくるとは思いもしなかった。
帰路につく中、鬼怒谷は少し遠回りをした。それはできるだけ人気のないルートを探すためであり、“彼女”と話すための配慮であった。
まだ帰宅ラッシュの時間ではないため、その住宅地はしんと静まり返っていた。鬼怒谷は思い切って、名前を呼んだ。
「ステラ、ちょっといいかな」
何も無い場所に向かって呼びかける。すると、背後から気配を感じるようになった。振り返ると、いつの間にか道の真ん中に少女が立っていた。
「あ、今回は普通に出てきてくれたんだね。ありがとう」
「調子に乗るんじゃないよ。たまたま退屈だったから出てきてやっただけだ」
相変わらず酷い悪態であるが、こう見えて彼女...ステラとの付き合いは安定して続いていた。例えるなら仲の悪い兄妹くらいの関係だろうが、それでも鬼怒谷は以前に比べればずっとマシだと思っていた。
「それで...またお前、面倒事を押し付けられたんだな」
「う、うん。そうなんだよ」
「はー...お前さ、利用されてて楽しいか?聞けば前より危険そうな場所に行かされるみたいじゃないか。死ぬかもしれないんだぞ、断っちゃえよ」
「利用って言わないでよ...秋色は友達なんだから。僕も良くしてもらってるしさ、助け合うのは当たり前でしょ?」
「割に合わないのにか」
「そんなことないよ」
「ほんとうか~?」
ステラは冷ややかで懐疑的な視線を送ってきた。
「お前いつか悪徳商法に引っかかるぞ。その時私は止めないからな」
「そんなことならないって。ていうかなんでそんな言葉知ってるの?」
「それはさておき、お前、この私を呼び出したってことは、また私の力を借りたいんだろう」
あからさまに鬼怒谷の質問を無視するステラ。答えたくないというより、答えるのがめんどくさいようだ。
「前回はシュークリーム三個で手を打ってやったが、今回はそうはいかないからな」
「えぇっ。協力してくれないの?」
「そう何度も人間の助けになることはしたくないのだ。なによりめんどくさいからな!」
「うーん、そうかぁ...」
鬼怒谷は悩んだ。以前の流れでは数を上乗せすれば快諾していたステラの意思が、より強固なものになっていた。これを崩さなくては、秋色の友人の頼みを聞くどころの話ではない。
「...本当にシュークリームはいらないんだね?」
念を押して聞いてみる。ステラは頷いたが、本当の気持ちを押し殺しているようで、歯を食いしばりながらぶるぶる震えている。
「無理しなくていいんだよ。なんなら普通に買ってくるし...」
「無理などしとらんわっ!なんだ、お前はどうしても私を協力させたいようだなっ!そうだろ?姑息なヤツめ仕方ない、そんなに言うなら今回も手伝ってやる!」
「え、いいの?ありがとう!」
無茶苦茶な言葉を並べつつも、ステラは結局折れた。シュークリームの魔性にすっかり取り憑かれてしまったらしい。
鬼怒谷は今回も強い味方を得ることができて、一先ずほっとした。
翌日、鬼怒谷は最も動きやすい格好をして、様々な道具を詰めた鞄を背負って部屋を出た。今回は本物のホラースポットなので、万全を期して臨むつもりだ。一方ステラはというと、いつもの格好のままである。強い彼女は装甲などそもそも要らないのだ。
目的地へはここから交通機関を乗り継ぎ、1時間はかかる。バスに揺られる道すがら、鬼怒谷は携帯電話で件の場所を調べてみた。そこは阿久更町の北にある大きな山、古くから「妖爾ヶ岳」と呼ばれる場所の近くにある製薬施設だった。検索にかけてみると、呪われた場所であるとか、霊が出るとか、いろいろな都市伝説や噂が読み込まれた。秋色のせいで大学全体でもオカルトマニアと認識されるようになった鬼怒谷だが、本当は霊的なものが苦手な性分なので、調べる程に行く決心が揺らいでしまう。そこへ隣に座っていたステラが手を伸ばし、画面を掴んできた。
「ちょ、ちょっと何すんの!」
「これから行くとこ調べてんだろ。私にも見せろ」
「そうだけどさ、なんか見ただけで呪われそうだし…」
「だったらそいつを寄越せ。私が見る」
「だ、だめだよ。君に渡したら壊すだろ!」
「失礼な、私が壊すのは私にとって必要のないものだけだ。そのケータイとやらは便利だから壊さない」
「前に画面割ったくせに!?」
「いいから寄越せ!」
ステラは鬼怒谷から強引に携帯電話を奪った。画面上には既にリンク先が開いている。真っ黒な画面に白い文字と赤い文字が入り交じった、いかにもホラーな雰囲気のサイトだ。
下から上へスクロールしていくと、例の製薬施設に関する情報が書き込まれていた。それもかなりオカルト色に。過去に非人道的な人体実験がされていた、地下には犠牲者の霊が蠢いているなどなど。恐ろしく加工された画像も盛り込まれていてホラー耐性のない人間には効果抜群の内容だったが、ステラはつまらなそうに画面を眺めた。
「ふーん、どうやらだいぶ恐ろしい場所のようだ。面白いじゃないの」
「全然面白くないよ。そりゃ君は強いから平気だろうけどさ、僕は普通の人間だし…」
「心配するな。私がいるんだ、何があっても命だけは助けてやる」
「でも相手は幽霊なんだよ?触れないし呪ってくるし、どう立ち向かうって言うのさ」
「私に逆らうものは全部倒す。それだけだ」
「わ、わぁー…それは心強いなぁ…」
鬼怒谷は思わず苦笑いした。
二人は乗客の少ないバスに揺られながら、前方に見える山を目指した。
案の定、降りたのは鬼怒谷とステラの二人だけだった。そこはまだ町に近い場所であるが、すぐそばには鬱蒼とした森が広がっている。地図に沿って森の中を歩いていくと、錆びた看板があった。大きく鈍色の字で「裏神製薬株式会社」と書かれていた。その矢印を辿ってさらに進めば、錆びた鎖がかけられた錆びた鉄格子の扉に突き当たった。
普通に考えればここから先は所有地であり、立ち入り禁止区域である。一般人はどんな理由があろうともこれ以上先に入っては行けない。
「おい、何してんだよ。早く入ろうよ」
と、横でステラが苛立ちの声を上げた。
「いや、だってここ私有地だし…やっぱり入ったらマズイよ…」
「今更何言ってんだ。もう誰も使ってない場所だろ?勝手に入ったって文句言われる筋合いがないぞ。それよりあれか?ここをよじ登ったりこじ開けたりする体力もないのか?仕方ないやつだなぁ」
「え、ちょっと、何を」
ステラは背中から長い腕のようなものを展開した。その腕で鬼怒谷のリュックを掴むと、ひょいと持ち上げて扉の向こうに放り投げた。鬼怒谷は2メートルもあろうかという高さを見事な弧を画いて飛び、叫び声を上げながら腰から落下した。
「いたた…な、何するんだよ!!」
「中に入れてやったんだ、感謝しろ」
「うう、全然ありがたくない…」
鬼怒谷は強打した腰を摩り、よろよろと立ち上がった。その腕を無理やり引っ張ってステラはさっさと森の中を進んで行った。
まだ明るいうちだというのに奥へ入るごとに闇が深くなり、不気味な生物の鳴き声や木々のざわめきが酷くなる。辺りに漂う空気も、いつしか気持ち悪く淀み始めていた。
五分ほど歩いたところで、突然開けた場所に着いた。そこには崩れた瓦礫に囲われた巨大な廃墟があった。壁はすっかり草や蔦に覆われており、かつての面影を全く感じさせなかった。
「ふむ、ここが例のホラースポットねぇ。確かに敵対的な気配を感じるな」
「えっ…やっぱりそういうのわかるの?」
「そう言っといた方がお前怖がるだろ」
「…そういうの、中に入ったら絶対にやめてよ」
ステラは悪びれる様子もなくからからと笑った。しかし入口に近づいた途端、彼女の表情が険しいものに変わった。髪の毛を逆立て、鋭い視線で真っ直ぐに暗闇の先を見据えている。
「ど、どうしたの?」
突然急変したステラに、鬼怒谷は胸騒ぎを感じつつも懐疑的な声をかける。だが彼女は視線を外さないまま、鬼怒谷に向かって人差し指を立てた。静かにしろという意味である。
指示に従い数秒間黙っていると、やがてステラの方から話してきた。
「中にいるぞ、あまり騒ぐな」
「い、いるって、まさか本当に幽…」
「いや、違う。だが、気を引き締めて行った方が良さそうだ」
ステラはそう言うと瓦礫を飛び越え、廃墟の中に入っていく。鬼怒谷は慌ててそれを追いかけた。
ステラはエントランスと思しき場所で立ち止まった。そこは天井が大きく抜け落ちていて、陽の光が差し込んでいた。どうやら上の階があるらしく、崩壊した壁の中から部屋の一部が露出しているのが見えた。
「あ、施設の地図があるよ。地下もあるみたいだ…」
鬼怒谷は極力声を殺してステラを呼ぶ。するとステラは彼の肩に飛び乗り、壁に備えられた非常用マップを見た。
「普通に考えたら地下だよね…」
「なんでそう思うんだ?」
「だって、大体そういうものって地下とか暗い場所にいるだろ」
「そういう理屈は知らんが、正解だ。さっきからずっと下から気配がしてる。地下通路を探すぞ」
「ああ、やっぱり…」
ステラは鬼怒谷の肩から飛び降りると、キョロキョロと辺りを見回した。部屋の隅に、埃と草に塗れた壊れたエスカレーターがあった。それは二台揃って備えられており、それぞれ上の階と下の階に向かって伸びていた。
「よし、あそこから降りるぞ」
「う、うん」
床に空いた穴から下を覗き込むと、エスカレーターは残念ながら途中で崩壊しているのがわかった。しかしその脇には簡易の階段ロープが垂らされていた。
「これって…僕達の他に誰かいるんじゃ…」
「…ここから先は、個人的な話をするなよ。もし聞かれたら、わかってるな?」
ステラはロープをするすると降りていく。鬼怒谷もそれに倣って降りようとするが、あまり上手くいかなかった。
下の階はより薄暗く、不気味な空気が深まっていた。壊れた事務道具の残骸や大量に散らばる謎の書類など、上の階とはまた違った雰囲気を出していた。それらを踏み越えながら、二人は慎重に通路を進んでいった。
その時である。突然地鳴りが起こった。まるで何かが暴れているような激しい振動だった。
「うわっ!?」
鬼怒谷は立っていられず倒れ込んでしまう。それと同時に、彼のいた場所がひび割れてさらに下の暗闇に落ち込んでしまった。
「鬼怒谷!」
ステラは穴の縁から顔を出し、彼の姿を探す。だが横から強い殺気を感じた瞬間、彼女は上へ飛んだ。直後、さっきまでいた場所に半透明の糸のようなものが吐きかけられた。ステラは空中で体勢を整え着地すると、通路の向こうにいる怪異の存在を捉えた。
「ふん、この私に喧嘩を売るとはいい度胸じゃないか」
ステラは臨戦態勢を取り、そいつを睨みつけた。
獣の唸るような声を聞き、鬼怒谷は目を覚ました。落下した衝撃で気を失っていたのだ。見上げると、天井の穴の縁からステラの姿が確認できた。しかし彼女は何かを見据えており、一直線にどこかへ駆け出して見えなくなった。
鬼怒谷はなんとか上の階に戻ろうと、道を探した。リュックから持参した懐中電灯を見つけ、電源を入れる。
照らし出されたのは、足元に蠢く大量の何かだった。白っぽく浮かび上がったその存在は巨大な蜘蛛のような節足動物だった。だが頭部と思しき場所には、禍々しい牙を生やした鬼の形相が張り付いていた。
「ーー!!?」
鬼怒谷は恐怖のあまり言葉を失った。彼の存在に気づいた化け物蜘蛛は、ゆっくりとこちらを振り向きにじり寄ってきた。彼らは一様に気味の悪い鳴き声を上げている。明らかに良いことが起こる雰囲気ではない。しかし鬼怒谷は恐ろしさに身体がすくんで動くことができなかった。
怪物があと数メートルという距離まで迫った時、突然発生した銃声が静寂を切り裂いた。直後に怪物の一匹が悲鳴に似た声を上げた。銃声の度に怪物は叫び、四肢を爆散させた。彼らは床を這いずって、通路の向こうへ退散して行った。
(た、助かった…?)
鬼怒谷は状況が飲み込めず、混乱した。そんな彼の前に、ひとつの人影が現れる。咄嗟にその方へ懐中電灯を向ける。すると、眩しそうに手をかざした男が暗闇から照らし出された。
「おい…それ向けるのやめてくれないか。明るすぎる」
「す、すみません」
鬼怒谷は慌てて懐中電灯を下ろした。暗闇から現れた男は嘆息し、首を掻いている。
「あ、あなたは…?」
「んぁ、別に名乗る程のもんじゃねーよ。それより言うことがあるんじゃないのかい」
「あ…ええと、た、助けてくれてありがとうございます」
「おぉ」
男は闇に溶け込む真っ黒なスーツを着て、傷だらけの肌に無精髭を生やし、ざんばらな髪型をしていた。そして片手には拳銃と、もう片手には銀色のジュラルミンケース。命を助けてくれたとはいえ、お世辞にも堅気とは思えない格好だ。鬼怒谷は彼が暗闇から現れるや否や、逆にその姿に萎縮してしまった。
「…なんだ?」
「い、いえ。なんでもないです」
「そうか、なら、さっさとそいつを閉まえ。奴らは光に惹かれる習性があるんだ。携帯電話を見るのも禁止、いいな。そんでさっさとここから出な」
「あ、待ってください!ステ…いや、友達がまだいるんです。彼女のところに行かないと」
「なんだ、カップルでこんな所に来たのか?呆れた連中だなまったく」
「ち、違います!とにかく、まだ僕は帰れないんです!おじさん、さっきのに詳しいんですよね?教えてください!」
「待て、落ち着けよ。勇気は感心するが、教えたところでお前にどうこうできる相手じゃねぇ。俺の言うことを聞いて大人しく帰んな。連れの子のことは責任をもって俺が助けてやるから」
「いや、それじゃだめなんです。あの子はその…人見知りが激しくて!僕以外の人がいたら、たぶんパニックになります。だから…」
男は仏頂面だったが、必死な様子の鬼怒谷に少なからず驚いてはいた。首の裏を掻いて困ったような声を洩らすと、やれやれと言わんばかりに肩を竦めた。
「わかった、それじゃ俺が着いて行ってやる。市民の命を守るのが本来の仕事だしな」
「えっ?着いてくるって、いや、そこまでしていただかなくても」
「言ったろ、市民を守るのが仕事なんだよ俺は。ほれ」
男は器用に胸ポケットから手帳を取り出すと、鬼怒谷に投げて寄こした。受け取ってみると、そこには金文字で「ELIO 妖怪討伐科職員」と書かれていた。
「え、ELIOって…じゃあ、あなたは」
「見た目じゃ雰囲気がないって職場でもしょっちゅう言われんだ。それ以上言うな」
鋭い眼光に睨まれ、鬼怒谷は黙る。
願ってもないことだが、心強い味方と非常にマズイ事態が同時に舞い込んできてしまった。
(まさかELIOの関係者だなんて…この人をステラに会わせたらマズイ!)
鬼怒谷の額に冷や汗が滲む。だが、彼にはこの男の保護を振りほどく程の力はない。間違ってもステラの正体を見られないように努めるしかなかった。
男は先陣を切って歩いていく。それを足早に追い越して、鬼怒谷が前に出る。男は片手で制し、眉をひそめた。
「おい、俺より先に行くな。敵地だってことを自覚しろ」
「わ、わかってます。でもあの子を早く見つけないとマズイので…」
そう、マズイのである。
ELIOの関係者となれば即ちステラの敵対存在。常々彼らには接触するなと彼女から言われているのだが、不本意とはいえ同行するはめになってしまったのだから鬼怒谷は気が気ではなかった。この男とステラが接触せずに終わることがベストである。しかし、男の監視の目は思ったより鋭く、隙がなかった。チャンスがあれば姿を晦ますことも考えたが、まず不可能だ。例え上手く逃げ出せても、今度は怪異達に襲われてしまうだろう。
結局何も出来ないまま、二人は元の階へ戻ってきた。男は辺りを確認すると、鬼怒谷に少し待つよう指示した。そして男はジュラルミンケースを広げ、中から銀色の弾を取り出した。
「それ、なんですか?」
鬼怒谷は男に問いかけた。男は一瞬手を止めたが、拳銃に弾を込めながら口を開いた。
「これはな、銀で出来てんだ。純銀だぜ、コストがすごくかかる。でもな、誰が発見した性質か知らねぇが、妖怪とか魔物はこれを恐れるんだ。撃って使えば致命傷だって与えられる。単刀直入に言えば、対妖魔兵器ってとこだ」
「へぇ…それって、EBEには効くんですか?」
「いや、あいつらは別。そもそも俺は専門外だから詳しくはわからねぇよ」
ケースを閉じ、男が立ち上がる。鬼怒谷に向かって移動するよう伝えると、彼は大穴を超えた通路の先に向かって歩き出した。
「…名前、古賀さんて言うんですか?」
「んぁ、手帳に書いてあったの見たな?そういうのは自分から名乗るのが筋じゃねぇのかい」
「す、すみません。僕は鬼怒谷っていいます」
「鬼怒谷…?」
古賀は振り返った。
「な、なんですか?」
「…いや、部所が違うんだが、昔似たような名前のやつがいたと思ってな。気にするこたねぇ」
首を掻き、古賀は再び前を向いた。
その時だった。強い地鳴りが発生する。何かがぶつかり合うような振動で、その度に天井から埃や欠片が落ちてきた。
古賀は拳銃を構え、通路の出口に向かった。
「いいか、守って欲しけりゃ俺から離れるな」
「は、はい…!」
通路の先は広い空間となっていた。そこかしこがひび割れており、機材は見事にひしゃげている。何かが争った形跡が確かにそこにあった。鬼怒谷は古賀の後ろに隠れながらステラを探した。瓦礫の影や通気口の穴など、彼女の隠れそうなところ全てに目を通す。しかし鬼怒谷の目が捉えるより先に、古賀が何かを捉えた。彼はすぐさま天井に向かって拳銃を構え、トリガーを引いた。銃声が鳴り響くと、悲鳴とともに何かが天井から落ちてきた。
「ひっ!?」
床に叩き落とされたそれは、先程見た怪異達より数倍の大きさはある、巨大な化け物蜘蛛だった。腕は人間のものにとてもよく似ていて、脳天を撃ち抜かれてもがく様は見るに堪えないほど恐ろしかった。古賀はそんな怪異に動じず、もう一度それの頭に銃弾を撃ち込んだ。その一撃が致命傷となり、怪異は断末魔を上げた後に動かなくなった。
「う、うわ…」
「運がいい、だいぶ弱っていたみたいだ」
「こ、これなんですか…?」
「こいつは鬼蜘蛛だ。恨み辛みの積もった人間の魂が何の変哲もねぇ蜘蛛に宿った妖怪だ。見ろ、正体を現して小さな蜘蛛に戻っただろう」
古賀が拳銃で指した先には、もうあの怪異の姿は溶けて無くなっていた。代わりに残っていたのは、足を丸めて事切れる小さな蜘蛛だった。
「こうして人間から化けたやつは意外と多いんだ。巷で言うホラースポットなんかはな、お前みてぇなのを誘うための奴らの罠なのさ。そのまま放置してりゃいずれ手の付けようがなくなっちまう。だからこういうのは全部始末しておかないといけねぇのさ」
「全部…」
鬼怒谷は古賀の言葉を反芻する。そこに思うところがあり、彼は言葉を続けた。
「でも…僕は、全部を排除する必要はないと思います…」
「…というと?」
「は、話のわかるのもいると思うんです。だから全部は、ちょっとやりすぎだと思うんですよね…」
それを聞いた古賀は、溜息を吐きながら首を掻いた。
「確かに、俺もそう思ってる」
「でも、さっきは…」
「ああいうのは全部って意味だ。俺だって悪さをしねぇ奴までやる気はねぇよ」
古賀は、初めて表情を緩めた。
「十年前、お前らにとっちゃ隕石の落ちた年だ。その年に、俺はある事件を担当してな。人間がゾンビみてぇになって他の市民を襲うって事件だ。後で調べてみな。で、その時に俺は犯人を追ってた。確実にそいつだろうって目星をつけてな。そいつは確かに事件に関わってた妖怪だった。だが、悪い奴じゃなかった…結局そいつのお陰で、俺は真犯人を追い詰めて、事件を解決できた。お前の言う通り、話のわかる奴だった。…逆に俺の方が、話の分からねぇ奴だったんだ」
「そんなことが、あったんですね」
「あぁ、俺の人生を変えるような出来事だったよ。だからな、お前の言いたいことは良くわかる。できれば戦いたくないし、共存できりゃあなお良い。っと、そんな話をしてる場合じゃねぇ。お前の連れを探さないとな」
「あ…!そ、そういえばそうだった!」
鬼怒谷は話を意識するあまり、すっかりステラのことを忘れていた。慌てて部屋に駆け込むが、その足を何者かが払った。
「ぐっ!」
見事なヘッドスライディングを決め、鬼怒谷は床にすっ転んだ。
「だ、大丈夫か?」
古賀が呆気に取られながら駆け寄ってくる。彼に支えられて顔を上げると、視界の向こうにステラの姿を見た。
「あ、いたっ…!いたたたた!」
次の瞬間、鋭い痛みが鬼怒谷を襲った。見るとステラが彼の足を思い切り抓っていた。しかも古賀には見えない角度で、彼は転んで痛がっていると勘違いしているようだった。
「おい、もしかしてこの子か?探してたのは」
「ソ、ソウデス…」
「そうか、見たところ怪我もなさそうだし、無事で何よりだ。さぁ目的は果たしたし、早くこんなところから出ようぜ、な?」
「うん!!」
古賀に対し、ステラはにこやかな笑顔で元気よく返事をした。しかしその爪は、ずっと鬼怒谷の足首を抓っていた。
こうして古賀の助けにより無事に廃墟を脱出した鬼怒谷だったが、結局ステラからは強い非難の言葉を浴びるはめになった。
「ったく、今回はバレなかったからいいものの、いつも運良くいくわけじゃないんだからな!しっかり肝に銘じておけ!」
「わ、わかってるよ!次からはちゃんと気をつけるから…!」
再びバスに揺られながら、帰路に着く鬼怒谷とステラ。自分達以外に乗客がいないことを良いことに、さっきからずっと口論を続けていた。
ステラの一方的な文句に適当に答える傍ら、鬼怒谷は古賀と話したことを思い出していた。ステラとの確執は彼と会ったことが原因だが、鬼怒谷は出会い自体に後悔してはいない。寧ろ彼にとって貴重な経験であった。
「おい、聞いてるのか鬼怒谷!おい…?」
ステラは、不意に窓の外に視線を向けた。外はよく晴れており、建物や電柱が後ろへ流れていくのが見えた。彼女はなにか引っかかるものを感じたが、それが何なのか最後までわからなかった。
しかし、その電柱のひとつにその視線の主はいた。バスが広い大通りに出て大量の車の波に消えた時、それはどこかへ飛び去って行った。
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