第6話
水を汲んで講堂に戻ると、西藤と東田さんが見守る中、雪路が舞台端に立てかけられているはしごに上っていた。目線の高さは、既に転落防止ネットと同じである。
危うくバケツを落とすところだった。
いやいやいや。
「拭く前にやろうとは言ったけど、いない間にやれとは言っていない」
どうして男手がない時に始めたんだ。
動揺で手が滑る前にバケツを置きながら、地上に残っている西藤にクレームを入れた。
「だって、二人ともなかなか帰ってこないから」
「うっ」
まったくもってその通りだったので、言葉に詰まった。
ごめんね、なんか急に南海くんが話し始めてね。
「……でも、後輩にやらせるのはどうかと思う」
「うん、それはごめんね。でもしーちゃんが「拭き掃除をした後に点検して、掃除した床に埃が落ちたら非効率ですから」って言って、ささっと上って行っちゃってさ」
「雪路! こら!」
思わず声を荒げた。
それで僕に気づいた雪路が、小さく手を振ってくる。その姿を見て、また胆が冷えた。はしごに上った状態で片手を離すのはよすんだ。
舞台に上がり、雪路が下りてくるのを待ち構える。
はらはらすること数分。簡単な検分を終えて地上に戻ってきた僕の彼女は、不安げな表情を浮かべている僕に人形めいた顔を向けた。
「おかえりなさい、先輩」
「ただいま。寿命が縮みそうだったよ」
雪路にもクレームを入れれば、彼女は他三人の目が遠いのをいいことに微笑みを浮かべた。
うーん、可愛い。
「……あまり僕がいないところで、僕の心臓に悪いことはしないでくれ」
「覚えておきます」
「肝に銘じるくらいの心意気で頼む」
そんなやりとりをしながら、僕達は舞台を下りた。
東田さんと目が合えば、彼女は一回だけ目を瞬かせた後、僕に向かって小さく頭を下げる。雪路を止められなくて申し訳ないといったところだろうけど、なぜ一瞬間が空いたのか。それを不思議に思いつつも、目配せでその会釈に答えた。
返事するように、もう一度東田さんが頭を下げる。彼女も西藤から髪ゴムを借りたようで、一つ結びにされた長い髪が尻尾のように動いた。
「上はどんな感じだった?」
後輩とアイコンタクト交流をする僕の隣で、言語によるやりとりが行われる。
「素人目なので断言はできませんが、転落防止ネットが少々傷んでいるように見えました。引率の先生方に報告すべきかと思います」
「そうだね、あとでかいくんに伝えとこっか。ありがとね、しーちゃん」
「いえ。……かいくん?」
「あー、西藤は親しい相手のことはくんちゃんで呼ぶから」
さすがに怪訝そうになった雪路に、横合いから補足を入れた。
西藤に視線を向ければ、彼女も追従するように口を開く。
「そうそう。かいくん、演劇部の顧問でもあるからさ」
「なるほど」
その補足で納得したのか、雪路は人形めいた顔に戻って頷いた。
「じゃあ、五人揃ったし始めていこっか」
そんな風に若干のひと悶着を経た後、改めてフローリングの拭き掃除が始まった。
最初は水拭きをするのかと思ったのだが、そこは雪路が一言待ったをかけた。
「先に乾拭きしてから水拭きをした方が楽ですよ」
なんでも、水分を吸着した埃は拭いづらいし、モップを洗う時にも手間が増える。それならさっと乾拭きして外で埃を払った後に水拭きした方が効率は良い、とのこと。
合理的な理由を提示された上でそっちが楽だと言われれば、反対する理由がない。
「しーちゃん物知りだねえ」
「いえ、単なる常識ですので。大したことではありません」
淡々とした雪路の返答には内心はらはらしつつ、僕達は手際よく掃除を進めていった。
ステージと床をモップで乾拭きすれば、次は水拭き。
講堂内はうすら寒いといえど、外気温は春半ばの平均といったところ。水を扱っても辛くないのが助かる。面積が広いためか、すぐにモップが乾いてしまうのだ。
「モップ、俺がしぼろっか?」
「これくらい自分でやるって……」
南海くんのがんばりを後目に、横のバケツを使って水分を補充させる。
先に埃を払ったおかげか、水もあまり濁らない。これなら替えに行かなくてもいいなと思っていると、東田さんが足を滑らせた。
「、ぁ」
「っと」
とっさに手を伸ばして、背中を支える。
予想より重くて一瞬焦ったが、仲良く転ぶという無様は晒さずにすんだ。
こういう時に真っ先に駆け寄りそうな南海くんの方を見れば、タイミングの悪いことにこちらに背を向けていた。僕が間に合ってよかった。ホッと息をつきつつ、距離が近いことを誰かに気づかれないうちに手を離す。
雪路の方を見る。
僕の彼女は、束ねられた髪を尻尾のように揺らしながら拭き掃除をしていた。
二度目の安堵。人助けによる不可抗力の接触なら可愛い悋気を向けられるくらいだが、表現法が可愛くないので向けられないに限る。
「足元、気をつけてね」
足を滑らせる原因となった水たまりを拭きながら、呆然としている東田さんに声をかける。
西藤も南海くんも、結構豪快にバケツの中にモップを突っ込んでいたからなあ。あとで一声注意しておかねば。雪路の足も滑ったら困る。
「……ぁ、ありがとう、ございま」
「あんまり大きいリアクションすると気づかれちゃうよ」
東田さんからの謝罪を途中で遮った。
怪訝そうな東田さんに対し、そっと離れていく南海くんの背中を一瞥する。
さっきのを南海くんに気づかれて、大げさに心配されたくなかろうという気遣いだ。もっとも、雪路に見咎められたり西藤にからかわれたりしたくないという僕の事情もあるが。
僕の意図はどうやら正しく伝わったようで、東田さんは小さな会釈をするに留めた。
変に曲解されなくてよかった。思わず、笑みを浮かべてしまう。
「……」
東田さんの白い目元が、じわじわと赤くなった。
転びかけたのを見られたのが、今さら恥ずかしくなったのだろうか。
不可抗力だから気にしなくてもいいと思うけど、普通の女の子だとそうもいかないのかもしれない。普通の女の子というサンプルケースが周囲に少ないのでなんとも言えないが。
「何もなかったことにするから、君もそうするといい」
そう言って彼女の羞恥軽減に努めてから、掃除に戻ろうとする。
「……あ、あのっ」
だが、そんな僕を東田さんの声が引き留めた。
踵を返そうとした足を戻したところで、彼女が距離を詰めてくる。それが思いのほか近くてびっくりしたが、僕がたたらを踏む前に慌てて東田さんが一歩離れた。
いや、それでもちょっと近い気がする。
雪路や南海くんの目が気になったが、内緒話かもしれないのでその距離で据え置いた。それを裏付けるように、東田さんはだいぶ音量を絞った声で続けた。
「えっと、とも先輩」
「なんだい東田さん」
東田さんはしばらく口をもごもごさせてから、聞きづらそうに問いかけた。
「とも先輩は、西藤先輩とお付き合いしているんですよね?」
「……はい?」
素っ頓狂な声が出た。
「そのわりにはこう、あまり距離が近くない気が……」
「いやいや、付き合ってないよ」
次いで、苦笑を浮かべながら否定の言葉を口にする。
僕と西藤が付き合っている。よもやそんな勘違いをされていたとは驚きだ。南海くん経由で教えられてないのだろうか。
「……付き合ってないんですか?」
「うん」
「そうなんだ……」
「僕が付き合っているのは、不死川雪路の方だよ」
変に僕が伏せていても余計な誤解を招きそうだったので、事実を口にする。
「え」
すると、東田さんはなぜか驚いたような顔をした。
「……不死川さんと? とも先輩が?」
「う、うん」
そんな意外そうに言われることだろうか。
内心首を傾げつつ、肯定の言葉を返す。
いや、ビジュアル面で全く釣り合ってないと言われれば、傷つきながらも頷くしかないのだけど。月とスッポンという自覚は痛いほどあるので。
「……そっかぁ。不死川さんかあ。ああいうのがとも先輩の好みなのか」
戸惑う僕を後目に、東田さんは小さな声でそう呟く。
小さいのでうまく聞き取れなかったが、なんだか嬉しそうな響きには聞こえた。
頭上に浮かぶ疑問符がいっそう増える。僕の好みが雪路だとして、一体何が東田さんのメリットになるというのか。
「それ、そんなに嬉しいことかな?」
思わず、口に出して問いかけてしまう。
そんな僕の問いかけに、東田さんはなぜかぽかんとした顔になった。
「とも先輩って……」
そして、再び口をもごもごさせた後、どこか呆れたような感じで零す。
「……その、鈍いんですね」
君にだけは言われたくない。
僕は先輩なので、その言葉は寸前で飲み込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます