舟幽霊

逢雲千生

舟幽霊


 手首でこねるようにかいを動かすと、小さな舟は流れに逆らい動き出す。


 穏やかな波が立つこの場所は、地元でも有名な漁場だ。


 一日になんそうも出入りするのだが、一度も魚が獲れない日は無かった。


 この場所を見つけたのは俺のじいさん達で、隣に住んでいたマサさんは素潜りの名人だった。


 うちのじいさんと仲が良かったので、釣りの上手かったじいさんとのコンビは町一番だったという。


 時代が変わり、漁の仕方が変わっても、この場所では必ず小さな舟で漁をする。


 沖へはエンジン付きの漁船で行くが、町の外れにあるこの場所だけは、決まって手漕ぎの舟だけが出入りを許されているからだ。


 最初は反対した。こんな良い漁場を知っていて、捕れるギリギリまで捕らないのはもったいないと。


 だが、町長をはじめとした年寄り達に反対され、しぶしぶ手漕ぎの小舟で漁をしているのだ。


 なんてもったいないんだ。そう思いながら、今日も俺は漁へと出る。


 すっかり慣れた櫂を操りながら。




 知る人ぞ知る穴場となっているこの場所は、崖に空いた小さな穴からだけ出入りすることが出来る。


 真っ暗な穴の先にはぽっかり空いた場所があって、そこが漁場というわけだ。


 上には遮るものがなく、穴を取り囲むように木々が地上にあるだけで、地上までは絶壁に囲まれている。


 下には底なし沼のような暗い穴が空いており、明かりが無ければほとんど見えないほど光がない場所だ。


 安全のために、漁の時間は毎日決まっている。


 海が荒れていない昼間の十一時から十三時までが漁のできる時間で、出入りだけならば時間は関係ない。


 ただし、漁をするならば二人一組で一つの舟に乗り、必ず二そう以上で行うことも条件だった。


 密漁の心配でもしているのかと思っていたが、どうやら違うらしい。


 去年の秋に無くなったマサさんの葬儀で、じいさんが教えてくれた。


あきひろ。お前はもう一人前の漁師だ。まだまだ沖へは出て行けねえが、あの場所の漁師としては町一番だよ。だから教えとく。よく聞けよ」


 一番仲の良かったマサさんを亡くしたじいさんは、驚くほど老けた。


 相棒を亡くしてから、しばらくは漁を休んでいたが、葬儀の日を境に穴場の漁師を引退したため、その後を俺が継いだのだ。


 じいさんは沖へ、俺は穴場へ。


 猟師になりたくなくて、サラリーマンになったという親父の代わりに、孫の俺がじいさんの後を継いだというわけだ。


 初めて自分の力で漁をしてから八年。


 まだ相棒と呼べる奴はいないが、穴場の漁師になりたいという奴は大勢いる。


 ここ数年、メディアで漁師という職業が取り上げられたこともあり、漁師になりたいと町の外から人が来ることもある。


 ただあきもその一人で、一年前にやって来たばかりの少年だ。


 高校を卒業してすぐにやって来て、何軒も断られて俺のところに来た。


 都会育ちのひ弱な奴に見えて最初は断ったが、熱意に負けて弟子にしたのだ。


 だが、その熱意は本物だった。


「俺、ずっと猟師になりたかったんですよ。小さい頃に海で溺れかけて、そこを漁船に乗った漁師さんに助けられたんで、医者以外でも人助けが出来るんだって感動したんです。今は後継者不足で騒がれてますし、少しでも何かの役に立てられたら良いなって思って来ました」


 彼の志望動機はこんな感じだ。


 少し天然なところはあるが、素直で覚えも良く、いずれは沖へ出る船に乗せたいと考えている。


 本人は穴場での漁が楽しいと言っているが、経験を積むには沖での漁も大事だと伝えると、彼はしぶしぶ考えてくれた。


 そして今日、彼は漁船に乗って沖へと出て行った。


 忠昭の代わりに入ったのは、猟師歴三十年のベテランだ。


 のりのぶさんは沖へ出ることが多いが、若い頃は穴場の漁を行っていたのだという。


 久しぶりだという彼は、素潜りで貝を捕っていたのだが、三十分も経たずに帰ろうと言ってきた。


 まだ時間はあると伝えたが、彼は怖い顔で帰ろうとだけ言うので、しぶしぶ櫂を手に取った。


 一緒に来ていた仲間達にも声を掛けると、出入り口に近い奴らから順に外へと出て行く。


 今日は天気が良いので、いつもは時間が合わない奴らも大勢来ていた。


 半数以上がベテランだったが、みんな文句も言わず静かに出て行く。


 何かあったのかと紀信さんに尋ねると、彼は「舟幽霊だ」と言った。


 舟幽霊とは、この町に伝わる海の化け物だ。


 妖怪の一種として有名なものとは違い、こっちは凶暴な怪物として伝えられている。


 なんでも、天気の良い日に突然現れて船を転覆てんぷくさせると、乗っていた人間を食べてしまうというのだ。


 今まで何人もの目撃情報があり、行方不明者も大勢出ている。


 どこに現れるかはわからないが、決まって海の底から現れるらしい。


 どうやら紀信さんは船幽霊を見たようで、青い顔で櫂を操っていた。


 ようやく自分達の前にいた舟が出入り口に入ったので、時間を見計らって舟を進める。


 出入り口は天井が狭く、暗いため、衝突しないように間隔を開けて出入りするのが決まりだ。


 ゆっくりと慌てずに出入り口へ入ろうとしたとき、突然舟が揺れた。


「しまった!」


 紀信さんの声に横を見ると、ヘドロのような手が舟のふちにしがみついていた。


 舟幽霊の手だとすぐにわかり、慌てて体勢を立て直す。


 しっかりと櫂を握って舟の揺れを極力抑えると、紀信さんの背中を見ながら舟を漕ぎ出した。


 片側が重いのでバランスが取りづらい。


 何度も転覆しかけながら、ゆっくりと出入り口に向かう。


 舟幽霊は大人しくしがみついているだけで、何もしてこないのが幸いだ。


 このまま外に出る前に何とかしないといけないが、紀信さんは舟幽霊に対して何もしようとしなかった。


 舟幽霊と初めて遭遇した自分とは違い、紀信さんは何度も経験している。


 そのたびに生還してきた彼だからこそ、信頼して指示を待っていた。


 それなのに彼は何も言わず、何もしようとしなかったのだ。


 このまま暗い中で何かされれば危険だと思ったが、出入り口が目の前になった途端、舟幽霊の手が離れた。


 何か仕掛けてくる気かと身構えたが、何も起こらず、俺は無事に出入り口に入ることが出来た。


 いつもより長く感じる暗闇を進み、遠くに見える光を目指す。


 ゆっくりゆっくり櫂を操って外へ出ると、先に出ていた仲間達が心配して待っていてくれた。


「無事でよかったよ。明弘は初めて見るだろうから、焦って転覆するかもしれないと思ってたからな」


 いつも明るいノキさんが笑うと、安心した俺も笑ってしまった。


 無事に帰ってこられて良かった。


 そう思ったとき、背後で声がした。


「――さよなら、ししょう」


 今にも消えそうなかすれた声。


 聞き慣れた声に振り返るが、そこには誰もいなかった。


 前を向くと紀信さんは笑っていたが、すぐに苦しそうな顔で「今夜は大変だな」とつぶやくのが聞こえた。


 なぜ紀信さんがそう言ったのか、ノキさん達が悲しそうに笑った後でうつむいていたのか。


 その答えはすぐにわかった。


 家に帰ると母に言われた。


「さっき連絡があってね。忠昭くんが乗ってた漁船が転覆したんだって」


 それは地元の漁業組合からの連絡だった。


 俺がみんなと穴場で漁をしていた頃、忠昭を乗せた漁船が突然の高波を受けて転覆し、船内にいた数人が死亡したという知らせだった。


 急いで救助活動が行われたが間に合わず、忠昭を含めた若い奴らが死んだというのだ。


 運悪く船内にいた彼らは、体調を崩した奴を介抱していたらしく、転覆した後も外に出られず一カ所に留まっていたという。


 遺体は日が暮れてから我が家に運ばれ、傷一つない顔を見た瞬間、涙が溢れてきた。


『今夜は大変だな』


 紀信さん達はわかっていたのだ。忠昭達が亡くなったことを。


 それもそのはずだ。この町の舟幽霊とは、海で死んだ漁師の魂のことで、親しい人のところに現れた時にそう呼ばれるのだそうだから。


 自分が死んだことに納得できなかったり、怒りや恨みがある場合は連れて行ってしまうこともあるため、船幽霊が出たらすぐに海から上がり、急いで葬式の準備をするのがならわしらしい。


 ここ数十年は船の進歩で事故も減っていたため、久しぶりの船幽霊にベテラン達は言葉を失ったというのだ。


 ヘドロのような手で舟のふちをつかんだ誰か。


 あいつはどうして俺のところに出たのだろうか。


 あれがもし忠明だったのだとしたら、俺も一緒に連れて行くつもりだったのだろうか。


 それとも亡くなった別の誰かの手で、無念さから姿を現したのだろうか。


 それを本人に聞くことはもう出来なかった。


 遺体は火葬され、お骨は彼の家族のもとへ帰った。


 私物はこちらで処分していいと言われたが、母と相談して、しばらくそのままにしておくことになった。


 初めての弟子。


 師匠、師匠と後をついてきていた彼の最後の言葉は、一生忘れられないだろう。


『――さよなら、ししょう』


 今日も漁は始まる。



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舟幽霊 逢雲千生 @houn_itsuki

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